家族33ページ目の日記です


G.W. 横浜編 (1/2)  2026-05-06 16:24:12  社会科見学 家族

G.W. 横浜編をまとめて読む


家族に意見聞いてまとめた「行きたいところ」は横浜にもあった。

こちらは東京より軽め。自宅から車で行ける距離だし。


というわけで、5月5日は朝8時過ぎに家を出発。

9時少し前に、三渓園に到着する。


三渓園は、横浜にある日本庭園。原三渓という明治~昭和初期の大富豪の「個人邸宅」だったが、住んでいた時から庭を一般開放した上、当時の廃仏毀釈運動もあって取り壊される建築物などがあると聞けば、大金を使って庭園内に移築した。


そのため、三渓園は日本庭園であるとともに、古建築のテーマパークのようになっている。


…というのが、自分の知っていた事前知識。


小学校のころは横浜に住んでいたので、遠足で三渓園に行った覚えがある。

でも、小学生に日本庭園や古建築なんて、正直なところよくわからない。「行った」という事実のみ覚えていて、そこに何があったかなど一切覚えていない。


せっかく有名な日本庭園が車で気軽に行ける距離にあるのに、どんなところか知らないというのももったいない、と以前から思っていたし、妻も興味があるようだった。

それを今回、高校生~大学生の子供たちなら十分楽しめるだろうと、家族で行くことにしたわけだ。




細かなことは省略して、全体の概略から書こう。


入り口からしばらくは、庭園らしいところが続く。庭園の中で最初に建てられ、原三渓が自宅として使っていた、という「鶴翔閣」があるが、遠くから見られるだけで近づくことも禁止。


その後で、原三渓記念館というところがあるので、まずはここを見ると良い。

庭園を見て回るのに必要な知識は、ここで大体仕入れられる。


原三渓が作ったから三渓園、と聞いたことがあるのだが、原三渓は本名ではなかった。

本名は原富太郎。

え、じゃぁ三渓って何? と混乱したが、ここの展示には答えはなかった。

後で調べたところ、雅号が三渓らしい。


そう。雅号がある。茶人だったのだ。

原三渓は実業家で大金持ちだったが、美術や芸術を愛し、茶人としても多くの人と親交を深めた。

原三渓自身絵を描いたそうだが、若き芸術家のパトロンにもなったし、日本画家の横山大観とも仲が良かった。夏目漱石とも親交があった。




原三渓の「養父」が横浜で生糸問屋の事業を始めた。この事業を拡大して財を成したのが原三渓だ。


解説には書いていない自分の知識だけど、当時西欧では蚕の病気が流行し、絹の生産が出来なくなっていた。

そのため中国が生糸を西欧に輸出するのだが、こちらでは内乱が勃発。また、中国でも西欧と同様の蚕の病気が流行し、輸出量が減少する。


そこに日本の絹織物が入り込み、大成功。当初は生糸だけが輸出されたのだが、絹織物をハンカチとして販売するようになる。


ここで、日本の印刷技術は当時世界一だった、ということ知っておいて欲しい。

大衆娯楽としての浮世絵の影響もあり、多色刷りの技術が凄い。この技術で模様を付けたハンカチは、日本でしか作れない特産品だった。


特に横浜ではハンカチ産業が大きくなり、会社が乱立した。

しかし、絵柄を作る会社が増えたとして、そのすべてが「生糸」「絹織物」を必要とするのだ。

それらは、原三渓の会社が取り扱っている。こうして、原三渓の会社は莫大な財を成した。


ところで、ハンカチは後に大判化し、スカーフとなる。

エルメスが「多色刷りのスカーフ」事業に乗り出したのはその後だ。

現在ではエルメスが世界的に有名だが、その前は横浜スカーフは世界的に有名なブランドだった。



現在世界遺産となっている、富岡製糸場も、原三渓の会社のものだった時期がある。

最初は国策として政府によって建造されたが、思ったようにうまく行かず民間に払い下げられたのだ。

当初は三井が購入したが、これもうまく行かない。原三渓に売却されたところ、品質も生産量も増して、大工場となった。


つまりは、原三渓は絹を扱うことで財を成したし、そのノウハウを使うことでさらに財を増やしていったのだ。




原三渓に限らず、当時の大金持ちというのは、金持ちの「責務」としての公共投資に積極的であることが多い。


三渓園を作ったのもそうだが、横浜銀行の初代頭取も務めている。経済安定のためには地元に銀行が必要であり、世界恐慌の為に破綻した銀行の業務を引き継ぐという「火中の栗を拾う」ようなことをしたのだ。


また、関東大震災の際には横浜市復興会の会長を務め、私財をつぎ込んで横浜の復興に勤めている。

ちなみに、関東大震災って横浜の本牧のあたりが震源で、三渓園は本牧にある。まさに「被災の中心地」で、財産をなげうって地域の復興を行ったのだ。


後で書くが、関東大震災とその後の第二次大戦の横浜大空襲で、三渓園の歴史的建造物はずいぶん失われてしまったらしい。




以上のような前知識を仕入れたうえで、三渓園を見て回る。


建造物の前には、その建物の大まかな構造の図示と、説明を書いたパネルがある。

三渓が建てた建物には建造年しかないが、移築したものは建造年と移築年が書かれている。


室町時代に建てられた建物とかもあるが、多くは江戸初期のもの。

先に書いたように廃仏毀釈運動もあったためか、仏教寺院の建造物が多いが、戦国武将ゆかりの建築物などもある。

いずれにせよ、誰かが保存しないと失われてしまう、重要な建築物の噂を聞いては、移築していたようだ。


ただ、移築に際しては、必ずしも元の建物を再現しようとはしていない。

現代的(当時の話だが)に住みやすいように手を加えたり、間取りを変えることもあったようだ。

だから、織田信長の弟が建てたという茶室には、電灯と硝子扉がついていたりする。

単に懐古趣味で残すのではなく、あくまでも「使用できる」ことを重視しているのだ。




三渓園は公開から120周年だそうで、園のあちこちに「当時の風景」の写真がパネルになって設置されている。


これを見て回るのが結構面白い。当時の風景が分かる、とかではなくて、説明が無茶苦茶…というか、波乱万丈で面白いのだ。


多くの建物が、関東大震災や空襲で失われている。一方で、三渓園が「完成」した後でも、どんどん新しい建物が移築されている。

つまりは、今の三渓園は、けっして原三渓の作った三渓園ではないのだ。でも、その心は受け継いでいる。


パネルの中には、写っている建物が来歴不詳、詳細不明、今はないのだがなぜ無くなったのか不明、っていう不明だらけのものもある。そんな不明だらけなら紹介しないでもよいのでは、と思うのだが、正体不明のものが写真には残っているからこそ、知っている人に情報を求めているのかもしれない。


しかしまぁ、ツッコミどころだらけで面白い。




原三渓は秀吉大好きだったようで、秀吉が作った聚楽第の一部、と信じて移築した建物もある。今では違うとわかっているそうだけど。


また、中華趣味があったそうで、中華風の建物も自分で設計して作ったりしている。こちらも、空襲で焼けてしまったそうで写真しか残っていない。



園内の茶店「待春軒」で、原三渓が考案したという「三渓そば」を食べられる。僕は食べてないけど。

待春軒のWEBページで、どのようなものか大まかなレシピが書かれている。


…えーと、ページには「起源不明」と書いてあるけど、どう見ても中国の炸醤麺(ジャージャー麺)だな。

それを、当時の日本で入手しやすい材料で作れるようにアレンジしたのだろう。


ここら辺も、中華趣味だったというので、普段から気軽に食べたくて考案したのだろうと思う。


(どうでもよい話だが、翌日にこのレシピを参考に、「それっぽいもの」を作って家族で食べました)




三渓園は、原三渓存命のうちに無料で一般開放されていたのは知っていたのだが、見学者に無料でお茶を出していたらしい。

その際に使った東屋なども写真と共に残っている。東屋の中央に炉があり、東屋全体に煤けているが、これは現在でも年に一度、当時と同じように使用しているからかもしれない。


すぐ隣に在った茶室は、後に別の場所に移築されたのだとか。現在は、さらに後に移築した茶室が建っている。


建物の移築って大変なことだと思うのだけど、そんなに気軽に移築を繰り返すんだ…

「不動」産って何だろう。




さて、園内を一通り見たら、時間は12時ちょっと前。ほぼ3時間かかりましたね。


なんとなく流し見する程度なら2時間で回れると思いますし、園内で食事したり、予約が必要な特別公開の家の中まで見ていたら、もっと時間がかかると思います。


見に行こうと思う方は参考までに。




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