コンピュータ27ページ目の日記です

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2015-11-17 ハーマン・ホレリス 命日(1929)
2015-11-27 エイダ・ラブレイス 命日(1852)
2015-11-28 中将棋(あるいは私的ゲーム論)
2015-11-29 PONG 発表日(1972)
2015-12-05 サーバ故障
2015-12-05 たくさん交換
2015-12-07 2つの格安SIM
2015-12-07 2つのSIMフリー スマートフォン
2015-12-14 新サーバー N3700
2015-12-18 CentOS5+Xen3 から CentOS6+Xen4 への引っ越し
2015-12-20 honor6 plus 使い勝手レビュー
2015-12-26 チャールズ・バベジ誕生日(1791)
2015-12-29 HDMI -> VGA 変換器
2016-01-07 Serverman SIM LTE 解約
2016-01-14 トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)
2016-01-17 山本卓眞 命日(2012)
2016-01-18 森公一郎 命日(2015) レイ・ドルビー誕生日(1933)
2016-01-19 マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)
2016-01-21 ポール・アレン 誕生日(1953)
2016-01-22 デビッド・ローゼン 誕生日(1930)
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ハーマン・ホレリス 命日(1929)  2015-11-17 11:02:08  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、ハーマン・ホレリスの命日(1929)


あえておかしな説明をすると、コンピューターの画面の横サイズが 640ドットを基本としている…SXGA 解像度だとこの2倍の 1280ドット、フル HD 解像度だと3倍の 1920ドットとなっているのは、ホレリスの影響です。




アメリカでは、10年に一度、西暦の末尾が「0」の年に国勢調査が行われます。

19世紀中ごろ、アメリカには次々と移民が押し寄せ、10年で 1.3倍程度のペースで人口が増えています。

それに伴い、集計にも時間がかかるようになっていきました。


1880年の国勢調査の結果が出たのは、1889年でした。


1880年の国勢調査の集計に手間取っている間に、次の…1890年の国勢調査は10年以内に集計が終わらないだろう、という予測がたっていました。

それでは、何のための国勢調査だかわかりません。


1888年、国勢調査局は、国勢調査の統計作業を効率化するための発明コンテストを開きます。




ホレリスは、1879年にコロンビア大学を卒業しています。

その後、国勢調査局でしばらく助手として働き、この大変な集計作業を知ることになります。



1882年、ホレリスは MIT で教員の職を得ます。

そして、その間にパンチカードを使ってデータの集計を行う機械を試作します。


当時、パンチカードはよく使われた技術であったことに注意してください。

パンチカード自体は彼の発明ではありません。


パンチカードで音楽演奏を行うオルガニートは、1860年には発明されているそうです。

音楽用のパンチカードは、1848年ごろに発明されているそうですし、1725年にはパンチカードによって模様を作り出す織機が発明されています。

(とくに有名なジャカード織機は 1801年発明)



ホレリス自身、電車の車掌が切符に穴をあけているのを見て、パンチカード集計機を着想したと言っています。

車掌が切符に穴を開けるのは、日本でも 1980年代中頃までは、普通に見られた風景でした。


#行き先を変えたくなった際、車内で車掌から切符を買うことができた。

 その切符は路線図の書かれた大判のもので、出発駅と目的地に穴を開けて使用した。



1884年にはこの機械で特許を得て、再び国勢調査局に戻ります。

そして、1888年に先に書いた発明コンテストが行われ、ホレリスの機械が選ばれます。


1890年の国勢調査で、早速ホレリスの機械が使われました。

ホレリスの機械により、2年で集計が終わる、と見積もられました。


実際には予定より早く、1年半で集計作業が終わっています。

しかも、この集計作業は2回行われ、誤りがないことの確認まで終わっていたのでした。




1896年、ホレリスは「タビュレーティングマシン」社を興します。


タビュレーティングマシンというのは、「集計機」の意味ね。タビュレートには、作表、という意味があります。


先に作った機械は、国勢調査専用のものでした。

しかし、ホレリスはこれを改良し、配線板を組み替えることで自由な集計が行えるようにしました(1906)。

「プログラム可能な計算機」としたのです。


当初、販売ターゲットとしては世界の国勢調査局を考えていたようですが、同じように膨大なデータ処理を必要とした保険会社などにも販売が広がります。


1911年には、類似の機械を作り始めた別の4社と合併し、会社規模を大きくします。

1920年には、集計結果を自動的に印刷できる機械を開発。


そして、1924年には社名を変更し「インターナショナル・ビジネス・マシーン」…頭文字をとってIBMとしています。




最初の国勢調査で使われたパンチカードは、24の項目について、12の選択肢から選べるように作ってありました。


1928年、項目を 80まで対応したパンチカードが作られます。

選択肢は 12まででしたが、このうち 10個を使って数字を選ぶことで、連続した項目を使って「00から99まで」のような選択も可能としました。


このパンチカードはコンピューター時代になっても入力装置として使われ、12の穴あけ位置に複数同時に穴を開けることで、文字を表現することも可能となります。



FORTRAN は、このパンチカードを使ってプログラムをするように想定しています。

そのため、1行は 80文字でした。


その後、コンピューターに CRT が接続されるようになると、パンチカードと同様の情報が表現できるように、横に 80桁表示できる、というのが普通になります。


80桁の文字を、横 8ドットのフォントで表現するのであれば、横は 640ドットとなります。

また、この倍数であればフォントを工夫することで 80桁の表示が可能です。


このことから、今でも横方向のドット数は 80の倍数であることが多いです。




ホレリスは、1929年の今日、心臓発作で亡くなっています。

彼自身は、コンピューターの登場以前に生きた人であり、コンピューターとは無関係です。


しかし、コンピューターの発展に大きな影響を与えた人物だと思います。


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エイダ・ラブレイス 命日(1852)  2015-11-27 09:32:26  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、エイダ・ラブレイス伯爵夫人の命日(1852)。


「世界最初のプログラマ」と呼ばれる女性です。

今では勘違いとわかっているけど、初期の「プログラム」に多大な功績をしたのは事実。


その功績から、「エイダ」は、プログラム言語の名前にも使われています。



以前、誕生日に記事を書いているため、詳細はそちらをご覧ください



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中将棋(あるいは私的ゲーム論)  2015-11-28 10:09:39  コンピュータ 歯車

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長男が紙で中将棋の駒を自作し始めた。


しばらく前から将棋に興味を持っているのだけど、その興味は「将棋と類似のゲーム」にも向いている。

家にも象棋はあるし、チェスならパソコンで遊べるソフトもある。


でも、誰に似たのかマイナーなものを面白がる性格のようで、「家にある」ようなものでは面白くない。

最近では、「中将棋を遊んでみたい」と言っていたのだけど、どうもルールに不明な点があったようだ。


それを、図書室で中将棋について詳しく書かれた本を見つけ、ついに駒の自作を始めた、という次第。




話は急に変わるが、将棋って、「ウォーシミュレーション」の一種だ。

個性のあるユニットを動かし、それぞれの得意を活かし、欠点をほかの駒で補う形で戦う。


いわゆるウォーシミュレーション…パソコンでは現代大戦略とか懐かしいのだけど、そういうゲームではユニットごとの「強さ」もある。

隣接したマスで戦闘状態となり、サイコロと強さの勘案によって戦闘の勝敗を決する。


でも、将棋ではユニットの強さは存在せず、個性は「移動範囲」のみだ。


ウォーシミュレーションでは、1ターン(片方が戦略を考える期間)で、すべてのユニットが行動できる。

でも、将棋では1ターンに1ユニットの移動のみだ。



将棋が単純すぎるとか、ウォーシミュレーションがリアルだと言っているのではない。

どちらもシミュレーションにすぎず、リアル…現実には程遠い。


シミュレーションで大切なのは、現実のモデル化であり、モデル化に必要なのは、計算可能な範囲の複雑さの中で、最大限に現実を模倣することだ。


「気軽に」楽しむゲームとしてのシミュレーションとしては、計算可能な複雑さが低いため、将棋はうまくモデル化できている。


ウォーシミュレーションはコンピューター以前からボードゲームとして存在していたが、複雑すぎてマニアでないと遊ばなかった。

パソコンの普及により、計算可能な複雑さが上がったために一般に楽しまれるようになったに過ぎない。




さて、話を中将棋に戻す。


中将棋は、今ではほとんど遊ばれていない将棋の一種だ。



チェス(の元となったゲーム)が中国を通じて日本に入ってきて将棋となった。

その後、日本で改良されて「大将棋」というものが作られる。


この大将棋、記録に残ってはいるが、本当に遊ばれたかどうかすら怪しまれていたそうだ。

現代では「どうも本当に遊んだらしい」と考えられているが、怪しまれるほど複雑怪奇。


普通の将棋(本将棋と呼ばれる)は、縦横9マスの全81マス、双方8種類・20駒を使って戦う。

これに対し、大将棋は縦横15マスの全225マス、双方29種類・65駒を使って戦う。


規模…つまり、計算可能な複雑さが全然違う。同じ将棋という名前が付いてはいるが、大将棋はまるでウォーシミュレーションのようだ。

それがゆえに、考案されてもしばらくして廃れてしまったようだ。


そして、大将棋を少し整理し、簡略化した「中将棋」が普及する。


江戸時代には、将棋の強いものには幕府から給与が出ていた。

これが「ウォーシミュレーション」だから、太平の世においても武士の勝負勘を養うのに有用とされていたのだろう。


しかし、江戸時代が終わるとこうした給料も無くなり、急激に将棋が衰退する。

中将棋もその時に、事実上なくなっている。

(一部の愛好家が「文化を失くしてはならない」と頑張ったため、現代にもルールなどが伝わっている)



さて、幕府の庇護が無くなったから中将棋が無くなった、というのであれば、なぜその時に本将棋は無くならなかったのだろう?

本将棋は、先に書いた「計算可能な複雑さ」と「現実のモデル化」のバランスが、一番とれていたからではないのだろうか?


一番バランスが良い、というのを現代的に言い直すならば「ゲーム性が高かった」ということだ。

もっと簡潔にいえば「面白かった」の一言に尽きる。


面白いゲームだけが生き残り、そうでないものは淘汰される。

非常にわかりやすい話だ。




これ、今でも同じことが繰り返されている。


新しいタイプのゲームジャンルが確立すると、真似をする会社(フォロアー)が急激に現れ、差別化のために複雑さを増していく。

最初のうちは「より面白くなっていく」こともあるけど、ある地点を超えると、複雑さを増やすことがマイナス要因になっていく。


でも、差別化のために複雑さは加えられ続け、最期にはユーザーが離れ、そのジャンルが終焉する。

終焉するとは言っても、「一番面白かった」もの…最終形よりもはるかに単純だった時代のものは残り、後世に伝えられていく。



こう書いただけで、「あぁ、あれのことか」と想像してしまう人も多いと思う。


いや、ここで書いた「あれ」とは、僕が特定の何かを示唆しているという意味ではない。勘ぐらないでいい。

ただ、世の中すべてのゲームジャンルで同じ構造が見られるので、枚挙にいとまがなく、誰だって自分の好きなジャンルで例を挙げられるだろうということなのだ。



以前書いたけど、僕は「悪魔城ドラキュラ」というファミコンのゲームが好きだった。

スーパーマリオなどの横スクロールジャンプアクションに属するのだけど、ホラータッチの独特の世界観と、「ムチ」という特殊な攻撃方法が差別化要素となっていた。


このゲームは大ヒットしたので続編が作られる。

しかし、この続編が…好きな人もいたと思うので申し訳ないのだけど、僕にとっては余計なものだった。


どんどん新要素が付け加えられ、僕にとってはどうでもよいゲームになっていく。

X68k で、初代がリメイクされ、これは素晴らしい出来だった。もちろん「新しい要素」は加えられているのだけど、初代の良さを「邪魔しない」追加方法だった。


つまりは、初代は良かったけどそれ以降はつまらないと思っている人が、僕以外にもいたということだ。

「後世に残したい単純なもの」としてリメイクがなされたのだと思っている。



同じように、ROGUE も好きだが、NetHack や Angband は別に好きではない。

でも、風来のシレンは好きかな。ドラキュラにおけるリメイク、のような位置づけ。


スーパーマリオもたくさん続編があるけど初代が好き。

「夢工場ドキドキパニック」(のちのスーパーマリオUSA)も好きだけど、これは関係のない話か。


ミスタードリラーも初代が好き。


コラムスは、リメイクである97が好き。

初代も捨てがたいが、それ以外は別に好きではない。




複雑さを増す要因は2つある。


1つは、いわゆる中二病。「俺の考えたやつのほうがおもしろいぜー」って追加要素を入れるのだけど、いたずらに複雑化させるだけで、実は面白くない。


面白くない、と書いたけど、大抵入れたときには「おぉ、本当に面白れーじゃん」と周囲が受け入れる。

それは、既存のゲームに飽き始めているから。新しい要素が入れば何でも面白く感じる、というだけ。


このルール、実は面白くないんじゃない? と気づくのはかなり時間がたってからで、その時には周囲全員が遊んでいるルールを「今更戻そう」なんて誰も言い出せず、複雑なルールが残り続ける。


時々、思い切ってルールを単純化することで面白さを演出する、という試みをする人が出ることもある。

将棋においては、近年の「どうぶつしょうぎ」が良い試みだった。3*4マス、各自4種類・4駒で戦うのだけど、ちゃんと将棋として成立していた。



ゲームではないけど、SNSの世界では、思い切った簡略化を行ったのが Twitter だった。

でも、これは簡略化しすぎで、後で少しづつ機能を追加している。簡略化された世界観に合わず、ちぐはぐな拡張も見受けられる。

簡略化したいのか複雑化したいのかわからない態度に、日本以外では急速にユーザー離れが進んだそうだ。


逆に、いろんなSNSを分析し、問題点をすべて解消しようとして複雑怪奇な仕組みを作ったのが Google+ だ。

確かに問題は解消されているのだけど、複雑すぎる。複雑さを乗り越えてまで使いたいと思う人が少なく、ユーザーが少ない。



話を戻して、複雑さを増すもう一つの要因は、商業上必要な差別化だ。


根本からゲームを練り直してオリジナルを作るのが、一番の差別化になる。

でも、全くのオリジナルは、売れるかどうかもわからない。商売としてはギャンブルで、実はよくない。


それよりは、流行したゲームの後追いをしたほうがいい。

「本家」ほど売れないとしても、そこそこの需要は見込める。うまくいけば本家のユーザーをごっそりいただけるかもしれない。



こう考えると、元となるゲームをほぼ模倣しつつ、新しい要素を一つだけ付け加える、というのが最良の戦略とわかる。

これが、商業的なゲーム作成における、一番上手な差別化の方法だ。


数多くのフォロアーのゲームのうち、ヒットが出ると、またそのフォロアーが出る。

繰り返すうちに、ひとつづつ付け加えられた要素が重なり合い、複雑さの度合いを増す。


「ディフェンダー」を真似して「スクランブル」が作られ、それを真似して「ゼビウス」が作られ、「グラディウス」「R-TYPE」と続き…という流れだな。

その陰に、消えていったフォロアーが山ほどある。



「フォロアー」は何も他社ばかりではない。続編を作るのだってフォローのうちだ。


これは伝聞なので間違いもあるかもしれないが、「ミスタードリラー」は、発売前にかなりいろいろ実験をしたそうだ。

その結果、一度複雑さを十分に増し、それらの複雑さを排除し、一番面白いバランスになるところを見つけて発売、という方法をとっている。


そして、面白かったから大ヒット。大ヒットしたゲームの常として、続編が求められた。

すでに「これ以上複雑にするとつまらなくなる」境界を見極めているのに、続編で差別化を行わなくてはならない。


スタッフは反発したが、会社命令で作らなくてはならない。

企画書に「スーパーミスタードリラー2ダッシュターボZ」とかってタイトルを書いたらしい。もう、これ以上続編が作れないように。


この名前は許可されず、「ミスタードリラー2」という普通の名前になり、シリーズは続くのだけどどんどんつまらなくなっていった。


これ、会社が悪いとかスタッフがかわいそうという話ではないよ。

商業主義、資本主義では、スタッフが望んでいなくても「ファンが望む限り」続編を作らないといけないのだ。


ひどいのは会社ではなく、ファン。

続編を出さないと「続編ないのですか」と言い続け、続編を作ると「つまらなくなった」と酷評する。

でも、それは悪いことではなく、ファンの権利だ。ファンがお金を出すことで会社は潤うのだから。


これが資本主義の仕組みだから仕方がない。


そもそも、作られたゲームの多くは、ファンもつかずに消えていく。

ファンがついて続編を望まれるだけ幸せだというものだ。


2018.4.18 追記

上の話、書いた通り「伝聞」で聞いただけでした。

現実はちょっと違うようで、ドリラーシリーズのプロデューサーさんがツイートしていたので、リンクしておきます

(引用許可は取っていないのでリンクのみ)


2の時じゃなくて、G(3作目)の時の話だって。

名前も、長いのではなく「Z」ってつけただけだって。

(でも、これ以上続編は作らないつもりで名前決めたら却下された、というのは事実)




話は急に変わる。


ここは個人的な思いなのだけど、「複雑さ」にも2種類あると思っている。

ルールの複雑さと、状況の複雑さだ。


状況が複雑になると、判断しなくてはならないことが増える。

でも、ルールが複雑になると、判断が面倒になる。


ゲームの面白さは、多数の選択肢から判断を行い、その結果が判定されること…にある。

だから、状況の複雑さが増すのは、ゲームの面白さを増すうえで有用だ。


ただし上限はある。

人間の把握能力を超えるほど複雑だと、判断基準が失われて「運任せ」つまり判断の放棄につながる。



ルールを複雑にすれば、間違いなく状況は複雑になる。

でも、ルールが複雑になると、判断するときに考慮しないといけないことが増えて、面倒になる。


こちらも、最終的には判断の放棄につながる。



一番の上策は、ルールは単純明快にもかかわらず、状況が十分に複雑な状況を作り出すことだ。

ただし、そのようなルールを組み立てることは非常に難しい。




「状況判断」という言葉から連想しやすく、パズルゲームを例にとろう。

多くの人が知る名作パズル「倉庫番」は、ルールの設定が巧妙だった。だから名作だと言われるのだけど。


画面上には、たった5つのキャラクター。

「自分」と、荷物、壁、空地、そして「置き場所」。


自分を動かし、荷物を押すことができる。そして、すべての荷物を置き場所に収めれば成功。


壁は押せない。そして、荷物はその向こうが空地でないと押せない。

ルールはたったこれだけだが、非常に多彩な面構成が作り出せ、パズルとしてよくできていた。



「チューチューロケット」もよくできていると感心したな。


画面内には猫とネズミがいる。

いずれも直進し、壁にぶつかると右折する。


すべてのネズミを「ロケット」に誘導し、脱出させる。

猫がネズミ、またはロケットに触れれば失敗。


ユーザーは、事前に「矢印パネル」を置くことができる。

このパネルの数は限られているが、猫・ネズミを矢印方向に誘導する。


基本ルールはこれだけ。(細かなルールがもう少しある)

でも、倉庫番と同じように非常に多彩な面構成が作り出せた。



パズルとして、逆に「ルール設定が複雑すぎる」と思ったゲームもある。


ワリオの森。過去にどう複雑すぎるのか説明しているので、詳しくはそちらを見てもらおう。

複雑怪奇なルールで、ルールに従ってパズルを解く、ということ自体が困難。


面白くないのか、といえばそんなことはない。面白かった。

でも、良いゲームだとは思わなかった。




状況判断はパズルに限らない。

アクションゲームだって、ルールが複雑怪奇であるよりも、単純明快なほうがいい。

その中で、瞬時の状況判断を楽しめるように、複雑な状況を作り出すようにするのだ。


スーパーマリオなんかは、ヒップアタックとか空中での回転(ジャンプ時間延長)とか、複雑な操作が増えすぎて面白さを落としてしまっている、と思う。


もちろんそうした操作による操作の多様性で面白さを作り出している部分があるのは認める。

でも、初代スーパーマリオだって十分に面白い。単純明快な良さというのは存在する。


操作方法を増やした、というのは、複雑さを上げる方法としてはあまり上手な方法ではなかったと思うのだ。



シューティングゲームなんかでは、パワーアップ方法とかが「複雑なルール」を作り出す中心になっている。

敵にぶつかったらダメで、敵を撃てば撃破できる、という単純さは変わらない。

そもそも、シューティングは単純な爽快さが求められているものも多く、いたずらにルールを複雑化することはできない。



とはいえ、ルールの中の些細な部分…「画面上に同時に表示できる敵弾数」とかが、技術の進歩により飛躍的に増えた。

これだけで、弾除けの状況判断がずっと複雑になり、面白さが変わってきた。


いわゆる「弾幕シューティング」の誕生だな。

こういうのは、複雑にするうえで上手な処理方法だったと思う。



対人対戦、というのも、上手な方法だった。

元々 CPU 対戦ができるようなゲームなら、ルールは全くそのままで、ただ CPU ではなく人と遊べるようにするだけ。


でも、人はコンピュータープログラムに比べて、ずっと複雑だ。

これだけで状況は限りなく複雑になる。




話がだらだらと長くなったので、最初に戻して締めくくろう。


ゲームを面白くするためには、状況をより複雑にし、「判断の選択肢」が増えると良い。


そのために、大将棋・中将棋では盤面を広げ、駒の種類・数を増やした。

でも、これによりルールが複雑化しすぎ、遊ぶ際に面倒が多くなって、廃れたのだと思っている。


本将棋(いわゆる将棋)だって、元となるゲームからルールは拡張されている。

しかし、盤面はそれほど広げていないし、駒の種類もそれほど増えていない。


でも、たった一つだけ、他のどのゲームにもない独自ルール拡張がある。

それが「持ち駒」だ。相手から奪った駒を、自分の駒として戦場に投入できる。


この「持ち駒」が大発明で、ルールとしては単純であるにもかかわらず、状況判断を非常に複雑なものにしている。

結果として、大将棋・中将棋よりも面白さを獲得し、最終的に生き残ったのだろう。


ルールの追加方法としては、かなり上手な処理だったと思う。

ゲームに追加アイディアを入れる際の、理想的なお手本である。



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PONG 発表日(1972)  2015-11-29 11:31:03  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、世界最初のビデオゲーム、「PONG」が発表された日(1972)。


発表といっても、プロトタイプは8月には完成して、地元のバーに置いてもらっていたそうです。

そこでお客さんに好評だったので量産体制を整え、1972年の今日、正式発表。



ポン以前、ビデオゲーム市場は存在しませんでした。

「テレビゲーム」が存在しなかったわけではなく、市場が存在しなかったのね。


しかし、ポンは大ヒット。それまでピンボールなどを置いていたバー(酒場)を中心に、多くの店がゲームを置きます。

非常に単純なゲームで対戦型だったため、酔っ払いが気軽にお金を出して遊ぶことができました。



ポンの類似ゲームを各社が作り出しますが、ポンの作者であるノーラン・ブッシュネルは特に訴えませんでした。

ポンの売れ行きが良く、生産・販売で忙しく、訴える時間が惜しかったのです。


ポンの販売台数は正確に把握されていませんが、およそ1万台。

コピーゲームを含めると10万台程度売れたとされています。


ポンのコピー商品を作ることで、ビデオゲーム会社が乱立し、流通網も出来上がり、「ビデオゲーム市場」が形成されます。


2年後、ポンの生産は終了します。さすがに市場にポンとその類似商品があふれかえり、売れなくなったのです。

(人気が衰えたわけではなく、お店に置かれた台はまだ人気がありました)



この状況は他社も同じで、それぞれが「次のゲーム機」を工夫して作り始めます。

これによって、多種多様なゲームが生み出されていくことになるのです。




最初に「世界最初のビデオゲーム」と書き、その数行下に「テレビゲームが存在しなかったわけではない」と書きました。


実際、家庭用テレビゲームの元祖である「オデッセイ」は、ポンより先に発売されています。

…それどころか、ポンはオデッセイで遊べたゲームのうち一つを、より面白く作り直したものでした。


それでも、ポンは世界最初のビデオゲームなのです。

なぜなら、「ビデオゲーム」という言葉が、ポンを表現するためにノーラン・ブッシュネルが考案したものだから。



ポンは日本でも発売されているし、コピー品を作っていたメーカーもあるのですが、それほどメジャーな存在にはなり切れていませんでした。

酒場でも遊べるように極度に単純化した「ポン」を、エレメカ中心で複雑な内容が多い日本の遊技場においても、見栄えが悪かったのかと思います。


このため、ビデオゲームという呼称は日本では普及していません。


#日本には、酒場にゲームを置く習慣はありませんでしたし。

 遊技場は主に遊園地の一角や観光地の片隅、デパートの屋上などにありましたが、それほど人が来るところではなく、注目度は低いです。



ところで、オデッセイは「テレビゲーム」と銘打っています。


日本では、オデッセイを発売したマグナボックス社の協力の元、エポック社が「テレビテニス」を発売しています(1975)。

これが多くの日本人にとっては最初の「テレビゲーム」となり、テレビゲームという呼称が一般化するのです。


ただ、家庭用としては非常に高価だったため、認識はあっても「遊んだ」ことのある人は多くありません。



そのあと、タイトーが「テーブル型筐体」を開発し、それまで遊技場にしか置かれていなかったテレビゲームを、喫茶店に設置できるようにします(1976)。


当初は、ポンから派生したゲームである「ブロック崩し」が入れられました。

ポンはヒットしなかったけど、これはヒット。


気軽に手の届く範囲にある、ということが大切なのです。遊技場はそれほど人の来る場所ではなかったからね。

欧米での「酒場」に相当する場所が、日本でもやっと見つかった格好です。


この直後、タイトーがブロック崩しと、当時のSF映画ブームをヒントに作り出した「スペースインベーダー」(1978)が大ヒット。

日本でも業務用ゲーム市場が形成されることになります。




ポンは、世界最初のビデオゲームであり、市場を形成した重要な作品でした。


でも、これ以前にもテレビゲームはたくさんある。

興味を持った方は、「世界初のテレビゲーム」も併せてお読みください。


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サーバ故障  2015-12-05 02:40:59  コンピュータ

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このページをホストしているサーバが故障しました。


今日の夕方、日記を更新したのですが、今朝のバックアップで復旧したために失われました。

まぁ、これは仕方がない。些細なことです。


日記の内容、ここ数日でいろんなことがあったので、かなり気合を入れて書いたのですが…


まぁ、詳細はまた後日書きます。

主な日記の内容をざっとまとめると、ここしばらく家の周囲でものが壊れたり、時代の変化で古くなっているのでいろいろ更新している、という内容。


ちょうど今日、NTTの回線工事があり、10年使っていた電話線と、10年使っていた CATV 線を、光ファイバー戦1本にまとめたところ。


2週間ほど前にマウスが調子悪くなり、今週頭に注文したものが昨日届いて交換しました。


今週頭の注文は、自転車のシフトレバーが故障したため、同等品を見つけて注文した際に、ついでにマウスも頼んだのでした。

シフトレバーは翌日…今週の火曜に届き、自分で修理。


16年ほどドコモを使ってきましたが、昨日解約手続きをしてきたところです。

MNP 転出になるので、手続きだけしたけどまだ使えている状態。

MNP 先には MVNO 業者を選んでいて、業者側で手続きが終わった瞬間にドコモ解約となります。



…と、「いろいろ交換した」話を書いた直後に、サーバー故障。

どうやら、サーバーも交換することになりそうです。




夕方に、妻がサーバーがなんかおかしいみたいなんだけど、と相談してきました。

このときは子供がいたからすぐに様子を見れず、サーバーが「まだ動いている」ことだけ確認。


その後、子供を寝かせて夜10時ごろに様子を見ます。

状況は、どうも謎。ドメイン名解決に失敗していて、ホスト名だけでなくフルドメインを入れたら入れました。


いつもホスト名だけで入れるように、ドメイン設定しているんですけどね。


で、なんだろうなぁ、今日の工事が関係しているとは思えないけどなぁ…とサーバーのファイルなど見ようとしていた時でした。


急に「ひゅーーん・・・」と、何かが停止する音。

それまで少し雑音のあった室内が静かになりました。


えぇっ? サーバーの音が消えた。

なぜか電源が落ちている。何もしていないのに。


再度電源を入れようとしてもダメでした。

おそらくは電源故障。でも、マザーボードがイカレタ、という線もあるかもしれません。

なにぶん、資材がなくて問題切り分けができない状態。



電源が入らない、とわかったら、サーバーの片肺運転の準備をします。

現在、ほぼ同じ構成の(マザボや CPU は異なり、多少性能が違う)2台のマシンで動かしていて、サーバー自体は仮想化していて、片側に2台収めることもできるようにしています。


ところが…バックアップは毎日とっているのですが、その戻し方を忘れた (^^;;


ネットで調べながら直している最中に、公開サーバー用のハードディスク領域を壊してしまいました。


壊した、といっても論理的なもの。

どうせ全データバックアップに入れ替えるのだし、パーテション切り直して再フォーマット。

その後、バックアップから戻します。



…起動しない。

かなり慌てます。


ダメになったサーバ、多分電源故障だから古い別のマシンの電源借りられないかな、と物理的な解決を試みようともするのですが、電源コネクタが違ったりしてだめ。


やっぱり仮想化サーバーを動かすしかない、と腹を据えてかかります。




最初の問題は、


switchroot: mount failed: No such file or directory

Kernel panic - not syncing: Attempted to kill init!


と出て再起動してしまう、というもの。


switchroot を手掛かりに検索するも、なかなか解決方法がわからない。


何度も再起動する画面を眺めていたら


ext3: No journal on filesystem on xvda2


と出ているのに気づきました。ここで xvda2 は仮想化したパーテションのことね。sda2 と同じ意味。


なるほど、パーテション切り直した時に、mkfs してしまったのが問題だったようです。

mkfs.ext3 でないといけなかった。


ext2 になってしまっているから ext3 にする、というのが解決方法。

tune2fs -j で解決。


#昔作ったサーバーで、そのころは ext4 がまだ信頼性が低かったので、ext3 のまま使っている。



これで起動するともう少し進みましたが、やっぱり止まります。


fsck.ext3: unable to resolve 'label=/boot'


と出ている。


fsck.ext3 のエラー? まだ ext3 になってない?


こちらも、情報を探してもなかなか見つからない。

このエラーメッセージで悩んでいる人はいっぱいいるけど、解決したという人がいない。



…ふと思いついて、label=/boot だけで探してみます。

そうしたら、あっさり答えが見つかった。


これ、fstab の記述でした。

label=/boot のディスクを /boot いかにマウントしようとしているのに、該当ディスクが見つからない、というエラー。


普通、fstab ではディスクそのものを指定するのですが、ディスクにラベルを付けて置いて、label=/boot のように指定することもできます。


というわけで、ラベルを付ける


e2label /boot


で、デバイスに /boot ラベルを付けます。


これで起動…

なんかいろいろエラーが出ましたが、ログインプロンプトまで出ました。


…って、えぇっ!?




ログインプロンプトが、公開サーバーではなく、実験サーバーのものでした。

慌てて終了。同じマシンが2台あってはいけない。


えーと、どうやら勘違いしてバックアップファイルを間違えたようです。


フォーマットからやり直し。

バックアップ大きいから結構時間がかかります。


でも、これでちゃんと起動できた。

データは1日前のものだけど、復旧できました。




今回の反省点。

バックアップがあっても、戻し方を書いておかないと忘れる。


震災の際に、2台あったサーバーを片側に寄せて、1台は停止する、という方法で省電力にしました。

省電力に協力を、と呼びかけられていたし、協力できるならしたかったから。


このときに、全く同じことをやっている。


だから、操作はちゃんとわかっていた、つもりだった。

でも、メモっておかなかったので忘れてた。


今回の経験は、詳細にメモってバックアップデータと一緒に保存しておきます…


#この日記に書いたことは、詳細でも何でもないので。

 詳細な話は細かな技術話なので、読んでも面白くもなんともない。



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12年 水星とプラネタリウム

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たくさん交換  2015-12-05 12:21:31  コンピュータ 歯車 住まい 家族

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さて、昨日消えてしまった日記を再度書き直そう。


でも、4つに分けて長々書いていたけど、それをもう一度書く気はしないのよ…

4つに分かれている、ということ自体がネタで、1日の日記に「壊れて修理」「長年使っていたけど交換」見たいのが並んでいるのが面白いな、と思っていたの。


でも、昨日概要書いてしまったので、面白い部分だけまとめて書く。




▼情報線まとめた


回線まとめた、というのは、先日から書いていた CATV 高いからやめる計画の仕上げ。


我が家は視聴難地域で、CATV に入っていないとテレビが見られない。

地域の共同アンテナもあったのだけど、地デジ化の際に CATV に接続され、CATV サービスの一つになった。


その後、CATV 会社の合併を繰り返し、共同アンテナが「新規契約なし」のサービスになった。


つまり、CATV を見るつもりがなくても、高いお金を払い続けないとテレビが見られない。

なんだ、この独占企業感。



でも、独占企業ではなく、ライバルがあるから大丈夫。

NTT にフレッツテレビを申し込んだ。光ファイバを引いている前提になるけど、CATV に比べて激安。

CATV では契約した1台以外では地デジしか見られないが、すべてのテレビで BS も見られるようなる。


これも紆余曲折あったのだけど、昨日工事だった。




まず、光回線工事。

今まで使っていた ONU (光と銅線を変換する装置)を外し、新たな「すごいルーター」に入れ替え。


すごいルーター、名前がわからないからすごいルーターと呼ぶしかないのだけど、ONU 内臓で、ルーターとしても使えて、電話線を取り出すこともできて、テレビ信号も取り出すことができる。


地デジとBSで秒間 0.7Gbps くらいのデータがある計算になるのだけど、これを 100M の光回線でも送れるらしい。

ただ、100M でこれをやると「インターネットは劇遅になる」そうで、回線交換を勧められた。


なので、作業の最初は 100M から 1G への回線交換。

お兄さんが家の外の電柱に上り、何やらやっていた。

その後センターに電話をかけ、こちらの末端に機械をつないで何か測定。完了となった。


この後、「すごいルーター」をつなぐ。


このルーター、設定しない限り、ルーターとして振る舞わず、電話とテレビ以外の信号をスルーする。

なので、今まで使っていたルーターをそのままつないだら、家の中のネット環境は復活した。



さて、すごいルーターに電話線をつなぎ変えたら、またセンターに電話。電話線から光回線に電話番号を移行してもらう。

作業が終わったら、携帯電話でうちの番号を入れ、電話が着信することを確認。これも完了。


これで、回線工事の人の作業は終了。

タイミングよくテレビ工事担当の人が来ていて、作業を引き継ぎ。




我が家は、家の外壁まで CATV の線が来ていて、家の壁の中に最初から埋め込んである配線も、外壁に出ている。

そこでテレビの線は接続されている形。


家の中の配線は、屋根裏で4分配され、家中に送られている。

ここにはコンセントも用意されていて、電波が弱いときはブースターをつけられる。


CATV では、ブースターを入れていた。


さて、問題はすごいルーターから出ているテレビの信号を、どうやって屋根裏に持って行くかだ。

信号を減衰させないためには最短距離を通るのがよく、理想的には天井に小さな穴を開けたいらしいのだが、屋根裏に入って作業するようなスペースは確保できないため、断念。


たった今使わなくなった電話線が通っている配管がある。

電話線は残してあるのだけど、この配管を通してテレビ線を外に出す。


都合のよいことに、電話線が外に出たところは、先に書いた外壁でテレビ信号をつないでいるところのすぐ近くだ。

これで、家の中のテレビに信号が送れる。


接続が終わったら、家じゅうのテレビ配線の信号強度をチェック。

十分な強度だったので、ブースターなどは不要、となった。


#CATV 用ブースターは周波数などが違うため使わない。




工事全体で2時間弱。

終わった後で CATV 会社に解約の電話を入れる。


当たり前のことだけど、解約したいと申し出ると、引き留めにかかられた。

値段などの問題であれば安い料金プランなどご案内しますよ…と。


「すでに次の契約決めて、今工事が終わりました」と伝えたら、それで終了。

撤収工事があるので、後日工事日などの相談があるそうだ。



▼ドコモやめた


最初に持った携帯電話は、IDO だった。

当時は、携帯電話って高価なもの。「普通の」固定電話より通話料もずっと高かった。


でも、妻と遠距離恋愛中に、固定電話で遠距離通話するより、携帯電話のほうが安いと知る。

固定電話は距離課金だけど、携帯電話は均一料金だからね。


特に、当時の IDO は2回線契約するとその間の通話が半額、というサービスをやっていた。

これが本当に安かった。IDO がなかったら遠距離恋愛なんてできなかった、と思う。


#まだパソコンで電話するなんて考えられない時代ね。

 CU-SeeMe はあったけど、ダイヤルアップで 33.6Kbps では使い物にならなかった。



16年前に独立してフリーのプログラマーをはじめ、その年のうちに i-mode サービスが始まる。

携帯電話がまだまだ高価な時代、そこに付加価値を付けても、誰も注目していなかった。


仕事で i-mode のサイト構築を頼まれたけど、まだまだこれが流行するとは思えなかった。


でも、仕事でやるなら知っておいたほうがよさそうだ。発売同日に P501i を購入。

妻と2つ。IDO より少し通話が高くなるけど、大きくは変わらなかった、かな。


で、その時以来ずっとドコモを使ってきた。

継続して使っているので割引されていて、月々の料金は千円いかなかった。




それが、スマホ時代になって変わった。

高いとわかっているからスマホなんていらなかったのだけど、FOMA 端末が壊れて仕方なく移行。


最初は、スマホ向けに必要な「パケ放題」料金は端末割賦払いの料金で相殺された。

でも、割賦が終わると、もう割高に感じるだけ。


先日、ずっとスマホはいらない、と言っていた妻が、やっぱ自分で持っていたほうが便利そうだ、と言い始めたので、二人で安い会社に乗り換えることに。


非常に低速な格安 SIM をしばらく使っていたので参考になるデータはある。

ほとんど家にいるので、1か月の通信量は 1G 行かない。


250Kbps の低速でも、メールやカーナビ、音楽ストリームなどの、大体の要件はこなせる。

でも、WEB を見るときにはちょっと遅く感じる。動画なんて見てない、ただの WEB でも、だ。


というわけで、1G 程度の高速通信が使えて、通話もできる SIM に MNP で乗り換えることにする。

ドコモの回線自体は信頼しているので、ドコモ系 MVNO 会社で。



MVNO は、大手の回線を借りているから品質は一緒…と言われがちだけど、そんなことはない。

回線は借りるが、交換機は業者が用意する。


とはいえ、この交換機だって、大手が作っているものを買うだけ、という例もあるのだけど。


僕としては、IIJ 系の交換機に信頼を置いている。

先に書いた 250Kbps の低速 SIM を契約した時、IIJ も MVNO を始めた直後だった。


IIJ いいなぁ、と思ったけど、高かった。それが、今は IIJ 系の会社、という形で安くなっている。




ドコモの2年縛りの更新タイミングが 12月だった。

12月に解約すれば、違約金は発生しない。


ちょうど12月頭が妻の誕生日だったこともあり、SIM フリー端末を購入。

いや、妻へのプレゼントではなく、僕も買ったんですけど。


12月3日にドコモへ行き、解約を告げる。


まぁ、想像はしていたけど引き留められる。

他社にお乗り換えでしたら、料金など教えていただければ、弊社のそれに見合うプランをお探ししますよ…と。


2人でおいくらになりますか? というから、3000円と答えると、一瞬目が泳ぐ。

すぐに、気づいたように「あぁ、一人3000円ですか?」と聞かれたので、二人で3000円、と答える。


で、「お探ししますよ」の言葉はそのままうやむやとなり、粛々と解約手続きが進められた。




しかし、僕も詰めが甘かった。


2回線の契約は、両方僕名義だった。

正確にいえば、契約者名義が僕で、使用者名義が僕と妻。


ちょっと昔話をしよう。


今から10年くらい前の、携帯電話の普及機に、携帯電話は犯罪者に利用された。

偽名で契約して、そのまま料金を支払わない。それでもしばらくは使える。切断されたら捨てる。


これで、逆探知できない連絡手段を手に入れられる。


総務省は各社に指導し、一人1回線だけの契約しか認められないことになった。


でも、今度はこれで困った会社がたくさん出た。

法人で1契約、というわけにはいかない。法人は特別枠で、料金が高い代わりに複数契約できるようになった。


そうしたら、中小企業の社長さんとかが、個人名義で借りて社員に使わせようとし始めたが、1契約の壁があった。


…と、ここまで来て「契約者と使用者が違う」という玉虫色の契約方法が発明された。

契約者も使用者もちゃんと本人確認することを前提に、使用者が違うなら複数契約が認められた。



さて、現代に戻る。

この論理は大手では通用しているけど、MVNO 業者には認められていないようだ。

MVNO 業者では、一人1回線契約しかできない。


そして、MNP で電話番号を移行する際は、転出元と転出先で、同じ名前で契約しなくてはならない。

僕名義の2つの電話番号を、同じ業者で契約できない、ということになった。



ドコモ・IIJ 系の DMM mobile を使うつもりだったのだけど、慌ててドコモ系の別会社を探す。

IIJ 系ではないが、Biglobe が 1G からの安い契約プランがあったので、妻の名義はこちらで契約。




今朝、Biglobe の SIM が届いた。

ドコモの SIM なのね。「ドコモ」と明記してある。


ドコモ系だから不思議はないけど、全く同じものだとは思ってなかった。

ドコモから転出し、新たな電話番号がドコモの SIM で使えるようになる、という不思議な感覚。


届いたよー、とBiglobe に電話すると、ドコモの解約を行い、Biglobe の契約に切り替える作業をやってくれる。


2時間ほどお待ちください、とのことだったけど、現時点ではまだ切り替わっていない。



▼マウス


ボタンが壊れて、勝手にダブルクリックしたり、ドラッグ中に落としたりするようになったので買い換えた。

前のマウスは使用面が汚れてくると、マウスカーソルが思うように動かないことがあったけど、そのようなこともないようだ。


当たり前の道具が当たり前に使える、という快適さ。ありがたい。



Amazon で購入したのだけど、千円以下。

マウスは高かろうが安かろうが、激しく使っているとボタンがダメになる。安いのを買い換えるのが良い、と思う。


#高級品は部品もいいから壊れにくいのだけど。


もっとも、千円以下といっても、本来3千円の品。

発売からずいぶん経っているのと、人気のない色だったのが安さの理由。


#人気色なら、まだ2千円近くする。購入したのはピンク色。



発売時は、まだ Win7 の時代だったようで、パッケージには Win7 まで対応していると明記してある。

そして、Win8 対応、というシールが張られ、さらに小さな Win8.1 対応シールも張られている。


使うのは Win10 だけどな。



▼自転車のシフト


風で倒れて壊れた。

不便なので Amazon ですぐ同じ部品を見つけて購入。

(上のマウスと一緒に買った)


お急ぎ便ではなかったけど翌朝には届き、自分で交換してみた。

ハンドルグリップを切って外さないといけない、というのは予想外だったが、難しくはなかった。


ハンドルグリップ、切れ込みが入ったものを再装着してある。

後日新しいものを探そう。





というような感じで、昨日のサーバー故障も含め、ここしばらくどんどん家のものが交換されています。


サーバーは現在仮想化によって運用しているけど、近日中に新マシンを購入予定。

ただいま選定中。




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2つの格安SIM  2015-12-07 12:27:02  コンピュータ 歯車 家族

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妻と一緒に携帯電話を乗り換えました。


今までドコモで、FOMA & Android。

Android 端末も、ほとんど通信せずに一番安い料金プランを使っていましたので、一般的に見て携帯に使っている料金は安かったと思います。



でも、最近はSIMフリーの流れとMVNO業者(詳細後述)の台頭で、普通に通信してももっと安くできるようになってきた。

じゃぁ、乗り換えてみよう。




詳細は先に書いたのですが、僕名義で2回線持っていたのを、MNP(電話番号を維持したままの乗り換え)でMVNOに乗り換えようとしたら、「1人1回線契約しかできない」という罠に引っかかりました。


罠に引っかかってから気づいたけど、これ当然なのね。

もともと、大手でも1人1回線しか契約できない、というのが国としてのルール。

大手は、法的なテクニックを駆使してこの網を潜り抜けているだけ。


こちらも詳細は上のリンクを読んで。


で、仕方がないから2つの業者に契約しました。

DMM Mobile と、Biglobe 。どちらも、別の理由でそれぞれ人気のある大手 MVNO 会社です。




ここで、MVNO について説明しておきましょう。


携帯電話は、事実上大手三社(ドコモ、au、ソフトバンク)だけがサービスを展開しています。

3社しかない、というのは寡占状態。総務省は、もっと会社を増やして競争させたいと考えています。


そこで、MVNO という枠組みが作られました。

大手の「回線」の利用権をまとめて買い上げ、それをユーザーにリセールする業者のことです。


まとめ買いすることで安くしてもらって、大手よりも安い金額で売ることで勝負する。

ただし、安くするために省けるものは省きます。サービスなど悪くなる。


大手は「回線」を貸してくれますが、交換機に当たる部分(携帯電話からインターネットに接続するサーバ)は自分で用意する必要があります。


そこで、大手から MVNO で借りた回線に、交換機などのサービス部分もつけて、さらにリセールする業者が現れます。


MVNE 業者、と呼ばれます。MVNE からサービス自体の提供を受けて、事務手続きや会員管理だけを行う MVNO 業者、というものも存在します。



ドコモが「製造元」だとすれば、MVNE が問屋、MVNO が小売店で、我々の元に届く…という感じでしょうか。



DMM Mobile は純粋に MVNO 会社で、MVNE が IIJ、ドコモの回線を利用しています。

Biglobe は MVNE もやっている会社で、やはりドコモの回線を利用しています。


IIJ は技術的に優れているのですが、やっていることが「通好み」というか、一般的にわかりにくいところがあります。

でも、理解して使えば非常に優れている。DMM は、IIJ 系の中で…というか、現状 MVNO 業者の中で一番安いプランを持っています。


それに対して、Biglobe はバランスが取れています。IIJ ほど技術的な優位点はありませんが、ややこしいことを考えずに使えるように工夫されている。

値段は DMM より高いのですが、比較的安いプランをもっています。

そして、MVNE 会社ですから非常に安定性があります。



先に、DMM と Biglobe はそれぞれ人気がある、と書いたのはそのためです。




さて、DMM と Biglobe に同日に申し込みました。

より正確にいえば、DMM を 30分くらい先に申し込んでいます。


ちなみに、ネットだけで完全に申し込みができます。本人確認書類も、デジカメや携帯で免許書などを撮影して送ればいいだけ。


Biglobe もほぼ同じ流れで申し込みができるのですが、最初に「本人確認書類が必要」と言われるのに、最後まで提出するところがありません。


申し込むと同時に Biglobe 会員になっていて、メールアドレスも新規に発行されるのだけど、このメールアドレス宛に Welcome メールが来ています。

そして、このメールを読まないと、次にやるべきことがわからない。

今発行されたばかりのメールアドレスなんて見てませんがな。


まぁ、このメールを見ると「契約者情報のページがあるので、確認しておこう」ということと「いつも使っているメールアドレスを、連絡先アドレスに登録しよう」ということがわかる。


契約者情報ページを見に行くと「本人確認書類が未提出だ」というアラートが出ていて、そのリンク先から提出ができます。

提出しないと事務手続きが始まらないので気を付けましょう。


ちなみに、メールアドレスも登録しておいたら、しばらくして「申込受付メール」が届き、その中で本人確認書類の提出方法が書かれていました。


Biglobe のメールアドレスに届いたメールを読まないといけない、もしくは発行された ID で契約者情報ページを見ないといけない、ということに気づかないと、いつまでたっても申し込みが終了しない仕組み。

すごい落とし穴だ…


#すでに Biglobe 会員の人が申し込む、という前提で考えられているように思います。




先に動きがあったのは、Biglobe 。

申し込んだのは 12月 3日の午後3時ごろなのですが、5日の午前中に SIM が郵便で届きました。


開封すると、堂々と「ドコモUIM」と書いた、2つ折りの台紙が入っています。

台紙には「ドコモ UIM」と書いたプラスチックのカードがつけられています。


UIM は、ドコモでの SIM の呼び方です。

UIM は User Identity Module で、U は「利用者」。

SIM は Subscriber Identity Module で、S は「契約者」。


ドコモの回線を利用するために、回線を使う「鍵」となる SIM は、ドコモのものなのですね。



一緒に使い方の説明の紙が入っていて、これは Biglobe によるもの。

詳細省くけど、「お急ぎの方は Biglobeに電話」と、フリーダイヤルの番号が書いてあります。


で、電話して切り替えを頼むと、2時間ほどでドコモが解約され、同時に Biglobe が使えるようになります。

ドコモの解約は、今まで使っていた電話が「圏外」になることでわかる。


圏外になった時から、Biglobe で電話が使えるようになるので、「電話が使えなくなる期間」がありません。




次に DMM。

12月 5日の午後3時ごろにはドコモの電話が使えていたのですが、夕方6時くらいには圏外になりました。

DMM 側で、処理が終わったことを意味します。


配送手続きが終わったらメールで連絡が来る、と書いてあったのだけど、この時点でメールが来ていない。

電話使えない状態になったけど、配送大丈夫かな?


#その後、8時ごろにメール届きました。



SIM 自体が郵送で届いたのは翌日 6日の、朝10時ごろ。


開封すると、SIM の台紙は DMM のものでした。付属のプラスチックカードは Biglobe と同じドコモのものだったのですが、裏返しに取り付けられていて、ドコモだと一目ではわからないようになっています。


これを入れればすぐに DMM で電話が使えるようになります。

逆にいえば、半日ほど電話が使えない期間があるわけです。




ドコモ SIM であることを隠そうとするかどうか、考え方が異なっているんだな、と思って、改めて両社の WEB ページをよく見てみます。


Biglobe SIM のトップページでは「ドコモと互換性が高いから安心」であることを前面に押し出していました。


ドコモの携帯端末なら、SIM フリーでなくてもそのまま使える。

ドコモの回線なので、カバーエリアもドコモと一緒、など。



対して DMM のページでは、「ドコモ回線を利用している」ことを極力隠しているようです。

あくまでも、DMM オリジナルの電話サービスという位置づけ。


トップページから「DMM Mobileについて」のページに行き、その中から「サービスエリア」のページに行くと、ドコモ回線を利用している、という説明があります。

それ以外では、ドコモ回線の説明はなし。



どちらが良い、悪いではなく、会社の考え方の違いが出ていて面白い。




さて、実際の使用感。

といっても、Biglobe のほうは妻のスマホに入れているので、僕はちょっと使わせてもらった程度。


まぁ、同じ回線だから同じ速度だよー、というのが事実。

交換機の性能もあるのだけど、ちょっと使った程度ではどちらも問題があるとは思わない。



うちでは二人ともほとんど外出しないので、二人とも音声通話付き 1G のプランを契約しています。

「高速通信付き」では、一番通信容量が少なく、安いプランです。

DMM が 1,260円で、Biglobe は 1,400円。


Biglobe は初月無料で、もちろん 1G 使えます。

DMM は初月は日割り計算になり、使用できるデータ量も日割りです。(830M でした)


使えなかった分は、1か月分に限り翌月に繰り越し。これは両社とも同じ。

使い切った場合、200Kbps の低速通信になります。これも同じ。



両社とも、音声通話は完全にドコモ任せなので、料金など同じです。

後で書きますが、この料金を半額にする仕組みを提供しているのも同じ。


SMS も「音声通話」に少しだけ文字データを載せる、という通信方法なので、こちらの料金も同じ。

月額料金が安いから、ドコモみたいな「無料通話分」なんてないよ。




以下、DMM というか、IIJ 系だけの機能。


まず、低速通信時も、「1回の通信で 75Kbyte までは速度制限しない」ようになっています。

バースト転送、と呼ばれています。


WEB を見たりメールしたりするときには、速度制限は事実上ありません。

動画を見たり、アプリをインストールしたり、という大きなデータのダウンロード時には制限されることになります。



この「低速通信」は、利用できる転送容量を使い切った時だけではなく、アプリを使うことで、任意に切り替えができます。


カーナビを使いながら音楽をストリーム配信して聞く、という程度の利用用途だと、低速で十分です。

実測してみても、50~100Kbps 程度しか使ってませんでしたから。


#Yahoo! カーナビと、Google Play のストリーム配信を「中品質」で使用。


こんな用途なら、低速通信に回線を切り替えて置けば、転送容量を温存できます。


…もともと、過去の実績から言えば、僕は 1か月 1G も使わないのだけどね。




Biglobe だけの機能も紹介しないとフェアではないですね。

うちは使わないのだけど、電話をかける人が多い人は、Biglobe は「通話パック」があります。


月650円払うと、1時間分の通話の権利が付いてくる。

1分10円程度、と思えば、携帯の通話料としては安い方かと思います。



何の工夫もしないと、Biglobe も DMM も通話は 30秒20円です。

両社とも、これを半額の 30秒10円にするアプリは提供しています。


Biglobe の通話パックなら、これをさらに安くできるわけです。



もっとも、携帯大手3社は「通話し放題」プランも提供しています。

どうするのが一番得かは、本人の使い方次第でもあるので、自分で考える必要があります。



我が家は電話ほとんどしないから、30秒10円にするアプリを入れる、というので十分。


#家族観通話は Hangouts 使います。



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2つのSIMフリー スマートフォン  2015-12-07 16:24:02  コンピュータ 歯車 家族

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2つのSIMフリー スマートフォン

さて、SIM フリースマホも2つ買いました。


…っと、いきなり脱線。

「スマホ買った」って子供の前で言ったら、長男から「スマートフォンだから、スマフォじゃないの?」と質問がありました。


これ、以前にも Twitter で同じこと書いている人見たな。

同じ疑問持っている人っているのかな。


英語の「phone」は、日本語では「ホン」と表記されるのが普通でした。

プッシュホン、インターホン、ヘッドホン、イヤホン、などなど。


「アイホン」というのは日本では一部で有名な会社名で、アップルは iPhone の日本発売に際して「アイホン」とは呼べませんでした。

そこで、協議の結果「アイフォーン」なら良い、ということになります。「アイフォン」って言っちゃだめね。


これ以前からも「スマートホン」という言葉はあったのだけど一般的ではありません。

表記も「スマートホン」「スマートフォン」の両方とも使われていました。


その後、「アイフォーン」の上陸によって、「スマートフォン」という言葉が一般に広まり、用語が統一されます。


でも、基本的に日本語では「ホン」です。

スマートフォンを略して「スマホ」になるのも、「ホン」だから。




すでに書いた通り、僕も妻も、それほど外出しません。

スマホはあったほうが便利だけど、特に高機能である必要はありません。


ただ、カメラとしては使いたい。

僕は QV-10 発売日に購入して持ち歩き始めてから、常に何らかのカメラは持ち歩いています。

何気ないスナップをとるだけなので、ヘビーユーザーでもないし、写りはそれほど気にしないのですが。


で、選定すると、やっぱり P8lite か Zenfone2 Laser か、という2択になる。

できるだけ安く、それなりに安定して使える、というと今ならこの2機種だよなぁ。


この2機種だと、スペック的には P8lite 。

でも、カメラ性能なら Zenfone2 Laser 。


僕としては Zenfone2 Laser だな…と見定めます。




妻の意向を聞きます。


家では Nexus7 も使っているし、僕が仕事で使っている Galaxy nexus も触ってはいます。

でも、自分のスマホ、というつもりでは使っていないので、あまり詳しくはありません。


妻は、一眼レフを愛用していて、カメラを使うならそっちになるから、カメラ性能は気にしないかな…と思っていたけど、1眼レフは重いので気楽に使えるカメラがあるならありがたい、という話になります。


何よりも、家で使っている Nexus7 は ASUS 製。Zenfone2 Laser も ASUS なので、使い慣れているかもしれません。


#後で書くけど、UI 的には全然違いました。



じゃぁ、二人で Zenfone2 Laser で色違いにするかな…と思ったら「それは面白くないよねぇ」とのお言葉。


あ、面白さを求めている。違うのにせよ、という妻からの許可だな。

じゃぁ、高いからやめよう、と思っていた別の機種を選ばさせてもらおう。


Honor 6 Plus 。P8lite と同じ会社 Huawei が作っています。


当然のことながら搭載しているソフトはほぼ同じで、Honor 6 Plus のほうが高級機種の扱い。

P8lite と Zenfone2 Laser は大体3万円で、Honor 6 Plus は5万円。


ただ、高級品だから P8lite より優れているか、というと、そうでもないのが微妙なところ。

P8lite は今年の8月の製品で、Honor 6 Plus は昨年12月の製品。


P8lite は日本市場を狙って投入してきた製品で、Honor 6 Plus は、日本では発売するつもりがなかったものを、要望があって急遽投入した製品。


一番違うのは、電話の対応周波数。Honor 6 Plus は、国内で使われている一部の周波数に対応していない。


…ただ、山間部などのごく一部地域で通話ができなくなるだけ。その場合でもデータ通信は可能。

気にする人は気にするけど、あまり問題があるようには思えない。


一応、ドコモの「対応エリア」地図で、自分の行動範囲…過去に家族旅行でいった山なども確認。

問題がなさそうだと思って、これに決定。


他に、Honor 6 Plus はカメラが 800万画素だけど、P8lite なら 1300万画素。

ただ、これは Honor 6 Plus の面白い特徴でもあって、後述します。




ASUS と Huawei は共に中国メーカー。

世界的にもこの2社のスマホは大きなシェアを持っていて、激しく競っています。


そのため、機能的にも「片方が搭載した機能は、もう片方もすぐに真似する」ような状態。

ただ、その実現方法は変わっていたり、細かな使い勝手の差があります。



Honor 6 Plus は、名前だけでも iPhone 6 Plus の真似だ、と言われていますが、名前や見た目だけの猿真似ではないです。

もっと、深いところまで真似しようとして、Android の中にまで、かなり手を加えている。

かなり気合の入ったもので、iPhone ユーザーが Android に乗り換えるのであれば、Huawei 製を買うと違和感がないだろう、というくらい作りこんでいます。


逆にいえば、Android の普通の作法に従っていない部分も多々あって、僕は戸惑いました。



Android では、ホーム画面を好きなものに交換できます。

OS バージョンによっても交換方法が違うのですが、最新版では設定画面の「ホーム」で選べるようになっています。


でも、Huawei のものは違います。設定画面の「アプリ」に入ってから「デフォルトアプリの設定」を選びます。


すると、ホームに限らず、いろいろな局面で「自動的に」使用されるアプリを設定する画面になる。

慣れていたものと違う、という理由で戸惑いましたが、どちらが理に適っているかといえば、Huawei のやり方です。


同じ意味を持つものを、1カ所にきれいにまとめてある。

Android 標準のやり方は、場当たり的でわかりにくいものです。




さて、このホーム画面も Huawei 製では、Android 特有の「ドロワー」が存在しません。

ダウンロードしたアプリがまず入るところ。特にホーム画面に置いていないアプリが入るところ。


Android では、ドロワーの中にごちゃごちゃに入っているアプリの中から、よく使うものだけをホームに配置する、という作法になっています。

iPhone では、ホームにすべてのアプリが置かれ、あまり使わないものはフォルダでまとめていく、という作法。


Huawei のホーム画面は、iPhone と同じ作法です。

ただ、使ってみたらそれほど悪くない。Android 特有の、ガジェットやショートカットもちゃんと置ける。



iPhone にあって、Android にないものの一つに「バッヂ表示」があります。

メールアプリアイコンの右肩に、未読の数が出ていたりするやつ。


Android では、作法的にこういう「通知」は通知領域に出すものです。アプリのアイコンに表示する、というような仕組みはない。


でも、Huawei は iPhone っぽくするために、ホーム画面に、このための機能を付け加えているようです。

ただし、そこの数字に「なにを」表示するかは、アプリ側の協力が必要。


そこで、主要なソフトを Huawei 独自に作りこんでいます。

ブラウザ、メール、カレンダー、電話、アラーム時計…などなど。標準のものも入っているのに、ご苦労なこと!


ただ、ちょっと使ってみた限りでは、やっぱり作り込みが甘い。

iPhone から乗り換えた人には、バッヂ表示が出る、というのはそれだけで使う価値があるかもしれませんが、僕は使い慣れたアプリを使います。




と、Huawei がどれほど気合を入れて iPhone の真似をしているか書きましたが、これに比べると ASUS は「普通の Android」として使えます。


でも、やっぱり同じようなことをしているのですね。普通の Android の上で、普通の標準 Gmail のアプリアイコンに、バッヂ表示を出してくれちゃいます。


いったいどうやっているのかわからない。謎技術。

ただ、やっぱりバッヂ表示は欲しい人が多いようで、ほかにも Android でバッヂ表示を実現するアプリとかありますね。


そういうアプリの技術を見て想像で書くだけですが、おそらくは、「通知領域」に表示されるアプリ通知を見て、必要な情報を抜き出して表示しているのではないかな。


Android では、通知領域に出た表示を、別のアプリから「見る」ことができます。

ただし、悪用すると困ることになるので、ユーザーがインストールした後、許可を与える必要があります。


同じような仕組みを、OS レベルで入れ込んでしまっているのではないかな、と想像。


ASUS も、Huawei に比べれば素の Android に近い、というだけで、かなり気合を入れて手を加えていました。




Zenfone 2 Laser は妻のものなので、それほど触っていません。

なので Honor 6 Plus の話を続けます。


僕は以前使っていた端末で、Llama を使って複雑怪奇なスクリプトをくみ上げていました。


夜中にはメールが来ても電話が来ても鳴動しない。

朝になったら音を出すけど、家の中では小さめの音で、家の外では雑踏内でも聞こえる大きな音で。


通信量を抑えるため、普段はデータ通信しないけど、メール通知が来た時だけ(先に書いた、通知領域を見て)、データ通信を開始してメールを取得する。


電池消費を抑えるために、家から離れたら完全に WiFi をオフにする。

近所に戻ってきたら、WiFi を探し始めて、見つかったら「家にいる」と判断する。


不要不急のアプリは、画面がオフになってしばらくたったら終了してしまい、メモリ開放する。


…などなど。

Llama を使うことで便利になりましたが、スクリプトは複雑怪奇でした。



Honor 6 Plus は、苦労して自分で実現していた機能のかなりの部分を、最初から持っています。

時間を設定して、鳴動するかどうかを選べます。

画面を消したら終了するアプリも設定できます。

モバイルと WiFi それぞれで、通信を許可するアプリを設定できます。

WiFi 電波が見つからなくなると WiFi をオフにしてしまい、以降は時々電波を調べます。



多分 Llama はまだまだ活躍できるのだけど、複雑怪奇にしていたかなりの部分が解放されます。

Zenfone 2 Laser は、こうした部分は「素の Android」に近くて、Honor 6 Plus 程の機能を持っていないみたい。


ちなみに、最初のほうに書いたけど、Honor 6 Plus と P8lite は、こうしたソフト部分は大体同じ。

高級機種だからいろんな機能が入っている、というわけではないです。




さて、Honor 6 Plus の特徴である、カメラについて。


先に 800万画素と書きましたが、その画素数のカメラは3台あります。


1台は内側、自撮り用。

あと2台が外側についていて、専用のカメラアプリによって、2台を駆使していろいろできます。


#Android 標準の「カメラ」アプリだと、1台だけ認識されるようで、800万画素のカメラとして扱われます。

 専用アプリ以外では 800万画素扱いではないかな。



この「いろいろ」が面白い。

まず、2台で撮った写真を合成して、1300万画素相当の1枚の写真として扱えます。


レンズが2つだから光を2倍集められる…という売り文句になっているのですが、それは違う感じ。

レンズが2つあって、撮像素子も2つです。それぞれの素子としては普通にしか光が集まりません。


暗がりに強いのは、あえて画素数を下げたことによるもの、だと思います。


1300万画素の撮像素子を使うと、1ピクセルの面積が小さくなってしまいます。

これは、光を集めにくい、ということになり、暗がりに弱くなります。


でも、800万画素にすることで暗がりに強くなっている。


10年前にもこんな話書いてたな



じゃぁ、2つのカメラは意味ないのかといえば、そんなこともないです。

暗いところでは、デジカメは「ノイズ」が生じやすくなります。撮像素子に入る光が少ないと、相対的に電気的なノイズの影響が強くなるのです。


これを、2つのカメラを同時に使うことで補正します。急に1ドットだけ周囲と色が違うとき、それがノイズなのか本当に何かがあったのか、判別する方法はありません。

でも、2台あれば比べることで判別できる。ノイズがあるなら、ノイズがない方からデータをもらって補正できます。


これによって、「明るくなっている」わけではないけど「暗がりに強くなっている」のです。



上の写真(この日記の冒頭にあるものと同じ)は、オリオン座を撮影したもの。

簡易三脚で固定し、シャッター開放で10秒ほど露光して撮影したものを、一部切り出して縮小しています。


星がぶれて見えるのは、手振れではなく、星が動いているから。

そもそも、この撮影モードの名前が「スタートラック」(星の軌跡)だからね。


この日は空全体がうす曇りで、その隙間にオリオン座が見えた形。

なので、全体に雲が白っぽく映っています。


でも、スマホで撮影した暗闇にしては、ノイズが少ないと思います。




HDR 撮影もできます。ハイ・ダイナミック・レンジ撮影。

普通の写真よりも、明るいところから暗いところまで、白とびや黒つぶれなく撮影する技術ですね。


普通、HDR 撮影では「違う設定で、2枚の連続写真を撮って、合成する」のですが、2台のカメラで同時にとれます。

なので、激しい動きのある被写体でも HDR 合成できます。


ただ、こちらも撮影時に「カメラを固定するように」と文字が出るんだよね。

2台同時ではなく、2台を駆使して通常より高速に連続撮影しているのではないか、と分析している人もいました。



2台のカメラの視差を利用して、疑似的に被写界深度を表現することもできます。

被写界深度っていうのは、「ピントの合う範囲」のこと。

プロの撮った写真で、見せたいところにだけピントが合っていて、それ以外はボケているような写真。


視差で距離がわかるので、狙った距離の部分だけピントを合わせ、それ以外を疑似的にぼかします。

ただ、「疑似的に」というのがミソで、ソフトで処理しているので実物のボケ方とは少し違う。


まぁ、遊びとしては非常に面白いです。

そして、何より面白いのは、「視差」を元に計算しているため、撮影後でもピントを合わせる部分や、ボケ方を変えられること。

この機能だけでしばらく遊べます。


ただ、問題が一つ。

撮った写真、どれもこれも非常にファイルサイズが大きいです。

カメラ性能をアピールしているので、JPEG の圧縮率をあまり上げていないみたい。


それともう一つ、被写界深度を演出するための写真は、JPEG ファイルの中に、2つのカメラで撮った元データを入れているようです。

そのため、後からいつでもピントを変えられる一方で、ファイルサイズが非常に大きい。6M くらいあります。



この画像ファイルは、Huawei 純正の「ギャラリー」で写真を見ている最中でも、ピントを変更できます。

でも、「ギャラリー」の機能と「Google フォト」の機能は、似ている部分もあれば違う部分もあるのね。


どちらをメインで使うか、悩ましいところです。


これ、2枚の画像を元に視差を出してボケさせる…というのであれば、PC でも動作するソフトないのかな、と思ったのですが、今のところ見つかっていません。

あれば面白いのにな。誰か作らないかな。とりあえず画像フォーマットの解析からか…




Zenfone2 Laser のほうのカメラですが、Honor 6 Plus のような派手さはないです。普通のカメラ。

外側は 1300万画素で、自撮り用は 500万画素。


ピント合わせは非常に早くて、普段使いには良さそう。


名前にもなってますが、Laser 測距しているのね。だから、近くではピント合わせが速い。

あまり遠いところでは、無限遠にしてしまうのでそれほど遅くない。


レーザーが届かないが、無限遠にするには近い微妙な距離ではピント合わせの時間も微妙になる、そうです。

でも、自分のものではないのでそこまで試してないです。



Honor 6 Plus も視差を利用して高速にピント合わせをする、とは謳っているのですが、現実にはピント合わせ速度は普通な感じ。

決して遅くはないのですが、特に速さを感じません。


…そういえば、画面オフの状態から目的の方向に構え、音量ボタン下をダブルクリックすると、いきなり撮影します。

大体、ダブルクリックから 1.2~1.5秒程度で撮影できるみたい。


このとき、画面に「1.2秒!」とか表示してくれます。

お前は早撃ちガンマンか。




Honor 6 Plus が2万円も高いのは、このカメラだけのせいではありません。

CPU だって P8lite や Zenfone 2 Laser より良いものを使っているし、センサー類なども多く搭載しています。


でも、それらを評価するようなことを、僕は普段しないのだね。

激しいゲームもやらないし、センサーを駆使するようなVRごっこもやらない。


…VRはちょっとやってみたいな、とは思ってます。Google の段ボールメガネね。

すぐにではないけど、気が向いたら何か入手します。



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新サーバー N3700  2015-12-14 13:58:50  コンピュータ

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新サーバー N3700

長い話なのに解決しないので、最初に話の概要をまとめておこう。


先日サーバーが壊れたので、N3700-ITX を購入した。

メモリは 8G 、ストレージは SSD 256G。


以前のサーバーより性能は上がったが、電力消費量は減る。


さて、この上で今まで使っていた環境と「全く同じもの」を動かしたかった。

でも、CentOS 5 は動かなかった。仕方ないので CentOS 7 を入れたら、想像以上に苦労した。


最終的に 7 は動いたのだけど、期待していたことができなかったために CentOS 6 を動かすことにした。


話としてはこれで終わり。


だけど、なにかの参考になるかもしれないので、苦労した部分を書いておこう、という次第。

興味ない人には全く面白くない話なので、読まないほうがいい。




余談だけど、UEFI(起動時の設定を行う、BIOSに相当するもの)がGUIっぽいマシン初めて触った。

マウスでも設定ができるし、日本語に表示を切り替えることもできる。

(冒頭の写真)


「変更がそして退出することを保存します」(save changes and exit)っていい翻訳だな。

なかなかネイティブには思いつかない。




まず、N3700 上での CentOS 5 について。


以前のマシンの HDD を繋げて、CentOS 5 を起動してみた。


#以前のマシンの故障個所は電源で、マザボも HDD も問題ないと確認済み。


X Window を起動しようとするところでエラーを出し、操作不能になってしまう。

N3700 には CPU 内臓グラフィックチップがあり、以前のものと同じ設定では動かないようだ。


起動時にオプションを与え、テキストモードで起動すると暴走しない。

でも、なぜかキーボードが利かない。マウスも…光学マウスだけど、LED が点灯していない。


USB コントローラーも新しくなっているため、認識しないようだ。


試しに、CentOS 5 を新規インストールしようとしてみても、インストーラーが USB を認識しない。

ネットで調べても、CentOS 5 だと USB 3 を認識できない、という話題が多数見つかる。


ここで CentOS 5 には見切りをつける。




要件として、仮想化に Xen を使える必要がある。

仮想化して多数のマシンを使いたい、のではなく、ハードウェアの不調時に、環境をそのまま別のマシンに移行したいためだ。


家にはもう一台、Atom D525 で構築されたサーバーがあるのだが、D525 は IntelVT 命令セットをもっていない。

CentOS 6 以降は、仮想化環境に KVM を採用している。しかし、KVM は VT がなくては動かない。


とはいえ、CentOS 5 は動かないと判明しているので、情報収集。

…なるほど、CentOS 7 でも、後でインストールすれば Xen が使えるようだ。


というわけで、 CentOS 7 を入れてみることにする。


基本的には、インストールディスクの内容を CD か DVD に焼いて起動すればいい。

でも、現在家には使える DVD ドライブがない。


先日、古いノートパソコンの再生で、USB メモリ起動からのインストールを行った。

この手で行こう。



UNetBootin に CentOS 7 のネットワークインストールイメージを入れる。

…が、起動中にエラーとなる。


イメージが壊れていたかな? と、今度は DVD インストールイメージを入れてみる。

こちらもダメ。


えーと、どうやら UNetBootin はインストールイメージを「解凍」して、ファイル単位で USB メモリに書き込み、DVD のふりをして起動するようだ。

起動してしまえば、ファイルはそこにあるのでアクセスできる。


でも、UNetBootin は CentOS 6 の時代に作られたものが最新版。

CentOS 7 では、インストーラーが一新され、ファイル構成が全然違うものになっている。


このために、インストールイメージを「解凍」したといっても、必要ファイルが USB メモリに書き込まれないようだ。

それで起動に失敗する。


別のソフトを探す。LiveUSB Creator。


DVD インストールイメージを入れてみると、起動はする。

しかし、インストールソースを選択するところでエラーになる。こちらもやはり、必要ファイルが USB メモリに書き込まれないようだ。


仕方がないからネットワークインストールしようとしてもダメ。

DVD インストールからのネットワークインストール、というのがダメだった模様で、最初からネットワークインストールを書き込んで成功した、という人もいる。



でも、僕はここで「そもそも、ディスクイメージをそのまま USB に入れたらだめなのか?」と思ってしまった。

dd で iso ファイルを USB に書き込んでみた。


#dd は UNIX 用の Disk Dump ツール。

 セクタ内容をそのままファイルに書き出したり、逆にファイルをセクタに戻したりできる。


これは、起動しないだけでなく、Windows でも認識しない USB となった。

やばい、壊してしまったようだ。




唐突に、壊した USB の治し方。

これも、ネットで情報探したら、同じようなことをやって壊した人がいる。

でも、修理方法がわからないまま諦めた、という記事が多い。


試しに Linux マシンに突っ込んでみた。

ちゃんと認識するし、マウントするとファイルも見える。


fdisk でパーテション情報を見てみた。

なんと、大きなパーテションの「中に」小さなパーテションが入っている、という、入れ子構造になっていた。

そんなのありえない。Windows が認識できないわけだ。


パーテションを削除して、作り直す。

ところが、「GPT 形式だと思うけど、fdisk では認識できないから GNU parted つかって」というエラーが出る。


GPT ってなんだ?


恥ずかしながら知らなかったが、2T を超えるようなディスクでは、従来の形式では容量が大きすぎて管理できなくなる。

その際に使われるのが GPT 形式だそうだ。


今回は 8G の USB メモリだし、USB メモリの可搬性を考えると従来の形式(MBR形式)のほうが良いらしい。



GPT 形式と認識されてしまうけど、これを戻すには…


GNU parted の mklabel で、USB メモリに msdos とラベルを付けるだけだった。

これで MBR 形式と認識される。


最後に、パーテションを1つだけ作る。これがないと、メモリデバイスとして認識できない。

出来上がったら、Windows に差し込むだけ。


「未フォーマットの USB ドライブ」として認識されるので、フォーマットする。

フォーマットの際は、FAT32 の、4096byte/block で。




土曜日の朝にマシンの組み立てから初めて、USB メモリを壊した時点で深夜。

修理は翌日の朝。


さて、振出しに戻った。CentOS 7 をインストールしようじゃないか。



Rufus という、また別のツールで USB イメージを作ってみる。


このツールは現在積極的にメンテナンスされているようで、CentOS 7 の形式に対応していた。

そのうえ、ツール自体が驚くほど小さい。


パーテションの切り直しから行ってくれるので、もしかしたら壊れた USB メモリでもそのまま使えたかもしれない。

もっとも、認識してドライブレターが付かないと、書き込み先として利用できないかもしれない。


今度はネットワークインストールを使った。



インストール時に、パーテション構成を聞かれる。

なにも指定しないとお勧めの設定にしてくれるけど…仮想化に使いたいため、ストレージをパーテションで細かく区切りたい。


以前のマシンと同じように区切るが、これがまた失敗の元だった。


CentOS 5 の以前のマシンは、/boot が 100M 。これで足りていた。

しかし、CentOS 7 は起動シーケンスも変わったようで、/boot が 100M では、起動に必要なファイルが収まりきらないようだ。


インストール後、起動したらエラーが出た。

原因がわからないのでインストールディスクを「レスキューモード」で起動し、インストールしたディスクを見てみたら、容量を使い切っていたので「パーテションサイズがダメだった」と理解。



再度パーテションを切り直してインストール。

起動したらエラーが出た。


今度は先ほどとは違う箇所。明らかに、X Window の起動に失敗している。


リセットして、テキストモードで起動。


やっと起動できた。X に関しては、後で設定しよう。




ここまでで、日曜日の夕方近くなっている。

さて、ここから Xen を入れる。


CentOS 7 用の Xen インストール方法を書いたページを参考に…


レポジトリ追加して、yum 一発でインストールできる、となっているのだけど、レポジトリ追加の際にエラーとなる。


えーと、調べてみると、レポジトリを設定するためのファイル URL が Not found 。


よく見ると、コメント欄にも「ファイル壊れてるよ」と質問している人がいた。

CentOS の野良レポジトリで、Xen の「実験」版の扱いなので、ファイル内容など変動するのは勘弁、とのことだった。


Xen を深く理解していれば…最悪の話、カーネルビルドから始めれば解決できるかもしれない。

しかし、そこまで深い知識は持ち合わせていないし、目的はそこではない。


CentOS 7 に Xen を入れた、という記事はほかにもあったのだけど、もっと面倒な方法ばかり。

ここにきて、CentOS 7 を諦めることにする。




今度は CentOS 6 を試す。

少し古いバージョンになるが、まだサポート期間中だ。


#CentOS 5 だってサポート期間中。


先に書いたが、標準仮想化ソフトは KVM 。でも、Xen もインストール可能、とわかっている。


CentOS 6 は RedHat Enterprise Linux 6 のクローンだ。全く同じもの。

しかし、RHEL は Xen をサポートしないが、CentOS 6 は「オプションとして」公式サポートしている。


標準の OS インストールを行い、公式ページを見ながら Xen のインストールを行う。


ここまでで、すでに日曜日の深夜。


Xen のレポジトリはすごく重く、ファイルダウンロードに時間がかかっている。

ここで耐えられず、就寝。Xen インストールはマシンに勝手に続けてもらう。




月曜日…今日だ。

Xen はインストールできていたようなので、その他もろもろの設定。


LVM 上に仮想マシン用のボリュームを用意して、その内部をパーテションで切って…

ここら辺は個人の環境の話で、他人と共有できるノウハウなどではなくなってくるので割愛。


CentOS 6 も、X window はまだ動いていない。

CPU 内蔵のグラフィックチップをうまく認識しない、とわかったので、最初から入れてないの。


仮想化サーバーを動かすための土台だから、別にこれでいいんだけどね。



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CentOS5+Xen3 から CentOS6+Xen4 への引っ越し  2015-12-18 15:41:27  コンピュータ

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先日の続き


サーバーが壊れたのがもう2週間近く前。


元々仮想マシンを使って故障に耐えられるようにしていたので、とりあえず急場はしのいだ。


でも、新しいマシンを買っておかないと、次の故障に耐えられない。

マシンを選定して、組み始めたのがちょうど1週間前。

悪戦苦闘して、やっと Xen のインストールまで進んだ、と書いたのが4日前。



4日開いたのは、その後予想外の困難にぶつかり、悪戦苦闘していたから。

原因は2つあって、CentOS5 + Xen3 と CentOS6 + Xen4 では、環境設定方法が違っている、というのが1つ。


もう1つは、非常に恥ずかしいケアレスミスだったのだけど、ケアレスミスであるがゆえに原因になかなか気づかず、解決に3日かかってしまった。


#うち1日は仕事の都合でほとんど何もしていないのだけど。



結果として、「土台」となる物理マシンは設定が異なるが、実際に重要である仮想マシンは全くそのままの設定で引っ越しができた。




まず、環境設定方法が違っている、という話を書こう。


Xen は、仮想化ソフトの革命だった。


何がどう革命だったかの説明を書こうとしたのだけど、100行以上かかってしまうので割愛することにした。

興味ある人は自分で調べて。


少しだけ書いておけば、Xen 以前のソフトは、正しく PC をエミュレートしたけど、Xen はそうしない。

正しいエミュレートは非常に重い処理で、わざわざそんな重い処理をしないでも良い、という方法を示したのが Xen の功績の一つだ。


もう一つ、Xen は「正しいエミュレート」をする際に、CPU がどんな機能を持っていれば重くならないで済むかを示した。

これにより、Intel も AMD も仮想化支援技術を実装した。


その結果、Xen はライバルをたくさん生み出すことになった。

KVM をはじめとする多くのソフトは、Xen が「仮想化支援技術」を示したことにより生み出されたものだ。




Xen は PC をエミュレートする技術だけど、PC が単体で置いてあっても、現代ではあまり意味をなさない。

ネットワークにつながなくちゃ。


ここからやっと CentOS5 + Xen3 と CentOS6 + Xen4 の環境の違いの話になる。


CentOS6 + Xen4 をインストールしたら、まず現在動いている仮想サーバーが、新しい環境でそのまま動くか試そうとした。

まず、設定ファイルとディスクイメージを持ってくる。


そして、設定ファイルの「ディスク」などの位置を書き換え。

ディスクの中にある、IP アドレスも書き換え。同じ IP アドレスのマシンを2台起動したらおかしくなるからね。


満を持して、起動!

…xenbr0 がない、と言われる。

これ、仮想的な「ハブ」だ。新しいマシンは xenbr0 に仮想的に接続され、通信可能となる。


設定ファイルを書き換え、通信しないようにすると、xenbr0 がなくても起動できる。

でも、当然通信できない。意味がない。



xenbr0 は、Xen 環境が起動するとき(仮想環境の起動ではなく、実マシンの起動時)に用意されるようだ。

その裏で何をやっているかなどを書いたページが、世の中にはたくさんある。


それらを参考に手動で準備しようとしてもエラーになり、準備できない。

それらを参考に設定ファイルなどを書き換えてもうまくいかない。


何度も試行錯誤し、情報を探しているうちに、CentOS6 + Xen4 では、従来の方法で xenbr0 が用意できない、ということを論理的に書いてあるページを発見。

その人も困って調べたことを書いているのだけど、そのページには「解決策」までは示されていなかった。



そもそも、調査しても多くのページは、CentOS5 + Xen3 環境のことを書いている。

CentOS は RedHat Enterprise Linux (RHEL) というパッケージの「クローン」なのだけど、RHEL 6 では Xen をサポートしないからだ。


CentOS 6 は、クローンなので RHEL 6 と同じパッケージ。標準では Xen は入れられない。

でも、公式サポートしていて、すごく簡単な手順で入れられる。


とはいえ、標準では入らないので「使えない」と考える人、使えたとしても将来性がないと考える人が多く、CentOS6 + Xen4 について書かれたページはわずかしかない。


また、後で書くけど、入るのはソフトウェアのみで、環境設定は自分でやらなくてはならない。


#現実に、CentOS 7 ではまだ Xen がサポートできていない。サポートのための準備は1年以上続けているようだけど。

 前回の日記に書いたけど、一度 CentOS 7 を入れてみたうえで、Xen が入らないので CentOS 6 に入れ直した。




CentOS5 + Xen3 の頃は、ネットワーク環境を整えるのが大変だった。

色々と工夫して、仮想的なハブを用意し、仮想的なネットワークカードにつないで動いていた。



具体的にいえば、実マシンのイーサネットポート 0 番 (eth0)は、Xen の起動時に peth0 と名前を変えられる。

(p は Physical …物理的な、という意味)


そして、新たに仮想的な eth0 が用意される。OS から見ると、とにかく通信したいときは eth0 を使えばよいので混乱はない。


eth0 と peth0 の間には、仮想的なハブ(ブリッジ)である、xenbr0 が用意される。


ここまでが「Xen 環境の起動時」に行われる作業だ。


続いて、仮想マシンを起動すると、仮想的なネットワークインターフェイスが作られる。

いわゆる、ネットワークカード、イーサネットポートだな。

Virtial InterFace なので vif と呼ばれる。


そして、vif と xenbr0 が接続される。

現実ならイーサネットケーブルなどで接続するのだけど、仮想環境には仮想ケーブルは存在せず、ただ論理的に接続される。


仮想環境で OS が起動すると、vif を見つけて、eth0 と名前を付ける。

これは、仮想環境の eth0 ね。実マシンの eth0 、peth0 とは違うもの。


ややこしいので確認し直すと、実マシンは仮想的なハブを用意して、実マシンのネットをハブにつなぎかえる。

仮想マシンを起動すると、仮想ハブに接続される。


ともかく、新しいマシンを用意して、ハブにつないだらネットできるようになる。

これを実現するために、ややこしい操作をしているわけだ。




CentOS6 + Xen4 になって、カーネル内部にハブを用意する機能が準備された。

Xen だけでなく KVM などもサポートするために、必要な機能をカーネルが用意したんだ。


このとき、接続方法が CentOS5 + Xen3 とは少し異なる。

Xen3 では、先に書いたネットワークつなぎ変えの仕組みなどを、Xen の設定ファイルに書いた。


でも、Xen4 では、カーネルの機能になったので、システムの起動設定に書く。

具体的には、CentOS6 の公式ページを見るといいだろう。


この方法だと、eth0 に IP アドレスが付かない。

実マシンの IP アドレスは xenbr0 につけられる。


eth0 がマシンのアドレスだ、と思っていたので、ちょっと気持ち悪い。


route コマンドでルーティングの設定を見ると、すべてのパケットが xenbr0 に向いているはずだ。

普通なら、すべてが eth0 に向く。


そして xenbr0 は eth0 にもつながっているし、ハブなのだから接続している他の仮想マシンにも通信できる。

何の問題もない。eth0 がマシンのアドレス、という先入観は忘れ去ろう。



Xen4 のやり方だと、peth0 などは出てこない。ややこしさがずっと少ない。

でも、この設定方法にたどり着くのに(公式ページに書かれているにもかかわらず)1日かかった。


単純に移行したいだけだから、つい Xen3 と同じ設定でやってしまおうとしたんだ。

でも、Xen4 では、Xen3 と全く同じ方法でネットワーク環境を整えることはできない。

環境設定スクリプトなどの動作が変わって、公式に「できない」ようになっているんだ。


#でも、同じスクリプトファイルは残っている。使おうとするとエラーになるだけだ。

 これが余計に混乱に拍車をかけ、解決に1日かかる結果となった。

 Xen4 の名誉のために書いておけば、これは意地悪で残してあるのではなく、CentOS6 以外の環境では使う場合もあるのだ。




さて、これで xenbr0 を用意できた。

再び仮想サーバーを起動。


今度こそ、ネットワークにつながった。

…が、様子がおかしい。つながってはいるのだけど、動きが…なんというか、こう、「ぎくしゃくと」している。


ping を打つと、5秒間何も表示されず、その後連続して成功ステータスが帰ってきたり。

かと思えば、ほぼ同じ状態で 100% loss だったり。


ssh で別マシンから入って作業していることもあり、操作不能になることもある。

最悪の場合、一番近くにある物理ハブがおかしくなってしまい、そこに接続しているマシンすべてが通信不能になった。


何かおかしい。通信経路がループしているような感じだ。


でも、調べてもループしてはいない。

これで悩み続けた。


xenbr0 の作り方は、CentOS6 標準の方法以外にもいくつかある。

それを試してみたり、vif の作り方がほかにないか調べてみたり。


新たな仮想マシンを作ってみると、正しく動く。

ただ、これは CentOS6 + Xen4 の中に CentOS6 を入れたものだった。


CentOS5 だとダメだったりするのかな、と思って入れてみると、これも大丈夫。

世の中にはあまり記事がないのだけど、CentOS5 + Xen3 から CentOS6 + Xen4 に引っ越しできた、という記事も読み漁った。


ディスクイメージのコピーの際におかしくなったかもしれない、と再コピーも試みた。

yum update もしてみた。定期的にやっているので、特に新しいファイルはなかった。




都合2日くらい悩んだ。

で、先ほど、急に気づいた。


IP アドレスは付け替えたけど、MAC アドレスそのままじゃん…


仮想サーバーの起動設定ファイルの vif 項目に、仮想の MAC アドレスを書く必要がある。


MAC アドレスというのは、インターフェイスカードごとに違う一意の ID ね。

IP アドレスは付け替えられるけど、MAC アドレスはハードウェアごとに決まっている、というのが前提。

これで、ネットワーク上の「住所」が一意に決まることを保証している。


だから、すでに起動しているサーバーの設定をコピーして IP アドレスを付け替えるのであれば、MAC アドレスも一緒に変えないといけなかった。


#一意に決まらないといけない MAC アドレスを自由に書き換えてしまえていいのか、とは思うのだけど、

 一応 Xen では「未知のカードとぶつからないように」工夫はされている。

 仮想サーバー同士は「未知」ではなく、設定者にとって「既知」のはずなので、設定者が責任を持たないといけない。



言い訳すると、vif 設定はいろいろ変えてみていた。

設定の中身が空っぽでも動くはずなので、それも試した。


空っぽなら xenbr0 に接続し、MAC アドレスはランダムに発行されるはず…なのだけど、このときはネットワーク接続に失敗した。

失敗したから「元の設定のままじゃないとダメだな」と戻してしまい、さらに「ここは手を付けちゃだめだ」と考えてしまった。



vif 設定の MAC アドレスを変更し、仮想サーバーのディスク上でも、eth0 が使用する MAC アドレスを同じものに変更する。

これで起動すると、何の問題もなく起動できた。


長かったけど、これでやっと新サーバーが準備できた。


実際の仮想サーバーの移行は、またタイミングを見て行う。

特に、公開サーバーはメールなどにも使っているからね。




追記:翌日19日の朝、新サーバーに入れ替えました。

用意周到にやったのでダウンタイムは1分以内。



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honor6 plus 使い勝手レビュー  2015-12-20 17:10:07  コンピュータ

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2週間ほど honor6 plus を使用して、「ごく当たり前に」使えるようになってきた。

最初はしょっちゅう環境設定でいじってきたけど、そろそろそういうことも減ったので、冷静な使い勝手を書いてみよう。


以前使用していた機種は、docomo の Lumix Phone こと P-02D。OS は Jelly Beans。

プランはパケホーダイダブル。パケット従量制だが、メールパケットは無料。

Llama を使ってバックグラウンドで勝手な通信をしないように制御し、事実上の通話専用機。

名前に Lumix と付いているとおり、カメラ機能が充実した携帯。


Galaxy Nexus こと SC-04D も併用していた。Cyanogen mod 12 で、KitKat 相当になっている。

こちらには DTI の SIM が入っていて、データ通信専用。使い放題。

250Kbps と低速だけど、Google Map や Y! カーナビを使いながら、Google Music で音楽ストリーム配信していても十分間に合う速度。



そして、今回購入した honor6 plus 。DMM モバイルの SIM を契約し、通話 + 高速通信 1G/月 。

ただ、通信速度はいつでも高速・低速を入れ替え可能で、低速なら 200Kbps 使い放題。


#と言いつつ、3日で一定容量の制限あり。




まず、honor6 plus のカメラ機能。売りだからね。


といっても、先日ざっと書いたので、しばらく使ってみての感想のみ。


性能的には素晴らしいのだけど、素晴らしくない点もある。

画質のきれいさを重視しすぎて、ファイルサイズがやたらでかい、ということ。


LumixPhone は、画質を幅広い選択肢から選べた。

WVGA サイズくらいから撮影で来たとも思うけど、大きすぎず汚すぎない、という点で 6Mピクセルのモードを使っていた。

ファイル容量は、1枚 400Kbyte くらい。このくらいだと、気軽にたくさん撮ってもメモリカードを圧迫するようなことはなかった。



honor6 plus では、画素数の選択肢が少ない。13M、8M、6M だけだ。

そして、圧縮率は全く選べない。


6M で撮影すると、画像内容にもよるけど、3.5M~6M のファイル容量となる。

10倍も大きなファイルになるわけだな。



カメラの起動速度など上がったためにもっと気軽に撮りたいのだけど、ファイルサイズが10倍というのは気軽ではない。

もっとも、撮影した画像はどんどん家の中の NAS にためこんでいくので、実際問題としてはあまり気にしていないのだけど。


それでも、圧縮率くらい選ばせてくれてもよかったのではないかと思う。




アプリ起動速度。

LumixPhone も GalaxyNexus も、かなり昔の機種で、今時パワフルだとは言い難い。


アプリ起動も待たされた。カメラを使おうと思っても起動が遅いのでチャンスを逃すこともあった。


その点、honor6 plus は十分な速度を持っている。

まぁ、今時のスマホで3万円出せば、たいてい十分な速度だとは思うのだけど。


honor6 plus はメモリも 3G 搭載しているのだけど、普通の使い方ではバックグラウンドに回り込んだアプリは、必要に応じてメモリを開放してしまう。


起動中アプリ一覧を見ると使用可能メモリを表示するのだけど、常に 1G 以上余っている感じ。




電池もち。

比較しても仕方がないが、Lumix Phone や Galaxy Nexus は、特に使わないでも1日しか持たなかった。

外出して使ったりすると1日もたない。帰宅後充電する必要とかあった。


でも、honor6 plus は、あまり使わないと1日たっても 50% 以上電池が残っている。

多少使っても十分1日もつ。


僕にとってはこれで十分だ。




WiFi の接続性。


我が家では、WiFi ステーションを、1階と2階に1台づつの2台置いている。

SSID はわざと変えてある。同じにすると自動でローミングしてくれるのだけど、切り替えの際に勝手に途切れるのが煩わしいからだ。


LumixPhone も GalaxyNexus も、ついでに我が家にあるタブレット端末の Nexus7(2012)も、最後に接続した WiFi SSID があると、どんなに信号が弱くてもそちらにつなごうとする。

そのため、状況によっては、わざわざつなぎかえる必要があった。


honor6 plus では、複数台の接続可能 SSID がある場合、最も信号が強いものを選んでくれるようだ。

非常に些細な話だけど、ストレスが軽減される。


どうも、LolliPop からそのような機能が付いたらしいのだけど、honor6 plus の場合は、さらにチューンされて「WiFi+」という機能名がついていた。

なので、LolliPop端末を買えばすべてにこの機能がついているのかは、知らない。


#妻の Zenfone2 Laser では確認していない。



一方で、WiFi接続中に「通知」が届かない、というバグがある。

こちらは妻の Zenfone2 Laser では出ないバグなので、honor6 plus 特有のものだと思う。

一方で、LolliPop にこのバグがある、という報告もあるので、一般化してよい話題かどうか不明。


ともかく、WiFi接続中でなければ通知は届くので、使わないときは WiFi を切る、というのが対応策。

WiFi スリープではだめで、完全に切らないといけない。


システムの設定で「画面オフで WiFiスリープ」というのはあるのだけど、完全オフというのはない。

なので、ここは Llama に頼る。




Llama の話。


honor6 plus の話ではなくなってしまう気もするが、Llama はシステムの深いところに手を突っ込むアプリなので、LolliPop になって動作がおかしくなった所もある。


とくに、現時点での「Google Play 公式」版は、前面に出ているアプリを判断できない。

作者ページに行って、勝手アプリをダウンロードしてインストールすれば解決する。


LumixPhone は電池もちが悪かったので、僕は Llama で改善する設定を細かく組んでいた。

でも、設定が多すぎて、一部狙った通りの動作にならず困っていた部分もある。


honor6 plus では、電池もちが良くなったので改善する細かな設定はやめた。

夜になると音を消す、なども、システムがやってくれるようになったのでそちらに任せた。


#非常に高機能で、指定した時間の間は基本的に音を消すのだけど、特定アプリだけには音を出すことを許可、とか、指定した人からの着信は許可、などできる。

 Gmail で特定の人からのメールなら…というような器用な真似はできない。



そうそう、以前 Llama のページで、2ch などでの報告をもとに「LTEだと位置認識できないかも」なんて話を書いたのだけど、問題はなかった。ちゃんと位置がわかる。

(該当ページは正しい説明に書き換えて置いた)


もっとも、家と外で細かく設定を変えて電池もちをよくする…という設定をやめたら、位置認識する意味が失われたので、設定には使ってない。


先に書いたように、WiFi 接続していると通知が来ないので、画面オフしてしばらく後に WiFi をオフにするようにしている。

そして、画面オンで WiFi 接続する。…のだけど、さらに 15秒後に、接続状況を調べている。


接続していなければ、WiFi を探し続けるのは電力の無駄なので、WiFi オフ。家の外と判断し、音量などのモードを家の外用に切り替える。

接続していれば、家の中と判断し、モードを家の中用に切り替える。


電源オンをトリガーとして家の中外を認識していることになるので、家に帰ってきたら自動的に認識…とはならない。

でも、とりあえずこの程度の設定で困らない。



#Llama を長い間使っていて、電波塔の ID は結構変更されることを知ったので、できることなら ID で位置を知るのをあまり使いたくない。

 どうしても、ってなったら使うけど。


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チャールズ・バベジ誕生日(1791)  2015-12-26 10:51:04  コンピュータ 歯車 今日は何の日

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今日は、チャールズ・バベジの誕生日。


コンピューターの父、と言われる人です。

19世紀末に、歯車で、プログラム可能でなんでも計算できる機械を作ろうとしました。


当時の技術の未熟さと、彼自身の持つ完璧主義のせいで完成には至りませんでした。


しかし、後に世界初のプログラム可能計算機とされたハーバード・マーク1は、バベジの自伝に触発されて設計されています。


IBM はハーバード・マーク1に関わったことで自動計算器の技術を深め、後に SSECIBM701 のような「プログラム可能な自動計算器」を作り出します。



バベジにはほかにも多くの業績があります。

特に、数学の一分野である統計学を創始しています。


統計学って、現代社会の基礎をつくる重要な学問です。

19世紀までは、社会の仕組みを作るのは、一部の人が頭の中だけで考えて「こうするといいのではないか」と、エイヤっと決めていた部分があります。


でも、バベジはこのやり方に異を唱え、綿密なデータを集め、最も効果の上がる方法を事前に予測する、という学問を作り出したのです。

現代社会では、何をやるにしてもこのやり方が使われています。



詳細は、以前命日に記事を書いていますので、そちらをお読みください。



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HDMI -> VGA 変換器  2015-12-29 16:31:42  コンピュータ

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しばらく前に新サーバーを導入したのだけど、今時のマザーボードは VGA 端子を失くしていく傾向のようだ。

購入した機械は、DVI-D 、HDMI 、DisplayPort の3つのビデオ出力に対応していた。3つにしか対応していなかった。


さて、困った。

僕は、サーバーマシン用に小さな VGA モニタを使っている。


サーバーマシンはたいていはディスプレイなしの運用だ。

問題が起きた際に、そのマシンに小さなモニタを接続し、コンソール作業を行っている。


VGA モニタは Dsub15 ピン…いわゆる VGA 端子にしか対応していない。

(厳密にいえば RCA 端子もついているのだけど、こちらは VGA 以上に対応マザーボードが少ない)



Amazon で、非常に安い値段で HDMI -> VGA 変換器というものを売っていた。

クチコミを見ると、動かないとか不良品じゃないかとか書いている人が非常に多い。


どうも、動くとしても環境を選ぶようだ。

その中で、僕が購入したのと同じマザーボードでの動作確認例があった。


ディスプレイ側の問題もあるようだけど、とりあえず動きはするようだ。

失敗しても安いものだから、買ってみることにした。




さて、結果から言えば期待に添わないものだったのだけど、手元で実験して問題点が理解できた。

今回の記事は、同様のアダプタの購入を迷っている人向けの指標となることを期待して書くものだ。



まず、Amazon のクチコミでも書かれている基本事項。


VGA というのは、アナログ出力だ。そして、HDMI はデジタル出力だ。


なので、変換アダプタは「結線を変えている」程度ではない。

内部に LSI を持っていて、信号自体を変換している。


この変換のために、LSI を駆動するための電源が必要となる。

しかし、変換アダプタは別途電源を必要としない。


どうしているかというと、HDMI の電源線から電源を取り出しているのだけど、USB などと違って微弱な電力しか取り出せない。

特に、一部スマホなどに搭載された HDMI 端子は、取り出せる電力が非常に小さく、駆動できない場合もあるようだ。



ここが第1の相性問題。




電源の問題はなく、変換がうまくいったとしよう。

取り出せる VGA 信号は、どんなものか?


僕は、ここで大きな勘違いをしていた。

おそらくは、「動かない」と言っている多くの人も同じ勘違いをしているのではないかと思う。


僕の場合、サーバー用途なのでテキスト画面出力を前提にしていた。640x480 の解像度だ。

先に書いた、小さな VGA モニタは、800x600 までの解像度に対応していた。だから表示できる、と思っていた。


でも、接続してみると「Over Scan」と出て接続できない。入力周波数が高すぎるのだ。


SXGA (1280x1024) 表示可能なディスプレイがあったので接続してみたら、画面が出るには出た。

でも、上下左右に少しづつ、はみ出している。どうも、SXGA では表示しきれないほど高解像度の出力をしているようだ。




勘違いの原因は「テキスト画面だから 640x480」と考えていたことだ。

元は HDMI の信号なので、アナログに変換し、VGA から出力されたとしても、HDMI 相当の解像度となっている。


じゃぁ、HDMI 相当の解像度って、なんだ?

調べてみても「最高解像度」が規格の更新と共に上がっていったことはわかるが「最低解像度」がわからない。



HDMI は、DVI-D 規格を元として作り出されたものだ。じゃぁ、DVI-D の最低解像度はどうなっているのか。

調べてみると、どうやら 640x480 程度の出力も、規格としては可能らしい。


ただし、DVI には一緒に策定された規格、DVI-A と DVI-I がある。

DVI-D は HDMI の元となった「デジタルの」出力規格。A は VGA 端子の形状を変えただけの「アナログの」出力規格だ。


そして、DVI-I は、A と D を同時出力できる端子の規格。

VGA 端子と同じ出力をデジタルでも行える必要があるため、640x480 程度にも対応している、というだけの話。



DVI-A も VGA 端子も切り捨てた現在のマザーボードとしては、そんなに古い、低い解像度に対応するメリットはない。

先に SXGA でも表示しきれないほど広い、と書いたが、最低でも FullHD (1920x1080) というのが普通のようだ。


つまり、640x480 を想定したテキスト画面は、縦横 2.25倍程度に引き伸ばされて出力されるのではないかと思う。

2.25倍だと 1440x1080 となる。左右に黒い帯を入れれば、640x480のテキスト画面そのままの雰囲気を再現できる。


ここのところ、厳密に確認していないので想像の域を出ないのだけど。



#ちなみに、購入したマザーボードは 4K 出力に対応していた。

 解像度が変わると信号の周波数を変えなくてはならないのだけど、あまり大きな変更をするのはコストがかかる。

 なので、FullHD から 4K の間で出力できるようにしてある、というのは妥当なように思える。


#余談だけど、DisplayPort は DVI-I を再び HDMI と統合させ、パソコン向けに練り直した新規格。

 根が同じ規格を混ぜて練り直したのだから、類似性がある。

 DVI-I、HDMI、DisplayPort という3つの出力規格を搭載しているのはそのため。




つまり、こういうことになる。


HDMI -> VGA 変換器は、「動作しない」「不良品」という人が非常に多い製品だが、おそらくは動作しているし不良品ではない。


この変換器を使う人の多くは、VGA 入力しか持たない古いモニタに HDMI 出力しかない機械を接続しようとしているのだろう。

しかし、残念ながら古い VGA モニタの多くは、ハイビジョン解像度の信号に対応していない。

そのため、接続しても何も映らない。結果として「動作しない」「不良品」というクレームとなる。


ハイビジョン対応のモニタを購入し、HDMI -> VGA 変換して接続すれば、おそらくは映る。

しかし、ハイビジョン対応のモニタの多くは、HDMI 端子を搭載しているため、変換器は必要ない。


現状でのハイビジョン対応モニタの多くは、まだ VGA 端子も備えているし、HDMI ポートも持っている。

なので、HDMI 出力しか対応していない2台の機械を、1台のモニタに接続して切り替えながら使いたい、という場合には、この変換器は有効かもしれない。


もっとも、その場合は安い HDMI 切替機を買ったほうが幸せになれるかもしれない。



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Serverman SIM LTE 解約  2016-01-07 18:08:23  コンピュータ

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利用は1年9か月でした。


表題にある通り、Serverman SIM LTE を解約しました。

MVNO の黎明期にさっそうと登場した格安 SIM でした。


当時、MVNO と言えども、データ専用と言えどもそれなりに高くて、2千円くらいから、だったと思うのですが、490円という低価格で人気を博したもの。


250Kbps という低速通信だったのですが、ちょっとネットで調べものするとか、Google MAP にナビをやらせながら Google Music で音楽をストリーム再生、という程度ならこの速度で十分でした。


そもそも、僕は以前Bitwarp とか W-Zero3 とか使ってたわけで、そのころに比べれば 250K は別に遅くないと思うよ。




そんなわけで、便利に使わせてもらったのですが、先日書いた通り別の格安 SIM を契約したからね。


最低利用期間が2年…と思って、もう少し契約しておくつもりだったのですが、この最低利用期間が勘違いとわかって即解約。

最低利用期間、特にありませんでした。いつでも解約できました。



勘違いした理由は、昨年秋にこの SIM 運用サービスの権利譲渡が行われたため。

元は DTI (Dream Train Internet) が運用するサービスでした。


Serverman って、同社のサービスブランド名。格安クラウドサーバとかやってる。


でも、TONE mobile という別の MVNO 業者に権利譲渡されました。



ちなみに、DTI も TONE も、フリービットという会社の子会社です。


仕事がらこの会社も以前から知っているのだけど、なかなか面白い会社です。

今回は詳細割愛。興味ある人は自分で調べて。



で、ともかく権利譲渡で Serveman は TONE の運用サービスになったのですが、元々 TONE が運用していた電話サービスは契約が2年縛りです。

そして、TONE のページには Serverman の説明はほとんどなく、FAQ も TONE のサービスに関するもの。


これで勘違いしたわけです。




DTI がサービスしていた時は、インターネット上で SIM の解約が可能でした。

インターネットの会社だからね。


で、TONE になったら、解約手続きが電話のみになりました。

まぁ、電話の会社だからね。



そして、今電話して解約したところです。

特に解約手続き上問題はなかったのだけど、混んでいるようで結構待たされました。



一応 SIM は今月末まで利用可能で、その後は返却用封筒が届くので返却の必要があります。

1年9か月の間、家族旅行などを楽しく演出するのに役立ってくれました。ありがとう。


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トーマス・J・ワトソン 誕生日(1914)  2016-01-14 16:36:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、トーマス・J・ワトソンの誕生日(1914)


IBMの2代目社長です。

ちなみに、初代社長は彼の父、トーマス・J・ワトソン。


わー、なんだそれ。子供に自分と同じ名前付けるな。

ややこしいので、一般に父親は「シニア」または「ワトソン」、子供は「ジュニア」または「トム」(トーマスの愛称)と呼ばれます。


(この文章、父親の話題を書いたときの使いまわし)




シニアは、汚い手を使っても商売を成長させる、やり手でした。

とはいえ、IBM 社長になってからは社員を大切にし、悪いことはしなかった。


ジュニアは…父の名前を継がされ、ゆくゆくは会社経営を引き継ぐ御曹司でした。


でも、そんなのは父が勝手にやったこと。

彼自身は後を継ぐのを嫌がり、反抗的で、無気力な学生時代を送っています。


成績は悪くて、遊び歩いてばかりで、酒におぼれる日々だったのね。


父親の意向でIBMに入社すると、周囲が「跡継ぎ」とみる傾向はさらに強まり、彼にとっては苦痛となります。

この頃第二次世界大戦がはじまり、陸軍でパイロットとしての腕を磨きます。


彼はとにかく、自分の道を見つけたかった。がむしゃらに訓練し、少将付きの副官となります。

当時の彼は、少将に気に入られることだけが喜び。上へのごますりばかりで、部下から反感を持たれたりもしました。


でも、彼は事態を収拾し、部下から認められるようになります。

人心を掌握することの難しさと、大切さ…この経験は、後に彼の役に立ちます。



やがて戦争は終結し、進路に悩む彼に、少将はIBMに戻るよう助言をします。

そして、彼は今度は自信をもってIBMに戻るのです。




IBMはこの時点ではまだ「ビジネス向けのサービス」を売る会社でした。


機械を売るのではなく、ビジネスへの助言なども含めた「サービス」全体を売るのね。

パンチカード集計機を、その複雑なセッティングを行うサービスマンと共にリースする、という商売です。


このサービスマンのことを「コンピューター」と呼びます。

複雑な計算処理をする人、という意味の英語です。


IBMは非常に多くのコンピューターを抱え、この人材を大切にすることは、シニアの重要な経営哲学でした。



世の中には電子計算機が作られ始めていました。これらも「コンピューター」と呼ばれます。

しかし、それらは「計算機」にすぎず、IBMの抱える「コンピューター」のように、ビジネスで利益を出すための方策を考えてはくれません。


IBMは、ビジネス向けサービスを売る会社でしたから、自動化された「コンピューター」に手を出そうとはしませんでした。

何よりも、労働組合がそれを許さず、人材を大切にしたいシニアも手を出さなかったのです。


事実上「コンピューター」である SSEC が、IBM公式には「計算機に過ぎない」のも、そのためです。




ところが、UNIVAC 社が世界初のコンピューターの販売を開始すると、パンチカード集計機のサービスは解約・返品が相次ぎます。

ちょうどそのころ、ジュニアは2代目社長の座に就きます。


ジュニアが2代目を継いでも、まだシニアは健在でした。

人材を大切にしろ、という厳命が残されていました。


しかし、ジュニアはコンピューターの開発に乗り出します。


もちろん、労働組合が黙ってはいません。

機械としての「コンピューター」が導入されたら、人材の「コンピューター」は解雇されてしまうかもしれません。


しかし、彼は具体的な案を示して説得します。

今までは、「コンピューター」の仕事は、パンチカード処理機のリース先の企業に赴いて、その企業で必要な計算を行うことでした。

データを収集し、処理するための手順を考案し、機械にその手順を設定し、パンチカードを処理するのです。


機械としての「コンピューター」は、非常に高価なので、パンチカードのように多くの企業が導入することができません。

数カ所の計算センターに置かれ、使われることになるでしょう。


企業からはパンチカード集計機が消え、計算センターに処理を頼むことになります。

この点だけを見ると、IBMは解雇を行う、と思えるかもしれません。



しかし、相変わらず機械の扱いは複雑で、手順の設定はパンチカード以上に複雑になります。

今後のIBMの主要業務は、この複雑な手順を設計し、多くのお客様に、満足する計算結果を届けることになります。


この複雑な手順の設計には、今までパンチカード処理機を扱ってきた「コンピューター」の能力が必要です。

そのためにも、解雇は行わない。業務内容は多少変わるが、IBMは今後も彼らの能力を必要としています。



最終的に、労働組合は納得しました。

そして、IBM 701 (1952) …IBM最初のコンピューターが作られることになります。




IBM 701 は、非常に高価な計算機でした。

たとえ計算力があっても、これほど高価なものは売れないだろう…シニアはそう考えていたようです。


開発開始前、需要は5台、と見積もられ、リース料金などはそれに合わせて金額設定がなされました。


しかし、実際に発売してみると18台の注文が入ります。

最終的には、もう一台追加して19台が販売されました。



IBM 701 は、別名「国防計算機」と呼ばれています。

購入した顧客の多くが、軍を中心とする政府機関だったためです。


発売となった 1952年は、朝鮮戦争の最中でした。

そのため、軍は膨大な計算力を必要としていたのです。



5台売れれば儲けが出るつもりで値段設定したら、19台も売れた。

IBMにとってうれしい誤算でした。


これにより、IBMはさらにコンピューターを作るための資金を手にします。



この後も軍はIBMにとって良い「お客様」でした。

Whirlwind I を軍用に改良した SAGE (1958) も、IBM によって量産されています。


SAGE は、たった1台のコンピューターのために、4階建てのビルを建てる必要がありました。

もちろん非常に高価なのですが、軍はこれを数十カ所に建設したのです。


もちろん、IBMは莫大な利益を手にし、その資金を元に地位を固めていくのです。




シニアは、IBM以前にはずいぶん卑怯な手を使って商売を大きくしています。

ジュニアにもその血が受け継がれていました。


IBMは UNIVAC とライバル関係にありましたし、他の企業も続々とコンピューター業界に参入してきました。


新しい企業は、魅力的な新製品を大々的に発表します。

まだIBMが今ほどコンピューター業界の巨人ではない頃の話です。IBMは何度もピンチを迎えます。


そのたびに、ジュニアは「魅力的な新製品が開発中で、もうすぐお目見えする」ことを発表しました。

たとえ、そんなものは開発していなかったとしても、です。


現在のIBMの機械よりも魅力的なライバル社のマシン…そこに、IBM はそれ以上の魅力のものを約束するのです。


IBMの機械はリース契約でしたから、いつ契約を打ち切ってライバル社に乗り換えてもかまいませんでした。

しかし、リース契約である、ということは、新マシンが発売されたらアップグレードも可能である、という事でもあります。

わざわざライバル社に乗り換えて、契約変更の面倒をかける理由は無くなります。


もちろん、約束したマシンはちゃんと開発します。

IBMにはそれだけの開発力がありました。




そして、決定版ともいえる IBM System/360 の開発(1965)。

ジュニアが社長の時代の、最大のヒット商品です。


すぐ上に書いたように、当時のコンピューターは「ビジネス向け」「科学計算向け」など、用途に応じて設計が違っているのが普通でした。


しかし、System/360 は、360という名前が示す通り「全方位」に向いているマシンでした。

どんな用途にも使えるような、贅沢な構成になっていたのです。


今となってはあまり言われませんが、昔はコンピューターの種類を示して「大型汎用機」という言葉が使われました。

この「汎用機」という概念は、System/360 のために作られたものでした。


これが大ヒットし、IBMはコンピューター業界で、確固とした地位を築き上げます。




1970年、ジュニアは心臓発作を起こします。

大事には至りませんでしたが、これで体力的な限界を感じ、翌 1971年に社長を引退します。


その後は政治の世界で活躍し、1993年に79歳で亡くなっています。



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今日は山本卓眞さんの命日(2012)


富士通の元会長さんで、コンピューター黎明期に日本独自のコンピューターを設計したチーム(3名)の1人でした。


その設計チームの一人に、池田敏雄さんがいました。

今でも、黎明期の大天才として知られる人。富士通の社員でしたが、日本のコンピューター産業全体を牽引したといってもよいでしょう。


ただし、若くして亡くなっています。


山本卓眞さんは、自分の役割は池田敏雄さんの存在を伝える語り部だ、と言っていました。

富士通の会長になっても、富士通をコンピューターの大企業にしたのは、池田さんの存在があったからこそだ、と感謝し続けていたのです。



山本卓眞さんについては、誕生日記事で書いています

詳細はそちらをご覧ください。




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今日は、LSI-C 、 MSX-C の作者である森公一郎さんの命日(2015)


そして、音響研究者レイ・ドルビー博士の誕生日(1933)



いずれも、過去に記事を書いています。


森公一郎さんは、よく知らなかった人なのですが、LSI-C はお世話になったので、訃報記事を書いています


もっとも、僕がお世話になったのは LSI-C 86 試食版ですね。

今でも入手可能な無料のC言語環境です。MS-DOS 用ですけど。


LSI-C ・ MSX-C は、CP/M ・MSX-DOS 用のC言語。

8ビット機で動作して、非常に今品質なコードを生成します。



ドルビー博士は、命日に記事を書いています


音響関係でいろいろな発明をしているのですが、今なら ac3 拡張子のファイル形式、ドルビーデジタルが有名かな。

mp3 よりも高品質なデジタル圧縮技術です。



いずれも、詳細はリンク先をお読みください。

この日記は、日付を記録するためのものです。



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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)  2016-01-19 11:27:39  コンピュータ 今日は何の日

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マーシャル・カーク・マキュージック 誕生日(1954)

今日は、マーシャル・カーク・マキュージック (Marshall Kirk McKusick) の誕生日(1954)


といっても、この人のこと、僕はあまり知りません。

ネットで探してみても、Wikipedia で書いてある内容がほぼすべて。


本人のページもありますが、こちらは大学で彼が持っている講義の案内や、趣味のワインの話などが中心。




さて、マーシャル・カーク・マキュージック…以下「カーク」と呼びますが、彼はBSD初期のプログラマの一人です。


彼はビル・ジョイと一緒に、初期BSDを作り上げ、その後も関わり続けています。


特に、BSD初期に使われていたファイルシステム FFS (Barkeley Fast File System) は彼の作品です。

また、FreeBSD で使われていた UFS2 も彼の作品です。(FFS を改良したもの)

さらに、UFS2 を「急に電源が落ちてもファイルシステムが壊れないようにする」改良(soft updates と呼ばれます)も行っています。



余談になりますが、UFS とは「Unix File System」のことです。

ユニックスで使われるファイルシステム、という意味の言葉なのですが、実際に UFS と名付けられたシステムは存在しません。


UNIX にはいろいろなファイルシステムがありますが、全部を総称して UFS 、と呼ぶこともあります。


初期の UNIX では、ファイルシステムは、単に FS と呼ばれていました。

しかし、本家 UNIX の FS なのだからと、これを UFS とする一派もいます。


しかし、一番多いのは、FS を改良した FFS …カークの作ったものを UFS とする場合です。

UNIX の普及期において、BSD の存在が大きかったためです。


カークは先に書いた通り、 UFS2 を作っています。

BSD ユーザーの間では、UFS と言えば UFS2 のことです。



ところで、Linux は MINIX のファイルシステムである ext を改良した、ext2 を初期に使っていました。

この ext2 は、FFS を参考に ext を改良したものです。


ext2 はその後も改良が続けられ、ext4 として近年まで使われていました。

なので、Linux ユーザーであってもカークと無縁ではありません。




しかし、カークの一番有名な業績は、「BSDデーモン」というかわいいマスコットキャラクターを作り上げたことではないかと思います。

(この日記冒頭の画像。クリックで拡大します。)


BSD なんて興味ない、という人でも、一度くらいはこのキャラを見たことがあるのでは?

このキャラクターは、現在も彼が著作権を保有していますが、「著作権を有している」と主張する以上の権利行使をする気はないようです。



すぐ後に追記


キャラクター自体は徐々に作られていったもので、彼が作ったものではない、という指摘をいただきました。

誤った情報を公開したことをお詫びするとともに、追跡調査をいたしました。



先に、カーク自身のページがあると書いたのですが、その中に詳細を記したページがありました。


これによれば、最初に描かれたのは、BSD のバージョンが 4.2 だった時に発行されたマニュアルの表紙だったそうです。



基本的に、UNIX のマニュアルはオンラインの man コマンドで提供されます。


しかし、本の形で情報がまとまっているほうが読みやすいです。

今でも詳細を書いたマニュアルを発行する会社は存在していますし、4.2 BSD マニュアルもそうした本でした。


4.2 BSD マニュアルを発行したのは、USENIX。

UNIX ユーザー・研究者の団体です。



1984年に、USENIXがマニュアルを発行し、注文を受け付けた際のメールが残っていました


この最後の部分で、マニュアルのレイアウト作業を手伝ってくれた人への感謝が述べられています。

そして、協力者の中に「ルーカスフィルム」が入っていて、カバーデザインは「ルーカスフィルムの、ジョン・ラセターが行った」と書かれています。


…僕も、ジョン・ラセターが BSD デーモンを描いた、という話を聞いたことはあったのですが、綺麗に描き直しただけだと思っていました。


どうやら、原画から彼のものだったようです。


ただし、この時点では BSD デーモンは白黒でした。

1989年の冬、カンザス州立大学の UNIX 好きのグループが、おそろいのTシャツを作ろうとしました。


このときに、マニュアルの表紙の白黒デザインに色を付けています。

また、白黒デザインでは素足だったのが、スニーカーを履くようになっています。




BSD の新しいバージョン、4.3 BSD が作られ、「4.3 BSD UNIX OS の設計と実装」という本が出版されました。

複数著者による本ですが、カークも著者の一人に名を連ねています。


この際に、スニーカーを履いたカラーバージョンのデーモンを元に、再びラセターが表紙の絵を描いています。


詳細はわからないのですが、どうやらこのときに表紙の絵を依頼したのがカークのようです。

そして、この絵はカークの著作物となり、現在も著作権を保持している、ということのようです。


#著作権は、著作を行ったものに自動的に発生する権利で、譲渡することはできません。

 しかし、依頼されて著作を行った際、原著作者の同意の元、依頼者が著作権の行使権利を留保することが可能です。



Wikipedia のカークの項目に「BSD デーモンの公式キャラクター画像の著作権を保有」と書かれていたのを見て、彼が作ったものだと僕が早合点した、というのが今回の誤りの原因でした。




ところで、カーク自身は USENIX の会長を務めたこともあります。

1990~92年と、2002~04年に会長職にありました。


4.3 BSD はラセターが描いた、と彼のページに明記していますが、4.2 BSD については誰が描いたのか触れていません。


4.2 BSD のために絵が描かれたのは 1984年で、その時点ではカークは USENIX の役員ではなかったようです。

そのため、誰が描いたのか確信が持てなかったのかもしれません。


先にリンクしたメールによれば、4.2 BSD もラセターが描いたことになっています。




なんで、ルーカスフィルムのラセターが、BSD のマニュアルの表紙なんて描いているんだ?


という疑問もあるかと思います。


ネットで情報を探しても見当たらないので記憶の話になるのですが、間違った記述をしたお詫びもかねて書いておきましょう。

(記憶で書くので、これがまた間違えているかもしれませんが…)



以前に書いた話なのですが、ルーカスはスターウォーズの特殊効果を作り出すために、コンピューターを作っていました


コンピューターというより、今でいうグラフィックボード、フレームバッファですけどね。

この機械の名前が Pixer 1 。後の「ピクサー社」の由来です。


当初は、複数のフィルム画像を取り込み、美しく合成する、という用途で使われていました。


しかしやがてコンピュータープログラムで3D計算を行い、アニメを作り始めます。実験的なものでしたが。


1984年には、その第1作目、「アンドレとウォーリーB.の冒険」が公開されています。

実験的なものなので、劇場公開とかではなくて、CG学会での上映ね。


このときの監督が、ジョン・ラセター。

そして、3Dの計算などは Cray X-MP と VAX11 でやった、と作品の最後に出てきます。




使用「機材」は書かれていても、OS まではわかりません。

しかし、Cray X-MP は Cray 版の UNIX で動きます。


VAX11 のほうは、「PROJECT ATHENA に 10台借りた」と書かれています。

これ、分散コンピューティングの初期の例です。


1983年に始まっているのですが、UNIX を使っていたことがわかっています。

Cray も VAX11 も UNIX を使っていて、接続して作業分担したのかな、と思います。



しかし、VAX11 用の UNIX は、正式には 1984年リリース。

PROJECT ATHENA には VAX11 製造元の DEC も参加していたので、リリース前のバージョンを使えたのでしょう。


しかし、リリース前となると、マニュアルもまだ整っていなかったと思われます。


…いや、大丈夫。VAX11 の UNIX は 4.2 BSD ベースでした。

4.2 BSD のマニュアルがあれば、大体使えます。


そして、この頃 USENIX は、BSD のマニュアル本の出版のために準備をしていたはずです。

まだ出版前だけど、4.2 BSD のマニュアルはすでに存在しているわけです。



ここらへんに、ルーカスフィルム、ジョン・ラセター、USENIX 、4.2 BSD マニュアルのつながりがありそうです。


以下は推測ですが、ルーカスフィルムの技術陣が、マニュアルが必要で USENIX に草稿段階のものを見せてもらったのではないでしょうか。


そして、草稿を読みながら、わかりにくい点などをどんどん質問します。

もっとこう書いたほうがわかりやすいのでは? というような意見も出します。


これが反映される形でレイアウトや記述内容などが見直され、協力者に「ルーカスフィルム」の名前が入ります。

そして、ついでに表紙の絵をラセターが描いた、というわけです。




追記のほうが長くなりました (^^;


しかし、世の中狭いな、という感想。

アンドレとウォーリーBは、以前に見ていて「VAX11 と Cray XP 使ったって書いてある」ことが心に残ってました。


#そういう、古いコンピューター大好きですからね。


以前に Pixar 1 の話書いたときも、別にこんな話を展開しようとは思っていなかった。


でも、思わぬところで話がつながりました。



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ポール・アレン 誕生日(1953)  2016-01-21 11:01:32  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、ポール・アレンの誕生日(1953)

マイクロソフトの共同創業者です。


ビル・ゲイツとは、シアトルの名門校、レイクサイドスクールにともに通いました。

ビルが2歳年下。


2人はまるで違う性格でしたが、コンピューターに興味がある、という共通点がありました。

ポールは物静かで、注意深く物事を進めるタイプでしたが、ビルは常に周囲を「挑発」していて、思い付きで行動するタイプ。


ビルは負けず嫌いで、自分が何でもできるように周囲に思われたくて仕方がありません。

しかし、そのために何かをやり始めると、驚くような集中力を見せました。


しかし、そんなビルも、兄貴分であるポールのいうことには耳を傾けました。

ポールは人当たりもよく、様々な「仕事」を見つけてきます。


それらは金儲けであることを超えて、彼らにとって面白い「挑戦」でした。




詳細はビル・ゲイツの誕生日に書いた記事を読んでもらうことにして、ざっと書いていきましょう。


まず、彼らはレイクサイドスクールが時間借り契約していた PDP-10 を使いすぎて、年間の接続予算を使い切ってしまいます。

すると、無料で使えるバグを発見し、使い続けるのです。


これが発覚し、アクセス禁止措置を受けると、ポールは PDP-10 の提供会社に掛け合います。

バグを修正できるし、そのほかの PDP-10 のプログラムのバグを探す手伝いもできる。

だから、その仕事と引き換えに PDP-10 を使わせてほしい。


こうして、彼らは PDP-10 ハッキングを続けます。



数年後、ポールの発案で、「トラフ・オ・データ」社を設立します。

交通量調査を請け負う会社でした。


当時、交通量調査は人海戦術で集計されていました。

トラフ・オ・データは、コンピューターを利用することで、安価で正確、迅速な集計を行いました。


さらにその後、インテルが 8008 を発表。

彼らは、交通量自動測定機の作成を思いつきます。


しかし、この時点でまだ 8008 は発売されていません。スペックシートの公表だけです。


ポールは、スペックシートを元に、PDP-10 上で 8008 エミュレータを作ります。

そして、ビルがそのうえでプログラムを作ります。


もっとも、この機械は成功しませんでした。

交通量調査自体も、後に合衆国政府が無料で行うようになったため、トラフ・オ・データは廃業しています。




さらに数年後、インテルは 8080 を発売し、エド・ロバーツが「アルテア 8800」を発売します。

ポールはこれを商機ととらえ、PDP-10 の 8008 エミュレータを改造、8080 エミュレータを作り上げます。


そして、ビルがその上で BASIC を作り上げるのです。

エドに BASIC を売り込むために作った会社が、「マイクロソフト」社でした(1975)。


その後 IBM に BASIC と MS-DOS を供給するようになったのをきっかけに、マイクロソフトは急成長します(1981)。


#負けず嫌いなだけで小心者のビルと、慎重派のポールは、IBM 相手に、やったこともない OS 開発なんて請け負う気はなかった。

 これを、ぜひやるべきだ、と説得して動かしたのは、西和彦。




その後ポールは、病気の治療のためにマイクロソフトを離脱(1983)。

これは誤診だったと後にわかり、マイクロソフトに復帰します(1990)。


最初に離脱した段階で、マイクロソフトはもう大企業の仲間入りをしていました。

創業者であるポールは、十分な富豪でした。


1986年には、慈善団体「ポール・G・アレン一族財団」を設立しています。

その後も各方面に寄付を行ったり、慈善事業を続けています。


また、ベンチャーキャピタルもやっています。

こちらは慈善事業ではなく、ベンチャー企業に出資し、成功すればきっちり回収する。


でもリスクも大きくて、やっぱり富豪でないとなかなかできないこと。



一方、趣味である「第2次世界大戦時の兵器」の収集にも力を入れています。

昨年…2015 年の 3月3日には、フィリピン沖で、日本軍の沈没した戦艦「武蔵」を発見しました。


8年前から、武蔵が沈んだあたりの捜索を続けていたそうです。



ポールはトレジャーハンターとして武蔵を探していたわけではなく、発見の権利を強くは主張しない、と表明しています。

戦死した乗員にも追悼の意を示し、今後の扱いは日本政府と協議するそうです。



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デビッド・ローゼン 誕生日(1930)  2016-01-22 09:52:49  コンピュータ 今日は何の日

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別にそれほど有名人ではないので、知らない人のほうが多い気がします。

セガの初代社長です。


初代、ってのがみそね。

以前にセガ初期の歴史書いたけど、創業者ではない。


というか、セガという会社は複数の会社が合併して出来上がっているので、どこが「創業」かはよくわからない。

ローゼン氏も、ローゼン・エンタープライズという会社の社長で、「セガ」という商標を使っていた会社と合併しました。


そして、社名が「セガ」となった時に、初代の社長となったのです。




ローゼンは、米空軍の軍人として朝鮮戦争に参加し、中国、韓国、そして沖縄に配属になっています。


沖縄配属中に、日本に「ローゼン・エンタープライズ」社を設立(1953)。

その後退役となり一度ニューヨークに戻りますが、すぐに日本を再訪しています。


ローゼンは、写真技術に詳しかったようです。

そして、占領下の日本がアメリカに比べて人件費が低いことに目をつけ、写真と芸術を組み合わせた商売を行うつもりでした。


ビジネスとしては単純で、「安い肖像画を提供する」ものでした。

絵描きを雇って肖像画を描いてもらえば、それなりの金額を支払わねばなりませんが、日本の安い人材を使えば、安く提供できます。


しかし、アメリカ人の肖像画を日本人が描くために、わざわざ旅費をかけていてはかえって高くなります。

そこで、アメリカで写真を撮影し、その写真を元に日本で肖像画を描こう、というのです。

これならば安い肖像画を作り出せます。


この頃、アメリカでは写真技術に革命が起きており、写真はそれまでよりもずっと安く撮影できるものになっていました。

安くなった「写真」そのもので商売することは難しいのですが、そこに肖像画という付加価値を付ければ儲けられるかもしれません。




しかし、日本を再訪したローゼンは、もっといい商売に気づきます。


米軍占領下の日本では、物資が困窮しており、米などの食料は配給制になっていました。

そして、その配給をもらうためには、本人を証明するカードが必要でした。このカードには、証明写真がつけられていました。


電車に頻繁に乗る人は、定期券のために証明写真が必要でした。

まだ職も少ないこの時期、就職するための履歴書にも証明写真が必要でした。

学校に通うものは、学生証のための証明写真が必要でした。



とにかく、証明写真の需要はたくさんあったのですが、先に書いた「アメリカでの写真革命」はまだ日本に入ってきていませんでした。


日本では、写真が必要であれば写真館で撮ってもらうのが普通でした。

そして、250円という当時では高いお金を払った上に、3日も待たないと写真が出来上がらないのです。


#うどん一杯20円、あんぱん1個10円の時代です。



彼は当初、アメリカで商売することを考え、そのための安い人材として日本を利用しようとしていました。

しかし、アメリカで安くなった技術が、日本ではまだ珍しいものであることに気づいたのです。


彼はビジネスプランを変更し、アメリカでの「写真革命」を、日本で提供する方法を考え始めます。




アメリカでの写真革命…Photomat は、今でいう「証明写真撮影機」のはしりです。

椅子に座って 25セントを入れると、4ポーズ・4枚の顔写真を撮影し、2~3分で現像済みの写真を出してくれます。


ローゼンは、これで撮影した写真を日本に送り、肖像画を描かせようとしていたのです。


#当時は固定相場で、1ドル=360円。25セントは 90円になります。



証明写真用としてこれを日本で展開すれば、確実に人気になる。

ローゼンはそう考えたのですが、1つ問題がありました。


Photomat で撮影した写真は、やがて色褪せはじめ、2年程度で消えてしまうのです。


とはいえ、たった 25セントで撮影した、ちょっとしたお遊び。

アメリカでは、2年で消えてしまうことを問題視する人はいませんでした。


しかし、日本で証明写真用とするには問題がありました。

食糧配給のための証明カードで自分を証明でき無くなれば、食糧が手に入らなくなることを意味します。

そんなもの、とても売れません。



退色問題は、現像工程の温度管理に問題がある、とわかりました。

写真現像は化学的な現象で、温度により反応速度が左右されるのです。


そこで、ローゼンは Photomat の古い機械を安く入手し、温度管理機構を付け加えます。


彼は、改良された機械を「Photorama」と名付けました。

そして、日本へ輸出・設置を行うのです(1954)。




ローゼン・エンタープライズは、Photorama を1回150~200円の値段設定で提供しました。

写真館よりも安く、2~3分後には写真が手に入ります。


当時は「2分写真」と呼ばれ、大人気となったようです。

設置個所もどんどん増え、1年で 100カ所以上になりました。



「2分写真」の人気の陰で、怒ったのは街の写真館です。

収入の柱であった、証明写真の需要をまるっきり取られてしまったのですから。


当時の日本は米軍の占領下にありましたが、法的にはアメリカ人も日本人も平等です。

しかし、Photorama はローゼンエンタープライズが開発し、ローゼンエンタープライズが販売する、独占商品でした。


写真館の人々は連名で、アメリカ領事館に対して抗議を行ったようです。

米軍占領下とはいえ、アメリカ人の独占商売を野放しにしておくのは、アメリカ人に対する優遇なのではないか。


当時、米軍は占領政策をとるとともに、日本人が米軍に対して不満を抱かないように苦慮していました。

この苦情は、すぐにローゼンエンタープライズに伝えられ、改善要求が出されます。


そこで、ローゼンエンタープライズでは、Photorama の機械を一般に販売することにしました。

これまでは、自社で設置を行ってきたのですが、今後は日本人に販売し、日本人が設置するのです。


これは、ローゼンエンタープライズの管理できる範囲を超えて、Photorama が普及することを意味しました。

自社設置の100カ所に加え、さらに100カ所に設置されたと言います。


ところで、Photorama を運用するには、印画紙や現像液などの消耗品を必要とします。

これらの消耗品は、ローゼンエンタープライズから購入する必要があります。


「直接商売」ではなくなったとしても、利益を上げ続ける構造があるのです。


いわゆる「フランチャイズ制」ですね。

米国ではすでに良くあるビジネス形態で、ローゼンもそれを元に考案したようです。


日本で展開されたフランチャイズ・ビジネスとしては、最初期のものでした。


#1954年の Photorama 提供から1年ほどでフランチャイズに移行したらしいのだけど、正確な時期は不明。

 一般に、日本初のフランチャイズは、1956年にコカ・コーラ社が始めた、とされるのですが、ローゼンのほうが早かったようです。




フランチャイズ制とすることで、ローゼンには暇ができました。

後はほおっておいても利益が上がります。



彼はまた、アメリカでは珍しくもないが、日本にはまだあまりないものを見つけ出し、日本への輸入を始めます。(1957年ごろ)

…コインを入れると一定時間遊べるゲーム、いわゆる「アーケードゲーム」でした。


すでに、サービス・ゲームズ・ジャパンがスロットマシンを輸入していました。

太東貿易や、レメーヤー&スチュアートなど、ジュークボックスを輸入する企業もありました。


これらの「コインオペ機」は、アメリカでの人気が下火になりつつあったのを、安く買って日本で提供しています。

そして、アーケードゲームも同じく、アメリカで人気が落ちつつある産業でした。


スロットは、非合法な賭博として、酒場などで遊ばれていました。

ジュークボックスも酒場や、人の多く集まるところで提供されていました。


ローゼンがアーケードゲームを提供する場所として目を付けたのは、映画館の待合ロビーでした。

ジュークボックスではうるさすぎるけど、次の上映まで暇を持て余す人の多い場所です。


特に、東宝や松竹とは契約を結び、映画館のロビーに機械を置いていきます。

この戦略は大当たりでした。当時、映画は重要な娯楽で、映画館は日本全国にあったのです。



ローゼンは、証明写真機に続いて、アーケードゲーム市場を切り拓きました。

まだ誰も手を付けていない、ライバルのいない市場です。


でも、順調に商売できたのは2年ほどです。

すぐに太東貿易や、サービスゲームズ社が名称変更した日本娯楽機械が、アーケードゲームの輸入に乗り込んできます。




Photorama は、その後同種の機械を日本の企業も作り始め、激戦となります。

ローゼンは、1960年代の初頭にはこの商売から手を引いています。


そしてまた、アーケードゲームの競争は激化しつつありました。


戦後の何もない日本では、商売は楽でした。ライバルがいなかったからです。

しかし、日本が豊かになるとライバルが増え、商売は楽でなくなりました。


ローゼンは、自分の事業を売り払うことに決め、ライバルであった日本娯楽機械と交渉を持ちます。

その結果、ローゼン・エンタープライズと、日本娯楽機械は合併することになります。


新会社名は、セガ・エンタープライゼス(1965)。


日本娯楽機械は、前身である「サービスゲームズ」の時代から、頭文字をとった「セガ」ブランドを使っていました。

そこに、ローゼン・エンタープライズの名前を組み合わせたものです。

(エンタープライゼスは、エンタープライズの複数形。会社が合併したのだから)



社長には、ローゼンが就任します。

ここに、セガが誕生するわけです。


以降は、以前に書いたセガの歴史を読んでください。


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