2015年04月06日の日記です

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04-06 アイザック・アシモフ 命日(1992)
04-06 最近の同人
04-06 プログラムを始める年齢


アイザック・アシモフ 命日(1992)  2015-04-06 10:32:00  今日は何の日

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今日はアイザック・アシモフの命日(1992)


アシモフは好きな作家なのですが、語れるほどいろんなことを知っているわけではありません。

すごく有名な作家で、大好きな人は多いので、生半可な知識で語ったら怒られそう。



でも、大好きだから思い出話をするのです。


たぶん子供の頃(おそらく小学3年生ごろ)に、学校の図書館で本を借りて読む、ということをやりはじめました。

子供向けの冒険小説…いわゆる「ジュブナイル」ものをよく読んだように覚えています。


「SOS地底より」とか、楽しく読んだ覚えがあるのだけど、内容はもう忘れた。

(これはアシモフではないです)


そんな中に、タイトルも忘れた本がありました。

木星の衛星(たしかガニメデ)に作られた人類の移民基地で、少年とロボットが交流するお話でした。


この中に「ロボット三原則」とか出てくる。

ロボットは、確か運命に流されて少年と離れ離れになり、少年に会いたくて、その時の主人の命令に違反して逃げ出すんじゃなかったかな。

三原則違反だというアラームが電子頭脳の中で響きながら、人に見つからないように物陰に隠れている…


そんなシーンを覚えています。


後から考えるとアシモフの作品だったのかな、と思います。でも、記憶もあいまいで定かではない。

少なくともアシモフの考案した「ロボット三原則」が効果的に使われていたのは覚えています。




アシモフのもっとも有名な顔は「SF作家」で、特に「ロボットSFの第1人者」でした。


ロボット三原則は彼のロボットSFで貫かれたテーマです。


第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。



欧米では、フランケンシュタイン・シンドロームと呼ばれる心理があるのね。


「フランケンシュタインの怪物」は有名な恐怖小説ですが、若い科学者が人工生命を作り出してしまう。

その生命は、すべてにおいて人間よりも優れている。そうなるように作ったのだから。


…えーと、原作では科学者は「神の領域に手を付けてしまった」と後悔して逃げ出し、人工生命は作り主である「お父さん」に捨てられた悲しみを背負いつつ、彼を追います。

恐怖小説と言っても、心に沁みる悲しいストーリー。


でも、映画化されたときには、怪物は生まれてすぐに「自分より劣る」科学者を、殺してしまう。

この映画の方が人々の心に残っていて、「人間が作り出した、人間に似たものは、いつか人間に牙をむく」という社会通念を作り出しました。


#カレル・チャペックの戯曲で、「ロボット」の語源となった劇が、こうした「人間に反乱するロボット」のイメージの元なのだけど、影響力の強さは上に書いた映画の方が大きかったため、「フランケンシュタイン・シンドローム」と呼ばれます。



それで、ロボット物はSFではなくて「恐怖小説」のテーマになってしまっていた。

そこをアシモフが、ロボットは科学の範疇であるとしてSFの枠組みに入れようとしたとき、問題となったのがこの恐怖感をどう取り除くかでした。


その時、編集者からヒントが出され、それを元にアシモフが簡潔な言葉でまとめなおしたものが「ロボット3原則」。


だからまず、「人間に危害を与えない」が来ます。人間を守ることも明示されます。

これを最重要の項目としながら、以降、反乱を起こさないための「服従」、そして、人工生命としての「自己防衛」と続くのです。




アシモフのロボットSFが面白いのは、ここまで「恐怖を与えないこと」をテーマとしながら、ロボットがやっぱり反乱を起こすからです。

三原則を守りつつ、反乱を起こすことができる。一体どうやって強力な三原則を守ったままで反乱を起こすのか、というのが見どころになっている。


ただ、やっぱり反乱と言っても人間を殺すようなことはしないんです。


たとえば、「鋼鉄都市」のシリーズでは、ロボットが生活に溶け込んだ未来社会の中で、殺人事件が起こります。

現場には、人工知能に異常をきたした、壊れたロボット。


壊れたロボットが殺人を犯したのか?

いや、いくら人工知能が壊れていても、人工知能は人間で言えば「知性」の部分です。

「本能」である三原則は、知性が壊れていても守られるはず。


壊れたロボットは、おそらく殺人現場を目撃し、「人間を守れなかった」ために人工知能に異常をきたしたのではないかと推察されます。


でも、この都市ではロボットが重要な労働力となっていて、人間が少ない。

もし殺意を持った人間が、別の人間に近づいていけば、まだ壊れる前のロボットは「人間を守る」本能によって殺人を食い止めるはずです。



一体何が起こったのか…


えーと、確かこれは、鋼鉄シリーズの中の「はだかの太陽」だったと思う。

ここで、SF作家らしく、ちゃんと論理を積み重ねた推理劇が展開されます。


推理小説なので、ネタバレはしない。気になる人は読んでみてね。




ロボットが、「人間と同等の存在になりたい」と奮闘し、そのために周囲の人々を幸せにしていく「バイセンテニアルマン(200歳の人)」は心に残る名作。


彼はロボットだから、人と同等になるのは「命令に服従しない反乱」なのだけど、そのために取った方法が、周囲の人を幸せにすることなのね。

ロボットだから寿命は無い。長い時間をかけて、多くの発明をし続けて、社会にとって必要な存在になっていく。


しかし、彼がどんなに社会にとって必要な、有名な存在になっても、人々にとって彼は「良いロボット」なのです。

彼は人々の意識を変えるために、大きな賭けに出なくてはならなくなる。


短編なのだけど感動的で、後に映画化もされています。



アシモフのロボットは、ロボット三原則を守りつつも、常に反乱を起こそうとします。

でも、それが人間にとって悲劇ではないことも多いのね。心温まるお話が多い。


これが、アシモフがロボットSFの第一人者だと呼ばれる理由になっているように思います。




アシモフのもう一つの顔は、推理小説家です。

上に書いた「鋼鉄都市」シリーズは、ロボットSFと推理小説が融合したものでした。


SFだと何でもありにしやすいのだけど、あえてそれはしない。

SF世界と言えども、そこには人間の地に足が付いた生活が描かれていて、諸条件を提示したうえで読者に「推理」を投げかけます。


ちゃんとした推理小説として成立しているのです。


そして、純粋な推理小説として有名なシリーズが、「黒後家蜘蛛の会」。

…と、純粋ではありますが、本格推理ではないです。連続短編のオムニバス形式。


いわゆる「安楽椅子探偵」で、冒険活劇も、足で証拠を探すこともしません。

6人の仲の良い男性が、毎回1人のゲストを招いて、話を聞きながら晩餐会をする、というだけの話。


ただ、毎回ゲストが困りごとを持ち込みます。

(もともとそういう会ではなく、知らない分野の専門家の話などを聞いて楽しもう、という会だったのに、と嫌がるメンバーもいます)


で、その困りごとを、いろんな分野の専門家である6人が知恵を絞って解決しようとする。


でも、いつもこの6人は解決できないのです。

6人とも、いろんな分野の専門家ではあるのだけど、自分の専門分野で狭く考えすぎてしまう。


いつも、見事な解決を提示するのは、晩餐会の給仕を務める初老の男、ヘンリーです。

彼は給仕なんて勤めているくらいだから、決して高学歴の男ではない。


でも、給仕という立場上いつも脇にいて、皆の話に耳を傾け、出しゃばらずに考え続けます。

専門分野が無いからこそ、他の人の意見を横断的にまとめる力を持ち、解決に至るのです。


高学歴の男たちが、いつも学のない男の言葉に感心する、というのがこのお話の見どころの一つ。

でも、メンバーはみんなヘンリーの「学は無いけど頭は良い」ことに一目置いているので、嫌味にならないのね。



短編小説集なので、気軽に読めます。こちらも、気になる人は是非。




「ファウンデーション」シリーズも有名です。


こちらは、壮大なスペースオペラ。

地球が衰退した後に、宇宙に散った人間たちが、一度は文明を衰退させながらも、また発展していく数百年単位の歴史を描いたものです。


「ローマ帝国衰亡史」に触発されて、それをSFでやってみたもの、らしいのですけどね。

予言者に従ってみんなが行動する段階を経て、宗教が力を持ち、やがて武力を持つものがそれを上回る…


SFですから、予言とか宗教とか素直に出しません。

予言者は「心理歴史学」という分野の専門家で、数学を駆使して今後の来るべき展開を示している、ということになっている。

宗教も、大型コンピューターとそれを扱える技術者たち、という形に変わっている。


その翻意が見事です。現実に起こった歴史をSFに置き換えたものなので、重厚感がある。


…そして、アシモフ途中で飽きてます(笑)

最初はローマ帝国の歴史をSFに置き換える形で展開するのだけど、途中からお得意の推理劇も入ってきます。



今調べたら、7部作なのね。

僕、前期三部作しか知らないや。三部作でも、途中で飽きたな、と感じる急展開が入っている。

(急に雰囲気が変わるだけで、つまらなくはないです)


後から書かれた四部は、前期三部とはかなり違って、ロボットなども出てくるのですね。

まさに、アシモフの集大成なのでしょう。




SFや推理小説家としてのアシモフの著作は、実は僕はほとんど高校の時に図書室で借りて読んでいます。

その頃アシモフが大好きで、ものすごく読んだ。でも、借りて読んだから手元に残っていません。


手元にあるのは、「空想自然科学入門」。


アシモフのもう一つの顔は、生化学の博士としての顔です。


大学の医学部で講師をしていたそうですし、教科書を執筆もしたそうです。

論文も、非常にたくさん書いている、そうです。

(こっちは伝聞調。アメリカの教科書とか読んでないから知らない…)



空想自然科学入門では、彼の科学者としての知識を駆使して、いろんな疑問に答えています。


「空想」とついているけど、空想科学読本のような、架空の物語を論考するような本ではないよ。


実験では確かめられないようなことでも、可能性として「空想」してみよう、という内容で、内容はいたって真面目。

でも、小説家としての手腕を発揮して、非常に難しい内容でも想像しやすく、分かりやすく書いてある。



特に、生化学はアシモフの専門分野。

この本の中に、「これが生命だ!」という章があって、宇宙に生命がいるかどうかを考察しています。


えーと、最近でも、木星の衛星ガニメデの地下に海があって生命がいるんじゃないかとか、エウロパの方がいそうだとか、土星のエンケラドゥスの可能性とか…

まぁ、生命の可能性はいろいろ言われています。


ここで、「可能性」として言われている場所は、全部液体の水が存在しうる環境なのね。


こうした発表を聞いて、「宇宙生命が、地球と同じように水が必要と考える必要はないんじゃないか」と疑問に思う方はいるようです。

ネットでそういう意見見たことが何度もある。


で、アシモフは1963年に書いた(もう50年も前!)この本の中で、その疑問にちゃんと答えています。


水星には水は無いけど、液体の硫黄がある。液体硫黄に炭化フッ素を入れれば、水中の蛋白質と同じようにふるまう可能性がある。

木星には水は無いけど、液体のメタンがある。液体メタンに脂質を入れれば、水中の蛋白質と同じようにふるまう可能性がある。


…などなど、どの惑星にも、その惑星に適応した生物の可能性はある、という内容を、科学的な裏付けも付けて示します。


この本は、各種惑星探査計画に先駆けて書かれているのね。

だから、「期待できる」ことを書いている。今では、どうも生命はいないようだ、となっているけど、必ずしも水が必要なわけではない、と示しているのは読んで面白いです。




チオチモリンについても書いておこう。

これは、化学知識を元に作り出した、架空の物質。


アシモフは短編が多いのですが、チオチモリンは「架空の論文」という変わった形式で発表されました。


この物質、非常に良く水に溶けます。なんと、水を入れる前に溶けてしまうのです。

物質の原子の一部が、四次元方向にのびていて時間を吸着する(吸時性を持つ)ためとされています。


ただし、水が入ってくる「可能性」だけでは溶けません。

確実に水が入ってくる時だけ溶けます。


人が水をそそごうとしている場合、その人の「精神状態」に反応することになります。



時間を扱う可能性を示しながら、そこでタイムマシンみたいな壮大なものに話を飛ばすわけではない。

でも、「精神状態を外部から調べられる」という可能性に言及し、精神科医が使用できるかもしれないと示唆する。


この物質自体存在しないわけですが、非常に面白い特性を見つけながら、小さな利用可能性しか見いだせない。

話が大きくなり過ぎないあたりが、いかにも「本物らしい」論文です。


アシモフもこの「架空の物質」が気に入っていて、何本か論文を書いています。

最初に発表されたものは読んだことないのですが、途中の一本を読んだことがあります。




さて、アシモフは非常にたくさんの著作を残しました。


エッセイも上手で、短編集では必ず本編の間に、「その短編を書いたときの裏話」が挟まっていました。

この裏話が本編より面白い、という人もいるくらい。


どんなに短い短編でも1本、1ページのエッセイでも1本、科学論文でも1本…と数えた時、アシモフは一番多い年には、年間400本以上の原稿を書いたそうです。

とんでもない化け物です。



もちろん原稿は高速に書くことができるタイプライターで書いています。

短編集に書かれた「裏話」で、タイプライターを忘れてしまって万年筆で書かざるを得なかった、なんて話もあったけどね。


#その苦行を想像しただけで絶対に無理だ! と思いながら、しかし今書かないと原稿が間に合わないから、決死の覚悟で書きはじめ…

 と、その心中を仰々しく告白しながら「気づくと何の問題もなく書きあがっていた」そうです。



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最近の同人  2015-04-06 16:57:37  コンピュータ 業界記

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ぎーちさんからの質問。というか、ぎーちさんが語る順番だったかな。

「最近の同人ゲームを、ベーマガみたいにまとめる場が作れないだろうか、って思うんです」



ぎーちさん、テレビゲーム関連のフリーライターで、特に同人ゲームに注目しているんだそうです。

話を整理して出している都合もありますが、実はこの話は最初に聞いたもの。


ここまでに、「プロには作れないゲーム」という話がたびたび出ているのも、同人の話が先に出ていた影響でもあります。




ベーマガは、プログラム投稿誌でしたけど、不思議な存在でした。


他のプログラム投稿誌って、採用基準は「プログラムの価値があること」だったのね。

ゲーム内容が高度であるとか、非常に面白いとか、プログラムが役立つとか。


でも、ベーマガってそうではないのね。

短くて、簡単に真似できそうな、レベルの低いプログラムばかり掲載されていた。


まぁ、レベルが低いとはいっても、ある程度のレベル維持はあるんですけどね。

それでも、「これなら真似できそう」と思えたし、実際他機種のプログラムを移植したりして楽しみました。


簡単に真似できる程度のプログラムなら、わざわざ雑誌を購入する意味もない…はずなのですが、人気があった。

恐らくは、掲載されているプログラムに価値があるのではなく、そうしたプログラムが多数集まってくる「コミュニティ」としての価値が高かったのだと思います。


今でもベーマガが独自の地位を持って懐かしまれるのは、独自の世界観を作り上げていたからではないのかな。




さて、ぎーちさんから聞いた同人ゲームの現状。


僕はコミケとか行かないから、あまり同人ゲームを知りません。

それでも聞こえてくる同人ソフトって、技術的にはプロとしても通用するような高みにあるのね。


最近は素人でもすごいもの作るんだなぁ、と思っていました。


でも、それは現場を知らないからそう思っていただけ。

当然のことながら、突出したレベルのゲームは有名になるので、すごい技術のものとかだけが知られるだけ。


それよりもずっとレベルが低い、たいしたことのないゲームが多数あるんだそうです。



でも、それらを「面白くもなんともない」と一蹴するのはもったいない。

誰かが一生懸命作ったゲームは、たとえレベルが低くても、その人にとっては思い入れのある作品。


それを発表できる、ベーマガのような「コミュニティ」は作れないものだろうか?

ぎーちさんには、そうした思いがあるようです。




もちろん、今はネットで発表することもできます。

たとえば、Scratch では、子供たちが作ったソフトをすぐに公開できる仕組みがあります。


でも、そこに「コミュニティ」を感じないんです。



結局、有名になるのは出来の良いプログラムだけ。初心者が作ったゲームは有名になんてならない。

頑張ったのに評価されないと、そこで作るのをやめてしまう人も多いのです。


ベーマガでは、レベルが低くとも「採用」されれば、評価されたと感じることができました。

そして、毎月100本を超えるようなプログラムが載っていました。

これが、決して「狭き門」ではなく、でも「誰でも載れる」ほど簡単でもなく、丁度良いレベルを維持していたんです。



細かく作り込んだ大作だけが評価されるわけではなく、どの作品でも載せてしまうほど広く受け入れてしまうわけでもなく、ほどほどの「障壁」を維持しながら切磋琢磨し合えるコミュニティ…

そういうものが存在すれば、同人ゲームを作っている人たちにとってはもっと励みになるでしょう。




今の同人ゲームを作っている人たちは、ツクールなどを使用している場合も多いそうです。


ゲームの絵を変えたり、シナリオを変えたりする程度で、簡単に新しいゲームを作り出せるソフトね。

その仕組み上、プロが作ったゲームの物まねが作りやすいです。縮小再生産に陥りやすい。


でも、ツクールを製作している側(角川エンターブレイン)もそんなことはわかっているのか、簡単なプログラムを組んで拡張することもできます。

これがなかなか良くできていて、ちょっと驚くようなアイディアを入れ込むこともできる。


そういう部分で、プロには出せないアイディアを作っている人たちもいます。

一番評価したいのは、そういう「ちょっとしたアイディア」の部分。

縮小再生産に終わらせない部分です。




先に、プロが作れないゲームを作るのは、すべてを自分が決めなくてはならなくなる良い経験だ、と書きました

そういう人は、縮小再生産ではない、新しいゲームを作り出すことができます。


そういう経験をした人がどんどんゲーム業界に入ってくれないと、ゲーム業界はしぼんでいってしまう。

同人ソフトを、「市販ソフトのような出来のよさ」ではなく、「アイディアの良さ」で評価するのは、ゲーム業界の将来のためにも大切なことです。



でもね、アイディアの評価って難しいのよ。

それまでにない全く新しいアイディアって、誰も評価できずに低い評価になることが多い。


これはプロでもそうで、「新しいゲーム」を目指して作っても、世間に評価されずに失敗作に終わることはあります。



…まぁ、プロの話は置いとこう。

プロにとっては世間の評価がすべて。評価されなかったのは失敗作です。

厳しいですけど、プロだから。


でも、素人ゲームは違う。

世間の評価が低くても「理解者の評価」がひとつあれば、それでいいんです。

ところが、現在は大きなコミュニティが存在せず、その理解者を見つけることが非常に難しい。



プロが作るゲームを「評価」するのは、遊ぶしかしない素人でいいんです。

だって、万人に遊んでもらうために作っているんだもん。


でも、素人が作るゲームを評価するのは、「評価のプロ」である必要がある。

こちらのゲームは、万人に遊んでもらうことを目指しているのではない。

(多分作る側は遊んでほしくて作っているのだけど、素人ゆえの至らない点が多々ある、という意味で)


だから、そういう部分を差っ引いて、ゲームの核心部分だけを的確に評価できる人がいないといけない。


あぁ、この人はこれがやりたかったのか。誰にもないいいアイディアだ。

…ゲーム自体がつまらなくても、その「やりたかった部分」を適切に取り出せないといけない。


でも、そんなことできる人がいたとしたら、その人は「評価のプロ」なんです。

ネットで発表するだけでは、そういう人に出会うことはできない。



ベーマガって、変なゲームアイディアでも「面白い」って積極的に採用していたように思います。

ここでいう「評価のプロ」だった。


こういう存在が、現在は無いように思うのです。




時々僕は、「プログラムは8割作って終わるといい」って言ってます。


そこまでで終わると、辛い部分を経験しないで済むから、一番楽しい。

最後の2割って、細かな部分をいじり続けるだけの作業で、やっていて辛いことがあるのね。



えーと、最後の調整でゲームの面白さがぐんと高まることはあるよ。

それは楽しい作業だからやっていて構わない。


でも、これを修正しないと完成度が高くならない、と判っていても、やるのがつらい作業もある。

そんな部分はやらないでもいい、と思ってます。素人の趣味なんだから。


そして、そのつらい作業をやっていない、完成度の低い作品でも、アイディアが良ければ評価されるといい、と思うのです。


#将来業界で働きたい、と強く思っている人は、是非完璧を目指してください。苦労した経験は必ず役に立つから。



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プログラムを始める年齢  2015-04-06 17:16:28  コンピュータ 業界記

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ぎーちさんは事前に僕の日記などを読んでくれていたようで、うちの子供が Scratch を楽しんでいることを知っていました。

それで、プログラムは何歳くらいから始めるのが良いのか、という話になりました。


ぎーちさんもお子さんはいるけど、うちの次女(5歳)と同学年らしいので、プログラムはまだ早い。




これはゲームやプログラムの話から外れてしまうのだけど、子どもの発達について書いておきます。

専門家じゃないから、間違っていたらごめんなさい。


まず、3歳以下だと、ゲームのルールは理解できません。


2歳くらいの子と、片方だけの手に何か入れて、両手を出して「どっちの手に入ってるか」って遊びをやったりします。


あれ、大人はゲームをやっているつもりだけど、子供にとってはゲームではない。

「いないいないばあ」と同じ、何かが急に出現することを楽しむ遊びです。


ただ、毎回出てくるわけではなく、出てこない場合もある「意外性」が楽しい。

だから、入っている方を当てるゲームではなく、出てきたり出てこなかったりを楽しむ遊びとして楽しんでいる。


子供が「出題側」になると、わざと中に入っているのを見せて、「当ててもらう」のを喜んだりします。

大人は勝ち負けで考えているので、子供に勝たせてやろうと、わざと「入っていない」方を選んだりします。


でも、これは子供にとってはつまらないのね。出現を楽しみたいのだから。

「手が小さいから見えちゃってる」のではなく、わざと見せていることも多いのです。



同じことをやっていても、3~4歳くらいになると、「勝ち負け」を理解し、ゲームとして楽しめるようになり始めます。




4~5歳くらいになるとジャンケンくらいの簡単なルールの遊びであれば、遊べるようになります。


でも、この段階で遊べるゲームって、真似できなかったら負け、とか、偶然性で勝ち負けが決まる、とか、その程度。

5歳くらいだと「太鼓の達人」を楽しめる子も出てきますが、これはリズムに合わせて叩く、という「真似」の要素だから。


それ以上難しいゲームになると、まだできません。


ちなみに、「リズムに合わせる」ということ自体、5歳くらいからでないとできない。

ブランコ漕いだり、縄跳びしたり、自転車に乗ったり。こういうのもリズムに合わせる必要があるから、この頃までは難しい。



7歳くらいになると、七並べとかババ抜きとか、簡単なルールと戦略性を持ったゲームが遊べるようになってくる。

でもまだ戦略を駆使することは出来ず、ルールを理解してはいても、運が良くないと勝てません。


テレビゲームだと、キャラクターを動かして、それなりに先に進むことを楽しめる。

でも、1面クリアできたら喜ぶような段階で、先にはなかなか進めない。


#大人でも楽しめる程度の難易度のゲームの場合ね。

 7歳くらい向けに作られた、大人が遊んでも簡単すぎてつまらないようなゲームで「クリアできて楽しい」とかはあり得ます。



7歳から小学校になるわけですが、これ以前は「ルールを理解できない」から、集団生活には向きません。


保育園の場合、集団生活ではあっても、問題があればすぐに保育士さんと園児の「1対1」の状況に入れる。

小学生になると、基本的には子供同士で問題を解決していく必要があります。

ここに、「ルールを理解する」必要が出てくるのです。


小学生でも、1~2年生の間は「勉強のやり方」を学んでいる段階。

国語と算数が中心ですが、内容はそれほど高度ではありません。


3年になると、理科や社会も始まり、本格的に勉強を行うようになっていきます。

でも、まだ詰め込み教育。これは悪いことではなくて、「自分で考える」なんてできない年齢だから。

ここで詰め込まれた内容は、後で「自分で考える」段階が来た時に、考えるための基礎となるものです。


4年生くらいから、自分たちで研究発表をまとめるなど、自分で考える勉強が始まります。

年齢にすると10歳くらいですが、この頃から本格的に自我を持ち始め、自分で考えて、自分で行動するようになります。


3年生くらいまでは、周囲の大人との関係が重要だけど、4年生からは友達との関係の方が重要になっていくのね。


漫画だと、サザエさんのカツオ君は5年生で、ワカメちゃんが3年生。

ちびまる子ちゃんは3年生。ドラえもんののび太とか、カードキャプターさくらとかは4年生。


#注:のび太はアニメ版は5年生ってことになっている。


「周囲の大人」と「友達」のどちらが大切か、1年の差で変わってくるのがわかりますでしょうか?

よく出来たお話…漫画やアニメも、ここら辺のことをちゃんと考えて年齢設定されています。




さて、長々書きましたが、僕としてはプログラムは4年生以降に始めるのがいいんじゃないかな、と思います。


「自分で考える」ことができる年齢だから。

プログラムって、考えることが大切だから、これ以前の年齢だとちょっと早すぎる。



ただ、それ以前にプログラムに触れることを否定するものではありません。

うちの長女はまだ7歳だけど、長男がプログラムしているのがうらやましくて、真似してる。


長男に教えてもらっている…つもりになっているだけで、ほとんど長男がやっているのだけどね。


長男も、8歳の誕生日にポケモンのゲーム買ってます。

「まだ遊ぶには早い年齢」だと思っていたけど、本人が強く希望していたので。


やっぱ早くて途中でやめちゃったのだけど、RPG の世界を経験したというのは、論理性に若干触れた経験だった。

そういう経験が、10歳になってプログラムはじめるのに役立っていると思います。



さて、上に書いたことには、当然個人差もあります。


自我が芽生えるのは10歳~12歳、とされていて、それがすなわち「考えられるようになる年齢」なので、4年生では早すぎる子もいるかもしれない。


一方で、もっと前の年齢でも楽しめる子はいるかもしれない。

子供にやらせてみたかったら、少し早くても与えてみることです。


でも、強要はせず、興味を示さないなら引っ込める。

その後は、また興味を持ちそうなタイミングが来るまで、じっくり待ってください。


あまり早い段階で与えすぎると、「難しい」っていう苦手意識を持っちゃうから、ダメだったら十分な期間を開けたほうがいい。


あと、何よりも「大人が楽しんでいる」姿を見せるのは興味を引かせるのに役立ちます。

子供にプログラム教えたかったら、大人がやってみせることです。




今は、中学生でプログラムが必修科目になっているそうです。


以前、これに反対する意見として、「中学生でも作文などで論理性のある文章を書けない子供がいる」としている人がいました。

塾講師のようで、子供の作文能力など、ちゃんと見極めた上での意見。素人意見ではないです。


でも、僕はこの意見には反対。

「考えることができる年齢」というのは、脳がその準備ができた、というだけの話。


論理的に考えるのって、訓練しないとできないです。

「まだできないから」と言って訓練しないと、いつまでたってもできない。


中学生なら、もう考えることのできる年齢に達していますが、必ずしも論理的なわけではありません。

だから、論理性の訓練を始める必要があり、そのための道具として「プログラム」を使うのです。



ついでに書けば、プログラムは道具であって、目的ではありません。

プログラム技術を教えたいのではないから、「みんながプログラマを目指す必要が無い」という反論も、前提から間違えている。


ここら辺、詳細は以前に書いた日記に書いてます。



#話は飛ぶけど、20歳は大人か、という問題も同様だと思ってます。

 周囲が大人扱いしないで大人になるわけがない。20歳「から」大人扱いだったら、精神的にも大人になるのは25歳くらいからで当然。

 昔は、15歳くらいから大人扱いで、仕事もさせられました。だから、20歳の成人式では立派な大人だった。

 何事も、訓練せずに出来る人なんているわけがない、という当然の話。


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