目次
04-16 ゲームは頭を悪くするか
04-16 世の中はゲーム
04-16 ぎーちさんとの話、これで終了
少し日があきましたが、ぎーちさんとの話の続き。
これは、何かの話題の時に僕が口走ったのだと思います。
「ゲームをやると頭が悪くなる」という人がいるが、そんなことは無い、と。
これ、ややこしい話になるの判っていたから、対談の際は深く突っ込まなかった。
根拠を示さず、ゲームをやると頭が良くなってしまう、と言っただけ。
先に、「頭が良い」を定義しておきましょう。
頭が良い、という言葉は、大抵は2つの意味で使われます。
まず、知識を多く持っていること。
学校の成績も、主に知識量を競うものですから、成績が良い人が「頭が良い」と言われるのは、知識量が多いという意味です。
もう一つ、問題解決力があるということ。
知識は、持っているだけでは役立ちません。知識を組み合わせ、現実的な問題に対処する必要がある。
問題を解決する力がある人は、「頭が良い」と言われます。
この二つ、別々のものだけど無縁ではありません。
問題に対処する、まさにそのものの知識があれば、瞬時に問題解決できるでしょう。
知識量が多ければ対処できる局面も増えます。知識量で問題解決力をカバーできます。
でも、世の中すべてのことを知っている、なんてできない。
どこかで問題解決力に頼らないといけなくなる。
一方で、知識がなくても、高い問題解決能力があればカバーできることがあります。
まぁ、最低限の知識は必要。あとは、そこからの類推でカバー。
類推は、その類推が間違っている可能性もありますから、元の知識からあまり離れた部分はカバーできません。
やっぱり、知識は持っていないと。
この二つ、無縁ではないけど別物。二つの「頭の良さ」です。
ところで、学校では、主に知識を教えます。成績も、知識をどれだけ覚えられたかで付けられます。
問題解決能力は「評価しにくい」頭の良さです。
評価しないわけではありませんが、成績を付けるうえでの比率としては、低めにならざるを得ません。
そして、成績にあまり関係ないので、教えないわけではないのですが、やはり比率は低いです。
もう一つの理由として、問題解決方法というのは教えにくい、というのもあります。
教えてもらったものは、やはり知識であって、解決能力にならない。
自分で練習して、体得する以外に問題解決能力を身に付ける方法はありません。
つまり、学校でいう「頭が良い」は、知識に偏ったものになりがちです。
問題解決能力が高い人は、頭が良いとはされないことがあります。
しかし、本来大切なのは「問題を解決すること」であって、その前提となる知識を学校で教えるのです。
それを、学校で良い成績を取ること、が目的になってしまうと本末転倒。
学校では知識を教え、問題解決能力は実地で各自身に付けてもらう。
…これが、本来の教育の在り方でした。
実地で?
子供たちが遊んでいれば、さまざまなトラブルに出会います。
それらの問題は、自分たちで解決するしかない。小さな、簡単な問題から解決することを繰り返し、時々手におえない問題に遭遇する。
子供のうちなら、手に負えない問題は周囲の大人に頼るのもいいでしょう。
目の前で解決する様を見れば、解決方法を知識として覚えられます。いつか自分で使う時が来ます。
学校では知識を学び、学校の外ではその知識の使い方を体得する。
だから、昔から「良く学び、良く遊べ」と言います。
遊ぶのは、元気で健康な体を作れ、というような意味ではないですよ。
学校ではできない勉強を、学校の外でやりなさい、という意味。
遊びで使う「問題解決」には、必ずしも学校の勉強は役立たないかもしれません。
でも、問題解決能力と知識は別の能力で、自由に組み合わせを変えることができます。
今度問題が発生した時には、学校で教わった知識が役に立つかもしれません。
問題解決能力を養っておけば、知識が増えれば応用範囲が広がるのです。
ここが大事なところです。
問題解決の経験は、解決能力となって、他の知識とも組み合わせ可能となります。
役に立たないような小さな問題解決を繰り返すことが「頭の良さ」に繋がっていきます。
上に書いた、子供たちが遭遇するトラブル…は、現代的には未然に摘み取られる傾向にあります。
子供を危険から守るために、危険な個所には入らせない。
それは正しいです。
取り返しがつかない事態が起こるほど危険なところには、子供を行かせない。
危険が無さそうなところでも、致命的になりそうなものを見つけて撤去しておく。
ここまでは良いのです。これは、トラブルを摘み取っているのではなく、致命的なトラブルを避けているだけ。
十分に安全な環境になったら、子供を思い切り遊ばせて、小さいけど無数のトラブルに遭遇させなくてはなりません。
しかし、それを容認できない大人が多い。危険そうだと思ったら、声をかけて止めさせてしまう。
子供同士がけんかを始めると仲裁に入ってしまう。
結果として、問題解決能力は育めません。
実は、自分が成長する機会が失われている、というのは子供は敏感に感じ取っています。
こういう状態を「つまらない」と感じているのです。
さて、ここで話をゲームに戻しましょう。
ゲームというのは、小さな箱庭です。その中のルールは単純で、現実よりも理解しやすいです。
しかし、そこですら何かが起きて「問題解決」しないといけないようになっています。
伸び伸びと遊ぶことが禁じられた子供は、そういうゲームの中で、擬似的に問題解決を試み、問題解決能力をはぐくもうとします。
子供は、問題解決能力が重要であることを、本能的に悟っています。
だから、知識を総動員して問題に対処し、解決した時に「楽しい」と感じます。
ゲームをやっていて、難しかったけど面クリアした。これは非常に楽しい経験です。
単純化されたわかりやすいルールの中での経験ですが、分かりやすいからこそ、子供でも問題解決への糸口がわかりやすいようになっています。
ゲームは、小さな問題解決の連続です。
もちろん、現実に応用するためには、問題のルールを徐々に複雑化していく必要があるでしょう。
でも、それは子供のだってわかっている。簡単なゲームばかりでは飽きてしまい、徐々に難しいゲームを求めるようになります。
より複雑な問題を解決できるか、試してみたいのです。
でも、周囲の大人が言うのです。「ゲームばかりしていると馬鹿になる」と。
本当は、頭の良さ…問題解決能力を育んでいるのに。
酷い場合は、大人がゲームを禁止します。
それが頭を良くする機会を奪っている、ということに、頭の悪い大人は気が付きません。
すべてのゲームが頭を良くしてくれるわけではありません。
テレビゲームの場合、「問題」には2種類あるためです。
一つは、反射神経を高めなくてはならないアクション性。
これは、神経回路を生成することで対処します。
ソフト処理(考える)より、ハード処理(神経回路の生成)の方が速い、ということ。
テトリスを繰り返しやっていると、考えるより先に落とすべき位置がわかるようになる。
神経回路が生成されたので、四角いものが下に並んでいると「ブロックが並んでいる」と思ってしまいます。
ビル群を見て、上からL字ブロックが落ちてきたらここにハマる、とか思ってしまう。
これは…問題解決能力は出来上がっているのですが、あまりにも応用が利かない局所解に陥っている。
全然関係ない場合にまで問題解決を適用しようとして、むしろ頭が悪くなっている。
もう一つは、とにかく冷静に考えなくてはならない、推理性。
パズル、とは似て非なる物かな。上にテトリスをアクションの例として挙げたけど、あれはパズルゲームと言われる。
でも、実際には推理性などはあまりない。目の前のものに対処するだけ。
もっと、自分の行動がどういう影響を周囲に及ぼすか考えなくてはならないのが、推理性ですね。
純粋なパズルゲームにはもちろん推理性を駆使したものが多いのですが、敵の出現パターンを覚えないといけないアクションゲームなんかもこちらの範疇です。
十分な知識を元に、それをどう組み合わせれば目的が達成できるのか、組み合わせ方を考える必要があります。
これは、問題解決能力を養います。
「ゲームが頭を良くする」と考えられるのは、主に後者のタイプです。
前者が絶対にダメだ、というわけではないですよ。ゲームなんて、楽しめればそれでいい。好きなゲームをやればいい。
でも、頭を良くする、という目標があるなら、後者の方が効率が良い。
そして、遊び方も重要です。
時間を区切って、目標を定めて遊ぶこと。
ゲーム時間は1時間、とか先に設定してしまう。その中で達成できそうな目標を決めて、その目標達成のための事前計画を立てる。
事前計画と言っても、複雑な話ではなくて、どうやれば良さそうか頭の中で考えてみるのね。
それからプレイ開始。
目標達成できても出来なくても、1時間たったら終了。
終わった後は、プレイ中に気付いたことなどのメモを取っておくといいでしょう。
目標達成を阻んだ予定外のことなどがあれば、それは次回へ向けた重要なヒントになります。
実際のゲーム時間の前後に、事前計画の時間と、問題整理の時間がセットになっています。
まぁ、全部合わせても2時間程度。
なぜこうするかというと、考えることが重要だから。
プレイ時間が決まっていて、その中でやるべき目標が決まっていたら、その中で最大効率を上げなくてはならない。
動きながら考える、というのは案外難しいので、事前計画を立て、それに従って行動をとるのです。
自分で決めた目標をどう達成するかというのは、「ゲーム外のルール」です。
目標によってルールが毎回変わるので、同じゲームを遊んでいるのに、毎回違う問題を解いていることになる。
もちろん、ゲーム内でやることは、ゲーム内のルールに縛られます。制約の中で効率を上げる方法を考えないといけない。
これ、問題解決方法を考える訓練としては、悪くありません。ゲームをやっていると頭が良くなる。
2時間程度で遊ぶ時間は終わるので、学校の勉強もちゃんとやりましょう。
こちらも、時間を決め、事前計画と実際の勉強時間、問題整理をセットにして、望むといいです。
だらだら勉強しても、脳が疲れて記憶できなくなる。効率悪いだけで頭良くならないよ。
問題解決能力は重要だけど、それも前提となる知識が無いと意味がない。
ゲーム内の知識だけでなく、世の中の知識もちゃんと学んでおきましょう。
ゲームをやっていたから頭が悪い、なんて、周囲の大人に言わせないためにも。
同じテーマの日記(最近の一覧)
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
さて、ぎーちさんとの対談の内容はほぼ全部書いた…と思う。
最後に「世の中はゲームか」を書きたいと思います。
対談でそんな話は出なかったのだけど、ぎーちさんのWEBページには「人生はテレビゲーム」って書いてあるんだよね。
多少言葉は違うけど僕も同感なの。世の中ゲームだ、と思ってる。
僕は「テレビゲーム」ではなくて「ゲーム」なのだけど、大体おんなじ意味じゃないかな。
最初に書いておけば、「世の中は○○」って、ちゃんと自分の考え方のベースを持っている人なら、誰でも一家言持っているのではないかな。
映画好きな人なら、世の中は全部映画で学んだ、というかもしれない。
生物好きなら、人の行動を全て利己的な遺伝子のせいにするかもしれない。
自分が深く学んだことは、その人の考え方のベースとなります。
そして、その人が世の中を見るとき、全てそのベースを通してみることになる。
だから、世の中は○○、ということになる。
…と、断ったうえでもう一度。僕は世の中は全部ゲームだと思っています。
数学の一分野に、ゲーム理論があります。
元々は、チェスなどのゲームで勝つための方法を考察する学問でした。
でも、チェスっていうのは例えに過ぎないのね。
ゲーム理論では、勝ち負けがあれば、全部ゲームと見做します。
そして、勝ち負けを決めるのは、プレイヤー自身。
つまり、あなたが「ゲームだ」と感じるものは、すべてゲーム理論で扱えます。
恐らく一般的にゲームではなく、僕がゲームだと感じるものの例を挙げましょう。
スーパーのレジに並ぶ時。
混んでいて、どのレジにも列ができている。少しでも早く進みそうな列を見極めて並ぶ。
本当に速く順番が来れば勝ち。
洗濯ものを干すとき。
洗濯ハンガーの限られた容量の中で、洗濯物を全て干したい。
でも、密集させると風通しが悪くて乾かない。傾かないようにバランスもとりたいし、パンツは外から見えないようにしたい。
うまく干せて、夕方までに乾けば勝ち。
料理を作るとき。
最短時間で、数品の料理を作りたい。できればほぼ同時に完成し、暖かい状態で食卓に出せるように。
調理手順を考えて、2口のコンロと電子レンジを使い、いろいろと同時進行。
30分ですべてを作り終え、暖かい状態でご飯に出来れば勝ち。
なんでもいいんですよ。
こんなものでも、数学的に戦略を考察することができる。ゲーム理論というのはそうした学問です。
実際、経済学なんかではゲーム理論は活用されています。
みんなが「自分の利益を最大にしたい」と考えていると仮定して、企業活動などを行っていると考える。
その際、ゲーム理論に従って行動の説明がつくし、今後の他社の動きの予測も立てられる。
もう、ありとあらゆるものがゲーム理論で扱えます。
工学の一分野に、シミュレーションがあります。
大規模すぎて実験ができないものなどを対象に、規模を小さくして実験をする手法です。
規模を小さくしたものを「シミュレーションモデル」と呼びます。
単に実物を小さくした模型のこともありますし、コンピューターでシミュレーションするためのルールの場合もあります。
このモデルのつくり方次第で、シミュレーションの価値は大きく変わります。
適切に作られたモデルは、実験が容易で、結果も現実に近いです。
実験が容易なので、条件を変えながらくりかえし実験ができます。
それを元に、現実を予測できます。
単純すぎるモデルは、結果が現実と乖離することがあります。
現実に即したモデルを作ると、複雑すぎて実験が難しくなり、十分な回数の繰り返しができなくなります。
シミュレーションモデルを作るのは、非常に難しいのです。
適切なモデルを作り出すのは、勘と経験がものを言う、職人芸の世界です。
先に、ゲーム理論でなんでも扱える、と書きました。
ただし、条件が一つあり、ゲームを数学的にとらえ、数値で表現できるようにしなくてはなりません。
つまり、現実を単純化し、扱いやすい規模に小さくするのです。
これは、シミュレーションに他なりません。ゲーム理論とは、シミュレーションの上に成り立つ理論なのです。
ゲーム…ゲーム理論でいうところの勝敗のあるもの、ではなく、テレビゲームやボードゲーム、カードゲームなど、遊戯としてとらえられているゲームは、このように「現実世界をシミュレートしたもの」と考えることができます。
将棋は、局地における戦闘をシミュレーションしたものでした。
囲碁は、陣地を包囲し、補給路を断つことで相手の投降を促す、大域での戦略をシミュレーションしたものです。
ゲームとしてのルールを面白くするうちに、何のシミュレーションだかわからなくなったようなものもあります。
最初からゲームとして考えられ、現実を直接反映していないものもあります。
それでも、勝敗がある以上、競争のある社会を何らかの形でシミュレーションしたものなのです。
このシミュレートがうまくいっていれば…ここが重要なところですが、すべてのゲームが、ではなく、うまくシミュレートしたゲームが、ですが…ゲームは、世の中の縮図となります。
もっとも、一つのゲームで世の中すべての縮図、とはいかないよ。
一つのゲームは、世の中を一つの軸で切り取ってみた時の縮図、に過ぎない。
でも、「あ、これあのゲームと同じだ」と気づくことが世の中でいくつもあれば、それはやっぱりゲームが縮図だったことになるし、あらかじめゲームで体験していたことになる。
これは、映画や小説で他の人の人生を追体験したり、あり得ない遠い宇宙の物語を感じることができるのと同じことです。
その体験で感じたことは、必ずその人の人生の糧となる。
良い映画や小説がもたらしてくれるのと同じ感動が、良いゲームにだってちゃんとある。
…良い、と限定したけど、そうでないゲームだって大切ですよ。
だって、世の中そんなに良い面ばかりではないもの。悪い面も、ダメな面も、くだらない面もある。
ゲームにも、良い面も、悪い面も、ダメな面も、くだらない面もあっていい。
それでこそ、世の中の縮図と言えるのです。
世の中、ゲームだと思います。
同じテーマの日記(最近の一覧)
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
本当に雑多に話していたから、それを整理しながら、さらに話している時にはまとまっていなかった自分の話をまとめながら書いていたら、長くなってしまいました。
特に、今日公開した分は2つとも長い。
前回の公開からも日が空きましたが、最後のまとめ的なテーマに取り組んでいたら、全然話がまとまらなくて…
公開した文章の10倍くらい書いて、片っ端から没にしました。
今日書いたテーマは自分の思いがいろいろろつまっていて、教育論とか、数学理論とか、数学やゲームの歴史とか、いろんなものを書いては「いや、その話関係ない」って、没にし続けたの。
それをやる間に、自分で本当に書きたいことがわかってきて、やっとまとまった。それでもちょっと長いけど。
最初から通しで読みたい人向けに、日記をまとめて読むためのリンクです。
日記システムの都合で、前後半に別れてしまい申し訳ない。
綺麗に一本に見せる URL を発行できると良かったのだけどね。
本当は、会社員時代にゲームを作っていたときの裏話とかもしていて、実はぎーちさんにはそれが一番ウケていたのだけど、これはまだ書きません。
20年たつまで書かない、と自分でルールを決めたから、時期が来るまでゆっくり待ちます。
ぎーちさんとの話、と書きながら、それをきっかけに考えたこと、普段書かないことを好きなように書かせてもらいました。
なんかね、自分がゲームに対して持っている想いって、恥ずかしくて普段書けないんです。
想いを告白するなんて、誰だって恥ずかしいもんでしょ?
ぎーちさんとの対談は、面白いものでした。
僕もゲームが好きでいろいろな想いを持っていたけど、別の人の想いを聴いて、それを元に自分の考えを深めることができた。
さらに、それを文章にまとめようとしたら、人に説明するためにもっと深く考えなくてはならなくなった。
今回の出会いをくださった、ぎーちさんに感謝します。
お互い子供がいるので時間制約があり、多分夜に会うのは難しいのですが…
いつか、酒でも飲みながらゆっくり想いを語り合えたら面白そうだな、と思っています。
同じテーマの日記(最近の一覧)
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |