アクアマリンふくしまの話の続きです。
砂浜の横にはビオトープ…虫などが暮らせるように作られた小さな沼があり「河童の里」と名付けられています。
どうも、アクアマリンの人は河童が好きなようだ。
この河童の里を通り、本館1階へと戻ります。
じつは、本館にはまだ展示物がある。
これが、アクアマリンふくしまの展示の締めくくり。
縄文の里を見て、カワウソを守るには多大な努力が必要と学びました。
地球生命の進化の歴史を学び、地域によって異なる、魚の多様性を学びました。
それらを殺して食べる、命の尊さも学びました。
磯遊びも体験しました。
そのうえで、最後の締めくくりは2つありました。
1つは金魚。
金魚は、多種多様なものが、類似した種類ごとに水槽に入れられて展示しています。
本当に美しい。特に説明はありませんが、すべて人間の手によって作り出された種です。
自然界では生きていけないであろう、過度に美しくなった魚たち。
本来生存競争によって進化するはずの魚が、人間の目を楽しませるために、人間によって異常進化した姿です。
そしてもう1つは、シーラカンス。
流石に生態展示は無理ですが、よく出来た模型…ロボットで少し動くものが、水槽に他の魚と一緒に入っています。
一瞬本物かと思うほどリアル。
シーラカンスは、進化せずに何万年も生き抜いてきた魚です。
進化していないからこそ、進化した他の魚に生存競争で負け、ごくわずかな海域でしか見つかっていない。
展示は以上で終わり。
最後の展示について、特に説明はありません。
でも、僕は「なにか」を感じずにはいられなかった。
進化しすぎた金魚は、人間の保護なしには生きられません。
一方、進化しなさ過ぎたシーラカンスは、生存競争に負けて数を減らしながらも、保護なしに何万年も生き残ってきました。
この二つは両極端ながら、簡単に絶滅してしまう儚い命である、という点では同じ。
進化の不思議さ、生命の不思議さを感じます。
生命の発生・進化からはじまり、生命の多様性。
それらを保護しなくてはならないと同時に、殺して食べなくてはならないこと。
絶滅した種は二度取り返せないこと。絶滅させないためには大きな努力が必要であること。
非常に壮大なテーマですが、アクアマリンでの展示を見ていると、素直に納得できます。
頭でわかっていただけだったことが、体験として体に入ってくる感じ。
…とはいえ、「頭ではわかっていた」のが前提。
多くの人が、細かな展示は横目で見るだけでさっさと通り過ぎていたし、それほど深く感じ入ってはいないのではないかな。
感じ入らないといけない、というわけではありません。
サンゴ礁の海の展示なんて、他の水族館とは全然違うのだけど、すごく美しい。それを見て美しいと感じるだけでも来る価値がある。
本気で見ていると、時間がいくらあっても足りません。
だから、横目で見て進む、だって悪いことじゃない。
パンフレットには、所要時間1時間半から3時間、とありました。
でも、我が家は朝10時に入って、閉館時間の5時半までキッチリ滞在したのに、時間が足りなくて見られないところ・体験できないところがあった。
縄文の里は出来たばかりで、見ごろになるのは10年後だと思います。
非常に遠いのだけど、5年たったらまた来てみたい。そんな水族館でした。
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