目次
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2013-11-01 ミッチ・ケイパーの誕生日(1950)
2013-11-01 セガ初期の歴史を調べてまとめてみた
2013-11-03 フィル・カッツの誕生日(1962)
2013-11-04 チャールズ・カオ 誕生日(1933)
2013-11-04 マイケル・クライトン命日(2008)
2013-11-05 Burn ALL GIFs day
2013-11-06 ジェリー・ヤンの誕生日(1968)
2013-11-07 山内博誕生日(1927)
2013-11-08 ビル・ジョイの誕生日(1954)
2013-11-08 パピクリタイムアタック 挑戦者募集!
2013-11-10 PC-6001 の発売日(1981)
2013-11-11 vi は世界初のスクリーンエディタか?
2013-11-15 Intel 4004 の発売日(1971)
2013-11-16 宮本茂 誕生日(1952)
2013-11-18 ミッキーマウス&ポール・モカペトリス 誕生日
2013-11-20 任天堂の会社設立日(1947)
2013-11-21 スーパーファミコンの発売日(1990)
2013-11-22 セガ・サターンの発売日
2013-11-25 ピエール・ベジェの命日(1999)
2013-12-20 Robot Turtles
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今日はミッチ・ケイパーの誕生日(1950)。
ロータス社の社長で、1-2-3 の開発者。
いっちょうめにばんちさんごう、の方ではないよ。そんなことはわかってるか。
ミッチは、多芸な人物で…というと聞こえはいいけど、若いころは職が定まらずに転々としていました。
大学時代から、専攻学問にまとまりがありません。心理学、言語学、計算機科学を学び、さらには機械・コンピューター・生理学を融合させようとするサイバネティックスを学んでいます。
その頃に大学内のコミュニティーラジオ局でディレクターを務め、卒業後はラジオ局のDJをやっているが長続きせず、瞑想術の先生をやったり精神カウンセラーをやったり…。
この経歴をみると、どう見ても怪しい人です。人生の落伍者。もっとも、この頃のアメリカはヒッピーブームだったこともあり、定職に就かずに楽しいと思うことだけをやっている人はたくさんいました。彼が特別ダメ人間だったわけではありません。
ヒッピーかぶれのダメ人間としてはジョブズが有名ですが、そのジョブズとウォズが作った Apple II を購入したことが彼の人生を変えます。
彼は計算機科学を学んでいたのでコンピューターはお手の物。コンピューターコンサルタントを始め、MIT の院生からの依頼で、関数をグラフ化するソフトを開発したりします。
さて、Apple II のキラーソフトとして VisiCalc という有名ソフトがあります。
世界初の表計算ソフトです。この開発話も面白いのでいつか書きたいところだけど、今日のところは割愛。
#VisiCalcの話、後に書きました。
ともかく、Apple II は当初はホビーとして売られていただけですが、VisiCalc が発売されてからは、このソフトが仕事の役に立つと大評判。VisiCalc を使うために Apple II を買う、という人や企業が相次いだのです。
ミッチは VisiCalc の製作者と出会い、VisiCalc と連動するソフトの開発を依頼されます。
この時に開発したのが、VisiPlot と VisiTrend でした。
VisiPlot は、データをグラフ化するソフトです。折れ線グラフ、円グラフ、棒グラフなど、いくつかの方法でデータを図にすることができました。
VisiTrend は、データをもとに線形予測を行うソフトです。たとえば、VisiCalc で1年間分の毎日の売り上げデータが用意されていたとしましょう。VisiTrend ではこのデータをもとに将来を予測し、今後の売り上げの変動を示すことができます。
ミッチの作ったソフトは VisiCalc の販売元である VisiCorp から販売され、ミッチにはおよそ170万ドルの著作権料が入りました。
当時の為替レートで、4億円近い収入です。
このお金で、ミッチはソフトウェアの作成会社、ロータスデベロップメントを設立します。1982年のことでした。
この年は、IBM PC が発売された年でもあります。ミッチは、この新しいコンピューターに標準を合わせ、VisiCalc に変わる新しい表計算ソフトを開発することに決めます。
VisiCalc は Apple II のものでした。Apple II はホビー用途を想定して作られたものですが、VisiCalc によってビジネス用途にもつかわれるようになり、ついにビジネス用コンピューターの巨人、IBM がパソコンに参入することとなったのです。
IBM PC がビジネスを想定したものであれば、VisiCalc に相当するものが必要なはずです。
そして、発売されたばかりの IBM PC には、ライバルとなる表計算ソフトはまだありません。
ミッチは VisiPlot を開発したことがあるため、VisiCalc を詳しく知っていました。
1-2-3 は、VisiCalc を使っていたユーザーが違和感なく移行でき、さらに新たな機能を「当たり前に」使えるように注意深く設計されました。
VisiCalc は、最初からビジネス用途を志向していたわけではありません。
当初は経済学の試算を行うようなソフトを想定していました。
そのため、データのグラフ化や予測、データベース化などの機能を、あとから別売りのソフトとして発売しました。
これらのソフトは VisiCalc のデータファイルを使用することで緩く繋がっていますが、別の作業を行うためには一度ソフトを終了しなくてはなりません。
これを不便だと考えていたミッチは、IBM PC が Apple II よりも大きなメモリと速い CPU を持つことをうまく使い、表計算を中心に各種機能を呼び出せるシステムを作ろうと考えました。
Calc でデータを作り、Plot でグラフ化し、それらをワープロでまとめて書類にする。
これが Apple II での VisiCalc シリーズの使われ方でしたが、この3ステップをひとまとめにしようというのです。
ソフトの名前も、それを印象付ける 1-2-3 と決まりました。
1-2-3 はプラグイン構造を取ります。
これは、世界で初めて考案されたソフトウェア構造でした。
1-2-3 自体が OS になるようなもので、呼び出された小さなソフトは、1-2-3 のメモリ上にあるデータにアクセスする方法が用意されます。
この方式は、多くの機能を持たせる際に、プログラムに使用するメモリを節約するのに便利でした。
また、ソフトの開発を別々に行えるメリットと、後から機能を追加できるメリットがありました。
しかし、考えていることが大きすぎました。
表計算と、グラフソフトと、ワープロと、それらを束ねる OS を、短期間で同時に開発するようなものなのです。
1-2-3 の開発に手間取っている間に、VisiCalc の IBM PC 移植版が発売されますし、Microsoft も Multiplan という表計算ソフトを発表します。
CP/M (という 8bit OS )で発売されていた SuperCalc の移植版も発売されました。1-2-3が目指していた「ライバルがいない環境」は、あっという間にライバルだらけになってしまったのです。
結局、開発が遅れていたワープロ機能を諦め、代わりにデータベース機能を入れる形で 1-2-3 が発売されることになります。
ライバルがひしめく中に遅れてやってきた 1-2-3 は、あっという間にライバルを駆逐し、「1-2-3 が使いたいから IBM PC を買う」人が続出するほどのキラーソフトに成長します。
VisiCalc や SuperCalc は 8bit 機からの移植で機能が少なく、Multiplan は移植性を気にして高級言語で作成されたため、動作速度が遅かったのです。
また、VisiCalc 移植版以外のライバルは、VisiCalc のユーザーが乗り換えることを想定しておらず、全く違う操作方法となっていました。
それでいて、できることは Apple II の VisiCalc と大して違わなかったのです。
そのため、ライバルは多くてもユーザーの求めるものはなく、1-2-3 以前は依然として VisiCalc + Apple II を買う人が多かったのです。
1-2-3 は、やっと「16bit機」の性能を引き出す、革新的なソフトでした。
1-2-3 の登場から3か月で、IBM-PC の売り上げは3倍に急増しました。
1-2-3 自体も、初年度の売り上げ目標…「野望的な数字」として掲げた 400万ドルをはるかに超え、目標の17倍を達成します。
さらに翌年には、1億5700万ドルの売り上げと、社員700人を抱える大企業に急成長しました。
営業部門の人数は、マイクロソフトの4倍もいました。
もちろん、MSに対抗しようなどという意図ではなく、それだけの人員が必要だったのです。
1-2-3 の発売に間に合わなかったワープロ機能は、後でプラグインとして別売りされます。
後から発売されたソフトとは思えないほど統一された操作で(笑)、非常に便利なワープロだったそうです。
ただし、これはそれほど売れてはいません。
1-2-3 は「必要なものはなんでも揃っている」ソフトでした。
とはいえ、ミッチが1人ですべてをデザインし、細部に至るまでまとめ上げたもので、ミッチの審美眼にかなう機能しか入っていません。
後から発売されたワープロは、市場リサーチを元に、必要と思われる機能を全部盛り込んだものでした。
そこには、審美眼はありません。不要な機能が多く、扱いづらかったうえに、非常に高価だったのです。
ロータス社は急成長しましたが、すぐに大企業病にかかり、伸び悩むことになります。
僕としては 1-2-3 は HP-200LX の内蔵ソフトです。
HP-200LX (というより、その元となった 95LX)自体が、「パソコンを持っていない人にも 1-2-3 を売る」ことを目的に作られた機械でした。
#これはもちろんロータス側の思惑。HP 側としては、人気のあった関数電卓の後継機として作成した。
200LX 当時のロータス社は大企業で、200LX の OS も作成しています。
MS-DOS の上に乗せられて、DOS の機能を拡張する OS … Windows 3.1 みたいなものなのですが、非常に完成度が高いです。
いまでも 200LX が手放せないとか、すでに使ってないけど今でも最高の環境だったと思うとか、そういうユーザーさんは沢山います。
もちろんハードウェアのバランスの良さもありますが、この OS のバランスのよさが一番貢献しているように思います。
ところで、VisiCorp は VisiCalc の販売元ではありますが、VisiCalc の作者の会社ではありません。
VisiCalc の作者は VisiCorp にソフトを持ち込み、売れ始めてからは依頼されて各種周辺ソフトを作っていました。
ミッチが作者から頼まれたのも、そんな周辺ソフトの1つです。
1-2-3 に市場を奪われた VisiCorp は資金繰りが悪化し、VisiCalc の作者が納期までにソフト作成を間に合わせなかったせいだ、と訴えます。
作者はこれに対し、VisiCalc は自分の著作物で、VisiCorp に販売を任せているだけだから、販売権は自分の元にあることを確認する訴えをおこします。
これはつまり、VisiCorp から製品を引き上げる、という脅しでした。一方、VisiCalc という商標は VisiCorp 社の名前で登録されていました。
最終的に、作者が VisiCorp から VisiCalc の全権利を買い上げる、という約束で和解が成立します。
しかし、作者はそんな大金を持っていませんでした。
そこに現れたのが、いまでは大金持ちになったミッチです。
たまたま VisiCalc の作者と同じ飛行機に乗り合わせた際に、その場で作者の会社を買収し、VisiCorp にも支払いを行うことで合意します。
ミッチは VisiCalc によって成功の足掛かりをつかみましたが、すでに VisiCalc とはライバル関係にあります。
しかし、彼は過去の恩を忘れていなかったのです。
支払いを肩代わりした以上、VisiCalc はロータス社のものとなります。しかし、これで VisiCorp との訴訟は終了し、VisiCalc は歴史の舞台から消えていきます。
ミッチとロータス社は、すでに VisiCalc を超えるソフトを持っていました。ですから、いまさら VisiCalc を手に入れることには意味はなかったはずです。
ただ、彼は自分が恩を感じている2人…VisiCalc 作者と VisiCorp が争っているのを黙ってみていられなかっただけでした。
ミッチは、仲の良いジャーナリストに当時の心情を明かしています。
VisiCalc 用の関連ソフトを書き、大金を手にしました。
じゃぁ、新しい IBM PC 用にソフトを書けば、もっと儲かるに違いない。
軽い気持ちで 1-2-3 を作成したところ、VisiCalc をはるかに超える大ヒットになり、ロータスは大会社に成長しました。
そして、VisiCalc は没落し、作者と販売元で訴訟合戦となっています。
でも、1-2-3 は VisiCalc のアイディアを盗んだだけ。
ミッチは、自分が「詐欺師」と呼ばれるのではないかと恐れました。
その恐れから、1-2-3 に続くヒットを出して、自分の実力を示めそうと頑張りました。
でも、ロータスはその後もソフトを開発していますが、1-2-3 に続く製品を作れないでいます。
ミッチはすっかり自信を失いました。
自分で手に入れた地位や金が、自分の実力ではない、と思うようになりました。
そして、自分のしてきたことを後悔するようになるのです。
ミッチは1986年7月にはロータスを退社しています。
(あ、それじゃ 1991年発売の HP-95LX には関与してないじゃん。)
そして、ふたたび、職を転々とします。
…ただ、以前と違ってヒッピーのような流転ではありません。
慈善団体を設立して、自分の資産を運用して人々のために役立てたり、MIT の客員教授として若者に技術を伝えたり。
ネット上での活動と言論の自由を守るのを目的とした「電子フロンティア財団」の設立者でもありますし、FireFox を開発している Mozzila Foundation の理事の一人で、理事長を務めたこともあります。また、Wikipedia を運営しているウィキメディア財団の顧問委員でもあります。
とにかく、非常にいろいろな仕事を兼務しています。
VisiCorp の裁判に手を貸した件といい、彼は非常に人情派のように思います。
自分は詐欺師ではないか、と思い悩んでいるのも、おそらくは人に対して優しすぎるから。
若いころはヒッピーのような生活をしていますし、お金は生活に十分なだけあればよく、あとは周囲の人が幸せになるために使うのが良い、と考えているタイプなのでしょう。
…評伝などを読んだだけで、実際にあったこともありませんが、なんとなくそう思うのです。
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デビッド・ローゼン 誕生日(1930)【日記 16/01/22】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
昨日の話だが、セガ公式アカウント氏がこんなツイートをしていた。
社名の由来はこちらのツイートに凝縮しました( 'Θ')ノ⇒http://t.co/3ETw9DomUv RT @axdeunw2: セガ・エンタープライゼスの「セガ」とは、同社の旧社名「日本娯楽物産」を英訳した「ServiceGamesJapan」の頭文字をとったもの。
— セガ公式アカウント (@SEGA_OFFICIAL) 2013, 10月 31
自分がフォローしている人が「日本娯楽物産」をどう訳したら「Service Games Japan」になるのかわからない、とつぶやいていた。
僕もこれには違和感を持った。公式氏の話は僕が知っている話とは違う。
もっとも、僕は自分の記憶はかなりいい加減だと知っているので調べてみる。
日本娯楽物産は Service Games Japan が解体されてできた会社だった。だから、どちらかと言えば「Service Games」の訳が「娯楽」になる、と思ったほうがいいんじゃないか。
でも、気になるのでさらに調べたら出るわ出るわ…
セガの歴史って諸説あって、全然違う話がいっぱい出てくる。
自分の知っている歴史と違う、と思ったのもそのせいだ。きっと、何が正しいのか誰にもわからない状態。
こんな状態だから、由来を間違っていたとしてもセガ公式氏を非難するものでもない。
ところで、自分が知っていた歴史は、セガの黄金期の社長だった中山氏に取材してまとめられたもの。
(「セガvs任天堂 【マルチメディア・ウォーズのゆくえ】」1992年 赤木哲平)
ネットで見た中で一番「知らないこと」が書かれていたのは、Kotaku という海外サイトの記事だった。
さらに調べると、セガは主要な会社だけで4つ、実際にはそれ以上の会社が寄せ集まってできた会社で、中山社長は途中参加と判った。つまり、中山氏に取材しても全容は理解できない。
海外サイトの翻訳が知らない事実ばかりだったのは、会社のうち一つが、アメリカの会社だったから。
基本的にその会社のことしか書いていないし、詳細に調べたら細かな部分は間違えていた。
でも、アメリカのサイトでセガの歴史を調べると、Kotaku に書かれている内容の方が有名なようだ。
いくつかのサイトをあたり、それなりに信憑性がありそうなものを信用することにした。
そして、日本の「セガの歴史」としてよく知られるものは、国内で作られた会社のうち、一番古い会社を起点としている。
アメリカでできた会社がかなり重要なのだが、そこは抜け落ちているのだ。だから、これも正しいとは言えない。
いろんな資料を当たりつつ、まとめてみた。
以下時系列に書いてみる。
1日でネットで調べた程度の資料なので、信憑性はそれほど高くない。
突っ込み大歓迎。情報があれば逐次修正します。
2016.10.24
その後も情報を見つけるたびに追記していましたが、主に前半部分について、追記だらけで読みにくくなったので整理し直しました。
以前のものはおそらく waybackmachine に残っています。
その1。ハワイ、スタンダード・ゲームズ社
1934年 ハワイ スタンダード・ゲームズ社創設
当時のハワイは州として正式に認められておらず、今のような観光地にもなっていなかった。
アメリカはハワイを、太平洋支配のための拠点と位置付けており、真珠湾に大きな基地を持っていた。
スタンダード・ゲームズ社は、この海軍基地で働く軍人に、娯楽を提供する会社として設立された。
当たり前だが、名前通りゲームを提供する会社だ。
セガの歴史を語る際に、この会社が「ジュークボックスを提供した」とされることがある。
しかし、ジュークボックスはゲームではないことに注意。ジュークボックスの話は、後に出てくる別の企業との混同があるようだ。
物証であるスロットマシン用コインなども写真提示されている Kotaku の記事(和訳のアーカイブ)は資料性が高いが、その歴史記述などは他の資料と照らし合わせるとちょっと怪しい。
(このスロットコインに関しては後ほど)
ちなみに、「ゲーミング」には賭博の意味もある。
スロットマシンなど、賭博機を中心としていたようだ。
#ジュークボックスなど、にされているのは、賭博機を手掛けていた、と言う悪いイメージを無くしたい可能性もある。
その2。1945年 サービス・ゲームズ社。
1945年、第二次世界大戦が終結する。
スタンダード・ゲームズ社は、「兵士のための」余暇の娯楽を提供する会社だ。
大きな戦争が終わったというのは転換点だった。
そこで、この年に社名を「サービス・ゲームズ」に変更する。
名称変更は、兵士だけでなく、一般向けの商売も始めるためだったようだ。
と言っても、やはり中心は兵士相手だった。
大戦終結後、日本はアメリカ軍の占領下にはいった。
そのため、多くのアメリカ軍兵士が日本に駐留していた。
ハワイは、米軍としては日本に一番近い、占領のための必要物資を中継する基地となっていく。
サービス・ゲームズ社も、スロットマシンなどの娯楽機器を日本に持ち込んだようだ。
その3。日本、レメーヤー&スチュアート社
1951年 日本 レメーヤー&スチュアート社創設
サービス・ゲームズ社とは逆の立場…娯楽を「本国から輸出する」のではなく、「日本への輸入をする」会社を設立するものもいた。
レメーヤー&スチュアート社は Raymond Lemaire と Richard Stewart が起こした会社で、本国からジュークボックスを輸入する会社だった。
主に米軍人の娯楽用だったが、後には日本人向けにも商売を広げている。
「国内で起業された」セガ関連の企業としては、一番古い会社になる。
そのため、国内で書かれたセガ年表はこの会社から始まっていることが多い。
この頃、日本でジュークボックスを扱っている会社には太東貿易(後のタイトー)、V&V社があり、レメーヤー&スチュアートと併せてジュークボックス界の3大企業だった。
その4 サービス・ゲームズ・ジャパン社
サービス・ゲームズ社はアメリカから日本に娯楽機械の輸出を行う会社で、レメーヤー&スチュアートはアメリカから日本に娯楽機械の輸入を行う会社だった。
そして、どちらも在日米軍を相手とした商売だ。
商売上、敵だったのか協力関係にあったのかはよくわからないが、お互いの存在を知ってはいただろう。
1951年、アメリカで「ジョンソン法」と呼ばれる、賭博機械の移動を禁止する法律が可決される。
賭博自体は、州ごとに違法・適法を判断するもので、合衆国としては関与しない。
しかし、賭博を違法とする州に賭博機械が持ち込まれることが無いように、州を超えた機械の移動は禁止された。
先に書いたように、サービス・ゲームズ社は軍人相手だけでなく、一般向けの商売も始めていた。
この法律により、アメリカ国内での自由な販売が禁止された形だ。
さらに追い打ちをかけるように、1952年に日本の占領政策が終了する。
米軍は日本から引き上げる。これは、残された米軍相手の市場も縮小してしまうことを意味していた。
しかし、サービス・ゲームズがスタンダード・ゲームズだった頃からの創業者の一人、マーティン・ブロムリー(Martin Bromley)はむしろ商売のチャンス、と考えた。
日本はアメリカの占領下でなくなった。つまり、アメリカの法律は及ばない。
また、日本の経済が回復しつつあったことが占領統治の終了の理由であったが、日本にはまだ娯楽産業が育っていない。
マーティンは、アメリカで違法となったために大量に「廃棄」されるスロットマシンをただ同然で入手し、自社ブランドを付けて日本に輸出する商売を始める。
今までにない、大量の輸出を計画していた。日本側で販売を行う人が必要だった。
そこで、レメイヤー&スチュアートの、スチュアートと販売代理店契約を行った。
この時点でレメイヤーは関与していない。
あとでもう一度出てくるのだけど、どうもスチュアートは思い切った賭けに出る山師で、レメイヤーは堅実路線のようだ。
このため、販売はレメイヤー&スチュアートが行うのではなく、スチュアートを代表とする新会社を設立することになる。
ここに、サービス・ゲームズの日本支社、サービス・ゲームズ・ジャパンが誕生する。
最初はまだ残っていた在日米軍の軍人相手の商売だったが、大量のスロットマシンを売りさばくために、やがて日本人相手の商売も始めたようだ。
このときから、サービス・ゲームズ社は、社名を縮めて「SEGA」という商標を使い始めたようだ。
SErvice と GAmes から、それぞれ2文字づつとって組み合わせたのだ。
カタログなどには SEGA incorporated と書かれていて、商標だけでなく社名のような扱いになっている。
スロットマシンにも SEGA と書かれていたし、コインにも SEGA と入っている。
もっとも、Kotaku のサイトに写真があるコインは、もう少し後の年代ではないかとも思う。
これらのスロット・コインが販売された正確な年代は不明。
1952年から1960年代半ばまで間に、何台もの機械が発売された、ということだけはわかっている。
スロット商売についての考察は、あとでサービス・ゲームズ社が再登場した時に続ける。
その5。日本、ローゼン・エンタープライズ
1953年 日本 ローゼン・エンタープライズ創設
日本で商売を始めた者は、他にもいる。
デヴィッド・ローゼンはローゼン・エンタープライズを興した。
ローゼンの当初の来日目的は、日本の安い労働力を使い、アメリカ国内でのサービスを提供することだった。
しかし、来日した彼は、日本のほうがはるかに魅力あふれる市場であることに気付く。
戦後復興期の日本は、何をするにも身分証明書が必要で、添付する「写真」に需要があった。
彼は写真技術に詳しく、数年前にアメリカで登場した「2分で写真が出来上がる」最新の機械を知っていた。
しかし、この機械で撮影した写真は、数年で像が消えてしまう、という欠点があった。
彼は独自に研究して欠点を克服し、米国からこの機械を輸入する。
これが日本で大ヒット。日本初のフランチャイズ商売も始め、全国に「2分写真」が設置されるようになる。
フランチャイズなので、何もしないでも会社は利益を上げ続ける。
暇ができた彼は、今度は日本に「アーケードゲーム」を輸入する商売を始めた。
そして、東宝系の映画館の待合室にこれらのゲームを設置した。
次の映画の開始を待つ人は暇を持て余していたが、当時の人気娯楽であるジュークボックスは、映画館には置けない。
需要があるのに娯楽が提供されない「隙間」を見事に見つけ出した形だ。
しかも、当時は映画は人気のある娯楽なので映画館は非常に多く、東宝は最大手だった。
アーケードゲームは、すぐに他の会社も輸入を開始する人気商品となった。
#興味のある人はデビッド・ローゼンの誕生日の記事も併せて読んでほしい。
その6。ふたたび、サービス・ゲームズ・ジャパン社
1957年、サービス・ゲームズ・ジャパン社とレメーヤー&スチュアート社が合併する。
先に書いたように、二つの会社の代表者は事実上同じだった。
登記上も実態に即したものにした、という程度だろう。
合併後のサービス・ゲームズ・ジャパンは、羽田に本社を構えている。おそらく、この時から現在のセガの本社位置は変わらないのだろう。
以降はスロットマシンも日本で製造するようになったようだ。
おそらく、羽田の糀谷周辺に技術の高い町工場が多いので、スロットマシン製造のためにこの場所を選んだのではないかと思う。
セガの話としては余談となるが、サービス・ゲームズは、日本支社を作った後にさらにパナマ(1953)とネバダ(1957)に支社を作っている。
パナマはアメリカのすぐ近くだが、アメリカではない。
どうやら「賭博機器を州を越えて移動してはならない」という規定をクリアして輸出を行うために、アメリカ国外の会社を必要としたようだ。
一方、ネバダはラスベガスのある州だ。州内でスロットマシンを製造し、供給することに問題はない。
これらの支社の設立の際にも、レメーヤー、スチュアートは関与している。
さて、先ほど途中まで書いた、スロット商売の考察。
スロットマシンは、事実上「闇商売」だった、と見るのがよさそうだ。
詳しい歴史がわからないのもそのためだろう。
日本にスロットマシンを輸出したわけだけど、本来日本は賭博が違法行為だ。
ただし、米国軍人は米国の法律に縛られるので、賭博自体は禁止ではない。
米軍相手だけに商売をやっているなら問題はないのだけど、先に書いたように、後には日本人向けの商売も始めている。
もっとも、まだこの頃は闇商売が横行している。
賭場だってあったのだから、現金を入れるスロットマシンを置いてある店があっても不思議はない。
当時は遊戯機器は販売者が直接設置し、売り上げを設置店とわけあう、というのが普通だった。
サービス・ゲームズ・ジャパンが日本でスロットの製造を始めた後、スロットが沖縄に持ち込まれ、現金硬貨で遊ばれたため、琉球警察が指導した、と言う事実があるらしい。
つまり、サービス・ゲームズ・ジャパンは、日本では違法な賭博を行っていた。
もっとも、沖縄は遠いので、サービス・ゲームズ社が直接設置したかどうかは不明だ。別の会社に販売し、その会社が設置を行った可能性も高い。
先に Kotaku で写真が見られる「コイン」の話を書いたが、沖縄での指導が原因で開発したようにも思えるし、もしかしたらそれ以前から作っていたかもしれない。
先にリンクした資料では、沖縄での件があってコイン式スロットを開発した、となっている。しかし、コインセレクタ(贋金などを判別する装置)さえ交換すれば、従来のスロットでコインを使うこともできたはずだ。
だから、これ以前にコインが使われていた可能性がないわけではない。
コイン商売をしたのであれば、おそらくパチンコなどと同様に、景品などと交換できたのではないか。
スロットマシンは賭博機であり、何かが懸かっていないと面白くない。
1960年代半ばまでスロットが販売された、というのも、1960年代半ばにはパチンコが庶民ギャンブルとして台頭したためではないかと思う。
1961年に、パチンコで景品をもらい、別の場所で景品を買い取ってもらうことで現金化する、と言う方法が「賭博ではない方式」として考案されている。(実際にはもっと複雑な経緯があるのだが、とにかくパチンコが合法賭博化した)
合法な賭博があるのに、いつ警察に捕まるかわからない闇賭博を行う必要はない。
スロットが1960年代半ばまでしか販売されていなかったのは、そのような経緯があったのではないかと考える。
もちろん、パチンコは「合法化」する以前から存在している。1950年代の半ばには、すでに人気の遊戯だった。
このことは、次に書くサービス・ゲームズ・ジャパンの分社化に影響を与えているように思う。
その7。日本娯楽物産と日本機械製造
1960年、レメーヤーとスチュアートの考えが異なったのか、サービス・ゲームズ・ジャパンは2つの会社に分割される。
スチュアートは日本娯楽物産として、レメーヤーは日本機械製造として商売を続ける。
名前からして、今まで通り娯楽分野を続けたいスチュアートと、時代の変化に合わせ手堅い商売を目指したレメーヤー、というところだろうか。
おそらくは、先に書いたようにパチンコの台頭により、スロットマシンの売り上げが落ちてきたのではないかと思う。
この後、日本娯楽物産は国産初のジュークボックスの製造に成功。この型番は「セガ1000」で、これがセガの名称が現れた最初のようにされていることが多いのだけど、すでに書いたようにスロットで先に使われている。
大体、日本娯楽物産で、すでに無くなったサービス・ゲームズ・ジャパン社の名前を使った、って訳わからんじゃないか。
すでにスロットでセガの名前が有名だから使ったのだ。
大成功で金を手にした日本娯楽物産は、1964年に再び日本機械製造を吸収合併。
2019.6.3 追記
日本娯楽物産の法的な設立登記は、1960年6月3日のようだ。
一応、この日が「セガの設立日」ということになっている模様。
その8。セガ・エンタープライゼス
1965年、日本娯楽物産がローゼン・エンタープライズを吸収合併。
ローゼン・エンタープライズは、2分写真のフランチャイズ展開と、アーケードゲーム機器の設置・販売で大きな利益を上げていた。
しかし、合併の直前には、証明写真機の製造に乗り出す企業が増え、過当競争に陥ったためにフランチャイズを解散している。
また、アーケードゲームの輸入を行う会社も増え、こちらも過当競争になりつつあった。
一方、日本娯楽物産はローゼン・エンタープライゼスよりも小さな会社だったが、「セガ1000」の大ヒットで勢いがあった。
この合併の際には、サービス・ゲームズ社の創業者の一人であるマーティン・ブロムリーが日本娯楽物産側の代表として交渉に当たったようだ。
すでにサービス・ゲームズ社の名前は消えているが、やはり彼の会社という側面が強かったのだろう。
結果として、存続会社は日本娯楽物産だが、社長はローゼンが務めることになった。
そして、社名をセガ・エンタープライゼスに変更する。
エンタープライゼスとは「企業複合体」の意味だ。ここまでの経緯を見ると、多数の企業を取り込んでいる。この名前はふさわしい。
「セガを興したアメリカ人は帰国したかったので会社を売却し、セガができた」という話を聞いたことがあるが、この帰国したかった外国人はスチュアートのことかもしれない。
(レメーヤーがまだいたかは不明。スチュアートに会社を売却して帰国したんじゃないかな、と勝手に思っている。で、帰国したレメーヤーを見て、スチュアートも帰国したくなってきて、ローゼンを後釜に据えた、と)
社名をセガとしたのは、ジュークボックス セガ1000 が売れていたから、知名度のある名前にしたのだろう。
元々サービス・ゲームズ社をやっていたマーティン・ブロムリーが合併交渉に絡んでいるから、名前に思い入れがあり、残したかった可能性もある。
ローゼン・エンタープライズはアーケードゲームの「設置・販売」を行っていたけど、自社で製造する技術力はなかった。
そのため、他社との差別化ができずに苦しい競争となっていたが、設置するための「ロケーション」を多数持っていることは強みだった。
ここに日本娯楽物産・(元)日本機械製造の技術力でオリジナルのゲームを作れば、まだまだ戦っていける…
セガは翌年(1966年)には「ペリスコープ」を作り世界的大ヒット。
…僕が子供の頃には、まだ置いてあるゲームセンターありました。古いゲームだったので遊んだことはないけど、コインも入れずに潜望鏡を覗いた覚えはある。
この後も、続々とヒットゲームを送り出している。
その9。エスコ貿易
1967年 日本 エスコ貿易創設
ずっと前に「ジュークボックス界の3大企業」としてV&Vという会社を書いたが、覚えているだろうか?
まぁ、覚えていなくても良い。とにかくそういう会社があった。
V&Vはジュークボックスの大手だった。そして、これからもジュークボックスは売れ続けると考えていた。
しかし、娯楽と言うのは時代と共に変化するもの。V&Vの中には、「別の事業にも手を出さなくてはならない」と力説するものもいたが、好調なジュークボックス事業があるのに、わざわざ成功するかもわからない他の事業を手掛ける必要はない、とする意見が大勢を占めていた。
これに業を煮やした一人の社員が、V&Vを飛び出し新たな会社を作る。
それがエスコ貿易だった。
エスコ貿易は、ゲーム機を手掛けた。
ジュークボックスはこれから下り坂で、その穴をゲームが埋める、と考えたためだ。
しかも、ただ販売するだけでなく、後には自社でもゲームを作ろうとした。
販売だけだと値下げ競争になってしまい苦しくなるが、自社で手掛ければ、それは他社の扱えない「付加価値」となり、値下げする必要は無くなる。
エスコ貿易は徐々に会社規模を大きくしていった。
その10。ガルフ&ウェスタン
1969年、アメリカのコングロマリット「ガルフ&ウェスタン」がセガを買収。
コングロマリットは複合企業体と訳される。訳しても意味わからんね。わからんから元の英語のまま書いたのだけど。
説明すれば、全く異なる業種であっても、つぎつぎと買収して大きくなったような企業のこと。
異業種のコラボレーションで、うまくいけば他には真似できないような商品・サービスを提供できるけど、多くの方面に手を出し過ぎて器用貧乏にもなりやすい。
ともかく、セガは急成長したのでガルフ&ウェスタンに目をつけられた。
この頃、娯楽産業は急成長していて、今後も利益を生み出し続けそうに見えたようだ。
しかし、買収によってセガの資金力が安定したのも事実。
その資金力がなければ、家庭用テレビゲームなども開発できなかったかもしれない。
セガのローゼン社長は、企業の売却後は引退してゆっくり過ごすつもりだったらしい。彼は家族と共にアメリカに戻ってしまった。
しかし、そのまま社長に据え置かれた。日本のセガには時々顔を出すだけになった。
とはいえ、社長が全く会社にいないのも問題がある。
セガの関連会社をアメリカに作り、社長は普段はそちらにいる、と言う形式をとったようだ。
その11。米国分社
上に書いたが、ローゼン社長の普段いる場所は、アメリカに作られた分社だった。
次の話と時系列が少しかぶってしまうのだが、しばらくこの米国分社の動きを追いかけてみる。
米国分社では、当初はピンボールを作っていたようだ。
セガは1971年~1979年にかけてピンボールを作っていたようだが、この会社でやっていたのだろう。
ピンボール開発終了後の1980年代初期は業務用ゲームの開発・販売をしていたようだ。
おそらく、開発は別会社に発注する形式か、小さな会社が作成したものを購入する形式。直接開発力は非常に限られていて、販売が中心だったように見える。
日本本社で作られたゲームの輸入販売も行っているし、それらのゲームの移植ライセンス供与もしている。
特に、「フロッガー」(1981)は、コナミが作成し、セガから販売されたものだが、アメリカで大ヒットして非常に多くの機械に移植されている。
この移植も、他社にライセンスを供与する形で行われている。
米国内での移植ライセンス供与は米国分社の仕事だったようだが、名著「ハッカーズ」に出てくるフロッガー移植をめぐる話によれば、「セガは自分たちの所有物の価値がわかっていなかった」。
大ヒットゲームでライセンスを欲しがる会社は沢山あったのに、売り上げの 10% という、非常に安いライセンス料しかとっていないのだ。
ライセンス供与は、「メディアごと」に行われた。
普通なら、ゲーム機ならカートリッジ、PC なら磁気メディアが使われるだろう。おそらく、米国分社もそのような棲み分けの意図でライセンス供与したのだと思う。
磁気メディア版はシエラオンラインが、カートリッジ版はパーカーブラザースが権利を取得するが、ATARI VCSはゲーム機でありながら、カセットテープ(磁気メディア)からプログラムを読み込む、サードパーティ製の拡張カートリッジが存在した。
また、ATARI の 8bit コンピューターも、カートリッジと磁気メディアの両方が使えた。
この結果、VCS と 8bit 機は2種類のフロッガーが発売されている。
1982年に米国分社が発売した業務用ゲーム TacScan (開発は GREMLIN)はヒットしたようだ。
日本ではほとんど知られていないゲームだが、後で重要になる。
1982年の年末には、アメリカではゲーム業界の各企業の株価が急落する。
日本ではアタリショック、と呼ばれるものだ。
(アタリショックについては、loderun さんの Runner's High! が詳しい。)
注意が必要なのは、アタリショックと言うと「消費者のビデオゲーム離れ」と言われてしまいやすいのだが、実際にはそんなものは存在しなかったことだ。
アタリ社が経営手法に失敗したために業績が悪化し、それに端を発してゲーム関連企業の株価が急落した、というのは、経済学的には重大な出来事だったが、消費者にはほとんど関係していない。
1983年は、ATARI VCS (ATARI 2600) のゲーム市場が一番成熟した年で、ゲームの発売タイトル数も、売り上げも、最高を記録している。
そして、この 1983年は米国分社にとって激動の年となる。
米国分社は VCS 市場成熟のタイミングを見逃してはいない。
前年に大ヒットした TacScan の移植版を引っ提げて、ATARI VCS の市場に参入。ライセンス供与ではなく、セガのブランドでゲームを供給する。
VCS の他にも、Atari 5200、Atari Computer、Intellivision、Commodore VIC 20、Commodore 64、などに手広く供給する戦略を取る。
ちなみに、発売タイトルは VCS を基準として、他機種にも移植している感じだ。場合によっては移植されないが、商品型番をそろえているようで、欠番が生じる。
とくに、CongoBongo (日本で Tip Top として販売されたゲームの海外版) は、参入した全機種に出しているようだ。
VCS には8月までに8本を投入している。
最初に発売したゲームの発売月がわからないが、月1本以上を開発するというハイペースだ。(主に移植だから開発は簡単なのだろうけど)
7月15日、日本では日本本社から、家庭用ゲーム機 SG-1000 が発売される。
米国分社ではせっせと他社の家庭用ゲーム機向けに移植版を作り続けているが、セガ純正ハードが現れたのだ。
そして翌8月、ガルフ&ウェスタンは米国分社を売却する。
先に「8月までに8本」と書いたが、これにより米国ではセガ純正のゲーム発売は打ち切りとなる。
米国分社の売却先は、ピンボール製造メーカーの老舗 Bally だった。
Bally は、1981年に Midway を買収していた。Midway も老舗ピンボールメーカーだったが、業務用ビデオゲーム機の輸入販売もしていた。
ビデオゲーム事業は、Bally Midway のブランドで続けられていた。
そして、米国分社も合併し、Bally Midway に加わることになる。
これ以降も、VCS や、先にあげた他機種用のゲームは Bally Midway ブランドで発売されている。
ただし、「セガ純正」ではなく、ライセンス供与に戻った形となる。
その12。中山隼雄
ここからは日本本社の話に戻る。
1970年代後半は、セガはゲームを作成する会社ではあったが、作ったゲームを売ってそれで終わり、だった。
この頃にはゲームセンターが作られ始めていて、セガはゲームの作成から販売、ゲームセンターの運営まで、ゲームの全てを手掛けたいと考えていた。
ここで目を付けたのが、先に書いたエスコ貿易だ。ゲーム機の販売・運営で急成長した会社だった。
1979年、セガはエスコ貿易を吸収合併。エスコの創業者で社長の中山隼雄氏は、セガの副社長となる。
(社長はまだローゼン氏。しかし、ローゼン氏は非常勤で、中山氏が事実上の社長になった)
この後、セガは急成長。ヒットゲームを次々送り出す。
先に米国分社のところでも書いたが、1982年の年末にはアタリショックが起きている。
これで、親会社であるガルフ&ウェスタンは、セガの扱いを憂慮し始めたようだ。
日本本社ではこの頃、家庭用ゲーム機の開発を行おうとしていた。
しかし、ガルフ&ウェスタンは計画にストップをかけていた。
ガルフ&ウェスタンが計画を承認しなかった理由は、中山氏へのインタビューをもとにまとめた本では、米国では家庭用ゲーム機がすでに伸び悩んでいたからだろう、となっている。
しかし、これは違うかもしれない。
実際には先に書いたように 1983年は成熟の年で、VCS 関連の売り上げはピークとなっているし、他の会社からもゲーム機やホビーパソコンが発売されている。
米国分社でもこのブームに積極的に乗っているので、「伸び悩み」という認識があったようには見えない。
むしろ話は逆で、米国分社が家庭用に乗り出して好調な時に、足枷となるような「純正家庭用機」を出したくなかった、というのが事実ではないか。
すでに書いたように、SG-1000 発売の1か月後には米国分社は売却されている。これも「商売がぶつかる」のを避けたように見える。
ガルフ&ウェスタンの思惑はともかく、家庭用ゲーム機の開発計画を止められているのは事実だった。
中山氏はこれに危機感を持つ。その思いは、親会社は日本の状況に詳しく、長期計画を持てる、日本語が通じる会社でないとダメだ、という考えに変わっていった。
そこで、米国に行ってガルフ&ウェスタンに直接交渉、セガを売却する案を出す。さらに、売却先を中山自身に一任するように掛け合う。
これはかなり勝手な頼みだ。傘下の企業の社長が、もうおさらばだ、自分の好きなようにやらせろ、と交渉しているのだ。
ダメでもともと、と交渉したのだが、意外なことにガルフ&ウェスタンはこれを快諾。前年にはアタリの株価急落が起きているわけで、ガルフ&ウェスタンにとっても、ゲーム市場はいつ崩壊するかわからない「時限爆弾」だった。手放すなら、高く売り抜けられるときがいい。
その後、1983年に SG-1000 発売。1か月後に米国分社が売却されたのはすでに書いた通りだ。
SG-1000 は、ニュージーランドとオーストラリアでも発売されたが、アメリカでの発売はない。
セガの純正ハードがアメリカで発売されたのは、1986年のマスターシステムが最初だ。
米国分社の売却時の条件として、3年間はライセンス供与し、対立する事業を行わない、などの条件があったのかもしれない。
1984年、日本本社はガルフ&ウェスタンからコンピューターソフト開発の大手 CSK に売却され、CSK の子会社となる。
CSK の社長、大川功はローゼン氏の友人だった。
もっとも、CSK は最後に交渉に参加して、中山氏の意向で「同業種だから」選ばれている。
名前は明かされていないが、CSK 参加前は大手不動産企業が有力候補だったようだ。
それ以外に、ミネベアも買収の意向を示していたらしいが、権限が中山氏に一任されていることを知らずに、ガルフ&ウェスタンに交渉を持ちかけてしまったらしい。
ガルフ&ウェスタンは、交渉権がないのに「150億円。1週間以内に即決を」と返事をし、ミネベアは断念したそうだ。
ちなみに、ミネベアは国内のベアリングメーカー。企業買収(M&A)によって企業を大きくする、という手法を最初に作り出した企業だ。
M&Aはアメリカ的経営手法のように言われるが、実は日本生まれ。
さて、CSK の子会社となった際に中山氏は正式に社長就任。
ローゼン氏はやっと引退できた…のだが、1986 年に新たに作られたセガのアメリカ法人、セガ・オブ・アメリカの会長として呼び戻されている。
1996年にやっと会長を引退したようだ。
(記事を書いた当初、Wikipedia の英語版ではまだ役員となっている、と書いていたのだけど、これは Wikipedia の誤記だったようだ)
以上で、その後のセガの成長時代を率いた中山隼雄社長時代に入る。
ここまでをまとめるとこんな感じ。
図では、背景が緑の社名は、セガの成立に重要な役割を果たし、合併した会社だ。
水色は存続している会社。最終的にはセガだ。
黄色は、関与した会社。
合併や分割は黒の矢印で示したが、関与は赤の矢印で示した。
(アメリカの関連法人売却はどちらにするか迷い、赤にしてある。日本のセガとはほとんど関係がないためだ)
西暦は会社名のところについている、と考えてもらいたい。
矢印で「合併」と書いてある横に西暦があっても、実際の合併年はその下の会社名の横の西暦、と言う具合。
合併しても名前が変わらない場合は例外で、西暦は矢印の説明文につけられている。
この後の歴史をまとめたページは星の数ほどあるので、そちらを参照してほしい。
(勘違いを避けるために書いておけば、現在は CSK は親会社ではない。)
メガドライブを発売して PCエンジン・スーファミに負けたり、セガ・サターンを発売してプレステに負けたり、ドリキャスを…あれは自滅か?
いや、とにかくセガは中山社長の下で黄金期だったんだよっ!(笑)
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今日はフィル・カッツの誕生日(1962~2000)。
レフ・テルミンの命日(1993)のほうも面白そうだけど、今日はフィルの方で。
PKZIP 、という名前に覚えのあるオールド・プログラマはどれくらいいるでしょう?
この PK とは、 Phil Katz … 本名 Phillip Walter Katz のイニシャルです。
PKZIP を知らない人でも、ZIP という拡張子が付いたファイルを見たことはあるでしょう。
Windows では標準的な圧縮形式になっていて、OS から直接操作することができます。
この形式を考案した人が、フィル・カッツ。
だから、多分多くの人がお世話になっています。
圧縮ソフトウェアの技術と言うのはそれほど古くありません。
一番簡単な圧縮方法とて知られる「ラン・レングス」はいつ考案されたのか、調べてみたけど…ちょっとわかりませんでした。
ちなみに、Wikipedia などではラン・レングスは「白と黒以外にほとんど情報がないモノクロファクシミリでよく使われている」となっているのですが、ファクシミリはもうちょっと頭の良い方法で圧縮をおこないます。
まぁ、ラン・レングスの応用であることに異論はありませんが。
ラン・レングスの延長上にある考え方で、もっと応用が利くようにしたスライド辞書圧縮は、LZ77 という名前で呼ばれるように、1977 年に考案されています。
これをさらに改良した LZW は 1983年に特許が成立します。
この後 LZW アルゴリズムは公開され、「特許がある」とは注意されなかったため、1984年には GIF に、1985 年には UNIX の compress に使用されます。
後に特許問題で騒ぎとなりましたが、特許を持っていたユニシスが請求権を放棄することで解決しました。
(特許の有効期間は20年で、有効期限内に放棄しました。2003年には法的にも失効しています)
この LZW 圧縮を取り入れ、1985年に ARC というプログラムが誕生します。
パソコン用としては最初期の圧縮プログラムで、ソースコードも公開されたことから多くのコンピューターに移植されました。
このソースをもとにフィル・カッツが作ったプログラムが、PKXARC でした。
展開部分のみをアセンブラで書きなおしたもので、本家 ARC よりも高速に動作しました。
シェアウェアとして公開したところ寄付が集まったので、これを開発資金として、圧縮機能も付けた PKARC が発表されます。
しかし、PKARC は「ARC」というプログラムの名称(商標)をそのまま使用している、と訴訟になります。
フィルは、PKARC の名前を変えて PKPAK として公開します。
しかし、訴訟により調査された結果、ARC という名称だけでなく、プログラムがほとんど ARC の流用だったことが明らかになります。
結局フィルは ARC の開発元と和解しますが、多額の支払いを行うことになり、さらに今後もソフトが売れるたびに売り上げの 6.5% を支払わなくてはならない、と言う内容でした。
そこで、フィルは ARC 互換ではないソフトを開発することにします。
圧縮方法を研究し、よりよい圧縮ソフトとして作り出したのが 1989年に発表された、PKZIP でした。
#ちなみに、前年の 1988 年には、国産で一時代を築いた圧縮ソフトである LHarc が発表されています。
ZIP が今でも古びない理由の一つは、これが「圧縮ソフト」ではなく、「アーカイバ」だからでしょう。
圧縮はおまけ機能に過ぎない…といっても、本体よりも重要かもしれない、食玩のおまけのような存在ですが(笑)
アーカイバとは、複数のファイルをまとめて管理しやすくするソフトのこと。
アーカイバであると言うことは、1つのファイルの中で複数のファイルが扱える…いうなれば「ファイルシステム」としてのフォーマットを整えていることになります。
おそらく、圧縮だけでなくアーカイブを行う、というのは ARC から受け継いだもの。
ARC は名前からしてアーカイバです。
UNIX では、アーカイバは tar 、圧縮は compress 、と役割がわかれていました。
現在では compress はほとんど使われず、gzip (PKZIP と名前が似ているが全く別物) が使われますが、役割が分担されていることは変わりません。
UNIX のようにプログラムごとに機能を分割しているメリットは、よりよいソフトができた場合、機能単位で変更できることです。
しかし、tar で1つのファイルにまとめてから、gzip 、と言う方法は、「一つだけファイルを取り出したい」時には、一度全部を解凍しなくては tar で取り出すことができない、と言う意味にもなります。
ここは UNIX 方式の不利な点です。
PKZIP では、アーカイブと圧縮の両方を一つのソフトで扱っているため、アーカイブ内のファイルを一つだけ指定して解凍、というような操作が簡単に行えます。(そのように設計されています)
そして、アーカイブ内の各ファイルは、ファイルごとに違う圧縮方法を使用することができました。
これは、後でよりよい圧縮方法が出現した際には、柔軟に圧縮方法を変更できることを意味します。
つまり、「アーカイバ」としての機能と「圧縮ソフト」としての機能は、ファイル形式としては分離されているのです。
もちろん、後のプログラムでもこのような特徴を持ち、より高機能なソフトは現れています。
しかし、「最初に普及し」柔軟な扱いが可能な ZIP 形式は、標準となって今でも使われているのです。
長い間には、ZIP も新しい形式に移行していくでしょう。
しかし、当面は使われ続けることになりそうです。
他にもいろんな圧縮ソフトがあるのですが、今日はフィル・カッツの話をしたかっただけなので取り上げません。
知りたい人は、こちらのページが面白いかと思います。
といいつつ、一つだけ書きたい話を…
本文中で LHarc (1988) のことに触れましたが、後に大幅に作り変え、LHa (1990) になっています。LZW の特許に気づき、特許回避したのと同時に、圧縮率をさらに上げたものです。
PKZIP も、 ver 2.0 (1993) で、後に「Deflate」と呼ばれるアルゴリズムを導入し、LZW 特許を回避しています。
この Deflate アルゴリズム自体は、1990年8月には特許申請されています。
LHa のアルゴリズムを参考にして考案されたものだそうで、少し変更されていますがほぼ同じアルゴリズムだそうです。(僕は詳細を知らないので伝聞になってしまいますが)
この微妙な違いにより、PKZIP の形式よりも LHa の形式の方が圧縮率は高かったようです。
さらに後に開発される gzip (1992) では、PKZIP と同じ方法を使っています。
で、以下は過去に読んだ記事のうろ覚え再現。
(圧縮ソフトの話を書いていたら、これを書きたくなった)
gzip の作成に当たっては、手に入る多くの圧縮ソフトを評価し、特許などに触れない中で最良の圧縮率の物を参考にしたらしいです。
後に、gzip 開発者に日本人があった際に、「圧縮率で選んだのに、なんで LHa の方法使わなかったの?」と聞いてみます。
「評価方法になんか手違いがあって、LHa の圧縮率はそれほど高くない、とういう結果だったんだよ。gzip をリリースした後で間違いに気づいたけど、使われ始めたらもう互換性のない方法は取れない。だから申し訳ないけどこのまま行くよ」
というような答えだったとか。
日本人としては、日本の良い技術が使われなかったのはちょっと残念です。
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Burn ALL GIFs day【日記 13/11/05】
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今日(11/4)はチャールズ・カオ博士の誕生日(1933)。
2009年のノーベル賞受賞者です。光ファイバーの研究を行い、実用化した功績が授賞理由でした。
実際、現在は光ファイバが非常にいろいろなところで使われています。
電話なんかは、基幹線は1990年ごろには完全に光ファイバに置き変わっていたはず。
各家庭まで光ファイバを引こう、という FTTH (Fiber To The Home) は1990年代後半のキーワードになっていましたが、最近では当たり前すぎてわざわざ言わない状態。
(先日、街中で見た工事作業車に「FTTH 工事中」と書かれていて懐かしさを感じました)
ガラスや水を使えば光を導ける、という原理自体は、古くから知られていました。
また、これを使って通信を行う、と言うアイディアも19世紀後半には考えられています。
しかし、現実にそれを行うとなると、なかなか実用にならないのです。
実用にならない理由がなかなか特定できず、そのまま100年が過ぎます。
(この間にも改良は進み、少しづつ条件は整っていきますが、まだ実用にはならないのです)
光ファイバーは、単純にいえばガラスの棒を、非常に細くしたものです。
窓ガラスでも自分の姿を映せるように、ガラスの表面は光を反射します。ガラスの内側に光を通すと、はるか先まで届きます。
しかし、窓ガラスでは自分の姿よりも、向こうの風景が見えます。
光の角度が浅くなると全反射を行う、と言う特徴はあるのですが、そのままでは光が漏れて減衰します。
そこで、ガラスの周囲を別の種類のガラスやプラスチックで包むことで、反射率を上げます。
ガラスの裏に銀を付着させて鏡にするようなものだと思ってください。
…100年間で、この技術はずいぶん進みました。でも、遠くまで信号が届けられません。実用にならないのです。
原因の一つとして「反射を繰り返すと、光が不揃いになる」ことが考えられました。
光の速度は非常に速いのですが、まっすぐの光と、ジグザグに反射しながら進む光では、ジグザグの方が遅いです。光ファイバーの中で2種類の光があれば、出口での到達時間が異なり、信号が乱れてしまいます。
「ここに実用化できない原因がある」と考えた日本の西沢博士は、反射ではなく「光を曲げる」方法を考えます。
光は、真空では速いのですが、ガラスなどの中では遅くなります。ガラスの成分によっても速度は変わります。
そして、速度が遅い部分と速い部分が近くにあると、遅い方に引きずられて曲がります。
(1台の車で、左側のタイヤが泥に乗り上げて、遅くなったと考えてください。右側のタイヤが速く進んだままだと、左側に曲がってしまいます。)
西沢博士の考案したのは、中心を光が進むのが遅いガラスで作り、周囲を速いガラスで作る方法でした。
こうすると、真ん中を直進する光は遅くなり、周囲をとおる光は、反射ではなく「屈折」で中央に戻ろうとします。
反射の際に外側に逃げる光も減らせますし、直進する光が速すぎて足並みがそろわない問題も解決できます。
実は、この方法は現在では非常に重要な技術として使われています。
でも、西沢博士が考案した時点では、この方法は理論上の物。実際に作成したわけではありません。
特許を提出したものの(よく勘違いする人がいますが、アイディアだけでも特許は出せます)、意味がわからないと不受理になったそうです。
…と書くと特許庁に先見の明がないとか批判されそうですが、意味がわからない、と言う理由での不受理なら、特許の書き方に不備があったのでしょう。
光ファイバー研究者には当たり前すぎることを、一般人(特許審査官は、光ファイバーには詳しくない一般人です)にわかるように書いていなかったとか、あり得そうです。
西沢博士の特許出願の翌年、今日の主役であるチャールズ・カオ博士が論文を発表します。
博士は光ファイバーに使われる素材である「ガラス」の特性と不純物の関係を綿密に調査し、そこから理論を導き、光ファイバー実用化の壁は、ただ素材となるガラスの純度にのみ依存していることを示しました。
もちろん、理想的に透明なガラスがあれば苦労はしないでしょう。そんなこと誰にだってわかっています。
カオ博士の論文が注目されたのは、不純物がどの程度であれば、どのような通信特性を示すのかが綿密に計算されていたことにあります。
これで、どこまで不純物を減らせれば実用になるのかが示され、それさえクリアすれば実用化できるとわかったのです。
この後、カオ博士は積極的に企業と提携し、実用になる光ファイバーを開発しています。
実は、カオ博士の方法と西沢博士の方法は、長短を併せ持ちます。
カオ博士の方法は、長距離の伝送に適しており「通信」という意味ではカオ博士の研究無くして成り立ちませんでした。
その一方で、「反射による速度の違い」を無視できるようにするため、光が通る部分のガラスを非常に細くする必要があり、ガラスが折れやすいという問題があります。
西沢博士の方法は、長距離では減衰が多くて使えません。
しかし、光が通る部分のガラスを太くしても、反射による信号の乱れがありません。そのため屋内配線部分など、人が触り、曲げられやすい部分のファイバーによく使われています。
どちらも現代には必要な技術ですが、どちらが「光ファイバーで通信ができる時代」に貢献したかと言えば、カオ博士のほうでしょう。
2009年のノーベル賞受賞の際には、西沢博士が同時受賞とならなかったことを悔やむ声も多く、ネットを探すと受賞できなかった理由を、米国の圧力にあるのではないか、日本の政治力が足りないのではないか、そもそも西沢博士の方が先なのでカオ博士は盗作ではないか…などと書かれた記事も山ほど見つかります。
ノーベル賞の受賞に学閥の強さなどが皆無だ、とは思いません。ある程度の影響はあるでしょう。
しかし、どちらがより重要な研究だったかを考えると、カオ博士が受賞し、西沢博士の同時受賞とはならなかったことも道理ではないかと思います。
西沢博士は「よりよい光ファイバ」の原理を発見しましたが、カオ博士は「光通信実用化への道筋」を見つけ出したのです。
西沢博士をそれほど知らないので間違えていたら申し訳ないのですが、功績を見る限りでは、原理発見よりも高性能化などへの改良が上手なようです。
西沢博士は高輝度LEDを開発していますが、その基礎技術では 2001 年に類似の研究をした外国人がノーベル賞を取っています。
この際にも「なぜ西沢博士が同時受賞でないのか」と怒っている日本の方が多数いるのですが、博士は原理を発見したというよりは、それを産業的に重要な「使えるもの」に改良したのです。
ノーベル賞は、大抵重要な原理を発見した方に送られます。発見がなければ改良はないからです。
でも、改良して実用にする人がいたからこそ、原理発見者の栄誉がある。これは、すべてのノーベル賞受賞者に対して言えることです。
それをいちいち怒っていたらきりがないし、そもそもノーベル賞と言うのはもらった、もらえないで競うようなものでもない。
ただ、世に尽くした人を称える場のはずです。
西沢博士がいなければ、カオ博士のノーベル賞も、2001年のノーベル賞もなかったかもしれない。
それほど偉大な人が日本にいるのだ、というだけで、誇りに思って良いのではないかと思います。
ところで、大学時代に光ファイバーケーブルの工場で働いていたことがあります。
この話、以前もしたな。
光ファイバーの心線(光が通る部分)は非常に細く、髪の毛の1/10 以下の大きさしかありません。
「1ミクロンの精度を出さないといけないから、慎重にやるように」とバイトに入った時に言われました。
光ファイバーはざっくり言えば3層構造で、中心に非常に細い心線(光が通るところ)があり、その周囲を薄いガラス皮膜で覆っています。2種類のガラスの合わせ目で光が反射します。
そして、その外側を樹脂で固めて折れないようにしています。
工場での作業は2つあり、一つは心線への接続プラグ接着作業。
樹脂を剥き、ガラス部分(心線と皮膜は一緒に扱う)をプラグに接着します。
そして、接合面を非常に細かい紙やすりで研磨する。
最後に顕微鏡で全品検査したら完成。出荷前に通信テストも行うみたいですが、バイトは顕微鏡検査までが仕事。
これは本当にミクロン単位の細かな作業でした。
でも、この作業の前に、「光ファイバーコード」の作成があるのだよね。
5メートルのコードを作る、といわれたら、ファイバーと「被覆」のチューブを、5メートルに揃えて切る。
ファイバーをチューブの中に通さないといけないのだけど、チューブは滑りにくい樹脂で出来ていて、中を通すのが一苦労。
そこで、圧縮空気でベビーパウダーをチューブ内に送り、それからファイバーを通します。
これはするすると気持ちよく入っていきます。
この作業は、かなりいい加減でした。5メートル、と言う指定の場合、5メートルに足りないのは許されませんが、+10cm 程度の誤差は許されていました。
どこら辺が1ミクロンの精度? と思ったものです。
あのケーブルは、今でもどこかで使われているのかな。
もうずいぶん昔の話だから、交換されて捨てられたかもしれませんが (^^;
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マイケル・クライトン 誕生日(1942)【日記 15/10/23】
別年同日の日記
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今日はマイケル・クライトンの命日(2008)。
…今日は何の日、基本的に1日1つにしていて、今日はチャールズ・カオを書いたから、こちらは書かない予定でした。
でも、記事は書かないけどツイートしたら面白いネタもらったもので、それだけ記しておきます。
マイケル・クライトン原作の映画、ジュラシックパークの「UNIXならわかるわ!」のシーンは、伝説に残るズッコケシーンとなっています。
恐竜に追われる非常に緊迫した状況で、逃げ込んだ部屋に SGI のワークステーションが置いてあります。
主人公の女の子、「UNIX ならわかるわ!」と言って、パスワードセキュリティをなぜか突破し、なぜか 3D で動くゲームのような画面を操作し、なぜか研究所のシステムに介入して避難経路を確保します。
…と、マイケルクライトンの命日なので「UNIX ならわかるわ!」とだけツイートしたら「あのシステム、実在するんですよ」という情報が。
SGI の UNIX 、IRIX 用に作られていた、File System Navigator というシェルだったそうです。
SGI マシンの 3D 性能を活かしたシェル、として研究されましたが、結局使いにくくて開発中止しています。
しかし、今でも無料で配布されています。当然ですが、IRIX 上でないと動きません。
そして世の中には好き物はいるもので、この「実験はしてみたけど、使いにくいから開発中止」のシェルを、わざわざクローンで作った人がいます。
File System Visualizer。…こちらは各種 UNIX + X11 環境で動きます。
というわけで、面白ネタのみで、マイケルクライトンの話はありません。
ジュラシックパークの映画と、アンドロメダ病原体の翻訳しか読んでないから。
しかも、アンドロメダは借りて読んだので、手元にない。細かな話したらきっとボロが出る。
面白くて好きだったけどね。
気が向いたらまたの機会に。
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マイケル・クライトン 誕生日(1942)【日記 15/10/23】
別年同日の日記
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今日は Burn ALL GIFs day。
なんで今日なのか、いわれを調べたのですがよくわかりません。
多分、「みんなで一斉に行動する」ために日付を決めるのが大切で、いつでもよかったんだと思います。
名前の通り、GIF ファイルなんて燃やしちまえよ! と言う日。
LZW 特許で UNISYS がみんなに憎まれていた頃に行われていたもので、現在は何もありません。
先日 PKZIP のフィル・カッツの誕生日で、LZW の話が少しだけ出てきました。
LZ77 という圧縮アルゴリズムがあり、これを改良したのが LZW。
1983年にアルゴリズムが発表されたのでみんなが使ったのだけど、実は特許出願していた。
GIF も compress も ARC も PKZIP も LHarc も LZW を使っていました。
みんなが使いたくなるほどいいアルゴリズムだったのです。
でも、1985年に特許が成立します。
ここでみんな気づいて、使うのをやめます。
LHarc は特許回避アルゴリズムを考案、LHa として公開します。
これを研究した PKZIP 作者は Deflate というほぼ同様のアルゴリズムを考案。
PKZIP と gzip で使われ、compress の替わりに gzip が使用されるようになります。
…でも、GIF だけ取り残されました。
とはいえ、これはまだ 1990 年代初期の話。GIF はこの時点ではまだ米国のパソコン通信で使われている程度の形式でした。
もっといい画像形式も考案されていましたし、使われなくなるのは時間の問題…のはずでした。
1993 年、NCSA Mosaic が、WEBに「画像」という概念を持ち込みました。
これ以前は、WEB で画像は扱えなかったのです。この時対応した画像形式が、GIF。
おいおい、なにしちゃってんだよ。みんなが「特許問題あるから別のつかおーぜ」ってなっているときに、なぜ GIF をもう一度呼び出しちゃってんだよ。
作者のマーク・アンドリーセンが何考えていたかは知りません。
多分、手っ取り早く使える画像形式だから組み込んだだけで、特許なんて気にしてなかったんじゃないかな。
でも、これで GIF は爆発的普及へ。
1993 年、UNISYS は GIF を取りまとめた CompuServe と話し合いを行い、CompuServe 側が特許料を支払うことで合意します。
これにより、GIF を扱うソフトの作者は、UNISYS に対して使用料を支払う義務が生じました。
…これ、UNISYS ばかりが叩かれるのですが、ちょっとかわいそうです。
UNISYS は正当に特許を持っていて、特許を維持するためのお金だって払っているんです。
フリーウェアは「商売ではない」と考えていたからこれまで見逃してあげていたわけですが、WEB で使用され始めて普及したら、見逃しておくことはできません。
でも、この時点では「売り上げに応じて」特許料を支払う形式だったようです。
つまり、フリーソフトは免除です。
GIF の代替で、特許に抵触しないものを作ろう、と言う動きも起こりました。
こうしてできたのが PNG 形式。やっぱり Deflate を使っています。
公式には Portable Network Graphics の略ですが「PNG is Not Gif」の意味が込められている、というのは有名エピソード。
でも、PNG は後からできたので、便利そうな機能を片っ端から突っ込んだ結果、互換性が保てない問題が出ました。
#非力な環境でのフィルタ関連、と書けばわかる人は判るだろう。
しかも、GIF で皆が気に入っていた、アニメーション機能がないのです。
PNG はもう十分複雑になってしまったし、「静止画フォーマット」を目指しているので、アニメは別のフォーマットでやってくれ、と言う態度。
実際、アニメに対応した MNG という規格も作られましたが、全然普及していません。
この後、マイクロソフトとネットスケープのブラウザ戦争で、ブラウザが無料で配布されるようになります。
大きな企業が総力を挙げて作成したソフトが「フリーソフト」として配布される。
これは、UNISYS が想定していた「フリーソフト」とは異なります。無視できません。
UNISYS はふたたび態度を変えます。
GIF ファイルに使われている LZW は特許なので、フリーソフトであっても特許料を支払うように。
マイクロソフトやネットスケープは、これに応じて特許料の支払いを行います。
しかし、これでもまだ多くの、支払いを行わないソフトがあったようです。
1999 年、ついに UNISYS は、すべての GIF ファイルを違法なものとみなします。
GIF ファイルを使用している WEB ページ作者は、一律 $5000.- の使用料を払うように。日本円で約60万円です。
ただし、UNISYS に使用料を払ったソフトを利用していることを示せれば免除されます。
あまりにも横暴でした。多くの人は、ソフトの作者が UNISYS と契約したかどうかなんて知りませんし、出来上がった GIF ファイルから、許諾されたものかどうかを読み取る方法もありません。
これに対し、GNU の創始者でもあるリチャード・ストールマンが立ち上げた「プログラミング自由連盟」が激しく反応。Burn ALL GIFs 運動を開始します。Burn ALL GIFs day も、この中で制定されたもの。
もう、GIF ファイルなんか全部消し去ってしまえ! ということですね。
この日は自分の画像フォルダや WEB サーバーを眺め、GIF を片っ端から PNG にコンバートするのが良いかもしれません。
…が。
このような事態に発展したことで、UNISYS は態度を改めます。
まず、自分たちの態度が無駄な混乱を引き起こしたことを謝罪し、LZW 特許に使用料は不要である、と宣言します。
ところで、本来特許権は 20 年で、毎年更新が必要です。つまり、1985年に成立した LZW 特許は、更新すれば 2005 年までは権利を主張できます。
しかし UNISYS はこれを放棄。更新をしなかったため、2003年に特許権が失効しました。
(日本では失効は1年後)
謝罪を言葉だけでなく態度でも示した、ということです。
これで、1999年から始まった Burn ALL GIFs day もこの頃から目立った活動は無くなっています。
じゃぁ、今は PNG に置き変わったかと言うと…
僕はまだ GIF を使っています。もう特許問題はないのだから使っても構いません。
「PNG の方が先進的で優れている」という人もいるのですが、枯れた技術の方が優れている、と言う場合もあります。
まぁ、僕も気まぐれに PNG つかったり GIF つかったり、ですけどね。
両方でファイル作って小さいほうを使うこともあるし、全く忘れてて GIF にしちゃうこともあります。
2015.11.5 の追記
完全に余談ですが、途中に書いた PNG の互換性問題について。
「わかる人はわかるだろう」と書いたのですが、2年たったらもう判らない記述…
IT業界はドッグイヤーです。
2年前には、いわゆる「ガラケー」も各キャリアから新製品が出ていました。
今では、誰も買わないので製造コストが高く、ガラケーのように使えるスマホ、が作られている状態。
さて、そのガラケー(この言葉好きではないのだけど)ですが、docomo の i-mode では gif しか使えませんでしたが AU の EZweb では PNG も使えました。
といっても、非常に基本的な機能にしか対応しておらず、PNG ファイルが必ず表示できる、というわけでもない。
PNG には、圧縮率を上げるための「フィルタ」という機能があります。
圧縮する前に、可逆な操作を行うことで、そのあとの圧縮アルゴリズムで「効率よく」圧縮できる可能性を上げられる。
展開した後は、またフィルタを使って、元のデータに戻します。
ところが、EZweb の PNG はこのフィルタに対応していなかった。
「PNG」を名乗る以上必ず対応しないといけないのですが、非力なマシンでも動くように省略したのです。
EZweb は HDML を使用していた WAP1 の時代と、xHTML の WAP2 の時代がある。
さらに、WAP1 はもともと白黒を想定していたのだけど、途中からカラーになっている。
PNG 対応は、WAP2 からではなかったかな…と思うのですが、記憶が定かではありません。
そして、上に書いたようにフィルタをはじめとするいくつかの「仕様」を満たしておらず、PNG 画像を正常に表示できる形式に「再圧縮」するためのツールも配布されました。
このツールで圧縮した画像なら、EZweb で見られることが保証されます。
後には EZweb も「完全な PNG」に対応するのですが、旧機種での互換性を考えると、このツールでの再圧縮は必須でした。
もう一つ、InternetExploler でも PNG の「半透明」表示に対応していない、という非互換問題がありましたね。
IE のバージョン 6 では、半透明部分が完全に「不透明」として表示されました。
もっとも、こちらは 2015年の 7月 14 日をもって、完全にサポートが終了。
今となっては問題ではありません。
でも、IE 7~8 の PNG もバグが多発するし、2016年1月13日まではサポート期間内。
ということは、使っている人もまだいるわけで、「互換性問題」はまだ存在しています。
ここで書きたいのは、AU が独自実装しやがってー、とか、IE どうにかしろー、ではなくて、そもそも PNG 自体の仕様が「盛り込みすぎ」で、問題を起こしやすいフォーマットだということです。
すでに PNG も登場からかなり時間がたち、「落とし穴」になりそうなところは皆熟知しています。
ですから、今後新しい問題が出てくることは少ないと思いますが、「PNG に乗り換え」は思ったほど簡単な道ではありませんでした。
今後も、単純で使いやすい GIF は使われ続けると思いますし、PNG ももちろん、GIF と JPEG の中間を埋めるフォーマットとして役割を持ち続けると思います。
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フィル・カッツの誕生日(1962)【日記 13/11/03】
別年同日の日記
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今日はジェリー・ヤンの誕生日(1968)。
世界初の「検索サイト」である、Yahoo! の創業者の一人ですね。
当時はWEBページは「自分の研究などを発表する場」であり、個々人の作ったページはそれなりにありました。
しかし、それらを「探す」方法は誰も提供しておらず、ページを見つけるのには、参考文献としてのリンクや、友達の書いたページの紹介リンクなどを辿っていくしかありませんでした。
ジェリーは、これらのページを「検索する」ための専門サイトがあれば便利なんじゃないか、と最初に考え付いた人物。
米国では Yahoo! は1995年3月に設立。
もっとも、会社設立前から趣味としてのサービスは行っていて、「事業化」するための会社設立でした。
日本での Yahoo! 設立は1996年1月。サービス開始は4月でした。
僕は日本のサービスしか知りませんが、検索に関しては初期のころは日本は米国 Yahoo! と同じ方法をとっていました。
最初にその話をしましょう。
この時代の Yahoo! は、「面白そうなページをひたすら見つけて登録する」という、人力に頼った企業でした。
WEBサーファーと呼ばれる社員を雇い、彼らが面白いページを見つけ、カテゴリーごとに登録していくのです。
僕が WEBページ作成を始めたのは 1996年。
日本の Yahoo! は始まったばかりで、実はそれほど魅力のあるサービスではありませんでした。
とにかく、登録数が少ないのね。厳選しているから内容は良いのだけど、とにかく少しでも情報が欲しい、と言うときには使い物にならなかった。
だいたい、基本的には「検索語句で探す」のではなく、ディレクトリサーチでした。
興味分野を選択肢から絞り込んでいくと、ある程度絞り込めたところで WEB ページのリストが出てくる。
さらに、特におすすめなページには「Cool」というアイコンがつけられていました。
…ディレクトリサーチ、自体がすでに死語ですね。
ここで、当時の Yahoo! のパロディ(?)として作られ、現在でも運用されている Baboo! を紹介しましょう。
MSX コンピューター専門のディレクトリサーチです。
トップページに、大きなカテゴリが並びます。たとえばここで、「アート」カテゴリの「エッセイ」を選ぶと、多くの WEB ページが並んでいます。
一番上(執筆時確認)に「あきよし@wizforestさんのOld Good COMPUTER」とあります。これ、僕のページですね。
まぁ、こんな感じ。Yahoo! はカテゴリが多く、階層も深かったので探すのはもう少し大変だったように思います。
WEB を雑誌と捉え、暇つぶしの読み物を探している人にはこれで良かったと思います。
登録されているのは面白いページばかりだったから、どれをとっても読みごたえがありました。
実際、当時の Yahoo! は毎週のように「特集」ページを作っていて、なんらかのテーマでまとめた、おすすめページ10選、みたいなのを取り上げていました。
当時、日本ではすでに Yahoo! 以外にもいくつかの検索エンジンがありました。
個人で行っていたものも多いのですが、Yahoo! とは別の観点で選択されていたり、自動化(!)によって膨大な情報を収集していたり、検索エンジンごとに特色があり、使い分けるのが普通でした。
Yahoo! のようなディレクトリサーチでは、先にあげた Baboo! のほかに Yahho! とか YAPPO とか CSJ インデックスとか、いろいろありました。
とくに J.O.Y. は老舗だったので情報が多く、当初は Yahoo! よりも信頼していたような覚えが。
(あっというまに Yahoo! の情報量が上回るようになるんですけどね)
それ以上に、初期のインターネットで誰もがお世話になったと思われるのが、「千里眼」でした。
これはなんと、当時珍しいロボットサーチ!
早稲田大学で研究の一環として作られたもので、当時はWEB に書かれた文章内容から検索できる、「全文検索」が最新技術で、驚きました。
後に Infoseek とか goo とか(共に 1997年)がサービスを開始して、ロボットサーチは一般的になっていきます。
でも、この頃になると Yahoo! の情報量もそれなりに上がっていて、必ずしもロボットサーチが優位ではなかった。
全文検索には大きな弱点があって、とにかく検索語句が含まれているページを表示してしまうのね。
特に、全文の文章量に対して、検索語句の数が「十分な割合」含まれていると、表示が上位に来ました。
…この頃に、僕引越ししたんですよ。引っ越しについて調べようと思った。
「引っ越し」って検索すると、WEB ページ URL 移転のお知らせばかり出てくるんですね。
どのページも、「引っ越しました」とだけ書いてあるから、語句の割合が非常に高いんです。
こんな有様ですから、ロボットは情報量が多いのだけど検索精度が低く、人が登録するタイプは情報が少ないのだけど確実に有意義なページを見つけられる、と言う感じでした。
当時の Yahoo! には恨みがあります。
というか、もう完全に水に流しているからいいんですけど、僕のページを「特集」ページでリンクしてくれたのね。
まぁ、それはありがたいことなんです。当時は Yahoo! の特集ページで紹介されるなんて夢のような話で、そういうページを作りたい、と思うページ作者も多数いたでしょう。
でも、事前の断りなしに、複数あるページの中の「該当ページだけ」をリンクされたのね。
リンクするなら、上位のページを紹介してほしかった。周辺話題も読まないと、内容が理解できないようなページだったから。
一応、Yahoo! 側としてはリンク前の断りは「したつもり」だったようです。
ページ公開1時間くらい前にメールが来てました。
でも、当時はメールなんて1日に1回読めば十分、というもの。1週間に1度、なんて人だってざらにいた。
で、急にページへの流入量が増え、WEBページに付けていた掲示板が荒らされます。
当時は有名ページには、ひたすら自分のページの宣伝を書く人が沢山いたの。
慌てて掲示板を閉鎖しました。
今、自分のページの掲示板が1行しか書けないのは、この時に懲りたからです。
長い文章入れられなければ荒らされないだろう、ってね。
#それでもがんばって長文入れる人がいて驚きます。
荒しじゃない内容はそのままにしているけどね。
ロボット検索と登録型ディレクトリサーチと、どちらが良いか…と言うような論争も当時はありました。
Yahoo! も、ディレクトリを中心としながら、goo と提携してロボットサーチも行えるようにしたりしていましたね。
その後、Google がサービスを開始します。
日本では 2000年にサービスを開始しましたが、じつは 1999 年ごろにはすでにアメリカのサイトが話題になっていました。
アメリカのサイトでも、日本語で検索すると、ちゃんと結果を返せたのですね。
しかも、日本語用に作られたロボット検索エンジンよりも良い結果を返しました。
その時は日本語に特化してないのに何でこんなことができるのだろう? と不思議だったのですが、後で Google の方式は言語に左右されないアイディアだと知ります。
すでに有名すぎるので詳細説明はしませんが、これまでのロボットサーチが「全文検索の際の語句の割合」をもとに順位を決めていたのに対し、google は「多くのページからリンクされているページは、きっと良いページである」という指標を取り入れています。
言われれば当たり前なのですが、誰も気づかなかったアイディアです。
というのも、当時の「全文検索」は、文章整理に使用された技術の応用で、リンク構造は無視していたから。
全文検索すらも最先端だった時代に、その上に立つアイディアを思いつき、プログラムしてしまった技術力に舌を巻きました。
…ジェリー・ヤンの誕生日なのに、すっかり違う話だな。
えーと、ずっと日本の話を書いていましたが、アメリカでも Yahoo! を取り巻く環境はだいたい同じ。
ジェリーは、会社を設立しましたが社長は別の人を雇い、自分はトップに立ちませんでした。
その器じゃない、と判っていたのでしょうね。
でも、Google が台頭し、Yahoo! の業績が悪化した時に、当時の社長が引責辞任。
2007年にジェリーが社長となります。
でも、彼はトップに立つ器ではないのです。優しすぎるから。
業績回復のためには、まず人件費削減が求められます。
不採算部門を切り捨てれば、業績は回復するでしょう。
…でも、彼は優しすぎて、不採算だからと言って社員をクビにすることができません。
業績が低迷する Yahoo! に対し、マイクロソフトが買収を持ち掛けます。
買収に応じれば、彼は会社を売却して大金持ち! です。
でも、この時もジェリーは拒否しました。
これには、ジェリーのマイクロソフト嫌いが指摘されています。嫌いだから救いの手があっても払いのけた、というわけです。
また、過去の栄光にすがり、独立企業である Yahoo! を失いたくなかったともされています。
結局、業績回復への手を打てない Yahoo! 株は見限られ、株価が急落。
ジェリーはなにも Yahoo! 業績回復の手を打つことができないまま、1年半で社長を辞任します。
その後もしばらく Yahoo! にはいましたが、2012 年には Yahoo! 自体を退社しています。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日は山内博さんの誕生日。
任天堂の元社長で、先日亡くなりました。
亡くなったのは山内溥さん? 字が違いますね。typo じゃないですよ。
これ、山内さんが50歳の時に改名したためです。今日は誕生日なので、生まれた時の名前で書きました。
追悼文で書きたいこと大体書いたので、もうあまり書くことないのですが…
いや、伝説には事欠かない人だから、いくらでも書けるかな (^^;
任天堂ってもともと小さな会社だったし、山内氏はワンマン経営者でした。
でも、ワンマンだからこそ優れたバランス感覚を発揮している。
取締役会で相談して…とか、普通の経営していたら、ゲーム&ウォッチもファミコンも作り出せなかったでしょう。
社是とか、社風とかを作るのが大嫌いだったそうです。長期計画を立てるのも大嫌いだった。
おもちゃ屋なんだから、その時の時代の雰囲気を感じ取って、雰囲気が変わる前にすぐ作る。
ブームに間に合った、と思ったらそのブームはすぐ収束するから慢心しないで次の手を考える。
これが経営哲学でした。
ゲームボーイを「子供が使うものだから」と頑丈にさせたのも、ファミコンの時に壊れやすくて失敗したから、というだけの話でしょうね。
別に、子供のことを思いやったのではない。ファミコンは修理が多すぎたし、無償交換も多かった。
頑丈に作っとかないとコストが嵩むから、修理が不要なものを作らないといけない。ただそれだけだと思います。
僕の経験談は…以前どこかに書いたかもしれないけど、四角ボタンファミコン持ってました。
四角ボタンはボタンのゴムが切れやすくてね。切れてもおもちゃ屋で100円くらいでボタンを売っていたので、買ってきて自分で修理しました。
(本当は補修部品で、技術者が修理すべきなのでしょうが、あたりまえにおもちゃ屋で売ってしまうくらい故障が多かったのでしょう)
でも、ある日、ゲームキャラクター(スプライト)の表示がおかしくなったんですね。
遊んでいて、どうもチラチラする。一部が消えるというか、明滅する感じ。
でも、電源を切ってしばらく置いてまた遊ぶと大丈夫なのね。しばらく遊んでいるとおかしくなる。
そのうち、症状がひどくなってきてスプライトが表示されなくなったりもしました。
どうもおかしいので任天堂に修理に出したら、新品になって帰ってきた。そのうえ、修理代はいらないという。
今でいう「神対応」ですね。
他にも、僕の周辺にはそういう友達が数多くいました。
ひどい奴は、前の拡張コネクタに5円玉を突っ込んで取れなくなってしまい、送ったら無償で新品になって帰ってきた。ちゃんと5円玉も帰ってきたそうです。
#なんで5円玉なんか突っ込んだのかといえば、任天堂の「ベースボール」で、拡張コネクタを適当にショートさせると魔球が投げられる、というバグがあったためだ。
当時は小学生でしたが、友人の間でも「売れすぎていて、個別に修理をするより新品送った方が簡単」説が出ていました。それにしても、「無償」というのがよくわからない。
これ、大人になって知ったのですが、初期不良対応だったそうです。
初期のファミコンの PPU (画像回路)には不具合があって熱を持ちやすく、熱暴走で動作がおかしくなる。
だんだん症状がひどくなった理由は判りませんが、熱で一部回路が溶け、電気が正しく伝わらなくなったのかもしれません。
僕の周囲で買った奴は初期型が多かった(四角ボタンはあたりまえで、灰色コードもいました)ので、どんな理由でも任天堂に送ると新品になって帰ってきたのですね。
「修理しました」といって金をとってもよかったと思うけど、任天堂に非がある場合は取ろうとしない。
これはきっと、山内さんの指示だったんでしょうね。
ファミリーベーシックでもそういうことありました。
購入した時は、Ver.1 カートリッジが付属していました。でも、後に Ver.2 が付属するようになります。
そんなこと全く知らないで遊んでいましたが、ある日ベーマガのプログラムを見たら、知らない命令を使っている。SCR$ という関数で、画面に書かれているキャラクタを読み取ることができます。
Ver.1 では、「背景画面」は名前の通りただの背景で、飾りでした。でも、Ver.2 では SCR$ のおかげで、背景の迷路の壁にぶつかったりできるようになり、作れるゲームの幅がぐんと広がったんです。
えー。そんなのずるい。どうやったら Ver.2 手に入るの?
任天堂に電話したら、「無償で交換しますからカートリッジ送ってください」と言われました。
確か任天堂までの送料はこちら持ちでしたが、新しいカートリッジと、マニュアルの追加ページのコピーを送ってくれましたよ。
後に Wii の初期型買ったときも、リモコンカバーの無料配布、リモコンストラップの無料配布と、2回無料でいただいています。
この時には社長は岩田さんでしたが、非を感じたら無料、というのは任天堂の社風なんでしょうね。
#社風が嫌いな任天堂にも社風はある。
その後も「神対応」と呼ばれる無償交換の話を聞くたびに、「あぁ、きっと不良ロットがあったんだな」とか思ってしまいます。
いや、悪い意味じゃないよ。先に書いたように、不良と判ったらお金は取らない、というのは立派な態度。
任天堂も山内さんも、正当な理由での金儲けはしますが、金そのものに執着している感じは受けません。
任天堂ではなく山内さん個人として、アメリカ大リーグのシアトルマリナーズのオーナーをやっていた時期がありますが、「米国任天堂がお世話になっている土地だから」と言う理由だけで、マリナーズの経営難の時に買い取っています。
でも、金は出すけど口は出さず、そもそも野球好きでもなかったので一度も視察に行かなかった、と言う伝説付。
お金持ちだけど、普段はあまり大きな買い物をしない人だったそうです。
亡くなった時の追悼記事で読んだのですが、その記事を書いた記者さんがマリナーズ購入直後、別件で任天堂に取材に行ったのだそうです。
その時に広報の人に、「社長の山内さんとはどんな方ですか?」と聞いたのだとか。
その答えが「お金持ちですけど質素倹約を好む方で、特に大きな買い物もしません。…あぁ、先日マリナーズを買いましたけど」。
マリナーズを買うって普通の事態じゃないのだけど、「普段の生活」の一部として語られているのが面白い。
話は逸れて業界の噂に…当時聞いた話ね。信憑性はわかりません。
ファミコンの頃にファミコンのサードパーティが沢山生まれるわけですが、当初はそれぞれが勝手にソフトを出していました。
山内さんは、これでは粗製乱造でアタリの二の舞になる、と、ライセンス制度を作ります。
制度ができるまで結構時間がかかって、ちゃんと動き始めたのはファミコンブームから三年半後だそうです。
#アタリに粗製乱造があったかどうかはともかく、山内さんはそう思っていた。
ライセンス制度はその後ゲーム業界では当然のものとなって、スーファミの頃もありました。
ゲームを作った会社は、任天堂に製造してもらう必要があります。
製造委託料は任天堂にとって大きな収入源でした。
(山内さんは、「うちはメーカーではなくて、ダビング屋です」と言っている)
この製造量は、任天堂とゲーム会社の交渉で決まります。
任天堂としては、いくらでも作れば儲かるわけですが、「ゲームの売れる量」を見極めて製造量を決めていました。
スーファミの当時、ドラクエシリーズが一番人気のあるソフトで、ファイナルファンタジーは人気が出始めたところ。
ドラクエは3で380万本を売り上げ、4でも300万本を超えました。
ところが、ドラクエ5(1992)は人気が出ず、最終的にも 280万本程度でとまります。
このドラクエのつまづきに、スクエアは勝負所、と感じたようです。
次のタイトルFF6(1994)でドラクエ3超えの400万本を狙います。「ドラクエ以上に売れたソフト」として有名になり、トップの座を取ろうという考えでした。
しかし、ライセンス制度では任天堂の了解がなくては製造ができません。任天堂に、一挙 400万本を要求します。
次のタイトルは絶対面白い、発売前から盛り上げ、発売日に一気に売れる体制を整えたい、という要求でした。
ここで、スクエアの思惑について説明する必要がありますね。400万本売るにしても、様子を見ながら増産すればいいんじゃね?
でも、当時は、まだ「ゲームを速く終わらせた人」が英雄な時代。
話題のソフトを発売日に買って、翌日は会社を休んで攻略、というような人も(ゲーム業界には)いました。
休んで、は極端だとしても、発売日に買って「速解きレース」に参加できないと、急に遊ぶ気が無くなってしまったりするのです。
当然、売り上げは発売日がピーク。発売日に在庫切れ、なんて事態になったら、重大な機会損失なのです。
ROM ゲームは生産に時間がかかるから、あわてて増産しても出来たころには購入熱が冷め、誰も買ってくれない、と言うことになります。
販売目標とする数は初日に揃える。当時としては普通の考え方です。
ただ、スクエアの場合ライバルのドラクエがあまりにも強く、「ドラクエ超え」を狙う販売目標が400万本と、常識外れな数になっただけです。
しかし、任天堂は、あのドラクエでも総計で300万本いかなかったのだから、RPG ゲームのブームが終息しつつある、と思っていたようです。
それを、発売日に400万本そろえようというのです。スクエアを説得し、止めさせようとします。
でも、最終的にはスクエアが責任を取るから、ということで製造したようです。
#僕はこの時「発売日前に、定価の2倍でFF6買わないか」と友達に声をかけられました。スクエア関連の知り合いがいて、ソフトを作りすぎてすでに在庫管理できない状態だから多少持ち出せる、と言う話でした。
ドラクエ以上になんて売れるわけない、と考える社員もある程度いたそうで、そうした社員は会社が傾く前に辞めるつもりで「退職金代わりに」持ち出して売りさばいていたそうです。
僕はスーファミ持ってなかったしFF興味なかったし、なにより怪しい話に近づきたくなかったので丁重にお断りしました。
FF6の最終売上げは255万本。ドラクエほどには売れませんでした。
大量の在庫を抱え、スクエアは倒産の危機に瀕します。自業自得です。
でも、山内さんは「最終的に400万本を承認した任天堂の責任でもある」と、救済措置を出します。
自分の側に非があればコストを負担する。任天堂の神対応は、こんなところでも発揮されるのです。
救済策として、任天堂の看板キャラであるマリオを貸出し、スクエアの得意なRPGを作ってもらうことになりました。
これが、後の「スーパーマリオRPG」(1996)です。
「作ってもらう」ということは、任天堂が製作費を持つと言うこと。
独立したゲーム会社は、通常は製作期間は支出が超過し、販売して一気に回収します。
でも、この時のスクエアはお金を出さずにゲーム制作が続けられる、ということになります。
販売しても利益の大半は任天堂が持っていってしまうけど、いくらかはスクエアにも入ります。
スクエアはこれにより立ち直り、次のFF7を NINTENDO64 で作りはじめます。
…が、スクエアまさかの裏切り。
FF7は急遽プレステにプラットフォーム変更となります。
スクエアを弁護しておくと、スクエアはFFシリーズで一貫して「映画のような演出」を目指していました。
ファミコン時代のわずかな容量でも映画を目指した演出をしていましたが、この時期相次いで CD-ROM ゲーム機が発表され、CD-ROM なら映画のような演出も可能、と言われていたのです。
ところが、任天堂は予定していたスーファミ用 CD-ROM の発売をやめ、NINTENDO64 でもCD-ROM は採用しませんでした。
これは、FFシリーズにとって生命線を絶たれるような事態でした。
山内さんは、「機種の選択はゲームを作る側にあるのだから、仕方がない」と、スクエアを送り出しました。
しかし、この後スクエアは任天堂への出入りが禁止となります。
実は山内さんは怒っていた説、さらに別に怒らせるようなことをした説などありますが、どれが本当かわかりません。
ただ、この後社会現象ともなるゲームボーイアドバンス用にスクエアはゲームを提供することができず、スクエアの株主総会でも問題視されるような事態となっています。
#後に和解し、アドバンス用ゲームも発売しています。
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ファミリーベーシックの発売日(1984)【日記 14/06/21】
別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 獣さんの書き込みに気づいてませんでした…が、「不良ロット対応」という冷めた見方が、どうして「感動するのは自由ですが」と書かれるのかわかりません… (2015-09-19 14:28:22)【あきよし】 あぁ、書き方が悪かったかもしれません。マリオRPGの作成依頼費が入ったことで倒産を免れたので、FF7は同時進行していたと思います。 (2015-02-25 09:03:21) 【名無し】 マリオRPGの発売からFF7の発売まで1年もありませんが、「スクエアはこれにより立ち直り、次のFF7を NINTENDO64 で作りはじめ~」という話は無理があると思います。 (2015-02-14 05:08:31) 【獣】 無償修理というのは、消耗品ビジネスをやっている企業ではよくある話です。有名なのはZippoライターの永久保証ですね。本体を無償修理してあげればソフト(Zippoの場合はペンシルバニア州で採れるオイル)が売れるんですから、やらない手はないです。感動するのは自由ですが、逆に壊れやすく修理に金を取るようなビジネスをやってる某社みたいな方が悪質に見えますね^^; (2015-02-11 18:32:22) |
今日はビル・ジョイの誕生日(1954)。
漢字では美流上位、と書くそうです。ハッカーは漢字文化好きね。甘酢苦瓜の話とかね。
…彼が何者であるかを書く前に答えを出してしまいましたが、高名なハッカーの一人です。
ハッカーって、犯罪者の意味ではなく、プログラムの天才の意味ね。
ビル・ジョイは大学院生の時に、ほとんど一人で BSD を開発し、世界初のスクリーンエディタである vi を作り、高機能シェルである csh を作り、TCP/IP の実装を作り上げました。
卒業後はサン・マイクロシステムズの16人目の社員になりますが、16人目であるにもかかわらず「共同設立者」という待遇で、NFS を作り、SPARC の設計に関与します。
…コンピューターマニアなら、これだけで大天才だとわかると思いますが、ひとつづつ説明した方がよいでしょうね。
まず、BSD というのは、UNIX の方言の一つです。
UNIX という OS は、AT&T のケン・トンプソンが趣味で作ったものです。
AT&T は当時はアメリカの特別な会社で、法律で定められた事業しかできませんでした。
そのため、UNIX は商売にはなりません。ケン・トンプソンは UNIX のソースコードを教育機関向けに無償公開、カリフォルニア大学バークレー校にケン自身が出向き、UNIX の使用方法などの講義を行います。
ソースコードが公開されましたので、バークレー校ではこれをもとに OS の仕組みなどの研究を行います。
そして、独自に「あったら便利な機能」を次々と追加し始めました。
ちょうどその頃、ビル・ジョイはバークレー校の大学院に入学します。
そして、各々勝手に機能追加していたものをまとめ上げ、ビル自身も改良を加え、元の UNIX とはかなり違うものを作り上げます。
この UNIX は、AT&T の UNIX の使用が許諾されている教育機関に配布されます。
この配布の際、バークレー校が手を加えたことを示すため、Berkeley Software Distribution (バークレイによるソフト配布)と明記されました。この頭文字が BSD 。
当初は BSD UNIX と呼ばれていましたが、後に AT&T が分割され、法律による規制が解除された際に、AT&T が UNIX の配布を始めたため、UNIX の商標が使えなくなりました。
このため、現在では単に BSD と呼ばれます。
いまでは UNIX として有名なのは Linux です。
しかし、Linux のコマンドのほとんどは、BSD から持ってこられたものです。
そのため、UNIX の(見た目上の)方言としては BSD に似通っています。
UNIX の頃は、まだコンピューターをテレタイプ端末で使うのが普通でした。
PDP-1 にはすでにディスプレイが付いていたのに、PDP-11 になってもこれはまだ「特別な」デバイスだったのです。
UNIX は PDP-7 で開発され、その後 PDP-11 に移植され、BSD は PDP-11 版をもとに改良されました。
でも、まだプログラムはテレタイプだったのです。
テレタイプを使うと、キーボードで入力した文字を、紙テープに2進数でパンチできます。
これでプログラムを記述します。もし打ち間違えがあった場合は、文字単位で「消去」することも可能ですが、間違えた行を紙テープ上から消し去ってしまったほうが簡単です。
方法は簡単。間違えたところで紙テープに印をつけて置いて、気にせず入力を続けます。
あとで印を探して、その行をハサミで切り取り、セロテープで貼り着ければ編集完了。ちゃんと読み込めます。
テレタイプは、直接コンピューターに文字を送ることもできましたし、上に書いたように紙テープに長い文章を入れておき、まとめて送ることもできました。
ビルジョイは、プログラムを cat コマンドで書いていた、と言う逸話があります。
cat > prog.c
ですね。この後に「1文字も間違えずに」入力を行えば、プログラムファイルを作ることができます。
大天才だからそれができた、と言う文脈で語られるのですが、おそらくは紙テープから送り込んでいたのでしょう。種明かしをすれば「なーんだ」と言う話。
UNIX では、コンピューター上でファイルを編集する方法も用意されていました。
テレタイプを使って、「エディタ」にファイルを読み込むように指示をしたうえで、何行目の何文字目を編集するか指示します。
するとその行がタイプライターで印字されます。編集する文字を入れると、再度編集後の行が表示されます。
間違いがなければ確定します。
行ごと削除したり、行を挿入したりすることもできました。
あまり大きな変更の場合、一度ファイルを紙テープに出力し、紙テープ上で編集した方が速いかもしれません。
しかし、簡単な手直しをコンピューター上で行える、と言うのは便利でした。
ビルジョイはこのエディタを改良し、PDP-11 に接続されていたディスプレイ端末で編集を行えるようにします。
ディスプレイ端末とは、テレタイプを模倣し、紙に印刷をする代わりにテレビ画面に文字を出力する端末のことです。
テレタイプでは1文字毎に文字が送られましたが、ディスプレイ端末では改行時に1行分の文字が送られるため、改行するまでは端末上で文字の編集が可能でした。
ビルジョイは、このディスプレイ端末の特性を活かし、エディタを改良します。改良エディタなので、 EX エディタと名付けられました。1976年には開発されていたようです。
これは、従来のテレタイプ端末での使用も考慮した、1行単位の編集を行うエディタです。
ただ、ディスプレイ端末で使用した際に使うと便利な「ビジュアルモード」というおまけがつきました。
ビジュアルモードでは、指定した行を表示・編集するだけでなく、前後の数行を表示できます。
これにより、目的の行を探すのが容易になりました。カーソルを上下に動かし、そのまま編集を始めることができます。
EXエディタは、BSD の最初の配布で広まります。1978年3月のことでした。
この1年後、1979年3月の BSD 配布では、ビジュアルモードを中心としたエディタにつくりかえられています。
これが世界初のスクリーンエディタ、vi でした。(vi は VIsual モードから取られています)
いまでは、エディタと言えばスクリーンエディタのことです。しかし、すべては vi から始まっています。
現在では、vi とほぼ同等の機能を持ち、さらに拡張した vim エディタが有名です。
#この記事を公開後、vi は世界初のスクリーンエディタではないのではないか、という指摘がありました。
なかなか興味深いものでしたので、調査して別記事に書きました。
…功績はいっぱいあるのに、2つ紹介したところで予定行数に近づいているな。
後はペースを速めましょう。
csh 。
シェルと言うのは、UNIX でユーザーが作業をするためのプログラムです。
Windows でいえば Explorer (ファイル管理を行い、アプリケーションを起動するプログラム)に当たります。
UNIX は、当初 sh と呼ばれるプログラムが使われていましたが、csh は根本から作り直し、C 言語風のプログラムを解釈できるようにしたものです。
さらに、過去に使った「コマンド」を簡単に呼び出せたり、文字列の一部を正規表現で変更できたり、いろいろと便利な機能が付いています。これらは sh にはない機能でした。
その一方で、csh は大きなプログラムを作るのには適しません。せっかく C言語風の構文を備えているのに、関数を作ることができないためです。
BSD 系のシステムでは、昔は csh や、その拡張である tcsh が標準になっているものが数多くありました。
しかし、現在は sh の拡張である bash などがよく使われています。
ただね、csh / tcsh は、コマンドラインで数行のちょっとしたプログラムを組む時には、bash よりも便利なことが多い。
ディレクトリの中の全てのファイルを一定の決まりに従ってリネーム、とか、その程度の処理ならね。
だから僕は、普段は bash で作業をしていますが、時々 tcsh に切り替えたりします。
TCP/IP。
現在のインターネットの根幹を支える技術です。
元々、UNIX にはネット機能はありませんでした。BSD でネット機能が追加され、その研究の中で TCP/IP というプロトコルが策定されます。
TCP/IP を扱うプログラムは、非常にややこしい上に信頼性が求められたため、外部業者に作成が委託されたそうです。
しかし、出来上がってきたものは、確かに動くし信頼性もありそうなのだけど、動作の遅いものでした。
TCP/IP は根幹部分なので、この部分の動作が遅いとネット―ワークすべてが遅くなってしまいます。
そこで、満足できないビル・ジョイは、大幅に書きなおして性能を上げてしまったそうです。
NFS。
ネットワークファイルシステムです。ネットワークに接続された別のマシンのハードディスクを、自分のマシンのハードディスクのように使える技術。
Windows や Mac でも、他のマシンのハードディスクを使える技術はあります。でも、最初のアイディアは NFS。これがあまりにも便利で、UNIX では広まったので、Windows や Mac でも取り入れられたの。
一時期は一世を風靡した CPU です。RISC の初期のもので、非常に高速でした。
ビル・ジョイが「高速な CPU が欲しい」というので設計が始まったらしいのですが、実際の設計は別の人。
ビルはソフト屋ですから、回路設計は出来なかったのではないかな。
多分、ビルのここでの仕事は、ソフト屋として必要な命令セットを決めたりする作業でしょう。
サンの話もしようと思っていたけど、長くなりすぎるからここでおしまい。
ビル・ジョイが作ったプログラムのうち、有名なものに限った説明だけでこんなに長くなるとは…
まぁ、そんだけすごい人だと言うことです。
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もう2週間ほど前の話 10月21日に「パピコンクリッカー」という WEBブラウザゲームが発表されました。
海外WEBブラウザゲーム、Cookie Clickerのパロディですね。
まぁ、パロディとしての一発ネタに近く、一瞬人気が出てすぐしぼんだわけですが、僕はしつこく遊んでいました。
カンストを目指していたの。…ソースを読んだらカンストがあることは判ったのだけど、作者さん曰く「カンストを目指すゲームではありません」。
でも、そういわれたらやりたくなるじゃん。ざっと計算して、2週間くらい放置すればいくなー、と思ったのでやっていて、実際2週間くらいで終わったわけです。
これ、パソコン作業の裏でやっていただけだから2週間もかかりましたが、パピコンクリッカー(以下パピクリ)専用にパソコンを付けっぱなしにすれば、1週間かからずに終わると思う。
それはさておき、2週間放置してカンストしたわけですが、そんな時間がかかる遊びに手を出す前にやっておけばよかった、と後悔した遊び方がありました。
長く苦しい戦いだった…… pic.twitter.com/mUzBeB1e66
— wizforest (@wizforest) November 7, 2013
元ネタのクッキークリッカーは基本的にインフレを楽しむゲームで、何時までやっても終わりはありません。
でも、パピコンクリッカーは「ひとまず終わり」が1時間もせずに来るように設定されています。
ゲームの説明は上のリンクを読んでもらうことにして、ひとまず終わると「ソフト50本リリース」という日数を記録として残してくれます。
先に書いたように2週間も遊べば、「全マシン台数カンスト」と「総売り上げカンスト」も記録されるのですが、不毛だからこんなものは目指さない方がよろしい。作者さんもそういってましたし、経験者である僕もそう思います(笑)
日数が記録されると言うことは…この日数を縮めるゲームなのだな、と了解したわけですよ。ゲーム好きとしては。
でも、この日数が、非常に縮めにくい…というか、システムの都合で縮まない作りになっているんですね。
タイムアタックしやすいようにして、と作者さんに要望を出したところ「その遊び方は全く考えていなかった」との答え。
えー。スコア表示があったらそこで競うのがゲーマーってものでしょ。
スコア表示するなら、その部分で作り込みしなくちゃ。
作者さんに聞いたら、以下の返事をもらいました。
@wizforest 1本のソフトを開発してから次のソフトまで、6日のインターバルがあるので、50本で300日くらいはかかってしまいます…すみません。あ、ソフトを開発した瞬間にオプションを購入するとカウンタがキャンセルされます(オプションのインターバルはあるので意味ないかも…?)
— TINY野郎 (@tiny_yarou) October 22, 2013
メッセージの表示は、上手いタイミングで操作を行えば消すことができる、とのこと。
なるほど。それを駆使して遊んでみるか。
…と、返事をもらってからタイムアタックに挑みたかったのですが、迂闊にカンストを目指してしまったので2週間もの長期にわたって、遊びたくても遊べない状態だったのです。
カンストした今、やっと遊べる!
ところで、ルールは先ほどのリンクを読んでもらうことにして、ゲームの「仕様」の説明。
ソフト(全部で50本)を開発すると、そのソフトの説明が表示されます。
この説明が6秒間あり、説明中は条件を満たしても次のソフトは開発されません。
作者さんの言う「300日くらいはかかる」とはこのこと。
ゲーム中は、1秒を1日と表示しています。
50本のソフトで各6秒の説明があるので、 50*6 = 300 で、300秒は絶対にかかってしまうのです。
ところが、作者さんが示唆したように、ソフト開発の説明は、オプション機材を購入することで表示される説明によって消すことができます。かわりに機材の説明が表示されますが、こちらは5秒間。
周辺機器(全14台)は購入時に、パソコン(全7台)は1台目購入時に説明が出ます。
6秒間の説明が出た瞬間に5秒間の説明を被せることで、理論上はソフト開発時間を1秒短縮できます。
ただし、機材の説明5秒の間も次のソフトは開発されないため、操作を誤るとかえって時間を遅くしてしまう結果となります。
(ソフト開発の説明が出て1秒以内に機材を買わないといけない。それ以降のタイミングで買うと時間的に損となる)
ゲームは、最初に PC-6001 を購入することでスタートします。
この説明の5秒間は、ソフト開発はできません。
もっとも、その5秒以内に開発条件をそろえるのも難しいでしょう。
その後から開発が始まったとして、連続して50本全部の開発が行われれば、説明の表示が終わるのは 305秒目。
でも、実際には50本目の開発は、説明表示の始まった瞬間です。なので、299日目が50本リリースの記録です。
さらに、先に書いたように説明時間を1秒づつ縮めることができます。
機材は全部で21種類ありますが、そのうち1つは最初に購入する PC-6001なので除外。
つまり、20秒縮めることができて、理論上は 279日が最短日数。
…とはいえ、完璧に説明をかぶせて1秒短縮なんてできるわけもありませんし、最初のPC6001の購入説明が終わるまでに1本目のソフトをリリースすることもできません。
あとは、いかに初動を速くするか、表示中に次のソフトを開発するか、と言う勝負になります。
ソフト開発の条件は、基本的にはパソコンの購入台数。
最初は 10台目、後は 50の倍数(最後だけ255)で開発されます。
6001 では 3/25台目でも開発されます。
これを使って、最初の開発を早めましょう。とにかく最初の一本を開発し、その表示時間中に次を開発する、というサイクルをつなげることが重要です。
6001mkII と 6601 では 5/25/75/125台目でも開発が行われますし、6001mkII では 175台目でも開発されます。25台おきに開発されることになるので、うまく使って開発を繋げましょう。
ただ、ここに罠があって、6001 の 100台目のソフトがないと、6001mkII の 5台目は開発されません。
最初の頃は6001mkII は高いのですが、一気に10台まで集める必要があります。
その後は 6001 を 100台まで集めれば、2本のソフトが一気に開発されるので時間の余裕が生まれます。
他にも、このような開発順序はあるのですが、初動で引っかかることはなさそうです。
最後の1本は、すべての機材を購入した時に開発されます。
(7台目のパソコンでは、台数に応じたソフト開発はありません。ただし、すべての機材購入のために、255台購入しなくては最後の1本は開発されません。)
しかし、終盤ではおそらくは表示の方がずっと遅く、ハラハラしながら記録が更新できるのか見守ることになるでしょう。
現在297秒。300秒を目安に遊んでいたので、ひとまず満足。
まだ改良すれば速くなると思うけど、あえて余地がある状態で挑戦者を待ちたいと思います。
プログラム改造(チート)はダメだけど、それ以外の手段は何でもあり、と考えています。
僕は、この記録を出すのにクリック連打リングを使用しています。
ファミコンの連射ジョイスティックみたいなもんで、それを使うことでかえってゲームが面白くなるものだから。(タイムアタックに関しては)
カーソルを正確に移動させる時間が一番のロスタイムなのだけど、画面縮小ができるブラウザで、ある程度縮小してしまうといいかも。距離が短くなるからね。
上の記録を出したときにはこのことに気づいてませんでした。これが「もっと縮む」と考えている理由の一つ。
タッチパネル環境で、押しっぱなしで連打が効くようにして遊ぶと正確で迅速なクリックができそうですが、これは試していないので可能かどうかわかりません。
究極は TAS になるのかな…とおもいつつ、現状 Windows でマウスカーソル対応の TAS ソフトがないようなので、当面は手動で勝負です。
#TAS で理想的な秒数を叩きだす勝負、というのも興味はある。
この場合は、理想パターンを編み出すパズルゲームになりますね。
5分程度で終わるゲームですから、どなたかチャレンジしませんか?
挑戦者求む!
#こんなソフトでの勝負を受けてくれる人がいるのか疑問だが (^^;
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 |
今日は PC-6001 が発売された日(1981)。
今でも好きな人が多い名機ですね。
以前に PC-6001 の開発話を少し書いたけど、概要からもう一度。
NEC は、全く新しい半導体である「CPU」の販売促進のために、技術者向けのトレーニングキット TK-80 を発売します。
技術者向けに少し売れればよい、と言うつもりだったのが予想外の大ヒット。
しかし、名前の通りトレーニング用で、ハンダ付けから自分で行わなくてはならなかったため、購入したけど使えない、という人もたくさんいました。
完成品 TK-80 も発売されましたが、買ってすぐ使えるパソコンとして PC-8001 が作られます。
NEC の子会社の新日本電気では、PC-8001 の人気を見て、互換機を試作します。
回路設計を見直すことで PC-8001 よりも高性能で安いという自信作でした。
ところが、親会社である NEC から、PC-8001 の事業を割り当てられます。
(もともと「CPUの販売促進」を行う部署が作っていたので、完成品である PC-8001 は本来の仕事ではなかった)
これで、試作中の互換機の立場が宙ぶらりんに。
NEC に試作機を見せて販売許可を取ろうとしますが、NEC は許可を出しません。
そこで、PC-8001 の人気に水を差さないように、より安価なホビーマシンとしてつくりかえられます。
さらに安く作れるように性能を落とし、搭載予定だった PC-8001 互換の BASIC も破棄され、オリジナル BASIC となりました。
代わりに、家庭でのホビーとして使いやすいようにカートリッジスロットが設けられます。
時間がかかるカセットテープからのロード時間なしにソフトを楽しめましたし、RAM を入れることで BASIC で利用できる領域を拡張もできました。
当時「カートリッジスロット」は、 PC を家庭に普及させるための切り札として考えられていました。
IBM も、PC-Jr. でカートリッジスロットを設けていますし、後に MSX がカートリッジスロットを重視した設計にするもの無縁ではありません。
また、音楽演奏機能がつけられます。
カートリッジスロットや音楽演奏機能は、PC-8001 にはない機能でした。
#BASIC での音楽演奏は PC-6001 が世界初、という説もありましたが、現在では違うことが確認されています。
でも、普及数から考えて、後に影響を及ぼした機能としては最初期のものです。
専用のディスプレイではなく、家庭用テレビに接続できる仕組みとなりました。
キーボードも、タイプライターのようなものではなく、ソフトごとに各キーの意味を教えるシートを載せられるようなタイプに変わります。
こうして、PC-8001 とは全く違うマシンとなり、PC-6001 が発売されます。
安価であることから普及し、何よりも漫画「ゲームセンターあらし」で人気のあった すがやみつる が「こんにちわマイコン」を描いたことで子供たちのあこがれのマシンだったように思います。
たしか、小学生の時学校で使っていた集金袋(ただの封筒?)の裏に、PC-6001 の広告が載っていたように思います。
それを見るたびに「パピコン欲しい」と思っていたような…
PC-6001 は、PC-8001 と明確な差別化を行うため、機能を低く抑えることで作り上げられたマシンです。
でも、あらたな「シリーズ」となったことで、高機能化の道をたどります。
PC-6001mkII ではキーボードも通常のタイプとなり、ディスプレイも RGB 接続できるようになります。
(PC-6001 には、テレビ出力の色滲みを利用して、白黒画面で擬似的にカラー出力するテクニックがありました。これは PC-6001mkII では白黒表示となってしまいます)
当時、RGB ディスプレイと言えば8色表示が普通でした。
RGB とは光の三原色 Red Green Blue のこと。この「ある」「なし」の組み合わせは8色ですから、RGB で8色なのは当然なのです。
ところが、PC-6001mkII の専用ディスプレイでは、ここに「色相ずらし」を加えました。
通常の RGB 3つの信号線に加え、「色相をずらす」という追加の信号線があるのです。
黒は色相をずらしても黒なので2倍にはならず、15色を表示することができます。
#詳細はこの記事の最後に。
漢字 ROM も搭載されました。ただし、JIS漢字コードには準拠しておらず、独自のコードで 1024文字のみ、主に小学校で習う教育漢字です。
そして、おそらく最大の目玉機能が「しゃべる」ことです。
音声合成LSI を搭載しており、ローマ字として与えられた言葉を話します。
この音声が…なんとも味のあるもので。当時の思い出補正を持たない子供が今聞いたら、笑い出すでしょうね。
でも、当時はものすごいと思ったのです。
音声合成 LSI は「発声」だけを担当していて、その発生データは CPU で作り出しているようです。
この時、データは VRAM の「裏画面」に作り出されます。
そして、この処理は結構重いため、発声開始時に少し間が空きます。
…この間が独特の感じを出していて好き!
個人的話題としては、小学校の時の友人(今でも時々一緒に飲む)が PC-6001mkII を持っていました。
白黒の(先に書いたように、PC-6001 用のゲームを遊ぶと白黒の場合があった)スペースハリアーの出来の高さに驚きました。
PC-6001 シリーズは(PC-8001 との兼ね合いもあり)CPU は遅いのですが、画面が低解像度なのでゲームの動きは悪くありませんでした。
特にスペースハリアーは全ての敵を「四角」で表現するという思い切った移植。
こうすることで自由な拡大縮小が可能でしたし、敵キャラクターを保持するメモリも不要なため、メモリ節約になったのです。
#他機種ユーザーからは「冷蔵庫が飛んでくる」と揶揄されていましたけど、見た目よりも動きとゲーム性を重視した好移植です。
高校に入った時、部室に PC-6001mkII があり、BASIC で何本か簡単なゲームを書いた覚えがあります。
でも、放課後に少しいじれるだけだったので、余り本格的なプログラムをするわけでもなく、主に早口言葉とかしゃべらせて(ゆっくりしゃべるのを)笑っていたかな。
上位機種として発売された PC-6601 になると、音階を付けて「歌う」ことができるようになります。
また、この後にもう1機種発売される「PC-6600 シリーズ」では、フロッピーディスクを内蔵していました。
…この FDD のアクセス方法が違うため、外付け FDD と内蔵 FDD で I/O レベルでの互換性がなかった、と、たった今 Wikipedia で知りました (^^;
でも、その程度しか違わない。
高校の時に一番仲の良かった友人(今でも時々遊ぶ)が、PC-6601 を持っていました。
合唱コンクールがあった際、課題曲の楽譜を配られたのですが「よくわかない」と PC-6601 に歌わせ、カセットテープに入れたものをウォークマンで聞いていました。
…いや、だから独特の間が。音声合成のデータを用意するのに独特の間が空くのは健在で、「歌う」と言ってもテンポのずれた、音痴な感じです。
僕が面白がって「PC-6001 の喋るマネ!」というマニアックな芸を身につけたのはこの頃。
一番の仲の良い友人にウケていたからね。大学入学後にパソコンサークルでやったら、ほんの一部にだけバカ受けで、知らない人にはウケなかったので封印しましたが (^^;
この後、さらにグラフィック解像度を PC-8001の後継機種である PC-8801 と同等に引き上げた PC-6001mkIISR と、それに FDD を内蔵し、テレビとの親和性を高めた PC-6601SR が発売されます。
#シャープが X1 でテレビとの親和性を高め、テレビとパソコンの融合もこの頃の流行だったのです。
しかし、この頃になると、時代は完全に PC-8801 シリーズです。PC-6601SR が、シリーズ最後の機種となります。
普及台数は知らないのですが、おそらく PC-6001mkII の時が一番売れたのでしょうね。
PC-6001 はグラフィック画面の解像度が低かったため、相対的に「少ない画面アクセスで画面が動かせる」ことになります。
このため、PC-8801 よりも高速に動作するゲームも作れました。
#MSX と同等の解像度で、MSX よりは CPU が速いのですが、MSX にはスプライトや PCG があったため速度で負けます。
でも、MSX が登場するまではホビーパソコンと言えば PC-6001 だったのです。
mkII になると解像度が少し上がりましたが、PC-6001 互換モードで動作させるゲームも以前として多く発売されていました。
当時は「市場を広げるため」だと思っていたのですが、今思うと、解像度が低いほうがアクションは作りやすかったのかもしれません。
PC-6001 というと武田鉄矢のイメージがあるのですが、これも実は mkII 以降のイメージキャラクター。
それだけ mkII の頃は普及したマシンだった、ということになります。
PC-6001 には、当時人気のあったゲーム「ハイドライドII」が予定されたのですが、発売されませんでした。
作成会社は「PC-6001 ではメモリが足りない」と言っていたのですが、MSX用には大容量カートリッジを使うことで発売されました。
ユーザーが「カートリッジスロットがあるのだから、MSX と同じようにできるはず」と言えば「MSX と違い、カートリッジスロットに I/O の仕組みがなく、大容量にできない」との回答。
…でも、PC-6001 でも大容量カートリッジ作れるようですね。
まぁ、これは今の技術で作れた、と言うだけの話で、当時の商業ベースとしては作れなかったのだろうけど。
#当時商業的にカートリッジを作るなら、NEC に頼まないといけなかったと思いますし、わざわざ専用に基板設計してまで作ることもできなかったでしょう。
と、PC-6001 シリーズの歴史を認識したところで、パピコンクリッカーをお勧めしておきます。
上の知識を仕入れてから遊ぶと、このゲームを作った作者さんの熱い思いがよくわかります。
さらに細かなネタは、パピクリのアイコン作成元で見るとよくわかるかな。
…で、だれかタイムアタックしようよ。
後日追記
記事公開当初、PC-6001mkII の色信号の記述が「RGB に加え輝度信号」となっていました。
これが誤りであると、P6に詳しい方から指摘と共に詳細を教えていただきました。
(すでに記事中の文面は訂正しています)
mkII の色信号、追加の 1bit は輝度を変化させる信号ではなく、色相をずらす信号だったそうです。
専用ディスプレイ内に回路が入っていて、RGB では出せない色を出力する「色相ずらし」回路が入っていたのだとか。
初代 P6 はテレビに接続するマシンでした。NTSC では色相をずらすことが簡単で、これによって表示色数を増やすことができます。
P6mkII でも、ビデオ出力は可能で、色相ずらしによって15色が実現されているようです。
そして、専用 RGB モニタでは、NTSC ではなく RGB にもかかわらず、モニタ内の回路によって擬似的な「色相ずらし」を実現しています。
本体を持っていなかったにも関わらず、P6mkII の資料はなぜか手元にあります。
この日記書く際に「15色である」ことは確認したのですが、色をちゃんと確認していませんでした。
色番号は1~16ですが、先に9から書くと
黒 赤 緑 黄 青 マゼンダ シアン 白
です。1 2 4 が RGB で組み合しただけ。それで1~8はというと
黒(透明) 橙 青緑 黄緑 青紫 赤紫 空色 灰色
…おぉ! 「輝度半分」じゃなかった。
僕自身が、RGB なのだから追加の 1bit で出来ることは輝度を変えることくらい…と思い込んでいました。
そして、色を調べたら 15色で黒はそのまま、白が灰色になっているのだけ確認して「やっぱ輝度信号」だと早合点していました。
お詫びして訂正いたします。
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別年同日の日記
申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 コメントに1年間気づいてませんでした…申し訳ない。mkIISRで同等になったのが「PC-8001」ではなく、「8801」の間違いでした。文章のほうは修正済みです。指摘ありがとうございます。 (2015-11-10 10:09:47)【名無し】 mkIISRでPC-8001と同等になったのはテキストの表示文字数(80x25)だと思います。初代PC-6001のグラフィック解像度は最大で256x192x2色、mkIIの時点で160x200x15色のグラフィックが表示できたので、mkIISRより以前にグラフィックの解像度はPC-8001の160x100を超えていました。 (2014-11-11 01:22:12) |
先日、「今日は何の日?」として、ビル・ジョイの誕生日の記事を書きました。
この記事中に「vi は世界初のスクリーンエディタ」と書いたのですが、これに関して「vi より CP/M の word master の方が先では?」という指摘をいただきました。
調べたのですが、どちらが先とするか微妙なところです。
僕は「vi が世界初と呼ぶことに差しさわりはない」と判断したので、ビル・ジョイの記事は修正していませんが、これも考え方によるでしょう。
判断は各自にお任せするとして、調査報告と、僕が「vi が最初と呼んでよい」と考えた道筋を記しておきます。
ビル・ジョイが UNIX の標準エディタ(ラインエディタ)である ed を改造し、ex を開発したのが 1976年。
この時点で、ex はラインエディタでありながら、「ビジュアルモード」という名称でスクリーンエディタの機能を持ちます。
(1977年の ex 1.1 のマニュアルでは、名目上はラインエディタだが、full-screen addressible cursors という記述があり、すでにスクリーンエディット可能になっている。)
これが BSD UNIX として一般配布されたのが 1978年3月でした。
そして、ビジュアルモードが標準の起動モードとなった vi の公開は、次の BSD 配布である 1979年3月。
vi は、実のところ ex の名前を変えただけです。
UNIX では、一つのファイルにいくつもの名前を付けることができました。そして、vi は起動される名前によって動作が変わります。(UNIX ではよくあることです)
vi として起動すればビジュアルモードで起動し、ex として起動すれば、従来通りラインエディタとして使えます。
ここまでは、基本的に先日書いた通り。
(調べて判ったことを少し追記していますが)
一方、CP/M というOSにはラインエディタ ED が付属していましたが、これを改良した人がいて、word master というエディタになります。
このエディタは、MicroPro という会社から1976年には発売されていた、という記述が多数あります。
ex も word master も開発月がわからないのですが、1976年時点で ex は公開されていません。逆に、word master が発売されているのであれば、word masetr が先で、ex が「真似をした」可能性があります。
でも、この記述ちょっとおかしい…?
CP/M は、8080 用のOSで、当時インテルで働いていた人物によって作られています。
そのため、8080 発売(1974年末)の時点でもう完成していました。そう考えると、1976年にソフトが発売されてもおかしく無いように見えます。
彼は余暇で CP/M を作り、インテルに売り込みます。しかし、インテルは買い取りませんでした。
(一緒に作った PL/M というコンパイラ言語は買ってくれました)
つまり、CP/M は完成しているものの、まだどこにも発表されていません。
その後、8080 を搭載した最初のコンピューターであるアルテア8800が 1975年1月に発表されます。実際には出荷が遅れまくり、入手できない幻のマシンでした。
現実的に入手可能になるのは、アルテア互換の IMSAI 8080 。これが 1975年末。
これを受けて、CP/M 作者は会社を設立、1976 年に IMSAI 8080 を作った IMSAI 社と契約を結び、IMSAI 用 CP/M を発売します。CP/M は、ここでやっと世間に公表されます。
しかし、利用するには IMSAI にキーボードとディスプレイ、さらにフロッピーディスクドライブを接続する必要があり、これは非常に高価なシステムでした。
この時点では CP/M は全然普及していません。なので、word master が発売された、と言うのはおかしいのです。
最初からキーボードもディスプレイ出力もついている TRS-80 にフロッピーディスクドライブが発売されるのが 1978年。
CP/M は、8bit 機を発売する各社と契約し、各社のマシン用に移植されています。このころからやっと、CP/M は普及し始めます。
そして、この頃にはコンピューターソフトの市場が出来上がったために多くのソフト会社ができます。MicroPro もそうした会社で、1978年設立。共同設立者の一人は、word master を開発した人です。
…つまり、word master を販売するために作った会社なのですね。
どうも、「word master は 1976年発売」という情報がどこかにあり、間違いがそのまま広まっているようです。発売会社無しに発売はできませんから、1978年以降、と言うのが正しいでしょう。
そのつもりで情報を調べると、word master は 1978 年発売、と言う情報も、数は少ないものの見つかります。
恐らくは、こちらが事実です。
さて、もう一度確認すれば、vi の公開は 1979年3月です。ただし、先に書いた通り、これは ex の名前を変えただけ。ex の配布は 1978年3月ですが、1976年から開発されており、1977年11月時点でスクリーンエディットモードの存在に触れたマニュアルが残っています。
なので、「vi は世界初のスクリーンエディタ」とは言えないのですが、「ex 時代を含めると世界初のスクリーンエディタ」ではあります。
プログラムは同じ(バージョンアップはしている)だけど名前が変わった、というのをどう考えるか…人によって考えは異なるでしょう。
僕としては、vi が世界初と言う認識で間違いはないと考えたため、ビル・ジョイの誕生日の本文は修正しませんでした。
ただ、word master が真似をした、というわけではないような気がします。
独立して作られたもので、こちらも世界初と呼んで差しさわりのないもの。
少なくとも、家庭用パソコンとしては最初のスクリーンエディタです。
ex が配布された BSD では、UNIX に移植された Pascal 言語のパッケージが入っていたそうです。
この移植はビル・ジョイによるもので、ex は「プログラム作成に便利なように ed を改造したもの」として、Pascal 移植の際に作られたのだとか。
そのため、ex も「Pascal のおまけ」として配布されています。
エディタとしての配布ではないので、ほとんど気づかれていません。翌年 vi が配布されるまで、みな「スクリーンエディット」なんて概念を知らないままなのです。
その間に発表されている word master に影響を与えていることはおそらくないでしょう。
証拠と言うことでもありませんが、word master と vi ではキーの使い方も全然違います。
vi では、カーソルを動かすのにホームポジションで押しやすい位置にあるキー… h j k l を使います。
このキーが通常に文字を入力するのではないことを示すため、「モード」を切り替える必要もあります。
word master では CTRL を押しながら e s d x を押します。いわゆる「ダイヤモンドカーソル」です。
CTRL キーの併用により、モードは存在しません。
#スクリーンエディタが作られる前は、当然のことながらスクリーンエディタが存在しなかったことに留意。
カーソルを動かしてエディット、という概念がないので、カーソルキーは存在しない。
word master はエディタから進化してワープロになり、word star と言う名前で同じ会社から発売されます。
キー操作はほとんど同じでした。
word star は爆発的に普及し、同じキー操作のエディタ/ワープロを大量に作り出します。
日本では MIFES が同じキー操作を利用していました。
一方 vi は今でも根強いファンがいるものの、広範に普及したとは言い難い状況です。
後の世に与えた影響でいえば、word master のほうが大きかった、と言えるでしょう。
これが、word master も世界初と呼んで差しさわりないと考える理由です。
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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています。 【あきよし】 情報ありがとうございます。O26 というのは知りませんでした。これは、調べてみたら面白そう…。何かわかったら、また記事にします。 (2014-08-05 07:33:16)【名無し】 Wikipediaのテキストエディタの項目(http://en.wikipedia.org/wiki/Text_editor)を見ると「One of the earliest full-screen editors was O26, which was written for the operator console of the CDC 6000 series computers in 1967.」とあり、O26の項目(http://en.wikipedia.org/wiki/O26_(text_editor))にもう少し詳しいことが書かれていますが、1970年代半ばのWordMasterやviが世界初のスクリーンエディタである可能性は低いんじゃないでしょうか。 (2014-08-01 10:00:06) |
今日は 4004が発売された日(1971年)。
インテルが作った、世界初のマイクロコンピューターですね。開発話は、以前に書いているので 4004 の構造を説明しましょう。
4004 は世界初の 1chip CPU。4bit CPU ですが、これは内部レジスタとデータ入出力の単位が 4bit なだけ。命令は 8bit で、メモリアドレスは 12bit です。
命令は 8bit なので、プログラムを収めた ROM は 8bit 単位にアドレスが割り振られています。それに対して、RAM は 4bit 単位のアドレスです。
そして、現在のアクセスが RAM に対するデータアクセスなのか、ROM に対するプログラムアクセスなのかを示す信号線が出ています。
RAM と ROM はアクセス方法が違うだけでなく、アドレス空間も分離されています。それぞれ 0番地から始まるアドレスを持てるのです。
4bit 処理でプログラムサイズが 4KByte 、できる処理はかなり限られています。
事実 4004 は「汎用性」を重視していましたが、事実上電卓専用。
LSI の製造技術として、18ピン(電気的な接続端子が 18本)が限界だった、と言う現実がまずあり、その中で「プログラム可能な電卓用 LSI」をどうやって作るか考えられた結果が 4004 でした。
最終的に 16ピンの LSI になっています。
アドレスが 12bit で、ROM から読み込むデータが 8bit 。これだけで 20本の信号線になります。18ピンが最大では作れません。
そこで、4bit づつ何回かにわけてデータを送受信する方法が考えられました。
プログラムを実行する場合、4bit づつ、3クロックかけて 12bit のアドレスを送出します。
すると、ROM がデータを返してくるので、4bit づつ、2クロックかけて 8bit のデータを受け取ります。
プログラムの命令を読み出すだけで5クロック。この後、命令解釈に1クロック、実行に2クロックかけます。
というわけで、1命令の実行は最低でも8クロック。
命令によってはさらに追加で ROM から 8bit データを読み出したり、RAM と 4bit データをやり取りしますが、この場合は非常に遅くなります。
アドレスを3回に分けて送るとか、データを2回に分けて取り出すとか…非常に特殊なやり方なので、専用の ROM/RAM が一緒に開発されています。
ROMの型番は 4001 、RAM は 4002、I/Oに使用する 10bit のシフトレジスタが 4003。
これに、CPU 4004 を加えて「4000ファミリー」となります。
4004 は 4bit づつ処理を行う、という不便はありますが、その内部構造は世界初にしてはなかなか豪華です。
アキュムレータ(計算用レジスタ)の他に、汎用レジスタを 16本も持っています。計算は、常にレジスタとアキュムレータの間で行われます。
アキュムレータもレジスタもすべて 4bit ですが、汎用レジスタ2本をペアにして、8bit データを表現することもできます。
このペアのつくり方は決まっていました。(レジスタには 0~15の番号が付けられていて、ペアになれるのは 0と1、2と3、4と5…のように固定されています)
先に書いたように、命令は 8bit ですが、このうち「命令」そのものは大抵 4bit で表現されます。
のこりの 4bit は、レジスタの指定など。4bit あれば 16本のレジスタが指定できるわけです。
また、アキュムレータにデータをセットする場合などは、そのデータが 4bit で指定されます。
2byte が必要な命令は、4bit にさらに 8bit を足して 12bit のアドレスを示したり(ジャンプ命令など)、レジスタペアに 8bit のデータを読み込ませたりする場合に使われます。
…ところで、アドレスとレジスタを両方同時に指定する命令と言うのは存在しないのですね。
基本的に、4004 のプログラムは「シーケンシャル」です。データが必要な場合は、4bit のアキュムレータ読み込みや、8bit のレジスタペア読み込みとして、プログラムにデータが埋め込まれます。
プログラムは ROM に置かれる、と言うのが前提で、「データをメモリに書き込む」と言う命令は存在しないのです。
実は、接続された RAM は I/O 空間にあるのです。
4004 では RAM と I/O を区別しておらず「RAM 空間」と呼んでいるのですが、8080 以降は同じ仕組みで I/O 空間と呼ばれるようになります。
(8080 では、メモリ空間にRAM を使用する前提で、書き込みができるようになったため)
こう考えると、ROM は 8bit アクセスなのに RAM は 4bit アクセス、という不自然さも理解できます。
全く違うものとして考えているのですね。
RAM や I/O にアクセスする際は、まず RAM のバンクを選択し、レジスタペアにアドレスを入れ、アドレス出力命令を実行し、最後にアクセス命令で読み書きを行う必要がありました。
非常に面倒で、遅いです。
先に書いた、16本も汎用レジスタがあるのも、おそらくはこの影響。
16本もあって豪華、ではなく、RAM が使いづらいからレジスタを増やさざるを得ないのですね。
4004 には、TEST 端子というのがありました。
これ、外部から CPU に対して働きかけるための唯一の方法。4004 は割り込みは持っていないのですが、同じようなことをしようとしています。
上に書きましたが、4004 の I/O アクセスは遅いです。
しかし、電卓ではユーザーがいつキーを押すかわかりません。常に I/O を見張り続ける必要がありました。
計算中にも常にキーを見張り続ける…というのは、遅いばかりで無駄ですが、やらなくてはならないのです。
ここで TEST 端子が使用されます。TEST 端子の状態は、4004 の内部フラグに反映されており、これを元に条件ジャンプを行えます。
キーを押されたかどうか判別し、押されていなければ I/O のプログラムは飛ばします。押されたときだけ、プログラムが実行され、押されたキーを読み取ります。
こうすることで、プログラムを高速に動作させることができました。
4004の設計者である嶋さんは、TEST 端子は「『4ビットのCPU』をタイム・シェアして使用」するための重要ピンだった、と記述しています。
4004 には割り込みはありません。
まだ割り込みと言うアイディアがなかった気もしますが、RAM が I/O 空間にあるので、割り込みに必要なスタックが作れないことも影響したかもしれません。
スタックが存在しない。…プログラマならサブルーチンも使えないの?と気になるところでしょう。
ところが、これは大丈夫なのです。制限はあるけど、スタックなしにサブルーチンを呼び出すための仕組みが備わっています。
現在実行中のアドレスを保持するためのレジスタ、「プログラムカウンタ」が4つあり、切り替えられるようになっているのです。
サブルーチン呼び出しを行うと、そのアドレスが「次のプログラムカウンタ」に入れられ、そちらが使われるように切り替わります。これにより、サブルーチンの先頭から実行が開始されます。
サブルーチンからの復帰時は、「前のプログラムカウンタ」が使われるように切り替わります。これにより、呼び出し前の続きから実行が行われます。
ハードウェア的な仕組みで、スタックなしにサブルーチン呼び出しを実現しているのですね。
ただし、プログラムカウンタは4つしかないので、サブルーチンの呼び出しは3段までしかできません。
この回数を超えないようにするのは、プログラマの責任です。
#じつはこの4つのレジスタは「スタック」ではなく「リング」になっているので、4段目の呼び出しを行うと、最初のデータが破壊されます。
4004 は世界初のマイコンで、電卓用途を考えていたためにそれほど汎用性は高くないのですが、たった 16ピンのパッケージで上手にまとまっています。
最後に、4004 に興味を持った方へ、3つの資料を提示します。
Intel のページに未だに置かれている、4004 のデータシート。
そのデータセットにも概要は書かれているけど、命令の動作詳細をまとめたページ。
さらに、Javascript で動作する、エミュレーター、ディスアセンブラ、アセンブラのページ。
命令詳細とエミュレータ類のページは、同じサイト内のものですね。
ところで、最後のリンク先は右上に polish ボタンがあるのですが、押しても三月魔臼は見つかりません。
(最後の最後に誰もわからないネタを…)
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今日(11/16)は宮本茂さんの誕生日(1952)。
任天堂のゲーム製作者。社長の岩田さんより有名かもしれませんね。
イギリス女王から名誉騎士の称号も与えられています。
任天堂に父親のコネで入社し、商品ラベルなどのデザインの仕事をしていました。
その流れから、インベーダーブームの時に任天堂が真似をして作ったゲーム「スペースフィーバー」のキャラクターデザインを行います。
…ほぉ、あの偽物感漂うデザインは宮本さんの手によるものだったか…
1980年に横井軍平さんの推薦で「ドンキーコング」をアイディアからすべて作成(プログラムは別人)。
この時の主人公には名前がありませんでしたが、宮本さんは「ミスター・ビデオゲーム」と呼び、今後のゲームにも登場させることで任天堂イメージを作り上げようとします。
後に「マリオ」と名付けられるキャラクターです。
ニンテンドーのアメリカ支社の関係者の名前を取ったそうなのですが、その人が「キャラクターにそっくり」だったとも「ドンキーコングがすごく上手だった」とも言われています。
多分両方とも真実なんじゃないかな (^^;
マリオの名前が初めて登場するのは、続編の「ドンキーコング Jr.」で、その後「マリオブラザース」で2プレイヤーキャラのルイージが登場。(緑を基調とするイメージは同じですが、現在のルイージと色遣いが違います)
そして、スーパーマリオブラザースの登場。世界一売れたゲームソフト、でした。(過去形)
今では Wii Sports に抜かされていますが、スーパーマリオが特別なゲームだった、と言う事実は変わりません。
僕は何に関しても、「オリジナルじゃないと認めない」と考えるところがあります。そういう性格なのです。
特に子供の頃はこの思いが強かった。
当時はゲームセンターで大ヒットしていた「パックランド」の衝撃があり、スーパーマリオはその真似じゃないか、と思いました。
当時の背景を書いておくと、当時すでに「画面スクロール技術」はありましたが、スクランブルやゼビウスのような「強制スクロール」が普通でした。
マッピーやドルアーガのような「任意スクロール」もあったのですが、こちらはスクロールと言っても2画面に制限されています。
ところが、パックランドは横方向に世界がどんどん広がっていく任意スクロール。
さらに、当時としては驚くほどキャラクターが大きく、スクロールする背景と相まって「アニメみたい」な印象でした。
#実際、アメリカで作られたパックマンのアニメを元にしており、過去のゲームの「パックマン」とは全く違う内容でした。
操作方法も斬新なものでした。
3つのボタンで、右、左、ジャンプを操作します。レバーと違いボタンなので「連打」することができ、歩いたり走ったりというスピード調節を可能にしていました。
そして、ゲーム中に隠された数々の謎。背景だと思っていたものを押したら隠しアイテムが出たり、特定箇所でのジャンプで点数が入ったり、迷路状の面があったり…
ファミコンでは、スーパーマリオは移植版の「パックランド」以前に発売されました。
でも、ゲームセンターで遊んでいた人の多くは、これが「パックランドのパクリ」だと気づいていたと思います。
そして、後でパックランド発売。
…ファミコンのハードに合わせてキャラクターは小さくなり、美しかった背景も残念なものに。
3ボタン操作、という独特の部分も、ファミコンでのパッド操作にせざるを得ません。
ゲームセンターの物とは全く違うゲームでした。
先に書いたように、僕は「オリジナル偏愛」だったため、友人にスーパーマリオが面白いと聞いても遊びませんでした。
最初にアイディアを考えたナムコを応援したい、と言う気持ちもあったのですね。
そして、ファミコンに移植されたパックランドを遊んでから…「コレジャナイ」とおもってやっとスーパーマリオを友達に借ります。
(友達はすでに遊びこんでおり、飽きはじめていたので借りられたのです。)
素晴らしい出来でした。それまで見ようともしなかったのを悔やんだくらい。
その素晴らしさを説明する必要はありませんよね?
宮本さんは、パックランドに衝撃を受け、それをファミコンの制約の中で楽しめるようにするにはどうすればよいかよく研究して作ったそうです。
#2014.9.13 追記。上のリンクで参照した記事は、インタビューなどの記事を参考にして書いたように装った憶測にすぎませんでした。
考察としては鋭いけど、事実かどうかは不明、と言うところです。
詳細は「スーパーマリオの発売日」の記事に。
宮本さんの苦労は後に知るのですが(この頃はまだゲーム作者の名前なんて気にしてなかった)、真似していると言って毛嫌いするのはよくないな、と自分で思った出来事です。
工夫のない真似は今でもだめだと思います。
しかし、工夫を加えれば真似でも素晴らしいものが作れる…と、教えてくれたのがスーパーマリオだったように思います。
今では、あまり偏見を持たずに物事に接しよう…とは思っているのですが、元々の性格なので「オリジナル主義」はまだ残ってます (^^;;
さて、宮本さんは他にも魅力的なキャラクターをたくさん作っていますね。
「ゼルダの伝説」シリーズのリンク。
マリオはプレイヤーの分身。だからプレイヤーが上達することで、行けなかったところにも行けるようになる。
それに対し、リンクはプレイヤーが操作する、ゲーム内の主人公。
プレイヤーとは別の存在で、ゲーム内の出来事によって成長し、強くなります。
逆に考えると、遊ぶ人にテクニックを要求する「難しいゲーム」はマリオ、時間をかけて遊べば「誰でも先に進める」ゲームはリンク、というのが宮本さんの考えのようです。
…ゼルダシリーズ、最近は難しすぎません?
強くするのに時間がかかるうえにテクニックもかなり要求されて、気軽に遊べないように思います。
そして、最近はピクミンも人気シリーズに入れてよいのでしょう。3つしか出ていないけど。
うちの子供も大好き。ゲームは遊べなくても、見ているだけでかわいいらしい。
1も2もかなりやりこんだけど、まだ3は手を出していません。Wii U 買ってないからね。
マリオがプレイヤーの分身、リンクが成長するものだとすれば、ピクミンたちは「チームの部下」です。
多くの仕事を効率的にこなすために采配を振るうのが自分の役目。自分が仕事を手伝うことはできず、部下がこなすのを心配しながら見ていないといけない。
これ、宮本さんが偉くなって直接ゲームが作れなくなった時に思いついた、というのが非常に面白いです。
「ゲームが作れない」ことで新しく作れるゲームがあるんですね。
1はこの采配を極限まで極めて最短時間を目指すゲームなのだけど、2では冒険が中心。
あまり時間は気にしないでいいし、目指すべき目標もあいまい。どうも、薄ぼんやりとしたゲームです。
だから僕は、以前は1が好きで2はいまいち、と公言していました。
先に書いた「オリジナル主義」とは違って、両方遊びこんだうえでの感想として。
でも、世間には2の方が後で出来たのだから出来が良い、という人も少なからずいました。
そしたら、3の発売に際して宮本さんが「2は周囲の意見を聞き入れたら、なんか違う作品になった」と後悔発言をしていました。
あぁ、やっぱそう思っているんだ。僕が原作者の意図をくみ取れていないだけでなくてよかった、と安心しました。
僕は、友達の間では「任天堂派」とされています。
他の会社のゲームだって好きなんだけどね。でも、自分の考える「ゲーム」に一番近いものを作っているのは任天堂だとは思う。
そして、そのほとんどは宮本さんの考え方なのでしょう。
…ここで「これからも面白いゲームを作って」と書くのはよくあるまとめなのですが、どちらかと言うと「早く引退できるように頑張って」と思っています。
引退できる、ということは、わざわざ宮本さんが口を出さなくても、後継者が育って面白いゲームがどんどんできる状況だから。
そして、口を出さなくてよくなったら、宮本さんには趣味で小さな作品を作っていただきたい!
きっと、面白いものができると思うんですよ。
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今日はミッキーマウスの誕生日と、ポール・モカペトリスの誕生日。
先日ミヒャエルエンデの誕生日のことを書いてから、「時間の節約」について考えています。
それで、「最近自分で忙しくしすぎ」と自制したので、今後「今日は何の日」ネタは少し力を抜くようにします。
手抜きする、ではなくて、当初は「1年は続けよう」と思っていたのを、「3年は続けよう」に目標変更。
1年のつもりだと「今日を逃すと紹介できない」と思って一生懸命紹介しちゃうので、「今年は見送って来年書こう」ができるように変えるのです。
さて、今日はミッキーマウスの誕生日。
架空の人物の誕生日などは扱わないつもりでやっていたけど、ミッキーの誕生日には過去に思い出があるので紹介。
3年前の話ですね。
子供たちをディズニーランドに連れて行ってやろうと考え、せっかく行くのなら思い切り遊べるように空いている日に…と日付を選びました。
ディズニーランドは、5月の連休直後が一番空いているらしい、と聞いているのですが、11月もかなり空いている。
ハロウィンは終わり、クリスマスにはまだ早いから。
で、3年前の11月17日、18日の2日間かけて、泊りがけで遊びに行ったら、なぜか結構込んでいる。
…11月18日はミッキーマウスの誕生日で、この日だけの特別イベントとかあるのですね。
ディズニー好きが結構来る日だったのでした。
それで、ミッキーの誕生日は僕の心に刻み込まれたのです。
イベントがあったのは、それなりに楽しかったけどね。
ポール・モカペトリスの誕生日。
彼は、DNS というしくみを考えた人。
インターネットでドメイン名を使えるのは DNS のおかげ。
まぁ、DNS 以前からドメイン名は使えたので、DNS がなくても何とかなるのだけど、今更昔に戻ってもいいことは何もない
じゃぁ DNS 万歳! なのかと言えば、実は DNS の仕組み自体が欠陥をはらんでいるというか、「悪意を持つ人なんていないだろう」というような考え方で設計されています。
ポールだけでなく、DNS の初期の議論に参加していた人は、技術的に「良いもの」だから採用しよう、と考えただけで、悪意を持った攻撃が行われるかもしれない、なんて思わなかったのですね。
#設計当時はインターネットは今ほど大規模ではなく、攻撃する人がいるなんて思いもしなかったでしょうし。
欠点が指摘されたらその欠点を補う運用方法が考案される、と言う繰り返しで、いまでも DNS は重要技術です。
もし、もっと良いものが考案されても、いまさら移行することなんて考えられないでしょうね。
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今日は任天堂の設立日。
といっても、会社としての任天堂が登録された日、と言ったほうがよいでしょうか。
1947年の今日、任天堂の前身となる「株式会社丸福」が登記されています。
先日亡くなった山内溥氏は、任天堂の3代目社長。創業者の山内房治郎は、溥氏の曽祖父にあたります。
山内房治郎商店の創業は 1889年。
「テレビゲームの会社」だと思っているアメリカ人なんかは、この創業年をみるとかなり驚くようです。
(まだ白人とインディアンが戦っていた頃ですよ。)
トランプが日本に渡来したのは、16世紀、安土桃山時代とされています。
現在のトランプとは違い、4種類のマークそれぞれが、12枚でした。
トランプは英語で「カード」ですが、ポルトガル語では「カルタ」。
この「かるた」は地方にも広まり、いろいろな亜種が作られました。
だんだん賭博にも使われるようになり、18世紀末(江戸時代)の寛政の改革で売買が禁止されています。
ここで、亜種も多いかるたを明示するために「4種程度の図柄と12枚程度の連続数字」をもつ札を禁止したようです。
そこで、数字をなくして「図柄のみ」にした花札が誕生します。
数字を無くしたとはいっても図柄は季節感を取り入れ、12か月を意味します。
また、同じ季節には4種類の札があり、「動物がいる」「短冊がある」などの共通性をもたせ、区別できるようにしていました。
…つまり、花札は禁令を逃れながらも、今までのかるたと同じように遊べます。
もちろん、これもすぐに取り締まりの対象となり、19世紀初頭の1816年には禁止令が出されているようです。
その後も幾たびか禁止令がだされ、現在残っている最後の禁止令は 1831年だそうです。
つまり、何度禁止してもなくならないくらい普及していた、ということですね。
明治維新がおこり、江戸時代の制度が見直される中で、花札に対する禁令は 1886年に解除されます。
そして、先に書いたように山内房治郎氏は 1889年に山内房治郎商店を創業。
元々山内房治郎氏は木版工芸家でした。
まだ浮世絵も重要な娯楽として残っている時代ですし、木版工芸家はそれほど珍しくない職業です。
おそらくは、禁令があった時代にも花札を作っていて、作成ノウハウがあったのではないでしょうか。
禁令が解かれたので堂々と売るために商店を創業した、と言うことだと思います。
禁令があったころ、花札を売る店には天狗の面が飾られていたそうです。
これは花札の「花」と天狗の「鼻」をかけた符丁。現存する一番古い花札メーカー「大石天狗堂」は天狗のマークを使用しています。
そして、任天堂は「大統領印」を掲げます。
…多分、アメリカ人は鼻がでかい、ということで天狗と同じ意味ですよね。
ただ、単にアメリカ人なのではなく「大統領」としたのは、花札業界で一番になってやる、という気概だったのではないかと思います。
#大石天狗堂も、商品の一つとして「リンカーン」という花札を作っています。大統領とリンカーンのどちらが先に発売されたかは不明。
また、任天堂も「丸福天狗」という花札を作っています。
そして、事実任天堂の大統領印花札は大阪近辺の賭場で圧倒的な支持を得ます。
今のアメリカのカジノでもそうですが、金がかかった真剣勝負では、一度プレイヤーが触った札は破棄しなくてはなりません。
イカサマのために、なにか細工をされる可能性があるためです。
賭場で支持を得た、ということは、安定して売れ続けるルートを開拓したということになります。
これで任天堂は安定した経営基盤を手に入れます。
1907年には国内では製造されてなかったトランプ製造を始め、多くの花札屋が地域展開しかしていなかったのに、全国販売を開始します。
山内房治郎氏には男の子がおらず、婿養子を迎えました。
金田積良…婿養子となって山内積良が2代目の社長となります。
1929年に、山内房治郎商店を会社化し、合名会社山内任天堂とします。合名会社っていうのは、結局個人商店と変わらない会社形態。
1947年には山内任天堂が製造した花札を販売する会社「株式会社丸福」を創立します。
ちなみに、丸福は山内家の屋号(個人で商売を行う際の会社名のようなもの)。
創立は9月23日だったのですが、会社登記は今日、11月20日。
これが後の「任天堂株式会社」となるため、任天堂の設立日は今日、と言うことになっています。
山内積良氏は、山内房治郎氏の興した任天堂の商売基盤を固め、全国規模の安定した会社にしました。
山内積良氏もまた、男の子がいませんでした。先代と同じように婿養子を迎えます。
稲葉鹿之丞…婿養子となって山内鹿之丞と長女の間に、1927年に男の子が生まれました。任天堂創業以来初めての男の子です。
山内積良氏は、3代目を山内鹿之丞氏に譲るつもりでした。しかし、鹿之丞氏、近所の女性と駆け落ちして、いなくなってしまいます。
山内積良氏は、孫となる男の子を引き取り、育てます。いなくなった鹿之丞氏はともかく、長女からも引き離したのはなにか事情がありそうにも思えますが、家庭の事情は詮索しないでおきます (^^;
この男の子が山内博、後の3代目社長です。
お金持ちの家でおじいちゃんに甘やかされ、大切に育てられています。
でも、「花札屋のボン」と言われるのは大嫌いだったそうです。
1949年、山内積良氏が急逝。病床で後継者を遺言しようとするのを制止し、山内博氏は「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」と提案します。
山内積良氏はこれを承諾。遺言により、任天堂から親族を排除し、山内博氏が3代目社長となります。
#親族を追い出すなんて非情…というような意見もあるのですが、それは的外れなように思います。
まだ家長制度の概念が残るこの時代、一族の長は「親族が困ったらいつでも金を貸せるように」しておくことが何よりも重要です。
戦後すぐの激動の時代、親族に囲まれるしがらみの中で判断が鈍れば、会社はすぐ倒産するでしょう。
それよりは、思う存分経営に腕を振るえる環境を整備し、親族にいつ頼られても大丈夫なように会社を維持する、と言う判断があったからこそ、山内積良氏もこれを承諾したのだと思います。
1951年には丸福と山内任天堂を合併させ、株式会社山内とします。これにより2つに分かれていた山内家の家業は1つにまとまります。
さらにこの後、会社名は「株式会社丸福かるた販売」「任天堂かるた株式会社」「任天堂骨牌株式会社」とコロコロ変わり、1962年に株式上場、1963年に会社名を「任天堂株式会社」となります。
ここにやっと、現在皆が知っている「任天堂」が出来上がるわけです。
もっとも、会社の名前が今と同じになっただけで、テレビゲーム会社になるまでにはまだ時間がかかります。
この後のことは、山内溥氏が亡くなった時の追悼記事に書いた通りです。
#博が溥になるのは50歳の時。
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今日はスーパーファミコンの発売日(1990年)。
スーファミね…持ってなかったし、ほとんど遊んでもいないのでよくわかりません (^^;;
ファミコンほどには売れなかった、と言っても当時かなり売れたはずなのですけど、全然遊んでいない。
まぁ遊んでない理由もわかっていて、当時の僕は MSX2 ~ X68000 に夢中だったのです。
でも、大学時代にバイトさせてもらったゲーム作成会社では、当然ながらスーファミのゲームを作っていました。
6502 のプログラムは出来たので、非常に小さなルーチンを頼まれて(というか、どの程度プログラムできるかのテストで)作りました。
非常に簡単なものだったので30分程度でちょいちょいと作りましたが、与えられたマシンにはアセンブラ環境がなかったので頭の中で動作テスト、シンタックスエラーがないか再度確認して、1時間程度で提出。
プログラムに組み込むと、一発で動作したので「すごい」と認めてもらいました。
このプログラム、そのまま製品版にも入っていて、このプログラムを作っただけなのに「サブプログラマー」として名前をスタッフロールに入れてくれました。
(「将来有望な逸材だから囲い込みたい」とう思惑もあった模様。あとで大学辞めて就職しないか、と誘われたのですがお断りしました。)
まぁ、使われたプログラムがそれだけだった、というだけで、ゲーム作成時に必要になった開発用の周辺ツールをずいぶん作ったのですけどね。
その関係で、1バイトもプログラムしていないゲームにまで(ツール作成したので)サブプログラマーで載っていたり…
その会社では当初はデータ整理などの雑用をやっていたのですが、「プログラムができる」とわかったときから、社外秘の仕様書などにもアクセスが認められました。
ゲームボーイの CPU 資料などを見たのもその時ですし、スーファミの仕様書も見させてもらいました。
追加仕様書…というか、任天堂の開発中機材の事前説明なんてのもあった。もちろん社外秘。
スーファミに CD-ROM くっつけて、ベクトル演算可能な DSP 載せてポリゴンゲームを作れるようにする、なんて説明も読みましたよ。後のプレステとして有名な、ソニーと開発していたというハードですね。
「きみなら、このハードでどんなゲーム作る?」なんて聞かれました。CD-ROM のアクセスは遅いので、大容量よりもポリゴン表示を中心に考えたほうがいいんでしょうねぇ、なんて答えで、具体的アイディアは出せなかったと思います。
その会社では CD-i のゲームも作っていて、CD-i 用タイトルの移植を考えていたようで、「CD-ROM は遅い」に苦笑していました。
ソニー開発の CD-ROM 部分は後にプレステに、任天堂開発のポリゴン DSP 部分は後に FX チップとしてカートリッジ内蔵で使われましたね。
以下、当時仕様書などを読んでいて仕入れた豆知識。
スーファミのゲームなどを作ったことがないため、豆知識レベルでとどまっていて、それを使って何ができる、とか具体例がありません (^^;
また、頭で覚えているだけなので勘違いなどもあるかも。
スーファミは非常に高速な乗算器を搭載しています。
2つのレジスタに乗数と被乗数をセットすると、次の命令で結果を取り出せます。なんと1クロック!
…じつは、計算中は CPU が停止する、というだけなんですけどね。
#今調べたら、乗算で 8clock 、除算で 16clock の待ち時間が必要とある。
記憶違いだったか、「すぐに読むと CPU が停止する」だったのかもしれない。
スーファミは、スプライトの優先順位を「スライド」させる指定を持ちます。
何に使うのかと言うと、同じようにスプライトを表示させていても、自動で「ちらついて」くれます。
すごい便利!
あ、この便利さは説明しないとわかって貰えないか。
ファミコンのゲームなどで、横に並ぶとスプライトが「ちらつく」現象がありましたが、あれはソフトで頑張っています。
スプライトと言うのは、横に並びすぎると「消える」もので、さすがに見えなくなっちゃうとゲームに支障が出るのね。
そこで、消えないで「ちらつく」ようにプログラムするの。見た目は悪いけど、ゲームへの影響は少なくなる。
スーファミは、この「ちらつき」機能をハードウェアでサポートしたのね。
でも、ソフトなら「主人公だけはちらつかないように」とかできるのだけど、ハードだと一律にちらつく。
ちらつくプログラムを作ることは全然難しくないので、この機能が活用されたのかは不明。
スーファミの ROM カートリッジは、同じ内容を別々のメモリアドレスで読み出せるようになっています。
そして、読み出すアドレスにより、CPU の速度が変わります。
何故そんなことに? と思うのだけど、これはわざと。
ROM というのは遅いもので、アクセスに待ち時間が必要でした。でも、高級な ROM になると高いけど速度が速くなる。
そこで、別々のアドレスでも物理的には同じメモリを参照するように作っておき、どのアドレスを使うかで CPU 速度を変えるようになっているのです。
製造コストとの兼ね合いで、高速アクセスしたいなら高い ROM を使えばいいし、安くしたいならアクセスを遅くすればいい。
将来も見越して、当時としては最高速の ROM でも出せない速度指定もあったと思います。
スーファミの CPU は 16bit で、アドレスは 24bit です。
8bit モードと 16bit モードが分離していて、命令で切り替えられます。8bit 時はファミコンの 6502 と互換になります。
16bit モードでは 16bit アクセスしかできないのですが、モード切替は遅いので、8bit アクセスが欲しいときは or や and で工夫するほうがずっと早かったはず。
24bit アドレスは、8bit のバンクと 16bit のアドレスで構成されます。
この各バンクのうち、下位 32Kbyte は常に「スーファミの内部 RAM」などが見え、上位 32KByte に「ROM の各バンク」が見えます。
これ、ファミコンで「内部 RAM などは下位 32KByte、ROM は上位 32KByte」だった名残ですね。
(スーファミは、途中までファミコンとの上位互換として開発されていました。)
でも、どのバンクにアクセス中でも内部 I/O などにはアクセスできるので、便利な構成でした。
メモリマップを書くと、不連続で妙なことになっていますが、もともと「バンク切り替え」なメモリマップだから、連続していることにあまり意味はないですね。
…って、当時は「社外秘」情報だったからネタになったけど、いまでは解析/リークなどで、ちょっと情報探すともっと詳細な記述がいくらでも見つかります。
ここでは自分の思い出として語った程度なので、詳細が知りたい人はいろいろ調べてみてください。
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今日(11/22)はセガ・サターンの発売日(1994年)。
というわけで、今日を目指していろんな記事を書いてきました。
今日も公開します。
本当は、1か月前のメガドライブの発売日から公開を始め、週1回くらいのペースで公開して、今日で終了、の予定でした。
…書いているうちに書きたいことが増えて、今日で終わりになりません。
調べ始めると際限ない…また病気が出ましたね (^^;;
太陽系の惑星たち ←本日公開
と、並べておきます。
拾いきれていないけど伝えたい周辺のこまごました話題と、最後のまとめで書きたいことがあるので、それぞれ別記事で2回。
そして、書いている間に「サターンのプログラムやってた」というゲームプログラマーの方から情報をいただいたので、その情報の解説などだけで1回やろうと思っています。
あと3回は書きたい、ということですね。あくまでも予定だけど。
この連載、実は「ゲーム業界の人は、もっと製作現場の記録を残してほしい」という声に応えて書き始めたものです。
直接言われたわけでもないし、多くの意見だというわけでもない。
むしろ、守秘義務などを理解していない素人意見。そんなことできるわけないだろ! と思います。
その一方、僕もコンピューター歴史とかを調べるのが好きなので、非常に共感する意見です。生のデータがないと後世に研究することもできません。
じゃぁ、ゲーム業界のほんの一角にわずかな期間居ただけだけど、自分の知っていることを書き残そうかな…と思ったのが今回の一連の記事の発端。
そして、これに反応して意見が来た、と言うことが非常に嬉しいです。
サターンの(というか、僕は ST-V だったのだけど)プログラマーが一人で書き残した、と言うだけの記録が、わずかな部分でも2人分に増えた。
それをもって「客観性が出た」なんて思わないけど、少しでも多角的にみられることはありがたいのです。
実は、意見をいただいたのは先週の頭。もう2週間近くたってしまいますね。
早々にまとめて公開したかったのですが、Twitter で意見をいただいたもので、散発的に書かれています。
読みやすいように話を整理していたら時間がたってしまいました。
今週の頭に公開する予定が難しくなり、うめぐさのつもりで今日公開した記事をまとめ始めたら、これも深入りしてしまって公開が遅れた…という、どうしようもない悪循環に陥りました (^^;;
今回噂ばかりで内容が薄いのはそのためです。
でも、「後世の噂」と「当時の噂」は違うもので、後者は積極的に記録するべきだと思っています。
#それが真実でなくても、真実だと思った人が行動を起こして歴史が変わる可能性があるため。
たとえば、PSX の噂で、ジュピターはサターンに変わったわけです。
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サターン話のページ、全予定分 公開完了【日記 14/11/21】
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今日はピエール・ベジェの命日(1999)。
ベジェ曲線に名前を残す数学者です。もっとも、自由曲線は当時急に必要となったもので、当時多くの人が、同じような式を発見しています。
特に、ベジェとド・カステリョは全く同じ式にたどり着きました。先に発見したのはド・カステリョ。
しかし、どちらの式も当時は企業秘密。先に企業秘密が解除され、発表できたのはベジェでした。
このため、この式で描く曲線をベジェ曲線と呼びます。
ただし、アルゴリズムはド・カステリョのアルゴリズムと呼ばれます。
詳細は、ベジェ曲線から、NURBS曲面までの歴史を読んでみてね。
今日は坂口博信さんの誕生日(1962)。
ファイナルファンタジーシリーズの生みの親。
他にも多数のゲームを生み出した、日本を代表するクリエイターの一人でしょう。
…でも、Wikipedia の作品リストを見たところ、僕は一本も遊んでません (^^;;
名作と呼ばれていて、遊んでみたい作品も多数あるのですが、いろいろな偶然で遊んでないのですね。
ファイナルファンタジーの思い出って、リンク先の噂話くらいしかない。残念。
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もう9月に話題になったらしいのだが、ネットでこんな記事を見つけた。
子供へのプログラム教育を目的とした、Robot Turtles というボードゲーム。
プログラム教育、というとまずパソコンに向かわせようとするのだけど、それより先に論理性を学ばせないといけない、とは思っていた。
このボードゲームは、その「論理性」の部分のみを取り出したもの。
パソコンを覚える必要はなく、簡単なゲームとして自然にプログラムの概念を学べるようになっている。
ゲーム内容は、えーと、LOGO ですね。
このゲームについて日本語でブログを書いている人など、「なぜ亀?」という反応だったけど、ゲームに慣れたら LOGO 教育にステップアップ、という道筋を考えているのでしょう。
「教育」なら上級段階へのパスが必要なのですが、その点もちゃんと考えられています。素晴らしい。
LOGO では、基本命令が3つしかありません。
右、左、前、です。
角度とか距離を指定することで、これだけでどんな図形でも描けてしまう。
ゲームでは、単純化のために右、左は90度回転、前は1マスずつ進むようです。
これで亀をマス目移動させ、宝石を多く回収した人が勝ち。
子供向けのゲームですが、「ゲームマスター」として大人の参加が必要です。
子供ができるのは、命令が書かれたカードを提示するだけ。
亀を動かすのは大人の役目。
なんで作業を分離しているかと言えば、考える人と動かす人を分離することで「思った通りに動かない」という、プログラムの最大の悩み(そして、それを克服する楽しさ)を演出するため。
どうも、山札にたくさんあるカードを自由に使い、プログラムを組むゲームのようです。
いつでも組んでいていいけど、実行できるのは自分の順番が来た時のみ。
(遊ぶのに上手になったら、「山札」ではなく、各自に配られた「手札」でプログラムを考えなくてはならないとか、制約をつけて遊ぶことができそうです)
短いプログラムなら、間違えることもなく安全に動けるでしょう。
でも、長いプログラムを組めば、他のプレイヤーよりも素早く動くことができます。
おそらく、動きが間違えた、と思ったら、Undo 出来るのでしょうね。
その回の実行は終わりだけど、デバッグして次回に再実行してみることができる…
さらに、「蛙」のカードは、プログラムのジャンプ…サブルーチンを提供するようです。
サブルーチンとして並べたカードを複数回呼び出すことで、少ないカードで大きな動きを作り出すことができる。
多分、このゲームの肝はこの部分でしょうね。
カードの枚数は限られていますから、一度に動ける最大のマスの数は決まってしまいます。
でも、サブルーチンでカードを節約できるようになると、頭がいい子は他の子よりも素早く動けるようになる。
一方で、複雑なサブルーチンコールは、スパゲティープログラムを作り出します。
うっかりしたら、大人でも勘違いが入り始めて失敗しそう。
「日本語版望む」と言うような声も上がっていますが、そうした意見は「プログラム言語は英語で書かれている」という前提で考えているようです。
ロゴは先ほど書いたように基本命令が3つしかないし、宣伝の動画を見ると、すべて矢印のアイコンで表現されています。
だから、ルールさえわかれば日本語化は必要ないはず。
むしろ問題は、このゲームが子供用であること。対象年齢は、一応8歳までとなっています。
うちの長男はすでに9歳。…それでも、まだ遊べそうな気はする。いや、8歳を超えれば直接 PC で言語を楽しめ、と言う話かな。
大人でも、複雑な制限を課せば十分楽しめそうです。
動くときには必ず宝石を取らなくてはならない、とか、サブルーチンを2回呼び出さなくてはならない、とか。
日本語版は望まないから、どこかのボードゲーム屋さんが輸入販売しませんかね。
ルールを翻訳した簡単な A4 1枚の紙をつけてくれれば、十分「日本語版」として売れそうです。
個人輸入してもいいけど、案外手間も金もかかるからね。
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