コンピュータ15ページ目の日記です

目次

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2013-09-03 世界最初のテレビゲームって結局どれなの?
2013-09-05 ジョンおじさん
2013-09-07 余計なことをしたらしい。
2013-09-09 デニス・リッチーの誕生日(1941)
2013-09-10 横井軍平の誕生日(1941)
2013-09-13 エド・ロバーツの誕生日(1941)
2013-09-17 Linux の初公開日(1991)
2013-09-18 ICANN設立日(1998)
2013-09-19 顔文字が誕生した日(1982)
2013-09-20 追悼:山内溥
2013-09-23 FireFox 初公開日(2002)
2013-09-24 みどりの窓口開設日(1965)
2013-09-26 ワープロの日
2013-09-27 ラリーウォールの誕生日(1954)
2013-09-28 パソコン記念日
2013-09-30 日本最初のホームページ開設日(1992)
2013-10-01 KDDI発足日(2000)
2013-10-04 ジョン・アタナソフ誕生日(1903)
2013-10-05 シーモア・クレイの命日(1996)
2013-10-06 ジョン・ワーノックの誕生日(1940)
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世界最初のテレビゲームって結局どれなの?  2013-09-03 22:57:27  コンピュータ

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表題通りのページを公開しました。


公開は2日前。構想は…忘れた。夏休み前。


数年に一度、夏休みの終わるころになると「自由研究で調べているのですが、最初のコンピューターってどれですか?」というようなメールが来る。

だから、わかりやすくまとめた解説ページを書いてやろう、と思い立った。


でも、TX-0 ページを6月末に仕上げたばかりで、もうちょっと宣伝しておきたいな、と思った。

特に、「迷路のねずみ」はゲーム史の研究をしている人にはぜひ知っておいてほしい。

(日本ではほとんど言及されないし、アメリカでも内容について誤解が多かったから)


それで「世界最初のテレビゲーム」と題したページを作ったのが8月頭。


これ、書いておきながらちょっと罪悪感があった。

世界最初、というのは嘘だ。タイトルで釣っている。厳密に言えば、世界最初のテレビゲームのうちの一つ、と呼ばれるものなのだ。



というわけで、夏休み前に書こうと思ったのは「世界最初のコンピューター」の話なのだが、この罪悪感もあって、世界最初のゲームをちゃんと解説しなくてはならないと感じた。それはもう、強迫観念的に。


そこで世界最初のゲームを書き始めた…のだが、思ったより難航した。調べるのが面白かったのだ。

ある程度知っているつもりでいたのだけど、細かな部分で、調べれば知らない事実が出てくる。


世界最初のテレビゲームと呼ばれるものは、大体網羅したつもり。

Nimrod も歴史話にはよく出てくるのだが、これは明らかにテレビゲームじゃないし、話が枝道に迷い込むのを防ぐために割愛した。


同じ理由でチューリングのチェスプログラムも割愛。

話をすれば面白いのだけど、とにかく話が大きくなりすぎた。




よくあるテレビゲームの歴史話では、「SPACE WAR!」「BROWN BOX」「Tennis for Two」の3つは、何もないところからいきなり創作されたことになっている。


これ、自分が歴史紹介を書くのであれば、絶対に「何もないところから湧いて出る」のは避けたかった。

どんなものでも、歴史と言うのは前の時代から受け継いで、次の時代に受け継がれていくものだ。

「何もないところからいきなり」はあり得ない。


SPACE WAR! は、「迷路のねずみ」の影響を受けていることが、「ハッカーズ」に明記されている。

ただ、「迷路のねずみ」が長い間謎のゲームとなっていたために、SPACE WAR! がいきなり登場したように書いてある記述が多いだけだ。


Tennis for Two は、弾道計算機を応用したら自然とああいうゲームになるのが理解できる。

こちらは、弾道計算機の原理を知らない人が多いため、言及されにくいだけだ。


(今回、弾道計算機の原理をざっと説明したが、あれで理解いただけただろうか?

 もっと詳細な説明もしたかったが、これも話が枝葉に入ってしまうので避けた)


ところが、BROWN BOX がどこから出てきたのかが分からなかった。納得のいく説明ができない。

ライトガンがあったり、SPACE WAR! の弾や、ジョイスティックのようなアイディアがあったり、明らかに MIT のゲームの影響を受けているようだが、どこにもそれを示す資料がない。


ベアは軍需企業サンダース・アソシエイツでレーダーの仕事をしていて、MIT関連の MITRE はレーダー網 SAGE を整備した軍需産業。しかも、お互いの本社は隣町。

だから、ラルフ・ベアは MIT で作られたテレビゲームを知っていたのでは…というのが、最初に想定した説明。


でも、この想定は不自然。サンダース・アソシエイツと MITREをつなぐ線は、どんなに資料を漁っても出てこなかった。

ベアは確かにレーダーの仕事をしたが、サンダース・アソシエイツの専門はフレキシブル基板で、ベアの仕事は航空機に搭載するレーダー。SAGE は地上レーダーだから関係ない。


そもそも、ベアが MIT のゲームを知っていれば、BROWN BOX はもっと「まともな」ゲーム機になっていたはずだ。


ずっと悩んで、ベアは本当に天才で、すべてを一人で作り出したのかもしれない…と認めかかった時、「チーム3人目のメンバーであるラッシュは MIT 出身」という資料を見つけた。


これを見つけた時はすごくうれしかった。これでやっと納得のいく説明ができた。

ラッシュが MIT のゲームを知っていただけで、製作の指揮をとるベア自身はゲームを知らなかったのだ。

だから、それ以前のテレビゲームとは思想が分断されている。でも、技術は受け継がれている。




公開直後(数時間後)に、「COMPUTER SPACE は実際には結構人気があり、再生産されたのでは?」という情報をいただいた。

こういう情報はありがたい。早速再調査した。


結果から言えば、これは情報を下さった方の記憶違いだった。

再生産はなかったが、後に2人用が作られている。


しかし「人気があったから2人用も作った」可能性がある。もしそうなら、自分の記述は間違っている。


調査すると、COMPUTER SPACE の大ファンで情報を収集、分析している人(世の中にはそういう人もいるのだ)のページに、「2人用は売れ残った1人用を改造して作られた」と書いてあった。


2人用は、シリアル番号から考えれば少なくとも350台程度は生産されている。

(もしかしたら、650台かもしれないが、確率的には 350台の方がありえそう)


ということは、1500台生産して、350台以上は売れ残ったことになる。



というわけで、公開1日後にこのことを追記した。



頂いた情報が間違っていても、再調査によって最初は気づいていないことに気づく場合がある。

情報はどんなものでもありがたい。




他にも、ツイッターでいろいろな意見をお寄せいただいたり、呟かれたものを勝手に見せてもらったりした。

意見は前向きに取り入れている。本と違って、すぐに修正できるのが WEB のいいところだ。


「テレビゲーム以前のコンピューターゲームも知りたい」と言うような意見もあった。


それも結構面白いのだけどね。

実は、「コンピューター」の定義があいまいで、テレビゲーム以上に大変なことになる。


そう、まずは「コンピューター」の定義を探しに行かないとね。

世界最初のコンピューターを紹介するには、これを避けて通るわけにはいかない。


…「世界最初のコンピューター」は、夏休み中に公開するはずだったのに、まだ書きはじめてすらいないよ。


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別年同日の日記

02年 パズル

12年 サーバー修復

15年 用語選びの難しさ

18年 決算終了


申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

ジョンおじさん  2013-09-05 16:16:59  コンピュータ 今日は何の日

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偶然知ったのだが、昨日(9月4日)はジョン・マッカーシー(アンクル・ジョン)の誕生日だったらしい。

そして、これも知らなかったのだが 2011年10月24日に亡くなっていたらしい。


誕生日祝いと、追悼を込めてすこし記事を書いておこう。


「人工知能」という言葉を考え出した人。

300万ドルもするコンピューターに、「チェスの相手をさせる」という無駄遣いをさせた人。

人工知能のアセンブラとも呼ばれる LISP を設計した人。

LISP で必要だったから「ガベージコレクション」という、今ではコンピューターに必須のアルゴリズムを考え出した人。


他にも数々の業績があるが、詳しくはWikipediaでも読んでくれ。


ともかく、彼がいなければ現代のコンピューターは全く違うものになっていただろうし、それは今の世の中が全然違うものだっただろう、と言うことを意味する。


「現代を形作った」レベルの偉人だが、コンピューター史にでも興味がない限りあまり知られていない。


ここでは Wikipedia ではあまり語られていない話を。




ジョン・マッカーシーは、MITでは学生から親しみを込めて「ジョンおじさん」(アンクル・ジョン)と呼ばれていた。


まだ TX-0 が設置される前、MIT に IBM 704しかなかった時に、学生向けにプログラムの講義を行って、実際に作ったプログラムが動かせるように取り計らってくれた人物だ。


おかげで、300万ドルもして、1分使うにも莫大な使用料が発生しそうなコンピューターを、学生は使うことができたのだ。


とはいえ、ここでいう「使う」というのは、プログラムを動かせた、というだけ。

実際に触ることは許されないし、IBM のオペレーターにパンチカードの束を渡したら、そこらへんで結果が出るまでぶらぶらしてきて、後でプリントアウトを受け取るという使い方。


それでも、ジョンおじさんの後押しもあって大学院生は IBM 704 に「少しだけ」触らせてもらえた。

彼らは、早速 IBM 704 に「ゲーム」を仕込んだらしい。


FX-マイコンのテニスゲームみたいな単純なものだけど。

(IBM 704 にはディスプレイは接続されていないが、動作状況確認のための1列のランプはあった)


後には IBM 709 が IBM から寄贈される。

(なんで寄贈したのかは知らない。MIT は SAGE や APT で IBM にずいぶん恩を売っていたし、当時は誰かがつくったソフトはみんなで共有するのが当たり前だったから、IBM としても開発力のある人々に機械を提供するのは有益だったろう)


すると、ジョンおじさんは、古くなった IBM 704 を改造して、複数人数が直接扱えるタイムシェアリング機能を付けてしまったらしい。

とにかく、コンピューターが高価で一般人は触ることも許されなかった時代に、「直接いじり倒す」ことにこだわっている。


#ジョンおじさんは、タイムシェアリングを最初に考えた人物ではない。

 でも、「自分で」タイムシェアリングの概念を考案し、学生たちを通じて後に大きな影響を与え、現在のマルチタスク処理の元となるものを作り上げた。




TX-0 が来てからも、学生たちはジョンおじさんの指導の下 TX-0 用 Lisp を作ったり、チェスプログラムを作ったりしている。

ハッカーズにも、他の歴史書(?)にも記述がないので不明だが、Tic-Tac-Toe だって迷路のねずみだって「人工知能」の応用なのだから、ジョンおじさんの影響は全くないわけではないだろう。

(もちろん、直接的にかかわってはいないだろうが)


だから、彼がいなければ PDP-1 の「SPACE WAR!」も生まれなかっただろうし、そうなればテレビゲームの歴史もずいぶんと変わっていたはずだ。

もちろん、時代の流れでコンピューターはどんどん安くなっただろうし、どこかで誰かが似たようなものを発明したとは思うが。




ある日、ジョンおじさんは学生たちに「ついにチェスのプログラムが出来上がりました」と、PDP-1 の前に座らされた。


当時のディスプレイ表示は「高度な技法」だったので、人工知能ではあまり使われない。

Qubic もそうだが、チェスのプログラムもチェスボードを横に置いて、どのように動かすかをキーボードからコンピューターに伝えると、コンピューターからもプリンタで「動き」を返してくる、と言う方法だ。


ジョンおじさんが1手目を指すと、プログラムがしばらく考えてから動きをプリントアウトする。

しばらく対局していても、なかなかいい手を指してくる。


しかし、ジョンおじさんはプリントアウトが1文字づつとゆっくりで、妙に間が空いているのに気が付いた。

チェスの「動き」は3文字で表現されるが、コンピューターがプリントアウトするなら、3文字を連続して出力するはずだ。


ふと気が付くと、PDP-1 から何やらケーブルが伸びている。

そのケーブルは TX-0 が置いてある隣の部屋へ続いていて…


ジョンおじさんが隣の部屋への扉を開けると、同じように TX-0 の前でチェスをしている、別の教授がいた。

学生たちは TX-0 と PDP-1 を接続して、二人の教授をだましたのだ。


学生たちが気軽にこういうイタズラをするところが、ジョンおじさんがみんなから慕われていた証拠だと思う。

仲の良い人でないと、イタズラなんてしないもの。


#チェスプログラムは、その後ちゃんと完成しましたよ。


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余計なことをしたらしい。  2013-09-07 10:28:06  コンピュータ

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メダル刻印機の中身はMSX!?という記事があった。


Twitter 見てたら、この記事の筆者の方が「どうも違うようだが、製作元に聞く勇気がない」とつぶやいていた。

製作元がどこかもわかっているようだし、WEBページへのリンクもあった。


そして、製作元のWEBページをみるとかなりフレンドリーな感じで、なんでも気軽に問い合わせてください、とメールアドレスもあった。

じゃぁ、問い合わせればいいじゃん、と勝手に問い合わせ。


そしたら返事が来た。MSX ではなくて独自基板ですよ、とのこと。

すぐに筆者さんに教えた。


すでに上にリンクしたページは製作元が独自基板と明かした、と言う情報も書かれている。




これが /.J の記事になったらしい


引用:ある勇敢な有志によって真実が明らかになったものの、MSXファンの夢がまた一つ失われた。


あれ?


引用:真実を調べちゃうなんて、夢がないなあ。調べたって誰も得をしないわけだし。


あれあれ?


なんか、余計な事しちゃった感じ?


えーと、申し訳ないので、MSXがらみの夢のある(?)ネタを提供します。




あれは確か 1990年の夏…だったと思う。

僕は X68k を購入するために、近所の工場でバイトをしていました。


この工場、当時は世界の光ファイバーの9割を生産している、というすごい工場でした。

まだ ISDN とか普及する前ね。実際には、ISDN は普及していなくても、NTT のバックボーンはどんどん光回線に置き変えられている最中。


ここで、生産管理に MSX が使われていたんですよ。(MSX2 の HB-F1XD でした)

まだ「次世代」だった通信網の生産拠点に MSX が活用されていたって、すごい話だと思いません?



…えーと、身もふたもない話をしてしまえば、安いから使われていただけだと思いますけどね。


仕事内容は、手作業での生産ペースを調べるべく、「1本完成したらスペースバーをたたく」という、生産速度の監視目的でした。

これで、生産本数とその時間を正確にディスクに書き込んでいき、あとで解析することで現場の生産能率などを割り出します。


そして生産管理に反映する、というだけ。ストップウォッチとカウンターでできそうな仕事だけど、仕事の邪魔をしないようにプログラム作ったんでしょうね。


#生産現場では、時々「治具」が改良されて生産能率が上がるので、時々現状の生産速度を測定する必要がある。



当時は僕も MSX ユーザーでプログラムを組んだりしていたので、興味をもって工場の人に聞いたところ、能率を上げるために時々いろいろな生産現場でこうしたチェックを行っていたようです。


生産内容に合わせてプログラムを多少変更したりすることもあって、BASIC でさくっとプログラムを組める MSX が便利なのだと言ってました。

もっとも、それほど作りこまれたプログラムではありませんでしたけどね。

(プログラムは「道具」に過ぎないので、肥大化させてデバッグが大変になるようだと本末転倒)




バイト中に作った光ファイバーケーブル、完成すると隠れてしまう部分にこっそり自分のサインとか入れたのが数本あるのだけど、今もどこかで活躍しているのかな…



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デニス・リッチーの誕生日(1941)  2013-09-09 09:53:29  コンピュータ 今日は何の日

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今日(9月9日)はデニス・リッチーの誕生日。1941~2011。


デニス・リッチーは、今の僕たちの生活を作り出した偉人の一人…と言ってもあまり知られてないよね。


K&R の R のほう、と言えばわかるだろうか?

いや、K&R を知っている人がそもそも少ないか。


K&R は、コンピューター業界最大のベストセラー、と言われた書籍だ。

正式には「プログラム言語C」という本。

同様の題名の本がたくさんあるので、執筆者の名前をとって「K&R」と呼ぶ。


K&R にも1版と2版があるのだけど、特に狭義には1版を呼ぶ。

なぜなら、これが世界初のC言語の教科書だったためだ。


一部では聖書とも呼ばれる。僕の知人は、1版を旧約、2版を新約と呼んでたな。

古典であり、大ベストセラーであり、今でも売れてるロングセラーだと考えると「聖書」というのも言い得て妙だ。


C言語でなくてもいいから、プログラムをやってみようと思ったことがある人は、「Hello World!」って書くプログラムを最初に目にするんじゃないだろうか。


これは、K&R の最初のプログラムがそうだったから、と言う理由による。

聖書の最初に書かれた「光あれ!」みたいなものか。




K&R の話をしたいのではない。

リッチーはC言語の開発者だ。


リッチーを手伝ったのが、ケン・トンプソンとブライアン・カーニハン。

K&R の K は、カーニハンの方だが、彼の証言によれば、C言語はリッチーが一人で作ったのだという。


#先に書いた Hello World! というサンプルプログラムは、カーニハンの発案だそうだ。



もともとは、ケン・トンプソンが発端だ。

彼は Multics という OS で動作していたゲームが遊びたくて、個人用に Unics という OS を作る。

Multi (たくさん)に対して Uni (ひとつ)という洒落だ。これが後の UNIX になる。


彼はこの OS を知人に開放する。カーニハンやリッチーも知人だった。

みんなでよってたかって改良できたおおらかな時代。UNIX はどんどん高機能になった。


ある時、新しいコンピューターを入手して、そちらを使うことになった。


今まで皆で改良して使い慣れた UNIX を使いたい。

しかし、当時のコンピューターは、同じメーカーのものでも互換性なんて考慮されていないのが普通。

「良いコンピューターを作る」のに全力で、過去を振り返るなんてできない時代だ。


また一から UNIX を作り上げる…のは嫌だった。

なにより、将来別のコンピューターを買うたびに同じ作業が発生するのはごめんだ。


そこで作られたのが「コンピューターを限定しないアセンブラ」である、C言語だ。


アセンブラとは、コンピューターごとに全く異なる「機械語」(2進数)を、1対1対応で人間にわかりやすくした言語だ。

1対1対応だから、コンピューターが変わるとアセンブラの言語構造も変わる。

これでは、将来性なんて保証できない。


当時も FORTRAN や LISP のような高級言語は存在した。

しかし、高級言語は OS の上で動かすのが前提だった。OS そのものを作るのには使えない。


#ここでいう「高級」とは、ハードウェアを直接意識しないでも良いことを意味する。

 具体的には、メモリの使い方とか、周辺機器のアクセス方法を知らないでもプログラムが組めるという意味だ。


そこで、アセンブラのように「低級」で、しかしアセンブラと違ってコンピューターが変わっても大丈夫な言語を設計した。

これがC言語だ。


#当時知られていた BCPL という言語があり、これを単純化したので頭だけ取って B として、それを拡張したので C と名付けた、という逸話がある。

 ただし、これは言語開発の歴史を表現しているだけで、言語構造の移り変わりはそんなに単純ではない


UNIX はC言語で書き直され、C言語自身もC言語で書き直された。

さらに UNIX 上で作られていた数々のソフトもC言語で書き直され、最後にC言語は「新しい機械のプログラムを生成するように」改良された。


これで、UNIX の全ての環境が新しい機械用に作り上げられた。

同時に将来の保証も手に入れたことになる。


#C言語の誕生は1972年のこと、とされている。

 UNIX がCで書きなおされたのは1973年のこととされるので、ここら辺徐々に出来上がっていったもので、「どこかで完成」ではないだろう。




C言語は今では「古い言語」とみなされているが、まだまだ現役で使われている。

なぜなら、これがアセンブラだからだ。


本当にアセンブラでないと書けないプログラム、というものもあるが、大抵はC言語で事足りる。

でも、C言語でない言語ではダメだ。アセンブラレベルの「低級」なことができないから。


C言語は非常に卓越したバランス感覚で成り立っている、と思う。


C言語作成時には、すでに goto 不要論はあった。


しかし、C言語には goto がある。

goto 不要論を意識したのか、名前を変えた goto 命令も沢山あるし、switch なんて構造化の概念を崩しかねない危険なものまである。


高級言語なら、メモリ構造がどうなっているかなんて気にしなくてよい。

しかし、Cの配列や文字列型などは、メモリ構造がわかっていないと扱いづらい。

共用体などに至っては、CPU がメモリ上にどのように値を配置するかを考慮しなくては使えない。


なんでこんなことをしたかと言えば、アセンブラで当たり前のことが、C言語以前の高級言語ではできないからだ。


一見すれば高級言語のように見えるのだが、実はアセンブラレベルに低級。

これがC言語の特徴だし、他にこんな言語はない。


卓越したバランス感覚がなせる業だ。

リッチーは、このバランス感覚を持ち合わせていた稀有な人間だ。


そして、これがC言語が古いものでありながら今でも使われている理由だと思う。




もちろん、今では後継の C++ や Objective-C が使われることも多いだろう。

しかし、それらの言語だって、基本は C なのだ。

(実際、C++ を便利な C 言語程度にしか使っていない人は非常に多い。

 // って書くと、コメントの最後を閉じなくていいんだぜ!)


誤解を恐れず言ってしまえば、プログラム中に { } がやたら多い言語はC言語の子孫にあたる。

C# C@ なんかは名前も似ている。Java Javascript なんかもそうだ。

awk perl PHP などもそうだ。


#awk は開発者3人の名前を取った言語だが、k はカーニハンだ。

 perl は awk をパワフルにした言語で、PHP は perl から生まれた言語。


C言語と名前が似ている言語は、主にパソコンのプログラムに使われる。

Java や Javascript は WEB ブラウザでよく使われる。Flash でつかう ActionScript も javascript の仲間だ。

そして、perl や PHP は WEB サーバーでよく使われる。


ちなみに、iPhone アプリは Objective-C で作られ、Android アプリは Java で作られる。


PC、スマホ、WEBクライアント、WEBサーバーのすべてで、C言語の子孫たちが動いている。

つまり、僕らの生活はC言語とその子孫がないと成り立たない状況だ。


この言語を作り出したリッチーは、僕らの生活を大きく変えた人物だった、と判っていただけただろうか?



2016.9.9追記


今年の頭頃、別件調査中に、リッチーが作っていたWEBページが保管されているのを発見。


C言語が BCPL から作られたように言われているのがかなり心外なようで、BCPLの文法は全然違うことを一生懸命説明しています。


BCPL の作者が、C言語と文法が類似していることを示しているが、そんなのデタラメだ!

…というような内容なのだけど、リッチーの主張もかなりデタラメなのは、以前に書いたとおり



この関連話題、掘り下げると深かったので、どこかでまとめたいと思いつつまだ書いていません。



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横井軍平の誕生日(1941)  2013-09-10 09:29:51  コンピュータ 今日は何の日

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横井軍平の誕生日(1941)

今日は横井軍平さんの誕生日。1941~1997年。


この人は有名でしょう。任天堂を「花札とトランプの会社」から「おもちゃ/ゲーム会社」に変貌させた立役者。

軍平さんの好んだ「枯れた技術の水平思考」という言葉は、今でも時々引き合いに出されます。


十分に使われ、安価で信頼性が高くなった技術を工学分野では「枯れている」と表現します。

水平思考とは、本来の目的にとらわれず、広い視野で考えろ、ということ。


つまり、先の言葉は、安くて信頼性の高い技術を、本来とは違う分野で使えば新しい発見がある、という意味です。




ウルトラハンドのヒットは僕が生まれるより前の話だけど、僕が子供のころにはまだ「安い偽物」をよく見かけました。

駄菓子屋に安い偽物が出回るって、かなりのヒットだったってことだよね。


軍平さんは、ウルトラハンドを「暇つぶしで」作っていたのを社長に見つかって開発に引き上げられるのだけど、その後も多くのおもちゃを作り上げます。


手がけた作品は Wikipedia とかで見ることができるけど、多くのおもちゃは僕が生まれる前か、幼少の頃なので特に語れない。

N&B ブロックなら語れるが、これ自体は軍平さんの考案ではない。


というわけで、僕が知っていて語れるのはテンビリオン(冒頭写真のもの)あたりかな。


ルービックキューブが流行した時に作られたパズル。なぜか家に2個もある。

ルービックキューブの模倣品は山ほど出たのだけど、デッドコピーを除けば一番売れたのはこれではないだろうか。


ルービックキューブはかなり難易度が高いのだが、テンビリオンはしばらくいじっているとパターンが見えてくる。

じつは、ちょっと動きを複雑にしたスライドパズルで、動きの規則がわかってくると繰り返しパターンでなんとか解くことができる。


この「規則を発見すれば、時間はかかるが自分で解ける」という難易度が絶妙で、ドイツを中心としたヨーロッパで大ヒットとなったそうだ。


もっとも、軍平さん自身は仕組みを考えて「パズルとして成立するだろう」と言う程度で、自分では解けなかったらしい。

スライドパズルとの類似性は、発売後に明らかになっただけ。




テンビリオンの次の軍平さんのヒットは、「ゲーム&ウォッチ」だ。

電卓戦争を過ぎて電卓が一般化し、安く作れるようになった。じゃぁ、その技術でおもちゃを作ったらどうなるか? という発想。

「枯れた技術の水平思考」だ。


このシリーズを作る途中、ドンキーコングで「十字ボタン」という最大のヒットアイディアも飛ばしている。


ゲーム&ウォッチのドンキーコングはこのサイトで遊べるね。


#上のサイト、著作権問題微妙。ゲームは問題ないが、キャラクターなどの絵柄が…

 もっとも、真似して書いたのではなく写真を使っているため、「事実の報道」に近い立場で問題ないともいえる。


そして、十字ボタンのアイディアを引き継いでファミコン登場。

ただし、ファミコン自体は軍平さんの作ったものではない。


今でこそ左手の親指で十字ボタン、右手で各種ボタン、と言う操作が当たり前だけど、ファミコン当時のゲーム機はそうではなかった。


大体、業務用ですら「自分の移動は右手か、左手か」というのがよく議論されたものだ。

業務用でも中央にジョイスティックを置いて、左右に同じ機能のボタンを配置している場合があった。


このころの家庭用ゲーム機では、小さなジョイスティックが付属していることが多かった。


少し縦長の台を片手で持ち、もう片方の手でジョイスティックを操作する。

ボタンは台についていて、持っている手で押す。上位スティックの上についているタイプもあった。


当時は他にないから疑問には思わなかったが、あまり使いやすくはなかった。

ボタンを押すために台が揺れると、ジョイスティックが「傾いた」と判定されてしまうことがあるのだ。


これに比べると、十字ボタンは、現在押している方向がはっきり伝わる。

もっとも、初期の(四角ボタンの)ファミコンでは、押すための力が強めでなくてはならず、斜めに入れづらかった覚えがある。


当時は「そういうものだ」と思っていたのだが、後にファミコンが壊れて修理してもらったら丸ボタンに変わっていて、斜めに入れやすい程度のボタンの硬さに変わっていた。

ボタンの形はよく話題になるが、こうした地味な改良も行われていたのだ。



ファミコンの十字ボタンがあっという間に世を席捲したのは皆が知っての通り。

先に書いた「右手・左手論争」も、ファミコンの普及と言う圧倒的事実の前にいつか消えてしまった。


この十字ボタン、特許の絡みもあって他社は真似できない、とよく言われたが、セガもソニーもうまく特許回避して真似ていた。真似したくなるほど出来が良かったのだからたいしたものだ。

(もっとも、セガの「真似」は、斜めに入りやすすぎる問題があった。ソニーはうまく真似したし、今でも基本的な形が変わっていない)




軍平さんはその後、ゲームボーイやバーチャルボーイも作っている。

…バーチャルボーイは黒歴史だから忘れてやれって人も多いが、無視するのも不自然だろう(笑)


ゲームボーイは、任天堂のその後の屋台骨の一つですね。

軍平さん自身も自身の最高傑作の一つだと考えていたようだけど、実際すごくよくできている


これを真似したゲームギア(セガ)や Lynx(アタリ)はカラー液晶だった。

それをみて「(相手が)カラーなら勝てる」と言ったとか。


機能スペックではなく、「おもちゃ」としての全体バランスを重視していたエピソードだ。



そして、バーチャルボーイを最後に任天堂を退職。


#実際にはゲームボーイポケットが最後だけど、これはマイナーチェンジだ。


当初はバーチャルボーイ大失敗の責任を取った、みたいに言われたけど、事実は違うようだ。


ゲーム業界はこの頃から開発競争が激化し、最新技術を惜しみなく投入するようになった。

これは、軍平さんの好きな「枯れた技術」ではないのだ。つまり、任天堂にいても好きな仕事を続けることができなくなった。


また、50を超えたら好きなことをやりたい、と以前から思っていたともいう。これも事実だろう。


そして、株式会社コトを設立。

ワンダースワンなどを作るが、わずか1年で交通事故により死去。




今、コトはどうなっているのだろう?

と思って調べたら、ベネッセと仲が良いようで、チャレンジの教材などを作っている。

最新作は「漢字計算ミラクルタッチ」。


…うちの長男が持っている。今年の小学3年生が1年間使うために、4月号で届けられた教材だ。


3年生で習う漢字と、計算がすべて学習できるように作ってある。

学習時間などを測るタイマー機能もあるし、毎日の勉強時間が来ると教えてくれるアラームにもなっている。


白黒液晶だけどスマホ風のタッチパネルだし、ちゃんと勉強すればご褒美のゲームが遊べるようになる。

たまごっち的なキャラ育てゲームにもなっていて、勉強しないとキャラが育たない。


非接触通信なんかも搭載していて、友達と簡単な通信ゲームもできるようになっている。


特に突出した部分はないのだけど、いろいろなアイディアをそつなく盛り込んである。

まさに、「枯れた技術の水平思考」なのだろう。


基本的にはただの「お勉強タイマー」と考えてよいのだけど、時々イベントが起こる程度、というのんびりさ加減が上手いようだ。うちの子は結構楽しんでつかっている。


案外身近なところに軍平さんの遺志が継がれていることに驚いた。



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エド・ロバーツの誕生日(1941)  2013-09-13 10:07:09  コンピュータ 今日は何の日

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今日(9月13日)はエド・ロバーツ(1941~2010)の誕生日。


…先日から始めてみた「今日は何の日」シリーズ、選択が渋すぎて誰かわかる人がいるとは思えない日が多い。

エド・ロバーツの名前は知らなくても「アルテア8800の作者」と言えば…あれ? やっぱわからない?




話は唐突に CPU の歴史話に。


インテル社が 4004 という LSI を発売したのが 1971 年。

開発話は面白いけど、今回は趣旨違いなので割愛。この LSI 、世界初の 1チップ CPU だった。


もっとも、4004 は 4bit で、電卓用に開発されたものだ。プログラム可能な能力を持っていたが、その能力も電卓を作る程度が限界になる設計だった。


その後、8bit 化した 8008 が作られる。名前は似ているが互換性はない。

さらに 8080 が作られる。これも上記2つとの互換性はない。


しかし、互換性を切り捨てただけに 8008 よりずっと使いやすかった。

…ここでいう「使いやすさ」とは、この LSI を利用して回路を組むことが容易だった、と言う意味だ。


#以下、8008 と 8080 は似ていて読みにくいので、8oo8 8o8o と表記する。凸凹の違いでわかってくれ(笑)


8oo8 では、周辺に 20個程度の LSI を組み合わせる必要があった。

8o8o では、6個程度の LSI で動くのだ。ずっと回路を作りやすかった。


8o8o はプログラマーから見ても使いやすいように改良されていた。

8oo8 までは、電卓や組み込み危機に使うことを念頭に命令セットが決められていた。しかし、8o8o では汎用性を重視し、大ヒットしたミニコンピューター PDP-8 の命令を研究して作られていた。


そのうえ、回路の見直しにより、8oo8 の4倍以上の速度で動作した。


8o8oは、1974年2月13日に発表された。1個 350ドル。


8o8o が参考にした PDP-8 は、当時まだ廉価機種の販売が続いていて、5000ドル程度だった。

この値段の衝撃がお分かりいただけるだろうか?


#事実、PDP-8 は1970年代前半にはまだ売れていたが、この後急に売れなくなってしまう。




さて、エドの話に戻ろう。


彼は MITS 社と言う会社を持っていた。もともとはホビーロケット向けの道具を作っていたが、そこから各種センサーなどを販売するようになっていた。

さらには電子工作に興味を持ち、LED類や、それらを使ったデジタル時計のキット販売、ついには自分で計算機が作れるキットまで販売していた。


ところが、インテルが 4004 を発売したころから風向きが変わる。電卓が1チップで作れるようになり値下がりすると、わざわざ自分で計算機キットを作る人間はいなくなってしまった。

そして、MITS 社は倒産寸前まで追い込まれる。


エドは、ここで 8oo8 に目を付けた。


当時、マニアの間で 8oo8 を使った自作コンピューターの作成が流行しつつあったのだ。

事実、8oo8 を使用したコンピューターキットも、小規模だが売られてはいた。


しかし、8oo8 は扱えるメモリも少ないし、周辺回路も大規模で、キットを入手しても組み立ては大変だ。

きっとインテルは 8oo8 の改良版を出す、とエドは確信していた。その時が勝負だ。


…そして、インテルは 8o8o を発表する。

エドは、すぐにインテルと交渉し、すくなくとも 400個を買い取ることを条件に1個75ドルまで値段を下げさせる。


そして、発表から1年足らずで 8o8o を使用したコンピューターを完成させる。



エドは、ポピュラーエレクトロニクスという雑誌に、何度か寄稿したことがあった。

そのため、編集長に電話をかけ、新しいコンピューターを作ったことを伝えた。


編集長はぜひすぐにでもコンピューターを見たい、と言ったので、1台しかないプロトタイプを空輸した。

ところが、このプロトタイプは何かの間違いで、輸送中に行方不明になった。


仕方がないので編集長は、動作を確認できないまま、適当な箱にスイッチや LED を取り付けただけの偽物の写真を表紙に使った。




アルテアの名前の由来には諸説あるが、エドが名付けたのではないことは確かだ。

とにかく、エドはこのコンピューターにいかなる名前も付けていない。名無しだった。


名無しのコンピューターでは雑誌の表紙を飾りにくい、と編集長は考えた。何か名前を付けなくては。

ちょうどその時、12歳の娘がテレビでスタートレックを見ていた。編集長は娘に尋ねる。

「コンピューターに名前を付けたいと思っているのだが、スタートレックのコンピューターの名前はなんていうの?」


娘はしばらく考えて「コンピューター」と答えた。

どうもこの答えは父親の求めているものとは違うようだ、と気づいた娘は「アルテア、と言う名前はどう? そこは今夜エンタープライズ号が行くところなの」と別の名前を提案した。


別の説によれば、編集長は「ポピュラーエレクトロニクス」の頭文字をとって PE-1 と名付けようとしていた、とされる。

この名前はかっこよくないと考えた副編集長と雑誌ライターが「これはすごい(stellar)ことだから、星(stellar)の名前を付けよう」と、アルテアと名前を付けた。


ちなみに、アルテアとは日本ではアルタイルと発音される、七夕の彦星のことだ。


どちらの説が真実かはわからない。真実は別のところにあるのかもしれない。

いずれの説でも、8800 という型番の由来は不明だ。CPU は 8o8o なのに、なんで 8800 なんだろう?




アルテアの写真…先に書いたインチキ写真は、ポピュラーエレクトロニクスの 1975年1月号の表紙を飾った。

397ドルでキット販売されることも告知された。


メモリは 256バイトしかなく、入力は2進数トグルスイッチ、出力も2進数 LED しかないマシンだ。

コンピューターと言っても、何かができるわけではなく、CPU の動作が確認できる程度。

こんなもの、マニアでないと買わないだろう。


エドは、この機械が 400台くらいは売れるだろうと予想していた。

だんだん評判になって、半年で 400台くらい売れればいい。そうすれば、会社は倒産しないで済む。


ところが、雑誌の発売日の午後だけで、400台を超える注文が入った。


その後も電話が次々かかってくる。1か月たたないうちに、注文は4000台を超えた。

個人で買えば、CPU だけで 350ドルなのだ。それがキットで 397ドルなら安いものだ。


#8o8o を開発した嶋氏が当時アメリカで最初に住んだ「超々豪華なアパート」の賃料が月額 250ドルだったという。

 また、4ドルあればおいしい料理が腹いっぱい食べられたという。

 397ドルは、安いとはいってもかなりの額だ。


アルテアは爆発的なヒットになった。

しかし、実はこの時点で生産体制は整っていなかった。


たった1台のプロトタイプはどこかへ紛失してしまい、回路設計は完成しているものの、キットとして販売できるだけの準備がなかったのだ。

最初の注文者に実物がわたるまで、半年近くかかることになった。



アルテアは、メモリに好きな値を書き込む機能と、CPU を動作させる機能以外ほとんど何も持っていなかった。

ただし、拡張性には気を使っていた。

テレタイプを接続すれば、本格的なミニコンピューターとしても使える設計だった。




アルテアの「本体」は、実は CPU もついていない、スイッチと LED だけの回路だ。

ただし、よく考えられた拡張スロットが 18個もついている。


アルテア 8800 では、このスロットのうち1つに「CPU ボード」が取り付けられ、もう一つに「256バイトRAM」が取り付けられる。


メモリカードを取り換えればメモリ増設ができる。MITS 社は 4Kbyte RAM ボードの発売を予告していた。

また、後には 8o8o 以外の CPU に対応したアルテアも発売されている。


4K RAM ボード以外にも、MITS 社はアルテア用の拡張ボードを数多く計画していたし、動作するプロトタイプもあった。

しかし、本体の供給すら間に合わない状態では、拡張ボードの販売なんて夢にすぎなかった。


そこに目を付けた他社が、サードパーティー商売を始めた。

最初は、MITS 社がなかなか発売しない拡張ボードを作成し、販売を始めた。

そして、いつまでたっても本体の供給が間に合わないとみると、互換本体も売り始めた。


アルテアは、世界初のパソコンだった。

そして世界初の周辺機器メーカーが乱立し、世界初の互換機ビジネスが始まった。


これにより「パソコン業界」が一気に立ち上がる。




このアルテア、互換機、および 8o8o自作コンピューターのマニアたちを集めたのが、「ホームブリュー(密造/自家製の意味)コンピュータークラブ」だ。


このサークルからアップル社が生まれることになる。

また、マイクロソフトも、アルテア BASIC の作成から始まった会社だ。


これらの話も非常に面白いのだけど、今回は趣旨違いなので紹介だけにとどめておく。


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Linux の初公開日(1991)  2013-09-17 06:17:00  コンピュータ 今日は何の日

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Linux の初公開日(1991)

今日は Linux の初公開日。

1991年、Linux カーネル 0.01 はインターネット上の MINIX ニュースグループに投稿されました。


当時は 80386 が出たばかり。

…って言ってもわからない人の方が多いだろうな。Intel の CPU が 16bit から 32bit になって、でも OS は DOS しかないから、みんな 386 を「16bit 互換モード」で動かしていました。


もちろん、386の性能を活かしきることなんてできません。どうしても性能を引き出したい人は、DOS 上から 386 のネイティブモードに移行してからプログラムを実行する「DOS EXTENDER」と呼ばれるソフトを使っていました。


FM-TOWNS でも、 RUN386.EXE を使ってましたね。

ほかにも GO386 とか EXE386 とか、いろんな会社から発表されていました。


でも、これは結局小手先のごまかしにすぎません。

パソコンマニアは、386 の性能を引き出せる OS を求めていました。




当時、MINIX という、8086 (16bit)で動く UNIX 互換の OS がありました。

(当時僕は大学生でしたが、先輩が PC9801 用の MINIX を入手して喜んでいたのを思い出します)


この OS はそれなりによく出来ているのですが、目的の一つが「OS の勉強用」だったため、できるだけ複雑な処理は行わないように作られていました。

そのため、簡素な 16bit 用につくられていて、32bit への拡張予定もありませんでした。


#当時の話。現在は 32bit 対応しています。


そして、Linus Tovals(以下、Linux と混乱しやすいのでリヌスと表記)は MINIX で OS を勉強し、新たに 32bit 対応の OS を書き起こします。

ある程度動くようになった最初のバージョンを発表したのが、1991年の今日、と言うことになります。


ちなみに、当時はまだ WEB はありません。

情報交換には、文字中心のニュースグループが使用されていました。まぁ、掲示板みたいなものだと思ってください。


リヌスは MINIX で勉強したので MINIX のニュースグループに投稿したわけですが、これはある意味「スレ違い」でした。リヌスの新しい OS は、MINIX ではないのですから。


ここで、MINIX の開発者であるタネンバウム教授と、リヌスの間で激しい議論が交わされます

後に「喧嘩になった」とされていましたが、実際にはお互いの思想の違いなどを説明し合い、お互い始終冷静だったと言います。


そして、お互いの考えは相容れないことがわかりました。


タネンバウム教授は教育用にお手本となる OS を求めていたため、誰でも使える古い CPU の機能のみで作る一方で、プログラム的には最新技術を取り入れていました。

一方で、リヌスは実用になる 32bit OS を求めており、最新技術を使うよりも、使い慣れた古い技術で作りたいと考えていました。


リヌスは MINIX とは袂を分かち、新しい OS を独自に育てることにしました。

この時、MINIX コミュニティの中でも、PC 上で動く実用になる UNIX を求めていた人たちは、リヌスについていきます。


#当時、まだ PC 用の BSD はありませんでした。

 PC 用 BSD の始祖である NetBSD の登場は 1993年。




OS に詳しくない人のために、説明しておきます。

一般的に、OS を購入すると、最低限必要な周辺ソフトも一式付いてきます。


しかし、狭い意味では OS は「コンピューターを制御する部分」のみです。

ユーザーの入力を受け付けるのは、OS の上で動く別のプログラム。


狭い意味での OS を「カーネル」、ユーザーの入力を受け付ける部分を「シェル」と呼びます。

さらに、シェルから呼び出されて動くアプリケーションなどがあります。


リヌスが作った Linux 0.01 は、カーネルのみです。

しかし、すでにフリーソフトとして存在したシェルを使うことで、一応ユーザーの入力に対して反応できる、と言う程度のものでした。

ちょっと複雑なアプリケーションを動かそうとすると、上手く動かずにハングアップします。


1か月後には 0.03 が作られ、コンパイラ(結構複雑なアプリケーションです)を使って、カーネル自身のプログラムをコンパイルすることが可能になります。


当時、UNIX は非常に高価なワークステーションで動くのが普通でした。

パソコンは 16bit 、ワークステーションは 32bit で、明確な棲み分けがあったのです。


MINIX は UNIX とはいっても 16bit ですから、アプリケーションを動かすのには、複雑な移植作業が必要でした。

しかし、Linux は 32bit です。多少の移植作業が必要なことはありましたが、多くのソフトがほとんどそのままか、簡単な手直しのみで動きました。


コンパイラが動くようになれば、多くのアプリケーションが移植されます。

リヌスが作ったのはカーネルだけですが、UNIX にはプログラムソースが公開されたフリーソフトが沢山ありました。


つぎつぎアプリケーションが移植され、カーネル開発も進み、Linux は「PC用の UNIX」としての地位を固めていきます。




UNIX には、大きく分けて SystemV と BSD の2つの系統がありました。


BSD には先進的な機能が次々実装され、多くの人が BSD を使った時代もあります。

しかし、Linux が出てきた頃は、SystemV が BSD に追いつき、総合力で上回ろうとしていた時でした。

リヌスは、Linux を SystemV 互換として作っています。

しかし、「少し前の時代」は BSD が全盛でした。フリーソフトの多くは、BSD 用に作ってあります。


移植しやすいように、Linux は BSD の機能も数多くサポートしています。

SystemV 互換だけど、BSD にもかなり似ている。この節操のなさが Linux が広まった理由に思えます。

主に BSD 互換のアプリケーションを使っているため、細かなコマンドオプションの違い(同じ名前のアプリケーションでも、BSD と SystemV ではわずかに使い方が違う)などは、ほとんど BSD 互換になっています。


これもまた、BSD を使い慣れたユーザーが移行するのによかったように思います。


OS としての全体が整うと、簡単にインストールできるようにまとめた「ディストリビューション」が登場します。

これによって、気軽にインストールができるようになると、Linux はますます地位を向上させていきます。




僕が最初に Linux に触れたのは大学のころ、FM-Towns 用の Slackware + JE でした。Laser5 で売ってたやつ。

(Linux は IBM互換機用でしたが、FM-Towns にはいち早く移植されていました。

 Slackware は、Linux を誰でもインストールできるようにした、最初のディストリビューション。

 JE は Japanese Extensions 、日本語を扱えるようにするための拡張パッケージです。

 Laser5 は CD-ROM 専門のソフトショップでしたが、このような独自の CD-ROM も作成して売っていました)


当時、日本の Linux 界には「タコは財産」という言葉がありました。

タコとは、どうしようもない初心者のこと。


今でも聞いてばかりの初心者に対して「ググレカス!」とひどい言葉を投げつける人がいますが、当時も同じような風潮はありました。


しかし、MINIX コミュニティに受け入れてもらえなかった、というところから始まる Linux では、どんな初心者であろうと「仲間を増やす」ことが大切だと考えられました。

初心者であっても、興味を持って続ければいつか上級者になる。そういう人を増やすことが大切だ…というわけです。


Laser5 の Slackware + JE では、おまけにシールが付いてきました。

「Linux inside」と「タコ」のシールでした。この頃はまだ TUX 君は Linux のマスコットではなく、日本での事実上のマスコットは、この「タコ」でした。


…シールを公開したいと思ったのですが、探しても見当たりません。もういらないと思って捨ててしまったのかなぁ。


後日追記 2015.1.12

タコシール発見し、この日記冒頭に表示しています。(クリックで拡大します)

また、リンク先のツイートで見られます。

追記終り。




僕は、Linux を導入しようとしたころ、まさに「タコ」でした。

大学で UNIX を使い始めたばかりだったので自宅にも…とおもったのですが、ただのユーザーと管理者ではやることが全然違います。

もっと言えば、大学の UNIX も、よくわかっていない大学院生が管理しており、非常に使いづらい状態でした。

当時は「UNIX の何がそんなに良いのだろう?」と思っていました。


その後会社に入って「よく整備された」UNIX ネットワークを使い、その後にふたたび、今度は移植ではない本来の Linux を使い始めます。

この時には RedHat を使用しました。もっとも、RedHat もまだ日本語対応していない時期で、RedHat + JE がやはり Laser5 から発売されていました。


また、この頃の RedHat は専用にパッケージされたアプリケーションが少なく、自分でアプリケーションを導入すると、独特のアプリケーション管理と相性が悪い、と言う状態でした。

後に、最初から日本語対応していて Slackware ベースの Plamo Linux に変更した覚えがあります。




今では、Linux の導入も非常に楽になりました。

僕は Linux 信者ではないので、Win と Linux を使い分けていますが、仕事内容によっては Linux だけで十分、という人もいるようです。


最新の Linux カーネルは 3.11 (2013/9/17現在)。

3.8 以降は、最初の目的であった「386用の OS」であることを捨てました。

…つまり、386 は古すぎるものとして、すでにサポートされていません。


MINIX が「単純化のため」古い CPU にしか対応していなかったのとは対照的です。

この、時代に合わせて変わっていくさまこそが Linux らしさなのでしょう。


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ICANN設立日(1998)  2013-09-18 10:34:53  コンピュータ 今日は何の日

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今日は ICANN が設立された日(1998年)。


ICANNは縁の下の力持ち。誰も知らなかったとしても、絶対にお世話になっているはず。

インターネットの IPアドレス・ドメイン名の割り当てを行う組織です。


設立が 1998年? と言うところで疑問を持ったあなたはスルドイ。

もちろん、ICANN 設立以前からインターネットは存在しました。


インターネットの前身となる ARPANET は 1969年に行われた実験から始まっています。

この実験は10月29日に行われているので(忘れなければ)その日に書きましょう。



ともかく、ARPANET に接続する大学・企業などは徐々に増え、ARPA が資金提供していない部分が大多数を占めるようになったため、「インターネット」と呼ばれるように変わっていきます。


ところで、インターネットの仕組みとしては、IP アドレスの割り当ては必須です。

これは、当初ボランティアによる人手で行われていました。


申請があれば、団体ごとにある程度まとまったひとかたまりの IPアドレスが払い出されます。

受け取った団体は、それを自分のところのコンピューターに好きなように…全てが異なるよう、責任をもって割り振ります。

団体に割り当てた範囲が重複せず、団体の中で重複しなければ、全体としても重複しない。

簡単でわかりやすい方法です。牧歌的な時代でした。


ARPANET の初期は直接 IP アドレスを入れて通信していましたが、不便なので hosts ファイルと言う簡単なデータベースが作られます。

これは電話番号帳のようなもので、相手の「名前」を入れれば、適切な IP アドレスに変換できました。


このファイルは、ダグラス・エンゲルバートの研究室に置かれ、ネット上ではファイルのある場所は「ネットワークインフォメーションセンター(NIC) 」と呼ばれていました。




ネットに接続する団体が増加するにつれ、IP アドレスやドメインの発行が、ボランティアでは間に合わなくなります。

ここに「IANA」が設立されます。


Internet Assigned Numbers Authority …ネットの数字割り当て局、とでも訳せばよいのでしょうか。


IANA は、数字(IPアドレス)だけでなく、ドメイン名も管理します。

(もっと言えばポート番号も。新たなサービスを作るときには申請が必要です)


そして、発行されたアドレス・ドメインは、hosts ファイルに記載され、NIC からネットワーク中に配布されました。



当初は、皆が最新の hosts ファイルを時々取りに行き、手動で更新していました。

(特定のメールアドレスにメールを送ると、自動的に返信が送られてくるので、その内容をマシンの特定の場所に、特定のファイル名で置く方法でした)


しかし、ネットに接続するコンピューターが増えるにつれ、hosts ファイルを取得するための手間も、取得される側の負荷も上がっていきます。


そこで、DNS が考え出されます。


hosts ファイルよりも、もう少しマシなデータベースとして管理を行い、サーバー同士で「知らないことは聞く」ことでドメイン名をIPアドレスに変換するシステムです。

これで、管理の手間・負荷の問題が解決します。


しかし、DNS のルートサーバー(一番重要なサーバー)は、まだ NIC にありました。

その後 NIC はエンゲルバートの研究室から別の会社に移管されたりしたが、基本的には同じ構成のままです。




インターネットは ARPANET から始まったものだったので、これまでは管理などにアメリカ国防総省が資金提供をしていました。


しかし、ネットワークへの接続は、アメリカだけでなく世界中に広まりつつあり、規模も増大しています。

もう、管理に米国の税金をつぎ込む時期を過ぎました。国防総省は資金提供をやめることにします。


ここで、当時のインターネットの最大の利用者団体である、アメリカ国立科学財団が新たなスポンサーとなります。

そして、IANA/NIC の業務を3つに分割し、競争入札で一番安い値段で仕事を請け負った3社に任せることにします。


1992 年、仕事の移管のために InterNIC が設立されました。

ARPANET の NIC ではなく、Internet の NIC だという意味の名前です。


この時の各社との業務委託契約期間は5年でした。


しかし、この5年間のインターネットの伸びはすさまじいものでした。

…1995 年、Windows 95 が発売され、空前のパソコンブームが起こります。


Win95 にはインターネット接続機能はありませんでした。

この頃すでにインターネットのブームは始まっていましたし、Mac ではネット接続機能は標準でついていました。

Win95 にネット接続機能がないのは、明らかに「時代遅れ」でした。


しかし、機能がなければサードパーティにとってはチャンスです。

多くのインターネット接続用ソフトが発売されましたし、プロバイダと契約すると無償提供される場合もありました。



その後、Win98 が発売されたときには、ネット機能は標準でついてきました。

3年で機能を標準化するほど、この時のインターネットは爆発的なブームだったのです。


InterNIC では、1995年以前はドメイン名などは無料で発行していました。

しかし、登録数の爆発的増加を抑える目的と、増えた手間に対する損失を埋め合わせるために、1995年からドメイン登録を有料とします。


…それでも手間は増える一方で、歯止めは利きませんでした。



5年目の契約終了日、InterNIC の一翼を担っていた AT&T が契約の更新を拒否します。

おそらくは、最初に考えていたよりも業務内容が増えすぎて、契約金がわりに合わなかったのでしょう。


実は、当初契約3社のうち1社は契約違反により途中で契約打ち切り、その仕事は AT&T が引き受けていました。

つまり、AT&T が辞めると、InterNIC は仕事内容の 2/3 を失うことになります。


インターネットは研究者が使う段階、マニアが使う段階を過ぎ、すでに一般市民が使う大事なインフラの一部になっていました。


当初は、残る一社がすべての作業を行う…と言う形で InterNIC の存続が決まりかけました。

しかし、これにストップをかけたのが、米国商務省です。


あっという間にインターネットが普及し、すでに生活に必須のものとなっています。

このネットワークの維持業務を1社に独占させるのは、独占禁止法違反になるというのです。


米国商務省は新たな組織の提案を行い、InterNIC 体制はわずか5年で終了します。




そして、InterNIC の仕事を引き継いだのが…1998年の今日誕生した、ICANN です。

業務内容は NIC / InterNIC と同じで、IANA が発行した各種資源の管理が中心です。


ただし、独占市場を作り出さないように、ICANN は非営利団体に指定されています。


実際の DNS の運用やドメイン名の登録作業は手間がかかる…つまり有料にする必要がありますが、これらは民間に委託する形で賄われています。


現在、ドメイン登録を行う「レジストラ」が多数あるのはそのためで、商務省の狙い通り、競争によりドメイン料は値下がりし、非常に安くなりました。



ただし、競争が起きているのは ICANN が直接管理しているドメイン名だけ。

たとえば .jp ドメインは、日本の JPNIC が管理し、ドメイン管理は日本レジストリサービスが独占しているため、料金は高止まりしたままです。


高止まりと言っても、別に JPNIC が利権に胡坐をかいているわけではないですよ。

日本では、安いことよりも安定していることが求められるから、JPNIC はその習慣に従っているだけ。


ICANN のドメインは誰でも取れるし、うっかり期限切れにして「乗っ取り」という怖さもあります。

JPNIC は名称を名乗る資格があるか審査されるため、乗っ取りも起こりにくいのです。


高いにはそれなりの理由があって、日本人がそれを求める限りは変わらないのだろう。


…僕としては ICANN の方式でいいと思っているけどね。

(だから wizforest.com ドメインを使っているのだけど。)


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顔文字が誕生した日(1982)  2013-09-19 10:48:22  コンピュータ 今日は何の日

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今日はネット上ではじめて顔文字が使われた日(1982年)。

去年が30周年でしたね。


表情の見えないネットでは、冗談を書いても本気に受け取ってしまう人がいる。

表情が見えないのが問題だから、:-) と :-( で表情を表そう!


…とスコット・ファールマン(Scott Fahlman) さんが提案したのが 1982年の今日。

少なくとも、提案者のコミュニティ内では顔文字を使う人はそれ以前にはいなかったし、提案以降は賛同者も多く、よく見るようになった、とのこと。


スコットさんの投稿は、その後長い年月を経て「発掘」され、1982年9月19日だったことが確定しています。

それ以前から使われていた、と言う主張もあるものの、今のところ証拠がありません。

そのため、スコットさんの提案が最初だったのだろう、と考えられています。


詳細はスマイリー30周年のサイトや、それのベタ翻訳であるギガジンの記事をお読みください。




日本の顔文字は、アメリカでの顔文字を全く知らない人が考案し、広まっています。

全く独立した文化として生じているのです。


理由も全く別のもの。 :-) が表情を示しているのに対し、 (^_^) は署名をより「自分らしく」するためのものだった。


詳しくは、考案した当人(わかん さん)のWEBサイトに詳細な説明があります。



ところで、1986年と言うのは、ちょっと微妙なところです。


アメリカではパソコン登場以前からパソコン通信や電子掲示板サービスがあるのですが、日本では電電公社が電話事業を独占していたため、電話線の音声以外の利用に制限がありました。


電電公社が民営化し、NTTになったのが 1985年。同時に、電話事業が自由化されます。

これでやっと電話線を使ったパソコン通信が自由化され、1986年ごろに大手パソコン通信サービスが続々と開始されます。


なので、1986年と言うのは「日本のパソコン通信では間違いなく最初の顔文字」だと思います。

しかし、すでにパソコンの利用はホビー用途としては普及しており、アスキーアートなどは数多く作られているのです。


ベーマガにはMZ-700用のゲームなどが毎月載っていましたが、グラフィック機能のない同機では文字を組み合わせてキャラクターを作るのは「当然のこと」でした。

また、プログラムの冒頭に署名を入れ、そこに「自分のマークとして」アスキーアートを入れるのも流行した技法でした。

「署名の一部として」の顔文字は、ここからきているのではないかと思っています。



ただし、大抵のアスキーアートは、縦に3~4行使うのが普通でしたし、ゲームのキャラクターなどに使うため、何かの全体像を表現していることが多いです。


いわゆる顔文字が、文章の後ろに感情を表すために「1行で」「顔だけを」書かれるのとは違います。


先に挙げたリンク先の説明でも、文字をどのように組み合わせたら顔になるかいろいろ試したことを書いていますが、1行に納めるということが当時としては珍しい試みだったのではないかと。


この意味において、わかん さんの使った顔文字は、確かに現代に通じる「顔文字」だったのだと思います。



後日追記 9.28

日記公開後に、わかん さんにメールでお伺いしました。

わかん さんは当時プログラム雑誌は読んでいなかったそうで、アスキーアートを使った署名は知らなかった、とのこと。

ただ、類似のものとしてはタイプライター画(タイプライターの文字で濃淡を表し、重ね打ちなども使って絵を描く技法)は知っていたそうです。


僕もタイプライター画は知っていますが、いわゆるアスキーアートとは異なるもので、着想のヒントになっていたようには思えません。


また「へのへのもへじは知っていました」とも(笑)

冗談半分だと思いますが、無意識下だとしても「文字の形だけに注目して絵を描く」と言う意味では、本当に原点かも知れませんね。


いずれにせよ、他の誰もが考えなかったことを独自に作り出した、というのはすごいことだと思います。




顔文字だけだと話が広がらないので(笑)、いろいろ雑文を。

上に挙げた(笑) という「記号」ですが、これもパソコン通信時代に登場したものです。


もちろん、それ以前から(笑)は存在しています。

雑誌などで対談記事やインタビュー記事があると、「笑った」部分に(笑)という表記が入るのですね。


しかし、パソコン通信ではアメリカ式の顔文字と同じように、感情を示すのに使用されました。

誰かが笑ったわけではなく、書いている自分の愉快な気持ち、もしくは本気ではない気持ちを示す記号として使われたわけです。


この場合、意味が本来のものと異なっていて、知らない人が見ると違和感を感じるわけですが、当時はむしろ「コミュニティの中でしか通じない違和感」、つまりは仲間意識を楽しんでいたように思います。

現在では、わざわざ(笑)が広まりすぎたため、 w と表記されたりします。

わざわざ変えているのも、やはり仲間意識を楽しむためなのでしょう。


#こういう例ははるか昔からあり、明治時代に「シャッポを脱ぐ」とか言っていたのもそうだし、徒然草にも「最近の若い者は、なんでも略しおって」と愚痴る内容が書かれている。


ただ、(笑) を w に変えてしまえば、インタビュー記事などの(笑)は元の意味を保ち続けられます。

その意味では w を使う人の方が、ネット上の(笑)のあり方に違和感を持つ保守層の可能性もあります。



この(笑)ですが、当時漫画家の いがらしみきお がいろいろと考察しています。

いがらしみきお は漫画家である一方思想家としての一面も持っていて、当時「IMONを創る」という壮大なパロディ本を上梓していました。


「IMONを創る」は、当時のパソコン関連書籍「TRONを創る」のパロディであると同時に、宗教に頼らずに人間を悩みから救う「人間のためのOS」を開発するための指南書でした。


…何言っているんだかわからない人も多いでしょう。自分だってこの纏め方であっているかわかりません。

「IMONを創る」は当時興味を持って立ち読みしましたが、当時の僕には高い本だったし、同じ金額出すならパソコン書籍を買いたかったので買いませんでした。

つまり、今手元にないので、本当に認識があっているかもわかりません。


幸いなことに、「IMONを創る」の概要を いがらしみきお 自身が解説した文章なら手元にあります。(翔泳社PC-PAGE 10号「パソコンを思想する」p.8~23 1990年)

これによると、IMON は「Itudemo Motto Omosiroku Naitona」の略で、パソコン側ではなく、人間側に適用する OSです。。


その三原則は


・リアルタイム

・マルチタスク

・(笑)


リアルタイムとは、いつでも最新の情報を取り入れて記憶である RAM を更新し続けること。

歴史は ROM だが、人間の記憶は RAM です。常に状況に合わせて更新し続けないといけません。

これが「リアルタイム」ということ。


つまりは、柔軟な態度を持ち、無駄なこだわりは捨てること。

いがらしみきお は、リアルタイムを「生涯学習のこと」とまとめています。



マルチタスクとは、すべての処理を均質化することです。

人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、お腹がすいたらご飯を食べましょう。


マルチタスクなので、別の仕事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。

これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。


人生にはバグがあって、永久ループにはまることがあります。いわゆる「くよくよする」状態。

そういう時は、マルチタスクでいったんループから離れた上で、永久ループ側の処理を強制ジャンプさせてループから脱出させます。

つまり、目前の問題から「逃げる」ことも時には必要。



そして(笑)。

やっと本題に入るが、いがらしみきお はこの(笑)を、インタビューなどの表記ではなく、パソコン通信で使われるやつ、と規定しています。


自分が書いている文章に対して「何言ってやがんだコイツ」と突き放した態度で(笑)と書くように、議論が真剣になりすぎて人間関係が破綻するのを(笑)で防ごうとするように、人生いつも(笑)を忘れてはなりません。



このIMON3原則を守れば、人生に悩みはなくなるし、楽しい人生を送ることができます。

つまり、IMON は OS であり、宗教であり、これを守れば人生安泰順風満帆。


そういえば、ラショウさんも、チキンとは食料でもあり、燃料でもあり、キリストでもあるという三位一体論を唱えていたなぁ。

あれも順風満帆に突き進む爽快感を求めたゲームでした。


#詳しくは「巨人のイタチョコの星のシステム」を読んでください。彼のファンだったのでサイン本持ってる。


…顔文字の話をしていただけなのに、何だか話がそれて壮大な人生論・宗教論になりました。

まぁ、余り最後の方は本気にしないように :-)


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追悼:山内溥  2013-09-20 10:40:29  コンピュータ 今日は何の日

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昨日、元任天堂社長、山内溥さんが亡くなった。85歳。


社長なので直接ゲームをつくったりしていた人ではないが、小さな花札・トランプ屋だった任天堂を大企業にした中興の祖だ。

もちろんビジネス的な手腕にたけていたのだろうが、それよりも「遊びの本質を捉えていた」ことの方が重要だったように思う。



父が駆け落ちで逃げているため祖父に育てられ、後継ぎとして大事に育てられた。

かなり贅沢もしているし、自由に育てられ、多くの経験をしたらしい。この経験は後で役だったのだろう。


実家は京都だが、早稲田大学に入りたい、と言えば下宿として東京に豪邸を建ててもらえる。

そして、そこを拠点に毎日遊び歩く。月に数度はステーキを食べ、ビリヤードなども熱中したという。


時は戦後すぐ。進駐軍の人間か、よほどの金持でなければそういう生活は出来なかったはずだ。

(山内氏自身、物資の横流しを行うヤミ屋と勘違いされていたそうだ。後に「組長」と呼ばれる迫力は、そういうところからきているのかもしれない)


しかし、祖父が死んで大学は中退。若いうちに任天堂の社長になった。

大学中退と言う、社内でもかなり若い人間がいきなりの社長。社内的な反発もあり、ストライキなど起きている。


しかし、遊び歩いて培った「遊びに対する勘」は鋭く、プラスチック製の高級感のあるトランプや、ディズニーとライセンス契約したキャラクタートランプなど、新たなニーズを掘り起こしてヒットを出すことで社内の反発は収まった。


さらに会社を大きくするために海外視察に出かけ、世界最大のトランプ会社を訪問した時、山内氏は衝撃を受ける。世界最大の企業なのに、オフィスは中小企業並みのサイズだったのだ。


これでトランプだけでは会社は成長しない、と危機感を持ち、非常にいろいろな方面に手を出すことになる。


ラブホテル経営までやっていた、というのはよく話題になるし、タクシーの運用や、お湯をかけるとごはんができる、インスタントライスなんていうのも発売している。


タクシーや食品は、たしかに迷走だったかもしれない。

しかし、そういう失敗があったからこそ、山内氏は「任天堂はゲームの会社だ」と強く認識するようになる。


ここでいう「ゲームの会社」は、ゲーム機をつくったりする会社ではなく、楽しみを提供する会社、と言う意味だ。

山内氏は、お客さんはゲームが遊びたいから「仕方なく」ゲーム機を買うんだ、と言う名言も残している。


その意味では、ラブホテルなんて言うのは「レジャーの提供」としてそれほど迷走ではなかったのではないかなーと僕個人は思っているのだが、どうなんでしょう?




先日横井軍平さんのことを書いたが、彼を見出したのも山内氏だ。

軍平さんの仕事は本来、設備機器の保守点検だった。開発とは関係がない。


ある時、軍平さんが暇つぶしで作っていたおもちゃを見て、山内氏は「後で社長室にこい」という。


就業時間中におもちゃなんて作っていたから怒られるかな…とこわごわ社長室に行くと「あれを商品化しろ」といわれる。

さらに、それがヒットすると開発課が新設され、軍平さんはそこに配属される。


その後も、軍平さんが電卓が安くなったのを見て「あれをゲームに転用したい」とアイディアを披露すると、すぐにシャープの社長に掛け合って生産の道筋をつけてしまうなど、とにかく動きが速い。


その一方で、慎重にならなくてはならないときは、とことん慎重だった。


ファミコンの開発やゲームボーイの開発では、技術的に限界と思えるところまで突き詰めても社長が「ダメだ」というので開発者が追い詰められた、という話が伝わっている。


また、ゲームボーイに関しては持ち運ぶものなので強度も考慮させるなど、ゲーム機としてよりも「おもちゃとしての」総合性を追求させている。


何かを生み出そうとするときは、いろいろな懸念事項があるが、それを即座に判断し、手早く済ますところはすぐに動き、慎重にならないといけないところは時間をかけてもじっくりと取り組ませる。

そういう采配の出来た人だった。




現社長の岩田さんを見出したのも山内さんだ。

もっとも、岩田さんは HAL研の社長になるよりも前から、ある程度有名人だった。


倒産しそうなHAL研を援助するときの交換条件が、岩田さんをHAL研の社長にすることだった。

岩田さんはもともとプログラマーとして腕の立つ人間だったが、これで経営手腕も身に着けた。


その後、任天堂の社長に指名したのも山内氏だ。


ただ、岩田社長下で大ヒットした DS は、まだ山内氏の指示で開発が始まったものだった。

Wii が岩田氏の本領が発揮されたことになる。


大ヒットではあったが、売れたのは本体だけで、実はソフトがあまり売れなかった、と言う事実もある。

完全に岩田体制で作られた Wii U 、3DS は苦戦している。


任天堂だけでなくゲーム業界全体が斜陽になりつつあるので、岩田さんが悪いわけではない。


軍平さんは、任天堂を「もともとスキマ産業の会社だった」と認識していたようだが、山内氏は「ゲーム会社だ」という。

ただ、どちらも「技術者は最先端技術を使いたがるが、消費者にとってそれは重要ではない」という視点は重なっている。


Wii U だって 3DS だって、別に最先端技術は使っていない。軍平さんの「枯れた技術」の思想は残っている。


だけど、消費者が本当に求めているものを送り出せているのか、と考えると少し疑問を感じる。

最後に厳しいことを言う、山内さんの役割ができていないような気がするのだ。




山内さんは京都の人間だ。

京都の企業人は、ちゃんと人を見る目を持っている、と思う。

軍平さんや岩田さんを見出したのだって、そういうことだろう。


「日本人は実績などばかり気にして人を見ない」とよく言われるのだが、京都の企業は案外人を見ているし、特に任天堂や京セラ、ロームなどは人を見ていると思うのだ。


今訃報記事を読んでいたら、任天堂の山内さん、村田製作所の村田さん、ロームの佐藤さんが、「京都の三大奇人」だそうだ。僕の認識していた京セラは入っていないが、まぁ同じような感じなのだと思う。


人を見ることができる人と言うのは、「そんなんダメだからやめろ」とは言わない。まずはやらせてみる。

やってみてダメならそこで諦めさせるが、いつでも再チャレンジ可能にさせて置く。

上手くいきそうなら、そこで叱咤して慢心させず、さらに良いものを作らせる。


人を使うときの理想だと思う。

一言でいえば「やってみなはれ」だ。


これは誰の言葉だったかな…と思って調べたら、サントリーウヰスキーの鳥井さんらしい。

正確には「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」。


サントリーは大阪の企業で、鳥井さんも大阪出身らしい。

言葉は明らかに京都弁だけどな…とおもったら、鳥井さんは大阪でも、京都の文化が濃い地域で生まれ育ったらしい。


やっぱり、京都の人は人を見る目があるのだと思う。


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FireFox 初公開日(2002)  2013-09-23 10:44:24  コンピュータ 今日は何の日

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今日はFireFoxの誕生日。


♪あなたは もう 忘れたかしら~

 WEBブラウザが 有料の時代~


と、唐突に訳の分からない替え歌から。

いや、本当にどれくらいの人が、WEBブラウザが有料だった時代を覚えているのでしょう。


WEB が産声を上げたのは1990年。

多国籍の科学者の集まりである CERNでは、それぞれの所属する国や団体の制約で、科学者が使うコンピューターも、ソフトも、論文の管理方法もバラバラでした。

しかし、科学者同士で論文の交換もできない状態は、仕事に支障をきたします。


そこで、「あらゆるコンピューターで論文が閲覧できるシステム」の作成が行われます。

今回の話の中心ではないので割愛しますが、このシステムが現在の WEBです。



最初の WEB ブラウザは、テキストしか扱えませんでした。

当時のパソコンは、グラフィック機能は本当に千差万別でしたし、論文の閲覧と言う目的ではテキストで十分だったのです。


その一方、最初の WEBクライアント(パソコン側に入れるソフト)は、閲覧だけでなく、編集の機能もありました。

HTMLタグは、あくまでもデータ交換のための中間形式で、論文執筆者はタグを意識する必要はなかったのです。


ただ、最初の時点ではクライアントは NeXTstep (現在の Mac OS X の元になった OS)用しか存在しませんでした。

その後すぐに、目標である「あらゆるコンピューターで」論文が閲覧できるように、クライアントの各種移植が始まります。




初期には本当にいろいろなクライアントが作られましたが、後の方向を決定づけた有力クライアントは 1993年に作られた、Mosaic でした。


#米国立スーパーコンピュータ応用研究所(National Center for Supercomputing Applications)で開発されたため、NCSA Mosaic と呼ばれます。ここでは Mosaic と表記します。


Mosaic は、当初は NeXTstep 用のWEBクライアントを改造し、画像を表示できるようにすることから始まっています。

他にもいろいろな拡張がなされていますが、CERN が WEB を開発した意図を理解しないまま拡張しているため、いろいろ拡張方法に問題がありました。この問題は今でも尾を引いていて、CSSとHTMLの関係がややこしい一因にもなっています。


それはともかく「画像が表示できる」は大ヒットアイディアでした。

そのうえ、Mosaic は Unix / Mac / Win に移植され、本当の意味で「あらゆる環境で」使えるクライアントだったのです。


この Mosaic によって、WEB は一気に普及します。

日本では富士通が権利を取得して日本語対応版を作り、販売されました。


しかし、Mosaic の作者…NeXTstep用に各種改造を取り入れたマーク・アンドリーセンは不満でした。

彼は NCSA に籍を置いていましたが、改造は NCSA の業務ではなく、「面白そうだから」勝手にやっていただけです。

しかし、NCSA は Mosaic が金になりそうだとみるとアンドリーセンから Mosaic を取り上げ、改造を一つ加えるにも稟議を通さなくてはならない状態になりました。




ところで、シリコングラフィックス社(SGI)という会社があります。


世界初の、リアルタイムで3Dグラフィックスを動かせるコンピューターを設計し、NURBUS 曲面を実用化し、任天堂の Nintendo64 の設計も行っています。


この会社を設立したのは、コンピューターグラフィックスを研究していた大学教員、ジェームズ・クラーク。

彼は大学の教員である一方、実業家の側面も持っていました。


SGI は1990年に上場企業となり、彼は大金を手にして経営から離れていました。

そして、Mosaic に出会うのです。この市場はこれから大きくなる。実業家の勘でした。


クラークは、すぐにアンドリーセンに連絡を取ります。

そして、アンドリーセンが NCSA で Mosaic に失望していることを知ると、会社を興して Mosaic を超えるブラウザを作ろう、と持ち掛けます。


詳細は省きますが、これで作られたブラウザが Netsacape Navigator (以下 NNと表記)でした。

あらゆる面で Mosaic を超えるソフトで、あっという間に WEB ブラウザの代名詞となります。


特に、新たに作られた作表機能は WEB の表現力を根本から覆しました。

それまでは「論文のような」つまらない体裁だった WEB が、まるで雑誌の記事のように華やかになったのです。


#table タグを「見た目を整える」のに使うのは、現在推奨されない使い方です。しかし、当時は見た目のコントロールをする方法が他になく、誰もが使ったテクニックでした。



NNは有料のソフトで、パッケージで日本円では5千円程度で売られていました。


当時のパソコンでは、ネット接続の機能がない場合もありました。

しかし、NN を買えばすべてが付いてきます。ネットに接続し、WEB を閲覧し、FTP からファイルを取得し、ネットニュースを購読し、メールができる。

これらすべての機能が、たった一つのプログラムに納められているのです。


たとえ5千円を払っても安いものでした。NN は飛ぶように売れました。


その一方で、NN は利用者の裾野を広げることも忘れていませんでした。

ネット接続などのサポートのない、NN の本体だけの「評価版」は自由にダウンロードし、無料で使うことが出来ました。

ダウンロードできる人はすでにネットに接続できているのでしょうから、これで十分でした。

もっとも、雑誌の付録 CD-ROM などでも配布され、その場合はネット接続できない人は自分でネット環境を構築する必要がありましたが。





ところで、Mosaic の先進性に目を付けていたのはクラークだけではありませんでした。


マイクロソフトは、Mosaic に正式にライセンス料を払い、ソースコード一式を取得します。

そして、これを元に独自開発を進め、Internet Exploler (以下 IEと記述) を開発するのです。


IE は Windows 用しかありませんでしたが、無償で配布されます。

(のちに Mac版も作られました)


ここに、有名な「ブラウザ戦争」が起こります。


NN は、IE の持っていない機能を次々と拡張します。プラグインによる Java のサポート、Javascript のネイティブサポート、Blink タグ

IE は、NN の機能をできるだけ追随し、さらに独自拡張を加えます。Blink は採用されず Marquee を拡張しました。


ついには、似ているのに動作が違うタグが多発、Javascript (名称ライセンスの都合で、IE は Jscript)にも非互換が起き、「あらゆるパソコンで見られる」という WEB の理想が崩れそうになります。



矢継ぎ早の開発に、NN は失速していきます。

マイクロソフトとネットスケープ社では体力が違います。IE はバージョンが上がるごとに安定性が高まるのに対し、NN はバージョンが上がるごとに不安定になっていきました。


IE は当初 Windows とは別物でしたが、Win 98 ではついに OS の一部として組み込まれます。


#Win95からインストールすることで OS を拡張するようにはなっていたが、最初から組み込まれていたのは 98以降。


もう NN は限界でした。




ところで、先日 Linux の初公開日を紹介しました。


Linuxは PC で使える世界初の 32bit UNIX でした。PC 用の BSD は、Linux より後に作られています。

しかし、そのことを差し引いても Linux と BSD の普及には差がありすぎました。


この違いを説明する「伽羅とバザール」という論文が 1997年に発表され、話題となります。


伽羅(がらん)とは仏教寺院などの建築物のこと。厳密な計画によって建造され、建造中も形式に従った祈祷があり、各種チェックが入ります。

完成するものは確かにすばらしいものですが、とかく速度が遅く、完成した時には時代から取り残されていた、と言うことになり兼ねません。


バザールとは、とにかく人が集まる場所のこと。計画なんてなく、その場その場のノリで形成されます。

完成したものは、とりあえずの役には立ちますがひどい部分もあります。でも、そうした部分は時代に合わせて修正され、長い間存続します。


論文は、一部の人たちが完璧を目指して作る…BSD のようなソフトウェアは伽藍であり、ソースを公開してみんなで作るソフトウェア… Linuxのようなものはバザールである、となぞらえたうえで、オープンソースが有用であること、ソースを公開しても企業は収益をあげられることを示していました。


とはいっても、これは実際の企業にとっては机上の空論。

ソフトウェアのソースは、プログラムを販売する企業にとっては一番重要な企業秘密です。それをオープンにすることなどあり得ません。…多くの人がそう思っていました。




限界に来ていた NN は、思い切った起死回生策に打って出ます。

それが「NN のオープンソース化」でした。


営利企業が主力商品を無料にして、改造もできるようにする。当時は驚きを持って報じられました。


ネットスケープ社は、クライアントだけでなく、サーバー側も商品として作っていました。


クライアントを無料にし、オープンソースで開発すれば開発人員を削減できます。

その分を高性能なサーバー開発に割り振り、増大するインターネット需要の中で強固なサーバーを販売する…これが、ネットスケープの新たな販売戦略でした。



しかし、これには批判もありました。すでに肥大化しすぎ、どこに手を加えてもバグが出そうな NN を公開されても、開発者たちに「面白い」部分は残されておらず、失敗するだろう、と言うような批判でした。


オープンソース化の作業は慎重、かつ大胆に進みます。

肥大化したプログラムがバグが出やすく、保守しにくいのは事実です。


NN は解体され、切り刻まれ、単体の「メーラーソフト」と「WEBブラウザ」に切り分けられました。


一度は死んだ NN が復活する…ブラウザは Phoenix(不死鳥)と名付けられていました。



Phoenixの最初のバージョン、0.1 の公開日は、2002年の9月23日、今日でした。

最初に書いた通り、今日は FireFox の初公開日なのです。




あれ? FireFox じゃないの? Phoenix なの?


…そう思いますよね。でも、この名前紆余曲折あったのです。


Phoenixと言う名称、他社の商標を侵害するとわかったため、ver 0.5 までしか使われていません。その後は Firebird(火の鳥)と名前が変更されます。

不死鳥はその身を自ら焼き、炎の中から新たに生まれることで永遠の命を手に入れます。火の鳥と不死鳥は同義語なのです。


この時、同じ由来を持つメーラーも、Thunderbird と名称を変えています(これ以前は Minotaur だった)。

Thunderbird は、ネイティブアメリカンに伝わる雷の精霊です。


セットになっていることを意識した名称だったのでしょう。

火の鳥と雷の鳥、かっこいいじゃないですか。



…しかし、これまた Firebird という名前の別のオープンソースソフトがあることが発覚。

名前の一部を残し、名称は FireFox になります。Thunderbirdの方はそのまま。関連性が無くなりました。


ちなみに、FireFox とはレッサーパンダのこと。


だから、Phoenix = FireFox なのです。Phoenix 0.1 の公開日が、FireFox の初公開日。


その後の FireFox は、再び人気を取り戻し、IE に次ぐ2番手として頑張っています。


#ちなみに僕は FireFox 派ではなく、Chrome 派。

 仕事柄各種ブラウザをPCに入れてあって、用途で使い分けているけどね。


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みどりの窓口開設日(1965)  2013-09-24 10:49:47  コンピュータ 今日は何の日

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みどりの窓口開設日(1965)

今日はみどりの窓口が開設された日です。


みどりの窓口ですよ。さすがに、皆さん知っているでしょ?

今は JR ですが、国鉄時代からありました。指定席券を購入したりする窓口ね。


このみどりの窓口、日本のコンピューター黎明期と深いつながりがあります。

あまり資料がなくて、唯一手元にある資料「計算機屋かく戦えり」の要約みたいになってしまいますが、面白いので紹介しましょう。




話は1950年代にさかのぼります。

小野田セメント(現在の太平洋セメント)で、コンピューターの導入が画策されます。


なんで導入するかと言えば、社長が新しいもの好きだったから(笑)

まぁ、いろんな理由があったのですが、究極的にはこれに尽きます。


ただ、この社長ものすごい先見の明があるのね。

この当時、コンピューターは戦争の道具か、せいぜい先端科学で使われるものでした。

企業でもコンピューターを導入しているところはありましたが、科学計算が必要な研究を行うような企業ばかりの時代です。



小野田セメントは当時次々に全国のセメント会社を買収し、拠点を全国に広げていました。

それに伴い、各事業所の生産管理などの報告に時間がかかるようになっていました。


会社の全体像が把握できなくなれば、適切な経営はできません。

時間がかかるのが当たり前になれば、ノルマが達成できない時に「嘘の報告」を混ぜられても気づきにくくなります。


当時、アメリカではコンピューターを使ったオンラインシステムが、少数ながら動いていました。

適切なオンラインシステムを構築すれば、全国の現場の生のデータが届き、会社の運営に役立つに違いない。これが社長の読みでした。



しかし、先に書いたように、当時はコンピューターをこのような「事務作業」に使うなんて考えられない時代。

まず、IBM がコンピューターを売ってくれません。事務作業なら集計程度だろうから、パンチカードシステムで十分だろう、と言われます。

やっとコンピューターを手に入れても、現場との通信用の回線を電電公社が貸してくれません。電話線に音声以外のものを流して、他の回線にノイズが載ったらどうするのか、と断られます。


さらに、コンピューター本体だけで予算をオーバーしてしまい、全国の営業所に置く端末が開発できなくなります。


小野田セメントでコンピューター導入を行ったのは、当時入社したばかりだった南澤宣郎氏。

セメント会社でコンピューターをやるのは「出世できなくなる」と誰もやりたがらず、まだ社内の状況がわかっていない新入社員に仕事が回ってきたのです。




南澤氏は、難問をひとつづつクリアしていきます。


コンピューターは、IBM には断られたが UNIVAC から入手できました。


電話線が使えないのは、自分たちで専用線を引き、それを電電公社に「寄贈」しました。寄贈した以上は自分たちで引いた線なのに借り賃を払う必要がありますが、通信線の管理を専門の者に任せられることになります。


全国に多数ある事業所にテレタイプ端末を置き、現場からのデータを本社に集中させ、本社で処理したデータを各現場に直接送る、と言うシステムを構築します。


端末は、「開発した端末を他社に売っても構わない」という条件で、無料で共同開発してくれる業者を探します。(コンピューターを事務に使うことなど考えられない時代ですから、一般的な事務用端末も存在せず、開発から行う必要があったのです)


後には IBM や富士通にも同様の依頼を行ったそうですが、その際には「社屋建築の際にはセメントを提供する」という、コンピューターとセメントの物々交換まで駆使したとか。


当時、コンピューターを利用するとは、「報告されたデータを、本社で改めてパンチカードに入力して処理する」ことを意味していました。しかし、そんなことをしていては迅速な経営判断はできません。

現場がタイプしたらそのままコンピューターに入力される、と言うシステムを作り出したことで、生産性は向上します。


これが、日本で最初のオンラインシステムでした。




さて、小野田セメントのオンラインシステムは話題となり、新聞の一面で扱われたりもします。

会社の評判も上がり、この点でも受注は増え、うまく回るようになります。


そうなると、別の組織でもオンラインシステムを構築しようというところが出てきます。

日本で2番目のオンラインシステム導入は、国鉄でした。


当時の国鉄は、名前の通り国が運営していました。現在の JR と違って税金もつかわれています。

税金もつかわれるのだから、思い付きで新しいことを始めることはできません。オンラインシステムを導入するために、多くの学者を交え、国鉄事務近代化委員会が設立されます。


この時、学者に混ざって南澤氏も参画しています。

学者でもない民間人でも、日本でオンラインシステムを構築したノウハウを持つ、たった一人の人物なのです。



当時の国鉄は、座席予約を東京のセンターに集中させ、一括管理していました。

予約の電話は集中管理室に繋がれ、集中管理室では、回転する本棚の周りに10~20人の人が座っています。


本棚には、列車ごとのファイルが納められています。

予約電話が来たら、本棚から列車を探し、そのファイルを開いて空席を探し、そこにペンでチェックを入れて、電話先に座席番号を伝えます。


これで、日本全国どこからでも、間違いなく席の予約が行えます。

しかし、高度経済期で路線も増え、列車の利用者も増える中、このシステムは破綻寸前でした。




国鉄事務近代化委員会は、このシステムの改善をするための委員会でした。

もちろん、南澤氏はコンピューターオンラインシステムの専門家として呼ばれているわけです。


しかし、当時は真空管コンピューターの時代。

「壊れるかもしれないコンピューターを、激しい座席予約業務で使えるわけがない」という人がほとんどでした。


また、窓口の事務員からも反対意見が出ていました。


オンラインシステムが入って合理化されれば、人員が削減されて自分は職を失うかもしれない。

コンピューターのために数値で駅名を入れるなんて、間違いがあったら怖い。

コンピューターのキーボードと言うのはなんだかややこしくて使いたくない。


…などなど、理由は様々でした。


そこで、南澤氏は事務員に確約します。

もしオンラインシステムが導入されても、それは皆さんを激務から解放するためのものであって、人員削減はさせない。

駅名をコード化なんてしないし、キーボードなんてつかわない。今まで通りの作業が、ただちょっと楽になるだけのシステムにする。




南澤氏の考えたシステムはこうです。

それまでは、座席予約をすると切符に「ゴム印」で駅名を押印していました。


そこで、このゴム印の横にギザギザを付けます。

これが2進数のコードになっていて、コンピューターはゴム印を「駅のコード」として認識できるようにします。


事務員が予約を取るため、お客さんの要望を聞き、出発駅と到着駅のゴム印を選びます。

それをシステムに入れると、オンラインですぐに空座席が照会され、座席が取れたらプリントアウトします。


最後に、座席切符にゴム印を押印し、座席番号などを手書きします。

(まだこの時点では、切符にプリントアウトするようなことはできていません)


これなら、集中管理室と電話でやり取りする手間がなくなるだけで、いつもの事務内容とほとんど変わりません。




もう一つの反対意見、「コンピューターは壊れるかもしれない」に対して、南澤氏は「人間だって間違える」と反論します。

その通りです。機械にだけ絶対性を求め、人間には求めないのはおかしな話です。


そのうえで、南澤氏は対案を示しています。

間違えたらダメ、ではなく、間違えても問題がないシステムを構築しなくてはならない、と言うのです。


座席でいえば、各車両の一番前と一番後ろの座席は人気がありません。壁の近くは圧迫感があるためです。

ならば、その座席は予約時に売らないようにして、車掌が任意に割り当てて良い席とします。


もしも座席の二重発行が行われてしまい、座れないお客さんがいたら、車掌が任意の席に案内します。

お客さんが座席を予約するのは、その席でなくてはダメなのではなくて、座りたいからなのです。



…僕、この考え方大好きです。この話読んだの15年くらい前ですけど、その後ずっとトラブルを見るたびに「お客さんはシステムで何をしたいのか」と考えるのが癖になっています




国鉄のこのオンラインシステムは、マルス1と名付けられ、1960年から稼働します。

マルス1は試験的な運用でしたが、これがうまくいったため 徐々に端末を置く駅を増やします。


まずは、大幅にパワーアップされたマルス101。

この日記の冒頭の写真(別ウィンドウで開きます)は、上野の科学博物館に展示されているマルス101です。

写真の後ろ側に、ゴム印の入った棚も確認できます。


そして、1965年の今日、全国の152駅に端末が設置され、そこを「みどりの窓口」と呼ぶようになりました。マルスはバージョンアップされ、この時にはマルス102 となっています。




南澤氏はこの後もオンラインシステムの専門家として活動を始め、銀行のオンラインシステムを構築しています。

現在、日本のどこの銀行でも自分の預金を引き下ろせるのは氏のおかげです。



そうそう、銀行がオンラインシステムを導入する前は、日本各地で銀行の金利は違うのが当たり前でした。


小野田セメントでは日本の企業としては最初に全国の事業所をオンラインシステムで結んだため、この「金利情報」も時々報告させていたそうです。


そして、その時一番金利がよい銀行に、会社の資産を移動します。これだけでもずいぶん儲かり、他の効果と合わせて当時の金額で一億円を超えるコンピューターの導入をなんとか採算に乗せることができたのだとか。


ここら辺、銀行より先にオンラインを組んでしまった強みですし、その運用方法に気づいた南澤氏もすごいと思います。


後日追記 13.09.25

きしもと(@ksmakoto)さんより、国鉄側の状況資料いただきました。


最初に書いた通り、上に書いているのは「計算機屋かく戦えり」に書かれた情報がほとんどです。

そこでは、日本のオンラインコンピューティングの発達史を、南澤氏に直接インタビューしています。


そのため、「みどりの窓口開設日」の話にも関わらず小野田セメントの話や銀行オンラインの話も扱っているわけですが、その一方で肝心の国鉄の話が少ないというアンバランスになってしまっていました。


…で、資料いただいたので織り込もうと思いましたが、今の記述内容に織り込むと煩雑になってわかりにくくなるだけだと思ったため、資料だけ提示します。


興味を持った方は、ぜひこちらもお読みください。


国鉄座席予約システム MARS-1 における技術革新




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ワープロの日  2013-09-26 11:10:02  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、世界初の日本語ワープロが発売された日。

それを記念して、「ワープロの日」にもなっています。


…日本ローカルな機械なのに、世界初って言い方でいいのかな (^^;;


それはさておき、1978年の今日、東芝が日本語ワープロ JW-10 を発売しました。630万円。


もちろんその当時の機械ですからパソコンではありませんし、その後流行するような「パソコンの機能を限定したような」ノート型のワープロでもありません。


当時は、大型のコンピューターでも日本語の処理は難しいものでした。


だいたい、コンピューターで日本語を扱うための JIS 漢字が制定されたのが 1978年。

JW-10 はそれ以前から開発されていたので、独自の漢字コードを使用していました。




日本語が扱えるワープロとしていきなり JW-10 が現れたわけではありません。

これ以前にも、試行錯誤の歴史があります。


元々は「日本語タイプライター」の開発から始まっています。


話は明治維新にまでさかのぼります。

当時、鎖国を解いた日本人は、欧米に対して強いコンプレックスを抱きました。


新たに外国から入ってきたものは何でもありがたがり、日本の伝統は古臭いと捨てようとする動きが、非常に幅広い分野で起こります。

この動きの中で、日本人の中でも、欧米人は頭がよく、日本人は頭が悪い、と考える一派が生まれました。


彼らの主張によれば、欧米人が頭が良い理由の一因として、タイプライターの存在がありました。

タイプライターを使えば、非常に早く文字を記述できます。しかし、日本語では漢字も多く、筆記は遅いです。


このため、欧米人は短い時間で多くの文章を記し、考えることができます。日本人はゆっくりとしか文章が書けないため、思考速度も制限を受けます。

この「考えるスピードに合わせて文字を記述できる」ということが、思考スピードの差だというのです。


#この主張自体は大きく間違ってはいない。思考する際には記述することはかなり有効な手段だし、記述速度によって思考が制限を受けるのも事実である。


このため、日本人もタイプライターを使えば欧米人並みの頭の良さを持てるだろう、と考えられました。

しかし、このための方法論は大きく2つに別れます。


1つは、日本語が扱えるタイプライターを作ろう、と言う動き。

もう1つは、欧米のタイプライターを使えるように、日本語教育を全てローマ字にしよう、と言う動きです。


全てをローマ字にするなんて本末転倒でとんでもない! と思う人も多いかもしれません。

でも、これは当時真剣に議論されたのです。


考えても見てください。長い鎖国を経て、開国したら欧米の技術は非常に進んでおり、アジアには征服されて植民地になっている国もあったのです。

今すぐ日本を欧米並みにしなくては、日本も植民地にされてしまうかもしれません。




結局国語のローマ字化は見送られるわけですが、日本語タイプライターの開発は行われました。

1915年には最初の和文タイプライターが作られています。


ユーザーの操作する「ファインダー」と活字箱が連動していて、板の上に書かれた文字を探します。

活字箱の中から「1文字」だけが抜き出せる機構があるのですが、この1文字は、常にファインダーで示されている文字と一致するようになっています。


そして、ファインダーに付いたボタンを押し込むと、活字が抜き出されて紙に押し付けられます。

これで目的は完了。今でも保存してある博物館などがありますが、使ってみると巧妙な仕組みに感心します。


ところで、いきなり個人的な話ですが、僕の母が若いころに、会社の事務で和文タイプを使っていたそうです。

和文・英文両方できたと自慢されたことがあります。


熟練すると完全に文字の位置を覚えてしまうため、かなりの速度で打てたそうです。しかし、清書用の道具であり、タイプライターのような思考の道具ではありません。




最初期の日本語ワープロは、和文タイプと同じような考え方で作られています。

画像は、1970年の大阪万博で IBM が発表・展示した、日本語入力用キーボードです。

クリックすると、別ウィンドウで拡大画像を表示します。


#写真はWikipediaから引用。現在ドイツ博物館に保存されているそうです。

 発表が万博だった、というのはIBMのインタビュー記事のPDFの22ページより。


キーボードには18×12のキーが配置されて、1つのキーに12文字が印字されています。


和文タイプと同じ考え方で、文字を探し出してボタンを押す方法で入力します。

1ボタンの12文字は3×4に並んで書かれています。

左下のテンキー(実際には12キー)も3×4に並んでおり、併用することで指示された位置の文字が入力されます。


12通りのシフト方法があるので、多段シフトキーボードと呼ばれます。

文字の入力はできますが、もちろん清書用です。


#多段シフトキーボードのテンキー部分が「シフト」に相当する、というのは日本語入力シンポジウムのページの資料、

 HUMAN FACTORS RESEARCH OF JAPANESE KEYBOARDS

 の「その13」のページに書いてありました。




さて、和文タイプも多段シフトも、もっといえば JIS漢字コードも、漢字は音読みの順に並んでいます。

当時は、余りにも膨大な日本語の文字を扱うために、これが当たり前のやり方でした。


IBM が多段シフトキーボードを作成したころから、コンピューターでの文書作成の需要が高まり、各社がワープロの研究を始めます。

「普通の」キーボードで漢字を入力するには、どうすればよいのかが課題でした。


当初の方式は、漢字をカナ2文字で代表させる方法でした。

2ストローク式、と呼ばれます。

たとえば、「あい」と打鍵すれば「愛」と表示されます。50音の組み合わせとすれば、50x50=2500文字が入力できるため、実用性は十分です。


この場合「あい」は必ず「愛」です。「合」と出すには「こう」、「相」とだすには「そう」と入れる必要があります。

あまり使われない文字など、全く読みなどと関係ない入力が必要かもしれず、和文タイプ並みの熟練が必要になります。


そして、やっと今日の話題。JW-10 は「熟語変換」方式でした。

「じゅくご」と入れて変換ボタンを押すと「熟語」と出てきます。


「塾後」と出したいなら、これは2つの言葉ですので「じゅく」と「ご」を別々に入力します。


「あい」と入れて変換ボタンを押せば「愛」と出ますが、さらに変換ボタンを押せば「合」「相」…と、候補を次々出してくれます。



多段シフトでは、シフトを指定した後にキーを押すと、文字が入力されるというルールが決まっていました。

2ストローク式では、キーの数を減らした代わりに、すべてのキーがシフトになったようなものです。やはり2つキーを押すと文字が入力されるというルールが決まっていました。


いずれも、キーを押すと文字が入力される、と言う仕組みです。

ところが、JW-10 の熟語変換は、キーを押してもワープロには文字が入力されませんでした。もちろん、文字は入力されるのですが、ワープロではなく「変換バッファ」に入ります。

そして、変換バッファで漢字を選び、確定するとワープロに入力されます。


この、間に1段階を入れるというのが大発明でした。この発明によって、やっと日本語入力の諸問題は解決の糸口を見つけ、発展していくことになるのです。



…ところで、また個人的な話題。


僕、このワープロ少しだけいじったことがあります。発売から1年後、1979年のことです。

当時の僕は小学生で、家族で遊びに行った東京タワーで「コンピューター展」(名称は不正確)というイベントをやっていて、そこで触らせてもらえたのです。


自分の住所と名前を入力しました。

たしか、住所はひらがなで順次入力したら、そのまま漢字になりました。

名前は、苗字はそのまま出たように思います。下の名前は珍しいので、コンパニオンのお姉さんが別の読みで1文字ずつ出してくれました。


最後に、入力したものをプリントアウトしてもらいました。


…えーと、当時の自分はまだ子供で、これがすごいことだという気持ちはありませんでした (^^;

ひらがなを入れたら漢字になる。コンピューターはそんなこともできるんだなぁ、と言う、淡々とした気持ち。

今は知識があるから、当時の技術でこれをやることがいかに大変だったかわかりますけどね。


この「コンピューター展」では、ワープロだけではなく初めてパソコンに触り、興味を持ったから今の自分がいるのですが…

その話はまたいずれ。近いうちに書く予定です。




さて…「ワープロ」と言いながら、日本語入力の歴史を追っているばかりで、ちっともワープロの話をしていませんね。


実のところ、当時の「ワープロ」とは現代でいうエディタとそれほど変わるものではなくて、技術的にはそれほど難しくないのです。

問題は、アルファベットの文字種が 26文字、大文字小文字や記号を合わせても 7bit あれば収まるのに対し、日本語は 2000文字以上が必要な事。必然的に、ワープロ開発の最大の関心事は、日本語入力の方法だったのです。


もう一度「ワープロ」の定義に立ち返ってみれば、ワープロは「文書を処理する」ためのものです。

欧米人のような、思考を記述できる機械としてのタイプライタを! という願いから始まって、怨念のような開発の歴史により、やっと「清書用の機械」から脱出できたのが JW-10 になります。



その後オフィスコンピューターにもワープロの「ソフト」が作られるようになり、パソコン用にもワープロが作られれます。


1983年、PC-9801用に「松」、PC-100用に JS-WORDが発売されます。

このころ日本語は日本語ワープロの中でだけ使えるものでした。


1985年、JS-WORD のバージョンアップである「一太郎」がPC-9801で発売。

この時に「日本語入力」と「ワープロ」は切り離され、ワープロ以外でも日本語が入力できるようになりました。

この「ワープロ以外でも日本語入力ができる」ということのインパクトは、かなりのものでした。


ライバルの「松」も日本語入力部分を「松茸」として切り離しましたし、UNIX でも漢字変換のみをサポートする「Wnn」が開発されます。


ワープロ全体を作成しなくてよい、漢字変換だけ作ればよい、という方法論が出来上がると、さらにさまざまなアイディアの漢字変換ソフトが現れます。


#漢字変換ソフトは、当時は FEP(Front-End Processor:コンピューターの、一番人間側に位置する、と言う意味合い)と呼ばれました。

 現代では IM (Input Method:入力方法) とか、IME (Input Method Ediror:入力エディタ)と呼ばれます。


#興味ある方はこちらもどうぞ。日本語入力プログラムの歴史




ところで、和文タイプライタや多段シフトキーボード、2ストローク入力には、現代的な「漢字変換」にはない、非常に重要な特徴があります。


漢字変換では、目で見て文字を確定しなくてはなりません。構文解析や学習機能により、同じ読みを入力しても違う漢字が出ますので、確認は絶対必要です。


しかし、昔の技術は「直接漢字を選び出す」方法で作られているため、覚えるまでは大変ですが、覚えてしまうと確認なしに入力ができるようになるのです。


確認が必ず必要、というのは、速度の低下を招きます。

「思考のための機械」と考えた場合、思考を邪魔するかもしれません。



話題の締めとして、この問題を解決した漢字入力方法、「風」を紹介します。

多段シフトキーボードのアイディアを拡張し「超多段シフト入力」と呼ばれる方法を採用した漢字変換ソフトです。


基本は単漢字変換です。漢字の読みを入れて変換すると、漢字1文字に変換します。

同じ読みの漢字が複数あるばあい、通常ならリスト表示されて選択するわけですが、「風」では、この選択方法が「キーボードのキーに漢字が直接対応する」ことで行われます。


この際、学習機能などは一切なく、漢字は常に同じキーに割り振られます。

違う読みで呼び出した場合も、同じ漢字は常に同じキーになるように工夫されています。


非常に単純な機能ですが、同じ漢字を呼び出す方法は常に同じなため、覚えてしまえば高速に入力できるようになります。


「覚えてしまえば」なら2ストローク入力でいいじゃん…と言われそうですが、2ストロークとの違いは、読みを入れれば一応メニューは出る(仮想キーボードが表示される)ため、慣れない漢字でもちゃんと入力できることです。

メニューの表示までには少し遅延があるため、覚えている漢字を入力している限りはメニューは表示されず、快適に入力できます。



このアイディア、非常に面白いと思います。

…まぁ、僕はアイディアに感心しただけで、使ってはいないのですけど (^^;;


#MS-DOS 時代に知って、今はもうないのだと思っていたら、Windows でも販売されていました。

 詳細は、開発者のサイト風のくにへ。

 


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ラリーウォールの誕生日(1954)  2013-09-27 11:08:36  コンピュータ 今日は何の日

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今日は…いろいろありすぎ!

GNUプロジェクトが開始された日であり、Googleの誕生日であり、ラリー・ウォールの誕生日であり、アラン・シュガートの誕生日でもある。


アランシュガートは、ハードディスクの研究者で、フロッピーディスクの開発者で、Seagate の創始者ね。

彼がいなくては今の生活はないとは思うけど、僕の知識不足であまり語れることがない (^^;


GNU と Google は誰かが書きそうだから、僕はラリーについて書こう。

(もっとも、彼についてもそれほど知らないので、Perlの話と雑文だらけになるけど)




ラリーウォール(Larry Wall)は、Perlの作者だ。


プログラムの差分を配布する際に使用されるツール、patch の作者でもあるし、rn の作者でもあるし、国際難解Cコードコンテストで2回も入賞している。


簡単に言えば、「凄腕のハッカーだ」となる。



まずは rn から行こうか。僕は、rn の実物は使ったことがない…とおもう。

もしかしたら、大学のころに少しくらい使ったかもしれない。


その昔(今でもあるが)インターネット上には、「ネットニュース」と呼ばれるシステムがあった。

掲示板みたいなものなんだけど、どこかにホストがあるのではなく、分散してデータを保持していた。


rn は、このニュースを読んだり書いたりするためのソフト。

Usenet 用の…という表記をよく見るけど、Usenet とネットニュースが同一視されていた時代がある(いまも、WEBとインターネットを同一視する場合があるでしょ?)ために混同されているだけ。


Usenet は ARPANET とは「別に」インターネットの母体となったもう一つのネットで、いつか話をしたいところだけど今日は割愛。



そしてまた、ラリーは patch も作った。

これは、ソフトウェアを配布するときに、劇的な圧縮をかけてくれるツールだ。


…といっても、圧縮ツールではない。

2つのファイルの差を見つけ出し、出力してくれる、と言うソフトは以前からあった。

だから、ラリーはその逆をやったんだ。


差を見つけ出すソフトが出力したファイルを patch に入力すると、「以前のソフト」を元に「新しいソフト」を作り出してくれる。

プログラムを配布するときは、以前と変わった部分だけを配布すればよいことになる。

これは、劇的な圧縮方法だった。


patch は今でも UNIX の重要なツールとして使われている。




ところで、僕は rn のソースコードを読んだことはないのだが、「えぐい」ものだったらしい。

出来の悪いコードだという意味ではなく、感動的だったというのだから、おそらくは常軌を逸した方法で最適化されていたのだろう。


というわけで、ラリーのもう一つの顔、国際難解Cコードコンテンスト(The International Obfuscated C Code Contest : 以下 IOCCC と表記する)の入賞のお話に移ろう。


IOCCCは、C言語ハッカーたちのお祭り。Wikipediaによれば、お祭りと言っても「奇祭」だそうだ。


単にC言語でプログラムが組める、と言うレベルではなく、C言語の仕様の詳細まで知り尽くしたばかりか、その仕様の本当の意味を理解し、故意に変な書き方をしたプログラムを作る、というコンテストだ。

目的の一つには、Cの奥深さを引き出すことがある。別の側面としては、どうすれば「読みにくいコード」になるかを示すことで、読みやすいソースコードの普及を促す、という皮肉がある。

とにかく、単に難解なプログラムを書くのではなく、審査を行う凄腕ハッカー達をうならせるほどの技法を見せつけなくてはならない。


ラリーはこのコンテストで1986年と1987年に入賞している。

ソースコードも公開されているのだけど、見てもさっぱりわからない(笑)


ちなみに、ANSI C ができたのは 1989年なので、プログラムは K&R で書かれている。

1987年の作品は Linux 上の GCCでワーニングが出たがコンパイルできた。1986年のものは、コンパイルすらできなかった。

GCC は K&R のプログラムでもコンパイル可能なように作られているが、ここまで変態だと厳しいようだ。

そして、修正しようにも中身が理解できていないので修正できない (x_x)




1987年の作品、コンパイル後を wall と言う名前だとして


wall | bc | wall


として起動すると、ローマ数字計算機になる。

x*x (10*10の意味)を入力すれば c (100) と出るし、c^2 とすれば mmmmmmmmmm (1000*10)と出る。


ところで、UNIX コマンドの bc は計算機だ。つまり、wall はローマ字数字を算用数字に直しているに過ぎない。


じゃぁ、wall | bc とすると、今度は 100 、 10000 と普通に答えを出してくれる。

面白がって mcmlxxxvii と入れると、 1987 と出た。


#ローマ数字でこの文字列を思い出す人は、往年のナムコマニアに違いない。


ところで、最初の例を見る限り、wall は bc の値を受け取ってローマ数字に変換する役割も負っているようだ。


そこで、今度は wall だけを起動し、1987 と入力してみる。mcmlxxxvii と出力される。


なるほどなるほど。おそらく、入力がアルファベットか数字かで動作を変えているのだな、と推測し、再び mcmlxxxvii と入れてみる。


…あれ、何も出ない。x と入れても、 c と入れても何も出ない。

いったいどうなっているの?


実は、ここら辺が、このプログラムが入賞した理由。ローマ数字と算用数字の相互変換くらい、ちょっとしたハッカーなら簡単に作れるし、そのコードをあえて難解にするのも難しくはない。

それだけでは入賞なんてしない。


このプログラム、動作の切り替え方法がちょっと変わっているのだ。

入力された文字によって動作を切り替えるのではなく、標準出力がリダイレクトされているかどうかで動作を変えている。


だから、 wall | cat として x や c を入れると、何をやっているか見える。

ローマ数字から数字への変換はかなりスマートだが、こちらは bc への入力を前提にしているため、かなり強引だ。そして、この強引さを普通は見えないように隠しているわけだ。


すごいプログラムだ。でも、参考にしてはいけない。

IOCCC は、「やってはいけない」技法を競うコンテストなのだから。




さぁ、最後に perl の話をしよう。

少し前なら、perl はネット上のいたるところで使われていた。だから説明は不要だったけど、今だと少し説明した方がいいかな。


perl は、ラリーが作ったプログラム言語だ。

もちろん、IOCCCで入賞するような「イカレた」ハッカーが作ったものなので、普通ではない。


perl はテキスト処理のための言語だ。

たとえば、テキストファイルで書かれた、なんらかのデータベースがあったとする。

自分なりに書式を定めて作ったが、テキストなのでかなり自由に記述しているとしよう。


このテキストのデータベースから、特定の条件に合ったデータだけを取り出して、必要な部分だけをまとめたい。

テキストが小さければ自分でエディタで頑張ればいいのだけど、10万件もデータが入っていると現実的ではない。

そういう時、perl があればすごく役に立つ。


実は、同じ目的で作られた言語に awk がある。awk は非常に便利なのだけど、基本的に「1行1データ」で、「項目はタブやカンマで区切られている」ことを前提にしていた。

また、ファイルとしては1つだけ、を前提にしている。


実は、今でもこの前提に当てはまるときは awk の方がずっと簡単に処理ができるのだけど、制限を超えたとたんに awk では扱いが難しくなる。


perl は、そういう時に役立つ言語だ。




perl が「イカれてる」と僕が感じたのは、文法構造が無茶苦茶で、大胆な省略が可能なところだ。


perl は、様々なソフトから、便利だと思う機能を持ってきてくっつけてある。

その際、「機能を」追加するだけではなく、コマンドなどもそのまま持ってきてある。だから元のツールを知っていれば、習得時間が最小限で済む。


その反面、文法構造がツギハギだらけで無茶苦茶だ。それを強引にまとめ上げ、非常に強力な言語に仕上げているあたりがすごい。


さらにすごいのが、perl は省略がいろいろと可能だと言うことだ。

普通プログラムと言うのは細かな部分まで指定してやらないと動かない。コンピューターは基本的にバカなもので、教えたこと以外出来ないのだから。


でも、perl を使うと、当たり前にやっておいてほしいことは、省略して構わない。

省略された部分は perl の方で勝手に察して、よきに計らってくれる。


もちろん、これを使いこなすには省略のルールをある程度把握していないといけないのだけど、これが使っていて非常に便利なのだ。


今は少し下火になったとは言え、perl が一時期もてはやされたのは、強引にいろんな機能をまとめ上げ、大胆な省略を可能にしたセンスが非常によかったからだと思う。


#もちろん、WEB 黎明期の時流に乗った、という要素も大きいけど。




CPAN と perl 6 の話もしたかったけど、長くなりすぎたのでここらへんで一区切りにしよう。

今日はラリーウォールの誕生日祝いで、perl の話ばかりにしたいわけではないから。


これらの話は、またいつか。



公開から1時間後に追記


書こうと思っていた「プログラマ3大美徳」を書き忘れていた。

ラリーウォールが提唱したもので、次の3つのものは、プログラマが心がけるべき美徳である。


・怠惰

・短気

・傲慢


怠惰であれば、面倒くさいからコンピューターにやらせてしまえ、と考えてよいプログラムを作り出すし、後で質問が来るのを嫌がってドキュメントを残す。


短気であれば、今目の前にあるコンピューターの動作に怒り出し、「もっと良いもの」を作り上げるし、まだ起こってもいない問題を想定して将来性のあるプログラムを書く。


傲慢であれば、自分の作ったプログラムを素晴らしいと考えて公開するし、人に見せつけてやるつもりで保守性の良いプログラムを作り出す。


プログラマーはみな、怠惰で、短期で、傲慢であるべきだ。

僕がそうなれているかと言えば、なろうと努力しているけどなかなか難しいですね (^^;


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パソコン記念日  2013-09-28 06:04:54  コンピュータ 今日は何の日

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今日はパソコン記念日。


PC-8001の発売日を記念して定められた…と言うことになっているのですが、発売日は確定できないようです

まぁ、一応当時のNECの支配人の「記憶」ではこの日だったようなのですが。


リンク先に調査結果がありますが、すごいなぁ。

こうした細かなことを突き詰められる人、偉いと思います。


さて、以下の内容は、上のリンクを見る前に、数日前に今日発表用に書きあげてあったものです。

今日が発売日、ということで書かれていますが、ご容赦ください。




今日はパソコン記念日。

PC-8001の発売日を記念して定められました。


これは…僕なんかより語るのに適した人がいっぱいいるように思います。

古いコンピューターは好きだし、高校の部活で所有していたので PC-8001 もかなり使い倒したけど、当時所有はしていなかったので。

所有していた人は多い機械ですからね。その人たちの方が語るに適していると思います。




なので、ざっくりと…

NEC の TK-80 が日本で最初の「パソコン」なのは結構有名な話です。


これは、NEC のマイクロコンピューター販売部が作ったものでした。


マイクロコンピューター、とは、この当時まったく新しい半導体であった「1chip CPU」のこと。

まだ新しすぎて応用用途も思いつかないような、新しい半導体の販売を促進するための部署でした。


新しくて応用が思いつかないなら、まずはこの技術に慣れてもらおう、とまずは技術者向けの教材の販売を行うことにします。

これが TK-80 。TK という型番もトレーニングキットの略で、組み立ても自分で行うものでした。


これが予想外の(?)大ヒット。単に技術者向けの教材の枠を超え、パソコンを使ってみたい、と言う層に訴求します。

のちに、ベーシックを使えるようにする拡張セット TK-80BS を発売し、最初から BS 内臓で組み立て済みの COMPO BS/80 も発売されます。


しかし、COMPO BS/80 発売に至るまでの裏で、TK-80 を作った技術者たちは新しいマシンを開発していました。


そのマシンは、すでに組み立て済みで、BASIC が最初から使えるようになっていて、カラーも出力できる「パソコン」でした。

問題はここにあって、すでに販売促進のための部署が扱うようなものではなくなっていたのです。


紆余曲折があり、新しいパソコンは子会社の新日本電気の扱いとし、販売だけを NEC で行う形で発売にこぎつけます。

これ、まったく新しい商品を作って、大コケしたら新日本電気が倒産するだけで、NECの業績には影響がないように…という思惑です (^^;


これが PC-8001 でした。


COMPO BS/80 の発売は1979年の4月。そして PC-8001の発表は5月。

値段は PC-8001 の方が安いのに、性能は上でした。


この後も TK-80 のシリーズは発売されるのですが、市場は完全に PC-8001 に移行します。

9月28日に発売された PC-8001は大ヒット商品となり、人気は1年以上続きます。


TK-80 は、販売時期だけでいえば「日本初」です。しかし、誰もが扱える製品ではなく、部品を集めてあるだけの「半製品」でした。


PC-8001 は、買ってくれば誰でも使える製品でした。

さらに、この後に書きますが、PC-8001 をきっかけとして多くのコンピューターが作られていきます。


PC-8001 の発売日が「パソコン記念日」とされているのは、そのような理由からです。




実は、PC-8001 を任された時点で、新日本電気は独自にパソコンを設計していました。


せっかく PC-8001 を任されたのだからと互換性のある BASIC を搭載しようとするのですが、これには親会社である NEC の許可が出ません。


PC-8001 以上の性能を持つのはダメ。互換があってもダメ。廉価版もダメ。NEC から見れば、せっかく人気の出ている PC-8001 を脅かす存在はいらないのです。


最終的に、予定よりも大幅に性能を落とし、PC-8001 との互換性も切り捨て、値段を下げた「ホビーパソコン」として PC-6001 が発売されます。




一方で、同じ NEC 社内でも、大型コンピューターを作っていた情報処理部門も PC-8001 をほおっておくことはできなくなります。

人気のある安いパソコンがある、ということで、顧客からの注目も高くなっているのです。


しかし、大型コンピューターの端末として使ったり、単独でビジネス処理をさせるには、PC-8001 では力不足でした。

そこで、情報処理部門は、PC-8001 互換の BASIC を搭載し、よりパワフルな 16bit 機の開発を開始します。


これが後の PC-9801 です。


実は、PC-9801 の開発は、社内的に極秘だったと言います。


顧客からの注目を考えれば、PC-8001 との互換性は絶対に必要です。

しかし、PC-6001 が PC-8001 との互換を許されなかったように、事前に「互換性計画」がばれてしまえば、止められる危険性があるのです。


最終的には、完全な互換機として仕上がるまで社内的には極秘、さらに PC-8001 と、その後継機である PC-8801 の両機種と BASIC レベルで互換性を持つ、という機械に仕上がります。


完成後に社内でお披露目がされたときには PC-8001 を作った人たちは慌てたようですが、すでに完成したものを止めることもできません。そのまま発売となりました。

(ここらへん、社内的に情報処理部の方が力が強かったという事情もあるようですが)


1990年代は、完全に PC-9801 の時代でした。




あれ? 最初に TK-80 と PC-8001 を開発した人たちはどうなったの?


…大丈夫。PC-8001 の大ヒットで、NEC 内でも正式にパソコンの開発部署ができました。


ただし、PC-8001 と PC-6001 は、すでに新日本電気に任せています。

16bit 機は情報処理部門が設計しています。


パソコン開発部署は「この中間」の機械を作ることになりました。

家庭用だけど、ビジネスに使うこともできる程度の性能を持つマシンの開発です。


これで生み出されたのが、まずは 8bit ながら高性能の PC-8801。

これは PC-8001 以上の大ヒットで、1980 年代後半の標準的なマシンになりました。



そして、もうひとつ、16bit ながらホビー用途を志向した PC-100。

これは…多分ほとんどの人が知りませんね。

専用に開発された多数の LSI を搭載し、性能もすごかったけど値段もすごかったマシンです。


唯一の誤算は、マイクロソフトが担当した専用 OS が開発に失敗したこと。

専用 OS がないために本来の性能を引き出すことができず、MS-DOS で使うには PC-9801 と競合してしまうため、結果として葬り去られることになったのです。


マイクロソフトが作成していた専用 OS は、後に IBM PC で動作するようになり、Windows 1.0 の名前で発売されます。


#後に PC-8801 のシリーズも、新日本電気が改名した日本電気ホームエレクトロニクスに移されている。

 パソコン部署がどうなったのかは不明。今回の主な情報源にしている「パソコン創世記」では、PC-9801に至るまでの歴史が主題であり、そこまで追いかけていないため。




唐突に個人的な話を。


僕、多分なのですが、発売直後に PC-8001 を触っているように思います。


つい先日、ワープロの日に書いたのですが1979年暮(もしかしたら 1980年の初頭)に、東京タワーでパソコン展が行われていました。


この時に、NEC のブースで、パソコンのゲームを遊んでいるのです。

カーレースゲーム、と説明にあったのですが、車は上から下に向かって走っていました。


…表現的には、下から上にスクロールしていた、と言ったほうが良いでしょう。

カーレースと言いながら他の車はなく、障害物を避けるゲームでした。


普通は下から上に走るのに、なんで逆なのだろう、他の車は出ないのだろうか…などと思ったのですが、とにかくこれが初めて触ったパソコンでした。



おぼろげな記憶で、パソコンの形状などは正確に覚えていません。


高校生くらいの時になんとなくパソコンの歴史年表を見て、時代的に TK-80 かなぁ、でもしっかりした筐体に納められていたから、COMPO BS/80かなぁ…などと思っていたのですが…


今考えると、カラーが出ていました。となると TK-80 ではなく、PC-8001 です。


高校の時になぜ PC-8001 だと思わなかったのかは不明。年表に載っていなかったのかなぁ…

(PC-8801 が全盛の時代だったから、PC-8001 が無視される傾向だったのかも)




PC-100、PC-6001、PC-8001、PC-8801、PC-9801 …


以上が、1979年の今日発売された、PC-8001 をきっかけとして生み出されたマシンシリーズたちです。

PC-100 を除けば後継機もたくさん作られ、一時は「月刊NEC」と呼ばれるほど新製品を発表していました。


なるほど、「元祖」にあたる PC-8001 の発売日が「記念」されるわけです。


以上、もっと詳細を知りたい方は、パソコン創世記をどうぞ。現在は無料で公開されています。

(僕は Mac 版を買って置いてありますが、OldMac 用なのですでに読めません (^^; 無料公開は助かります)


先日亡くなった富田倫生氏の力作です。


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日本最初のホームページ開設日(1992)  2013-09-30 06:03:11  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、日本で最初のホームページが開設された日。


昨日書いたばかりのCERNWEBを開発したのが 1991年。

当初は、CERNに置かれたサーバーに論文などを置いておき、世界中の研究者がブラウザを使って閲覧できる、という利用方法でした。


しかし、このシステムが便利だとわかってくると、各国の CERN 関連組織でも独自にサーバーを立てるようになってきました。


日本でも、1992年の9月30日に、文部省高エネルギー加速器研究機構 計算科学センターにサーバーが作られます。

作業を行ったのは森田洋平博士。


そして、博士が作ったのが、日本最初のホームページとなりました。



この時点では、WEB 技術は使ってもよいものかどうか、実はまだグレーゾーン。

CERN で、世界中の科学者が使うために開発されたシステムですが、システムの利用ルールが明確になっていなかったのです。


科学者に対しては、もちろんシステムを使用するように CERN 側が呼びかけていました。そのために作ったのですから。


でも、個人が使ったら? 企業が使ったら?

後で特許料を請求される…と言う可能性あってありました。


この不安を払拭するため、1993年の4月30日、CERN は WEB技術がパブリックドメイン(公共に属するもの)であり、使用するのに特許料などを支払う必要はない、と明言します。


これを受けて Mosaic などの開発が行われ、WEB は急速に普及していきます。


以降の歴史は、FireFox初公開日に書いた通りです。




ところで、現代でも「ホームページ」ということはありますが、「WEBページ」という言い方も増えました。

昔は、みんなホームページって言ってましたね。


先にリンクしたページが「日本最初のホームページ」と書いてあるのも、このページが作られた当時は、ホームページと呼ぶのが普通だったためです。


厳密に言えば、WEBページの方が正しい言い方。

ただ、自分のWEBページ階層の一番上(本でいえば表紙)に「○○のホームページ」と書く人が非常に多く、これを見た人は「あぁ、こういうのをホームページと呼ぶのか」と理解したのではないのかな、と思います。


じゃぁ、初期にホームページと書いた人が間違えているのかと言うと、そうではないのです。

「誰かのホームページ」と言う概念はちゃんと存在しているのだけど、誰かを特定しないホームページは存在しない。

だから、単に「ホームページ」と呼ぶのは誤りで、その場合は WEB ページと呼ぶべきなのだけど、「僕のホームページ」は誤りではない。



…ややこしいですね。

この概念、UNIX のホームディレクトリから来ています。

最初の頃は、WEBサーバーは UNIX でしか動かなかったから。


ディレクトリ、というのは、ファイルをまとめて管理しやすくするための単位。

Mac や Windows ではフォルダ、と呼ばれる概念と、大体同じです。


#厳密には違うのだけど、今は厳密な話をしたいのではないので。


UNIX は、1つのマシンを多くの人が同時に使えます。

その際、各個人には「ホームディレクトリ」というものが与えられ、自分のデータはホームディレクトリ下に保存します。


UNIX では、概念的に「現在自分がいる(簡単に参照できる)ディレクトリ」と言うものが重要なのですが、その概念の上でもホームディレクトリは特別です。


コンピューターを使い始める(ログインする)と、まずホームディレクトリにいる状態から始まります。

そこから自由に移動することができますが、自分のホームディレクトリには、すぐに戻ることができます。


他の人のホームディレクトリも、ユーザーの名前で簡単に参照できます。

ユーザー名と、その人の所持するデータと、ホームディレクトリは密接な関係にあるのです。


ここで、「ホームディレクトリ」と言う言葉は、2つの意味を持っています。

ログインしたり、自分のホームに戻ったり、人のホームを参照したりするときに使われる「ホームディレクトリ」は、ある一点のみを示した、狭い意味を持ちます。


一方で、狭い意味のホームディレクトリの下に展開された、すべてのデータを示して「ホームディレクトリ」と呼ぶ場合もあります。

自分が管理している、自分の家、と言う意味です。




WEB のホームページも同様です。

ある人が管理する WEB ページの集まりがあり、それをその人の「ホームページ」と呼びます。

全体をホームページと呼ぶ場合もありますし、表紙に当たる部分のみを呼ぶ場合もあります。


いずれにしても、誰かが管理するものが、その誰かのホームページである、という概念は、ホームディレクトリーの概念から類推すれば、別におかしなものではありません。


ちなみに、UNIX 上のサーバーでは、各自のホームディレクトリ下の特別なディレクトリを、ホームページとして公開できるような設定が普通でした。

この意味においても、「ホームページ」と「ホームディレクトリ」は擬似概念でした。



「ホームページと呼ぶのはやめよう」という動きがあったのは…2000年代半ばまでだったように思うので、もう7年くらい前でしょうか。

ヒューレットパッカード 社(HP)が、ホームページ (HP) は紛らわしいからやめてくれ、と運動の先鋒を切っていたように思います(笑)


今でもホームページという言葉も使われていますが、WEBページが正しいという認識はかなり広まったように思います。


自分の管理しているページをホームページと言うのはおかしくないのに、うっかりホームページと言おうものなら「WEBページが正しい」と誤った突っ込みを受けそうなくらいです。



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KDDI発足日(2000)  2013-10-01 10:45:02  コンピュータ 今日は何の日

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今日は…

10月1日って、第四・四半期の始まりだし、4月始まりの日本でも年度後半が始まる日なので、いろんな発表が行われやすい日です。


1956年のNASA発足、1969年のNASDA設立、1982年の CD発売、2000年の KDDI発足など…

D&Dの考案者の一人、デイブ・アーンソンの誕生日、というのは、こうした意図とは無縁の話題。


D&Dもレトロゲームを語るうえで外せない話題なのですが、今日は僕が仕事柄よく覚えている、KDDI発足について書いてみましょう。




その昔、日本では通信事業は国営でした。


まぁ、これはある意味当然で、情報の流通と言うのは社会にとって非常に重要な意味を持つのです。

郵便物は郵政省、電話は日本電信電話公社(以下、電電公社)の専売事業でした。


電電公社の民営化、というと NTT への組織変更が思い出されますが、実は 1953年に一部事業を分割し、民営化しています。

それが、電電公社の国際電話部門を独立させた、国際電信電話株式会社 = KDD (Kokusai Denshin Denwa) でした。

ただ、民営化して株式会社は名乗っているものの、KDDを規定するために法律が存在する特殊会社でした。



アメリカの電話独占企業 AT&T が分割されたのは 1984年。

これを受けて、日本でも電電公社を分割・民営化し、電話事業を自由化しようという動きになります。


そこで、1984年に「第二電電企画株式会社」が発足します。

この時点ではまだ電話事業は自由化されていないので、あくまでも自由化されたときに備える「企画」会社。


その後、1985年4月に、電電公社は民営化され、NTTと名前を変えました。

この時、第二電電企画も名前を変え、第二電電株式会社 = DDI (Daini Denden Inc.)となります。


KDD もこの時に、法律で事業内容などを細かく規定される特殊会社ではなくなり、普通の会社になっています。


そして、NTT と KDD 、第二電電、さらに数多くの電話会社が、国内の電話事業の奪い合いを始めます。

通信料金は劇的に下がり、資本力のない会社から事業を断念、他の電話会社に事業譲渡したり、合併したりが始まりました。


1988年、電電公社時代はもちろん、民営化されてからも NTT だけに認可されていた、無線電話サービスも自由化されます。


これを受けて、日本移動通信 = IDO が、自動車電話サービスを開始します。


1989年には、IDOがサービスを行っていなかった地域で、DDIセルラーがサービスを開始。

名前の通り、DDI 系列のサービスです。IDO とは別会社ですが、お互いに協力して日本全国をカバーすることになりました。


さらに、少し遅れて 1991年、日本テレコムが「デジタルホン」サービスを開始します。


この後、1992年にややこしい事態が発生します。

DDIが、一番需要が高く、儲けが見込める関東・東海エリアでのサービスを開始します。

そのエリアは IDO がサービスを行っているエリアであり、DDI の子会社である DDIセルラーはサービスを行っていませんでした。


DDIセルラーは IDO との連携を行ったまま、DDI としては新たなサービスに乗り出すために、「ツーカーセルラー」というブランドが新設されます。



実は、先に書いたIDO、デジタルホン、ツーカーセルラーの3社は、この「一番儲かる」エリアのみで営業をしていました。

ただし、IDO は DDIセルラーと協力することで全国をカバーしています。


全国カバーがないデジタルホン・ツーカーセルラーは、他地域への展開にあたり、協力体制を取ります。

儲けの多いエリアでは戦うが、そうでない場所では手を組もう、というわけです。

これにより、デジタルツーカーブランドが新設されます。


さらに1995年、PHS 事業が認可され、NTT パーソナル、DDIポケット、アステルの3社が全国サービスを開始します。


PHS は携帯電話とは異なりますが、すでに日本全国をカバーしていた光ファイバー網(ISDN)を利用し、高速・高音質な通信が可能で、端末が安く作れるという特徴がありました。

デメリットとして電波の到達距離が短く、基地局が多数必要になるという、都市向けのサービスでした。


さぁ、ややこしくなってきました(笑)


PHS 系のサービスは、同じ系列なら全国で基本的に同じサービスでした。

また、携帯電話でも、NTT は全国均一でした。


しかし、それ以外の携帯電話会社は、同じ系列でも地域ごとに値段やサービスが異なりました。

場合によっては、電話をかける相手がサービス外地域だと、オプションプランが適用されない、と言う場合もありました。


携帯電話を買おうと思うと、すくなくとも自分の住んでいる地域の会社は比較しなくてはなりませんが、その際によくかける相手の地域も考慮する必要があったのです。

さらに、越境して別の地域で電話を買うと、自分の地域で同じ系列の会社から買うよりも安い、というような場合さえあったのです。



唐突に私事ですが、当時の僕は現在の妻と遠距離恋愛中で、「電話をやすくかけられる」サービスを探していました。


固定電話でかけると、距離によって値段が変わります。

当時の携帯電話は基本料も通話料も高かったのですが、距離による値段差が「サービス地域内」か「地域外」の2種類しかありませんでした。


結果、遠距離電話は携帯の方が安上がりになる場合があり、全国の電話の情報を集めて比較しました。

結果、IDO の電話を僕名義で2台購入し、1台は彼女に貸し、彼女はサービス地域外で使用する…というのが一番安いと判明。

これがなかったら、遠距離恋愛なんて続けられなかったかもしれません (^^;




さて、PHS の登場で競争が過熱し、携帯電話の料金はどんどん下がります。

ついには、「安いけど不便」な PHS は、安さと言う武器も失って消滅。

NTT パーソナルは NTT ドコモに吸収されます。


2000年、KDD と DDI と IDO が合併。KDDI となります。

IDO と DDIセルラーもこの時統合され、株式会社 AU となります。

(この株式会社 AU も、1年で KDDI に統合されます)


もっとも、当初は会社が統合しただけで、サービスなどは以前のまま継続されました。


「スッキリ by KDDI」という広告を打っていたのを覚えているのですが、中身は以前のままなので非常にややこしく、全然スッキリしていませんでした


残ったデジタルホン・デジタルツーカーは、J-Phone となり、Vodafon となり、ソフトバンクとなります。


…あれ? ツーカーセルラーは?

しばらくは、AU とサービス提携している別会社、という扱いでした。


記憶のみで書きますが、KDD と DDI の合併時に、IDO が条件でなかなか折り合わなかったはずです。

その時に、KDD/DDI が「まぁ、その地域はツーカーあるから、IDO がなくてもいい」と言うような態度を示し、慌てて IDO が条件をのんだはずです。

実際は、ツーカーセルラーは当時から IDO に隠れて弱く、KDD/DDI は IDO も新会社に参加することを望んでいました。


ツーカーはだしに使われた挙句、仲間外れのまましばらく放置…

しかし、後に AU に統合されます。

サービス的には、ツーカーユーザーに AU 乗り換えの優遇策を示し、乗り換えてもらったのですけどね。


DDIポケットは、Willcom になり、PHS 事業としては唯一続いています。



余談になりますが、総務省は当初は携帯電話は「地域ごとに3社」と考えていました。

競争させることで消費者の利益になる、と考えていたのですね。

(この考え方は正しいです)


ただ、群雄割拠になってしまい、わかりにくくなったために、PHS は「全国均一サービスで3社」としました。

微妙に違う技術で、同じ目的の会社が合計6社。これが総務省の考えた、ちょうどよいバランスでした。


ただ、ドコモは一枚上手でした。

すでに携帯電話事業をやっているのに重複する事業を行うのには乗り気ではなく、パーソナルは「計画的に失敗し、吸収合併した」節があります。


シティフォンも「形だけ展開してすぐにやめた」感じですし、ドコモは総務省の思惑通りには動きません。

(ドコモを dis っているのではなく、大手だからやってよ、と儲からない仕事を押し付ける総務省にも問題があります)



総務省は、もういちど6社体制を狙っています。

現在、イーモバイルやWiMax が参加し、Willcom も含めて6社体制が復活していますが、どうも強弱の差が激しすぎて競争にならない様子。


総務省の思惑通りに通信料金が下がってくれればうれしいのですが…


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ジョン・アタナソフ誕生日(1903)  2013-10-04 11:29:42  コンピュータ 今日は何の日

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今日は ABCマシンの設計者として知られる、ジョン・アタナソフの誕生日(1903)。


ABC は、Atanasoff-Berry Computerの略。アタナソフが計画しましたが、実際の作成にはクリフォード・ベリーが協力しているため、二人の名前がついています。


このABCマシン、ENIAC 以前に作られた、世界最初のコンピューターと呼ばれるものの一つですね。

コンピューターの定義が難しいところですが、私見ではこれはコンピューターではなくて計算機です。


かなり昔に僕が書いたABCマシンの記事があるので、詳細はそちらに譲ります。


ただ、この記事かなり古く、その後知った情報が盛り込まれていません。

記事では「完成しなかった」と書いたのですが、出力ができない以外は動いたのだそうです。

計算結果を出力できないというのは、結局未完成だと言うことですけどね (^^;;




ちょうど良い機会なので、コンピューターと計算機の違いについて、僕の思うところを書いてみます。

最初に言っておきますが、私見ですし、多くの人にとってはどうでも良いことです。


計算をするための機械は計算機です。これは誰もが納得するところでしょう。


ただし、計算に使う道具は計算機ではありません。

古い計算機の話になると算盤を挙げる人がいるのですが、あれは計算を補助する道具であって、計算を行うのは人間です。

同じ理由でネイピアの骨(計算棒)も計算機ではありません。


パスカルの計算機が現存するものとしては一番古いと思いますが、それ以前にもシッカルトが作成したという記録がありますし、アンティキティラ機械も計算機だった可能性があります。


アンティキティラ機械は、紀元前に作られたと推測される歯車機械です。1901年に発見されました。

ここまでは事実。


発見時からぼろぼろの状態で、どうやら失われた部分も多いようです。

研究を行った学者により、おそらくこれは太陽や月、惑星の運行を計算する機械だったろう、となっています。ここは推測であり、事実かはわかりません。


ところで、アンティキティラが出たついでに、「計算」の定義も書いておきましょう。


計算と言うと、数値を入力すると、なんらかの処理をして数値を出力する、というものを想像しがちです。

でも、計算するものは数値とは限りません。


アンティキティラ機械では、おそらく日付を何らかの形で入力すると、その時点での天体の位置を出力します。

現代にも残る類似のもので言えば、星座早見版だって日付を示すと星座の配置を出力します。これだって計算です。

同様に、年月日を示すとその日の月の満ち欠けがわかる、という仕組みもあります。

(星座早見盤の裏についていたりします)


第2次大戦中に日本軍が作った「計算機付」の高射砲は、敵機の位置をスコープが捕捉するように機械を動かし、別に測定した予測高度、航行速度を入力すると、高射砲が「適切な射的位置」に向くようになっていたそうです。

あとは、任意のタイミングで打つだけ。命中率がものすごく高かったとか。


この場合、スコープで捕捉することが「入力」で高射砲の向きが「出力」ですが、計算機です。




さて、計算機の話だけで長くなりすぎました。


ともかく、計算が行えれば計算機。

この計算の内容がある程度複雑な場合、コンピューターと呼ばれます。


「複雑」というのがまたあいまいですが、大体の基準はあって、


1) 繰り返し演算が必要で、ある条件が満たされたときに、自ら計算を終了できること

2) 1 の計算内容や条件を変更できること

3) 2 で複数の計算内容を設定しておき、1つの計算が終わったら次の計算に移行できること

4) 3 のプログラム自体を計算処理対象にできること



1 を満たしただけでも、コンピューターと呼ばれる場合はあります。

現代的には 4 を満たさないとコンピューターとは呼びません。


タイガー計算機は足し算・引き算を繰り返すことで掛け算・割り算を行います。しかし、繰り返し操作は人間が行うため、「自ら計算を終了」できません。

そのため、コンピューターではありません。


後に、タイガーは電気式で自動で掛け算・割り算を行う機械も作っています。

これは、 1 の定義は満たしますので、コンピューターと呼ぶことも可能です。


電動タイガー計算機は、「掛け算」と「割り算」を選べました。計算内容と終了条件は、この設定により変わります。なので、2を満たす、と言えなくもありません。


ちなみに、ABC はガウス消去法を行うマシンだったので、2も満たしません。完全に 1 のみです。



3 をみたせば、ありとあらゆる計算ができることになります。

ENIAC はこの段階です。


4 は、プログラムを内蔵すること。計算するためのデータと、プログラムの間にたいした違いはありません。

プログラム内蔵型になると、プログラムを自己生成して動作することが可能になります。

自己生成と言うとなんだかすごそうですが、コンパイラとかもそうです。



コンピューターと言う言葉はあいまいで、この 1~4 のどの段階でも「コンピューター」と呼ばれてしまいますが、機能は雲泥の差です。


僕は ABC マシンも ENIAC も世界最初のコンピューターだと認めない立場をとっています。

その理由は、一般的に「コンピューター」と呼んだ時、多くの人が 4 を満たしたものを想像するためです。


もっとも、上の理由に「多くの人が想像する」とあるように、重要なのは多数の人の認識だと思っています。

そのため、世界最初のコンピューターを尋ねられた時は ENIAC を挙げたうえで、実際には少し違うことを説明します。

ENIAC は現代的な意味ではコンピューターではないのですが、重要な一歩であり、最初と呼んでも差し支えない、という程度には認めているのです。




もう一つ、ABC が世界最初だと主張する人の根拠の一つが「裁判所が認めた」なのですが、そんなもの、どうでもいいです(笑)


裁判所はなんらかの紛争を裁定する場所であって、技術的な事実を確認する場所ではないですから。

その裁判所すら、ENIAC の特許無効を裁定した時に、先行技術としての ABC を認めただけであって、ABC が最初のコンピューターだなんて言っていないのです。


とはいえ、この裁判で ABC が有名になったのは事実。僕もこの裁判の話として、ABC を知りました。



2進法のデジタル計算機としては最初期のものだったのも事実です。

ENIAC では2進法は採用されなかったとはいえ、ENIAC 完成前に ENIAC の設計者たちに ABC の技術は説明されており、EDVAC 以降現代まで続く2進法コンピューターに影響を与えているのも事実でしょう。


ABC がなければ現代コンピューターはなかった、と言っても間違いはありません。


(2進法の採用はツーゼの Z3 の方が先でしたが、戦時中のドイツで作成されたため、現代のコンピューターに影響を与えてはいません。)



では、最後にもう一度。

今日は、この ABC の設計者、アタナソフの誕生日です。


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シーモア・クレイの命日(1996)  2013-10-05 10:39:00  コンピュータ 今日は何の日

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今日は、コンピューター業界の大物2人の命日。


シーモア・クレイの命日(1996年)と、スティーブ・ジョブズの命日(2011年)です。


…ジョブズは有名すぎて、うかつなこと書いたら突っ込みの嵐になりそう。

僕が書かないでも誰かが書くでしょうし、クレイについて紹介しましょう。




シーモア・クレイは、CRAY-1 コンピューターの設計者です。

これ以前から、計算力を誇る「スーパーコンピューター」は存在したのですが、CRAY-1によって一躍有名になったと言ってもよいでしょう。


1970年代、コンピューターはまだまだ高価なものでしたが、1950年代のように科学計算専用ではなくなっていました。

中小企業では手が出るものではありませんが、大会社では、商品開発や事務でもコンピューターが活用され始めます。


そして、当たり前ですが科学計算でもコンピューターの重要性は増していました。

より高速なコンピューターが求められるようになり、量産品ではなく、特注、もしくは受注生産のような形で「超高速」のコンピューターが作成されます。大抵は数台程度しか作られないものでした。



シーモア・クレイは、そのようなスーパーコンピューターを作っていた会社 CDC (Control Data Corporation)で働いていましたが、携わっていたプロジェクトが失敗、CDC でスーパーコンピューターを作り続けることができなくなります。


まだコンピューターの設計を続けたかったクレイは CDC を辞め、1972年に新たな会社、クレイ・リサーチを設立し、1975 年に CRAY-1を発表します。(実際の1号機納入は 1976年)




さて、この CRAY-1がどんなに速かったのか、当時の他のコンピューターと比べてみましょう。


まず、少し後の 1977 年に発売される VAX-11。

これは、当時安くて人気のあったミニコンピューター PDP-11 の後継機で、大ベストセラーとなったコンピューターです。

実は、その後のコンピューターの速度の基準の一つ、 MIPS は VAX-11 の速度を基準としています。


一応、MIPS は「1秒間に100万回の命令を実行できる」という意味の英語 Million Instructions Per Second の頭文字なのですが、実際には命令ごとに実行速度も違いますし、機種を超えて単純な比較はできません。

そこで、VAX-11 が速度基準となるのです。VAX-11 の速度が 1MIPS です。



1974年、インテルは 8080 を発売します。

これ以前から 4004、8008 という CPU を発売していましたが、これらは主に電卓などに組み込む用途が想定されていました。


8080はコンピューターを作成できる性能を持った初めての 1chip CPU で、これで世界初のパソコンが作られています。


この 8080 が、0.64MIPS でした。


当時の IBM は、System/370 と呼ばれるシリーズを販売しています。これは大ベストセラーとなった System/360 の上位互換で、CRAY-1 より5年も前の、1970年発売でした。

値段と性能でいろんな機種があるのですが、この最高機種が 1.89MIPS でした。



もっと性能が欲しい場合、CRAY-1 以前にもスーパーコンピューターが存在しました。

ただ、この当時のスーパーコンピューターは希少品過ぎて、速度を測定した資料が少ないようです。


また、スーパーコンピューターは科学計算で使用されることが多いため、整数演算性能を示す MIPS ではなく、浮動小数点演算性能を示す FLOPS で表現されます。


MFLOPS で、1秒間に100万回の浮動小数点計算ができることを意味します。


クレイが以前に勤めていた CDC 社が 1973年に発表した STAR-100 は、50MFLOPS 。

ただし、これは設計上の速度で、実際にはそれほどの性能が出なかったようです。


Texas Instruments の Advanced Scientific Computer (TI-ASC) は 1972年に発表されています。

…5台しか作られなかったそうで、性能を測定した値が見当たりません。一部資料では STAR-100 より性能がよかった、となっています。


STAR-100 の半分のクロック速度で動作しますが、STAR-100 の倍の同時演算性能があります。

これだけで見ると性能は同程度ですから、性能が良かった、というのが事実として、STAR-100 の設計性能通りの 50MFLOPS くらいでたのではないかな、と思います。


イリノイ大学が作成した ILLIAC IV は、1964年に開発が開始された並列コンピューターです。


256個のプロセッサが同時に動作し、性能はなんと 1000MFLOPS! …を目指していたのですが、実際には開発が難航し、プロセッサは 64個に減らされ、予算は4倍に膨れ上がり…


1976年にやっと完成した時には、設計上で 100MFLOPS、実際にはそれを下回る性能になっていました。

量産は考慮されていなかったため、作られたのは1台のみです。



さて、下は 0.64MIPS から、上は 1.89MIPS 。

スーパーコンピューターだと、 50MFLOPS から 100MFLOPS。


これが、CRAY-1 が発売された当時の、他のコンピューターの性能でした。


そして CRAY-1 は、160MIPS/160MFLOPS。

これは設計上の速度で、実際には 150MIPS/80MFLOPS 程度だったと言いますが、それでも性能がとびぬけているのがわかって貰えるでしょうか。


スペック的には、ILLIAC IV と性能が同程度、完成も同時期です。

ただし、ILLIAC が量産を考慮していなかったのに対し、CRAY-1 は量産可能でした。


CRAY-1 の反響は非常に大きく、第1号機は奪い合いとなりました。

クレイは1ダースも売れれば十分…と考えていたようですが、結果として80台以上を売る大ヒットでした。




CRAY-1 は、円筒型の印象的なデザインが特徴です。

(右図:Wikipedia より引用。実際には後継機の CRAY-X MP のもの。クリックで拡大ページを開きます)

これ、速度を上げることと非常に密接な関係があります。


速度を上げるためには、単純に言えばCPUのクロックを上げる必要があります。

しかし、クロックを上げようとすると、信号線の「乱れ」が問題となり始めます。


クロックは、処理を開始するきっかけです。よく指揮者に例えられます。

コンピューター内では、処理開始時には、その処理の材料となる電気信号が揃っていなくてはなりません。

そして、処理中に電気信号が変化します。この電気信号の変化がすべて終わり、各所に電気信号が届いてから次の処理を開始する必要があります。


つまり、クロックの速度は、最悪の、一番遅い信号切り替わりのタイミングよりもゆっくりでなくてはならないのです。

一部の命令を速くしただけではクロックを上げることはできず、全体の速度は変えられないのです。



そのため、設計上は出来るだけ信号の変化タイミングを合わせる必要がありますし、それらの信号が速やかに届くように、信号線は出来るだけ短くする必要があります。


…そこで、円筒形です。

円筒形の周囲には様々な機能を実現する回路が入っていますが、それらの回路同士の連絡は、円筒形の中央で行われるようにしてあります。

一旦中央に集められた信号が、適切な周囲の回路に渡される。これなら、信号線は最短にできます。


ちなみに、速度に関係しない電源と、表面積を大きくしたい冷却機構は、一番外側に円筒を取り囲むように配置されています。

ちょうど椅子くらいの高さで、円筒部分が背もたれに見えるために、CRAY-1 は「世界で一番高価なソファ」という愛称(?)で呼ばれていました。



愛称も含め、特徴的なデザインはやはりみんなの目を引いているわけですが、これは性能を追い求めた結果生じた機能美なのです。




話は脱線しますが、後に NEC がスーパーコンピューターの開発に乗り出し、1983年に SX-2 を発表、世界で初めて 1GFLOPS (1000MFLOPS)を超え、世界で初めてアメリカ以外の国で作られたコンピューターが速度世界一となりました。


この時、設計者たちは 5ナノ秒で電気信号が到達する長さの棒(定規)を作って、すべての信号線の長さがその棒よりも短くなるように設計図を描いたのだとか。

この棒を「5ナノ棒」と呼んでいた、と当時設計に携わった人に聞いたことがあります。



また別の脱線。昔 Ah! Ski というパロディコンピューター雑誌があり(ASCII の別冊として、毎年エイプリルフールに発行されていた)、この中に「人柱コンピューター」と言う話が載っていました。

円筒形より速度を上げるには球形配線しかないが、技術者は内部で配線を行わなくてはならないため、最後はコンピューター内部で即身仏になる、というネタ。




さて、最後に現代の CPU の性能をちょっとだけ。

パソコン用では、1994年発売の Pentium 90MHz で 150MIPS に到達しています。

これ以降のパソコンは、みな「かつてのスーパーコンピューター」並みの性能を持っているのです。


2011年の Intel Core i7 Extreme 3960X (6core) は 187250MIPS / 115740M(115G)FLOPSとなっています。CRAY-1 の千倍以上の速度です。



さて、今日はクレイの命日であるだけでなく、ジョブズの命日だとも書きました。


ジョブズは Apple 設立の起案者ですが、1981年に追放され、1996年に復帰しています。


1999年発売の PowerMac G4 は、「スーパーコンピューター」であると宣伝していました。

根拠は、共産圏に武器輸出を禁じるココム協定では、1GFLOPS を超えるコンピューターをスーパーコンピューターと定義しているから。

PowerMac G4 に使われた PowerPC G4 プロセッサは、パソコン用として初めて 1GFLOPS に到達していました。


ところで、ココムはソ連の崩壊を受けて実際には 1994年に解散しています。

1GFLOPS がスーパーコンピューターである、と言う規定も 1994年当時のものとなります。


先に書いたように、1983 年に NEC が作った SX-2 が初めて 1GFLOPS を超えたマシンです。スーパーコンピューターは高価なために10年程度は使い続けられることが多く、10年前の性能を定義の指標に使っていたのでしょう。


ジョブズの遺作となった、2011年の iPhone4S 。

この CPU である A5 は、336MIPS / 141MFLOPS の性能を持つそうです。

2コアですから、1コアで考えると…ちょうど、 CRAY-1 と同じくらい。


クレイがつくったスーパーコンピューターは、ジョブズによって皆が持ち歩けるようになったのです。

そして、今日はその二人の命日。天国でどんなお話をしているのでしょう?


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ジョン・ワーノックの誕生日(1940)  2013-10-06 10:31:35  コンピュータ 今日は何の日

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今日はジョン・ワーノックの誕生日。

アドビ・システムズの共同設立者で、ポストスクリプト言語の設計者です。


…ごめんなさい。僕、この人詳しく知りませんでした。

「今日は何の日」で何書こうかな~と探していて見つけただけ。


もっとも、ポストスクリプトの開発裏話とか、アドビ社の略歴程度は知っていましたが。


以下に書くことには間違いがある可能性が高いです。

読み物として楽しむ程度なら問題ありませんが、資料として読む場合は他の資料も調べることをお勧めします。




ワーノックは1940年にユタ州に生まれました。数学の苦手な子供だったそうです。

しかし、高校時代に良い数学の先生に出会い、急に数学に興味を持ち、ユタ大学に進学します。


しかし、ワーノックは数学に「興味はあった」のですが、依然として「苦手」だったようです。

(僕もそういうタイプなのでよくわかります (^^; )


大学を卒業した後は勉強を続けようとはせず、IBM で働いたり、数学の教師になったり、結婚したりしています。まぁ、大学卒業後の普通の生活ですね。


しかし、なにかに目覚めたようで、1968年、ふたたび大学院に戻る決意をします。

働いた後に大学院に進むのは、欧米ではよくある話。大学院にはギリギリの成績で滑り込んだようです。


大学では数理哲学を学びましたが、大学院はコンピューター科学を専攻しました。

ユタ大学院には、当時珍しいコンピューターの学科があったのです。

アラン・ケイも1966年にユタ大学院に進学しています)


そして、大学院在学中に当時のコンピューターグラフィックス界の未解決問題であった、隠面処理アルゴリズムを開発します。


…ここ、彼について書かれたネット上の資料(特に日本語の物)を読んでいると「数学の未解決問題を解いてしまった! 天才だ!」というようなニュアンスになっているのですが、違和感があるので詳細に解説。


彼がこのアルゴリズムの研究で博士論文を書いたのが、1969年。


ところで、世界初のコンピューターグラフィックソフトとされる、サザーランドのスケッチパッドが、TX-0 の後継機種 TX-2 で作られたのが 1962年です。


スケッチパッド当時のコンピューターは、科学計算や爆弾開発時のデータ解析など使用される、膨大な計算力を持った「兵器」です。

コンピューターをお絵かきに使おうなどと言うのは、当時異端の研究でした。研究者も多くはありません。

コンピューターグラフィックスが学問分野になるのは、もう少し後の話。


で、サザーランドは1968年からユタ大学で教授を務めています。

ワーノックが直接サザーランドに教えを受けたかどうかはわかりませんが、研究内容についてサザーランドの示唆があったのではないかなぁ、と思います。


だとすれば、その内容は「研究者が少なく、時間が足りなくて未解決だけど、じっくり取り組めば大学院生でもなんとかなると思う」レベルの問題を研究させているでしょう。


最初にアルゴリズムを開発したのは事実ですし、ワーノックはその問題を解けるだけの能力はありました。

でも、誰も解けないような「数学の未解決問題」ではなくて、単に研究者がいなかっただけの問題で、解けたから天才、と言うものでもありません。




さて、サザーランドは大学教授の傍ら、1968年に会社を設立しています。

ワーノックは大学院で研究を続けていましたが、76年にサザーランドの会社に移っています。


この会社では、3Dグラフィックデータベースのための「記述言語」の研究を行っていました。


これについても、説明を加えたほうがよいでしょう。

当時、コンピューターは黎明期で、コンピューターごとに表示能力は大きく異なっていました。


どのコンピューターでも使えるデータを作る際、重要なのは、デバイスへの依存性を無くすことです。

たとえば、現代的に画像ファイルとして使われる JPEG ファイルは、縦横の表示ドット数などが固定されていて、「デバイス依存」です。


ずっと昔、640x480 の表示が当たり前だった時代に、WEB 表示用に小さな画像を作っていたとして、それを現代の画面表示で見ると小さすぎる、と言うようなことだってあるでしょう。

(当サイト内には、そうした画像が多数あります (^^;; 1996年からやっているもので)


このようなデバイス依存性をどうやれば無くせるか、というのは一つの重要なテーマでした。

記述言語を利用する場合、実際の表示サイズとは無関係の「仮想的な」画面を想定し、その画面の中で絵を描くための手順を記述します。


実際の表示の際には、計算によってデバイスに適したサイズに数値が変換され、表示を行います。

これならば、どのコンピューターでも、そのコンピューターごとの最適な画像を得ることができます。


これが、グラフィックをデバイスに依存しない形で記録する「記述言語」です。



記述言語には、もう一つの利点があります。

通常、解像度が高いデバイスで表示するためのデータは、非常に大きなものになります。


しかし、記述言語では描くための手順だけを記録すればよいため、小さくて済むのです。


Apple は Apple II 用の Pascal で「記述言語」の概念を取り入れた方法でグラフィックを扱っていましたし、LOGO などは記述言語そのものです。

1980年代には、NAPLPS とかキャプテンシステムとか、記述言語を使って画像通信を行うのが流行しました。




ワーノックは、1978年にXerox のパロアルトリサーチセンター(PARC)に移籍します。能力を買われ、引き抜かれたそうです。

ここで、レーザープリンター用の「ページ記述言語」を開発します。


そして 1982年、PARC の同僚チャールズ・ゲシキと一緒に、アドビシステムズを企業。

PARC で研究したページ記述言語をさらに洗練させ、PostScript 言語を完成させます。


アドビと言う会社名は、シリコンバレーのワーノックの自宅そばに流れていた川から取られた名前です。


良く知られているように、アドビとは日干し煉瓦のことです。シリコンバレーのあたりは雨が少なく、1800年代後半の調査では、この周辺に住んでいたインディアンはみな日干し煉瓦の家に住んでいました。

そのことから、この周辺は「アドビ」と名付けられ、そこに流れる川はアドビ川となったのです。

(川の名前の由来をインディアンの言葉、とする資料もありましたが、エジプト語由来のスペイン語から英語に取り入れられたようです)



ところで、1984年に Apple が Macintosh を発売します。

Mac は、Apple Pascal に源流をもつ「画面記述言語」で画面を描画するシステムを採用していました。


最初の Mac は白黒だった、と言うのは有名ですが、実は画面記述言語のレベルでは、カラーに対応しています。


Mac は、最初から印刷を強く意識したコンピューターでした。

当時はカラープリンタが珍しく、そのことも画面を白黒にした理由の一つでした。

(もちろん、カラー表示用の RAM を無くすことでコストを抑えたのも大きな要因です)


画面のサイズは、1ドットが 1/72 inch になるように決められていました。

最初に発売された専用ドットインパクトプリンタも、1ドットが 1/72 inch でした。

これ、印刷業界でいう「1ポイント」のサイズを基準にしています。


そして、Apple はアドビの持つ PostScript 技術を購入し、レーザープリンターを発売しました。


画面表示用の記述言語(QuickDraw)から PostScript に変換しなくてはならず、本来の性能が引き出せないと言う問題はありました。しかし、QuickDrawは元々デバイスに依存しない方法で表示を行っていたため、十分に綺麗な印刷が可能でした。


実は、PostScript プリンタの発売前から、Appleとアドビは、第3の別会社に接触していました。

これがアルダス社で、アルダスは PostScript を前提とした印刷ソフト、「ページメーカー」を作成します。

ページメーカーは PostScript を前提としていたため、QuickDraw からの変換は不要でした。PostScript プリンタの本当の性能を引き出すことができます。


グラフィカルな画面を持つ Mac と、綺麗な印刷を行うための PostScript 、そしてその架け橋となるページメーカー。

これは、それまでのパソコンでは想像もつかなかった新しい環境でした。

ここに、デスクトップパブリッシング (DTP)のブームがおこります。



その後、ジョブズが Apple を追放され、NeXTコンピューターを作成する際には、画面表示にも PostScript の亜種、Display PostScript を採用しました。

これで、特別なソフトがなくても、画面表示と印刷結果が「完全に」一致します。


PostScript は「言語」ですので、ファイルに記録することができます。

カプセル化された(Encapsulated) PostScript の略で、 EPS ファイルと呼ばれます。


EPS は、PostScript 形式のファイルを扱うソフト間で使用されるデータ形式でした。

アドビでは EPS のフォーマットを改良し、PostScript プリンタ「以外」でも印刷したり、画面に表示したりできるソフトを開発します。


つまり、このソフトがあれば、PostScript プリンタがなくても PostScript ファイルが印刷できるのです。なんという軽業でしょう!

このソフトは「アクロバット」と名付けられ、アクロバット用に改良されたファイル形式は PDF (Portable Document Format)と呼ばれました。


PDF ファイルでは、PostScript の機能を一部削除し、あらゆるデバイスで扱いやすいようにしています。


現在の Mac で使用されている OS (MacOS X)は、NeXT のOS をベースに開発されましたが、画面表示は Display PostScript ではなく、PDF 形式を採用しています。(画面表示システムの、Apple 社での技術名称は Quartz)




PostScript は「言語」なので、ジャンプ命令やサブルーチンコールもあります。ハノイの塔を解決するプログラムは何種類も作られていて、PostScript プリンタに送り付けると、解決手順を延々と印刷します。


一方で、「言語」であるが故のセキュリティホールもあります。

PDF で機能を一部削除したのは、このセキュリティホールを無くすためでもあります。


もっとも、言語とは言っても直接テキストエディタで記述する人は多くないでしょう。

PostScript を「直接記述」したいのであれば、普通はアドビ社の販売しているソフト、「イラストレーター」を使います。

Draw系のグラフィックソフトですが、事実上 PostScript のデータ形式を直接操作しています。

イラストレーターでは EPS や PDF も読み書き共に対応しています。


今ではアドビ社と言えば「フォトショップ」のイメージがありますが、これは 1988年に外部から購入し、1990年に発売したソフトです。

イラストレーターは 1986年には発売されているので、歴史的にはこちらの方が長いです。


アルダス社のページメーカーは、DTPのブームでライバルが登場した際に、十分に対応できずにシェアを大きく奪われました。

ライバルが次々と新機能を搭載し、便利になっていくのに、ページメーカーは古臭いまま取り残されていたのです。


その後アルダス社はアドビに売却され、ページメーカーもしばらくは販売が続けられましたが、2001年のリリースを最後に開発を終了しています。

(ページメーカーに代わるソフトとして、現代風に新規に作られたソフト、InDesign を販売しています。)


Flash の内部は PostScript ではないのですが、イラストレーターのライバル(?)ソフトであったスマートスケッチが起源ですし、アドビは PostScript の会社なのだなぁ、と改めて思います。


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