ヨハン・ホイジンガ。誰それ? という人が多そうですが、オランダ出身の歴史家です。
僕が彼を取り上げるのは、ゲーム業界の末端にいた人間として、彼の功績を無視できないと思うから。
20世紀初頭、ヨーロッパではまだキリスト教的な「道徳観」の強かった時代、「遊ぶ」ことは非道徳なこととされていました。
過去に書いた話だと、ハイジのロッテンマイヤーさんの考え方が、まさにそれ。(ハイジは19世紀末の作品ですが、それほど変わっていません)
質素で勤勉な暮らしこそ、神が人々に望むもの。遊びに興じるなど、悪魔の囁きに身をゆだねる行為。
しかし、ホイジンガは「遊びこそが人間の本質」と考え、遊びが人類を発展させてきたと説くのです。
今でも、テレビゲームや漫画などを「何の役にも立たない、無駄なもの」と考える人はいます。
まぁ、個人の思想は自由なので、そう考えていても構いません。ただ、僕は昔テレビゲーム業界にいたので、自分の仕事に対して論理武装したかった。
それで、ホイジンガの著書、「ホモ・ルーデンス」を購入して読んだのですね。
…ここで謝らなくてはなりません。
ホモ・ルーデンス、読んだのですが内容ほとんど覚えていません。
というのも、読んだ時の僕の興味は、ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」の方にあったから。
カイヨワは、「ホモ・ルーデンス」に影響を受けて研究を始め、「遊びと人間」で人間が楽しいと感じる要素を見事に分解してみせます。
この分解が見事で、ゲームを作る人間は知っておいた方が良いもの。まぁ、知るために本を読む必要はないですが、僕は原点に当たる主義なので。
そう、原点に当たりたいので、ホイジンガの事を書くなら「ホモ・ルーデンス」をちゃんと読んでから、と思うのです。でも、実はいまコロナ療養中で家庭内で隔離中でして、家のどこかにある本を探しに行けない。
(隔離中でやることないから、久しぶりに「今日は何の日」を書いている、というのものあります)
というわけで、ホイジンガの業績をたたえたいにもかかわらず、その正確なところが伝えられないと… グダグダですね。
本を読めないので、ある程度ネットで調べた情報になってしまいますが…
ホイジンガは、遊びとして、次の5つの特徴を挙げています。
1. 自由な行為である
2. 仮構の世界である
3. 場所的時間的限定性をもつ
4. 秩序を創造する
5. 秘密をもつ
これらを、「形式的特徴」と呼びます。
また、これらとは別に「闘技」「演技」という二つの「機能的特徴」を挙げます
これらについて、順に簡単な解説を加えましょう。
1 の「自由な行為」。
例えば漫画を読む。これは多くの人にとって、自由な遊びです。小説を読むのもそう。
でも、指定された小説を読んで感想文を書きなさい、と学校の課題で出されたとしたら、これは自由ではない。
自由であれば、楽しくなければやめてしまえばいいのです。楽しいことをすればいい。
でも、自由でないと、楽しくないことをすることになります。これは遊びではない。
逆に言えば、学校の勉強でも、興味を持って前向きに取り組めるのであれば、楽しんで遊びにできてしまう、ということでもあります。好きな教科はやっていて楽しいよね、ということ。
僕が今、この「今日は何の日」を書いているのは、自由な遊びです。
でも実は、「今日は何の日」を頻繁に書いていた時は、書かないといけないという義務感がちょっとあった。
そういうのは遊びではないですね。
2 の「仮構の世界」。
日常とは切り離されている、ということ。
遊びでの優劣が日々の生活に絡んで来たら、それはもう遊びではありませんね。
ギャンブルを「余暇の楽しみ」にしている程度なら遊びだけど、ギャンブルで生計を立てていると遊びではない。
生活が懸かって必死になっていますから、楽しめない。
遊びが日常を侵食するようではダメなのです。
3 「場所的時間的限定性」。
いつまでも続くものではなくて、区切りがあるということ。日常とは違う、仮構の世界と類似ですね。
終わりがあると判っているから、安心してその世界に浸れるのです。
小説「ソード・アート・オンライン」はゲームの中に閉じ込められる話ですけど、終わりがないということの恐怖がよくわかる。
(この小説しらなくても、有名になって類似設定の小説沢山生み出したので、そういうのなんか知っているでしょ?)
4 「秩序を創造する」。
ルールがある、ということですけど、遊びはゲームに限ったものではないのですね。
たとえば「物語」。多くの物語は、起承転結を持ちます。
話の起こりは日常的なもの。でも、日常とは違う状態になり、何かをきっかけとしてまた日常に戻る。
この「特異な状況」をまとめたものが、「物語」です。
ここにあるのは、秩序が混沌に飲み込まれ、また秩序が想像される、という疑似体験です。
これは良い物語足り得る。
5 「秘密を持つ」
遊びには、何か知らないことが隠れているワクワク感が大切です。
カードゲームで手の内を隠している、というのも「秘密」。秘密だからこそ、相手の手の内を読もうと想像を働かせます。
将棋のように情報が公開されているゲームであっても、互いの戦略は秘密です。どんな展開になるか事前にわからないから面白いのです。
ゲームでなくとも、物語の先の展開も「秘密」。散歩するだけだって、何に出会うかわかりません。
そういう「秘密」があれば、遊びとして十分に面白いのです。
「闘技」と「演技」というのは、対立するか協力するか、と言い換えても良いかもしれません。
多くのゲームは、競争して対立するものです。
でも、ごっこ遊びは対立せずに協力するもの。
遊びのタイプとしては全然違いますが、どちらも楽しい遊びですね。
さて、実は重要なのは、「遊び」を定義したことで、普通は遊びだとは思わないようなことも、定義に即していれば遊びではないか? と逆に考えられること。
ホイジンガが見事なのは、ありとあらゆることを「遊び」と見立てて、遊びが人間の本質だと証拠を挙げていくのです。
例えば戦争。
前線で命を張っている戦士には、命令で行っていて自由ではないし、仮構の世界ではない現実だし、遊びではない。
でも、作戦室で地図の上でコマを動かして討論している人たちにとっては「遊び」と何ら変わらないのです。
切り口を変えれば、すべての事は遊びで、それによって人間社会が作られてきた、と分かる。
ホイジンガは、遊びこそが人間の本質であると主張し、「遊び」とは何か、要件定義しました。
でも、遊びそのものを研究しているわけではありません。
遊び自体の研究は、ホイジンガに影響を受けたカイヨワが行っています。
こちらは、カイヨワの誕生日の記事に詳細を書いていますので、そちらも併せてお読みください。
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