その他9ページ目の日記です

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2012-05-07 G.W.直前からの記録
2012-06-22 続々おたふく
2012-07-09 づつ について
2012-07-11 こんにちわ
2012-07-13 強力な武器
2012-07-26 理系と工学系
2012-07-27 続・理系と工学系
2012-08-10 原発比率について
2012-08-24 コメントへの返答
2012-08-27 夏休み最後のイベント
2013-03-27 ジュエルペットとプリキュアと
2013-06-22 TX-0
2013-07-18 ハングアウト
2013-08-18 終戦と父の命日と
2013-09-08 当WEBの執筆指針について
2014-01-03 あけましておめでとうございます
2014-05-07 社長の一番大切な業務
2014-08-06 Copyright 表記について
2014-09-14 昨日書いた記事について
2014-09-21 HARLIE あらすじと解説(1/2)
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G.W.直前からの記録  2012-05-07 14:27:32  その他

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G.W.中は、子供の相手をしないといけなかったため、日記がぜんぜん更新できなかった。

しかし、この間に非常に多くの、日記に記録したいようなことがあった。


というわけで、これからまとめて書きます。

全部まとめて「1日分」の日記になっちゃうけど、記事単体表示した際には、上から順に #ID1 #ID2 #ID3 …とハッシュが付くので、リンクする際には適切な位置にお願いします。



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続々おたふく  2012-06-22 13:58:05  その他

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このタイトルは、次女が発症したら使う予定だったのだが。



おたふくかぜの治った長女、大喜びで、1週間ぶりの保育園へ。

友達と思いっきり遊んだらしい。先生いわく、いつもよりもテンション高めだったらしい。


そして、おやつの時間を過ぎた頃に発熱。38度越えで、電話がかかってくる。



興奮しすぎたことによる発熱だったようで、子供にはよくあること。

翌朝にはケロリと元気になっていました。


でも、病み上がりの疲れが原因なら休んだほうが良いだろう。

昨日は保育園に行くのをあんなに喜んでいたが…


本人の意向を聞いてみる。

発熱して早退したのは本人にとってもショックだったようで、今日はおとなしく家に居るそうだ。



ここ1週間、3年ぶりに「ドーラと一緒に大冒険」のビデオが大活躍。

長男が3歳~5歳の頃にすごく気に入っていたので、MX版のエピソードはすべて録画してあるのだ。


長女は今5歳。3年前に長男がテレ東版を見ていた頃には、ちゃんと内容を理解できていなかった。


ドーラって、5歳前後の子に「だけ」ウケル構造なのね。

以前の日記に書いたとおり、すごく良くできています。


長女も、テレビに向かって真剣に声を出しています。


次女も長女と一緒に少し見たけど、3歳児にはまだ難しいみたいで、声は出ない。

また2年後に活躍するかな。




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別年同日の日記

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づつ について  2012-07-09 17:09:26  その他

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当サイトの各ページの一番下では、一行掲示板がつけてあり、誤字脱字などの指摘を受け付けている。


自分は結構そそっかしく、がさつなので、十分に確認しないまま文章を公開してしまうことがある。

そうすると、誤字脱字がたくさんある。あとで自分で読み直しても気づくくらいだから、他人から見ればもっとあるだろう。


というわけで、気づいたら教えてね、という他力本願スタイルをとっているのである。

もちろん、誤字脱字のような「些細な」事ではなく、書いている内容が根本的に違う、という指摘もありがたい。



そして、本日平方根の求め方のページで、以下のような指摘をいただいた。


【えへへ】 1つづつ⇒1つずつ (2012-07-09 14:15:41)


これはおそらく誤字の指摘だろう、と判断した。指摘をいただけることは非常にありがたい。



しかし、これには少し悩んでしまった。自分の知る限りでは、「1つづつ」は間違いではないはず、だからだ。


僕は好んで「づつ」の表現を使う。特に明確な理由はなく、なんとなく好みだから、というだけの理由だが。


なんとなくなので、「ずつ」を排除しているわけでもない。いま、自分のサイト内を google で検索したら、「ずつ」が含まれるページが40、「づつ」が含まれるページが225あった。




もっとも、自分が正しいと言い張る自信はない。気になるので調べてみた。


まず、旧仮名遣いでは「づつ」が一般的なようだ。

一説には、「づつ」の語源が、「1つ、2つ」と「つ」を重ねる意味だから、だそうだ。



これが「ずつ」になったのは、戦後間もない昭和21年に、内閣訓令で「現代かなづかい」を定めたため。



人によって賛否はあろうが、この「現代かなづかい」は非常に意義の深かったものだと考える。


これ以前は、「話し言葉と書き言葉」は明確に違うものだった。

違うがゆえに、「書き言葉」を習得するのは難しく、読み書きが出来ない人がそれなりに存在した。


話し言葉では「ず」と「づ」は同じように聞こえるのに、書き言葉では正しく書き分けなくてはいけない。

…これを簡便化するために、基本的に「ず」を使うことに定めた。


これによって、明治ごろから始まっていた「文言一致運動」(文…書き言葉と、言…話し言葉を一致させよう、という運動)は完成を見る。



しかし、大胆な改革には犠牲を伴う。

原則として「づ」を使わない、というのは少し乱暴すぎた。

極端な話、小説を書くのに時代感を演出するための旧仮名遣い、というものすら許されない。


そもそも、「現代かなづかい」の訓令文面自体が矛盾を持っている。

かなづかいの基本的な規則として、「現代語音にもとづいて整理する」ことを定めているのだ。


「現代語音」つまり、話し言葉をそのまま書くべきだ、として、同じ音の場合、例えば「ず」と「づ」がある場合は、原則として「ず」を使う、としている。

しかし、その文面に「もとづいて」が出てくる、という矛盾がある。


もちろん、擁護も可能だ。原則として、と言っているのだから、例外もある。


「現代かなづかい」では、2語が複合して出来た言葉において、後ろの言葉の頭が「濁音になる」場合は、もとの字を使うことにしている。

なので、「もとづいて」が「もと」と「つく」の複合語だ、と考えれば矛盾はない。


しかし、その場合は新たな矛盾が生まれる。

「現代語音」とわざわざ言っているのは、過去における単語の成り立ちなどは考慮せず、現代的に一語であると認められているものは一語として考える、と言う意味だ。


「もとづく」は、現代において一語だ。これが複合語だ、という主張は、「現代語音」を重視した考えと矛盾してしまう。


いずれにしても、「現代語音にもとづいて整理する」という文面は矛盾が生じていることになる。




そんなわけで批判も多く、昭和21年に出された「現代かなづかい」は、昭和61年に廃止されている。

とはいえ、文章を書く際の指針は必要なので、新たに「現代仮名遣い」が制定される。


ただし、現代かなづかいと違い、たった一つの方法が正しく、他は間違い、というような決め付けを行わない。

具体的には「ず」と書くことが薦められている部分でも「づ」を使っても構わない。


また、適用範囲も、現代かなづかいでは「広く各方面にこの使用を勧め」「徹底する」としていたのに対し、主に公共性が高い文章に適用し、小説などは除外することが明確にされた。


ちなみに、外来語も適用外である。

何よりも、「現代かなづかい」以前に使われていた「歴史的かなづかい」を尊重し、理解を深めることが有用であるとされた。


そう、今となっては、「語源に対して正しい表記」を行うことが間違いではなくなったのだ。



これで小説も自由に書ける。

chassisを、「シャーシ」とあらわそうが「シャシー」とあらわそうがどちらも間違いではない。

Babbageを「バベジ」と書こうが「バベッジ」と書こうがどちらも間違いではない。

「づつ」だろうが「ずつ」だろうが問題ない。


そして、最初の問題に立ち返る。



自分は「づつ」という表記が好きだ。なんとなく好きだっただけだが、今回調べて「1つ、2つの つ を重ねたもの」と知ったので、なおさらこれが正しい表記だと確信した。

それが、「歴史的かなづかいを尊重する」ということだろう。


とはいえ、「ずつ」のほうが「現代仮名遣い」においては本則である。「づつ」を使っても構わない、というだけで、自分がマイナーであることは忘れてはならない。


ただし、「ずつ」が本則なのは公共性が高い文章の場合だけ。

このページは、僕が好きなように書いているだけで、公共性の高い文章には該当しない。(と思う)




多様性を認められる社会というのは、成熟した社会だと思う。


「現代かなづかい」は、統一することを主眼としていて、多様性は認めていなかった。

戦後、日本に余裕なんてなかった時期に定められたのだから、これはこれで構わないと思う。


しかし、「現代仮名遣い」は、多様性を認めていて、ルールを逸脱することを許容している。

もっとも、言葉はインターフェイスでもあるので、大きな逸脱は良いことではない。


それでも、逸脱を許容する…つまりは多様性を認めているのは、社会が成熟したのだと思う。




今回、調査中に何度も目にしたのが「この表記が正しく、こちらは間違い」という内容の文章。

多くは、廃止された「現代かなづかい」を根拠としたものだ。


実のところ、「現代かなづかい」以前には明確な基準はなかったので、間違いは存在しなかった。

そして、「現代仮名遣い」では、指針を示しているが逸脱を間違いとはしていない。


長い日本語の歴史で、「現代かなづかい」が効力をもった40年だけが、やたらと「間違い」を指摘される異常な時代であった、ということだ。

せっかく文章を書いて間違いだといわれると、気持ちが萎縮してしまう。


今は、こんな些細なことで間違いだといえる根拠はなくなった。

萎縮することはない。みんな、もっとおおらかに文章を書いてよいと思う。


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ら抜き言葉【日記 16/11/18】

こんにちわ【日記 12/07/11】

別年同日の日記

07年 サーバー落ちていました


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こんにちわ  2012-07-11 16:31:15  その他

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昨日の続き、かな。


昨日の日記、「日記」であるにもかかわらず、最初に書いてから若干修正しています。


一度「正書法について」の記述を入れたのだけど、原文を見つけられないままに書いたので勘違いしていて、後で削除しました。つまりは、現在公開しているのは元に近いもの。


ただし、いろいろ調べるうちに知ったことを追記したりはしています。

1日以内の改変、ということでお許しを。




昔から、なにかの表記などについて「間違い」だと言うのが嫌いでした。


まぁ、本当に本人もタイプミスしたり、勘違いしている「間違い」はあるのだけど、そうでない場合は間違いにはそれなりの理由があるはず。


特に言葉は生きているものなので、どんどん変化します。

どこかの時点での常識を固定して、それから外れるものを「間違い」だとすることには、非常に違和感を感じます。


一時期問題にされた「ら抜き言葉」も、「こちらきつねうどんになります」も、間違いではない、と言うのが僕の考え。

どちらも論理的に考えて、おかしいところがないから。




「現代仮名遣い」では、稲妻を「いなずま」とするのを本則としながら、「いなづま」も間違いではない、としています。


同様に「世界中」は「せかいじゅう」だけど、「中(ちゅう)」が付いているのだから「せかいぢゅう」でも間違いではありません。


「ず」「づ」の「じ」「ぢ」の表記ゆれは、原則として自由なのです。

ただし、これはいずれも「ず」「じ」が本則。歴史的な意義がある場合には「づ」「ぢ」でも構わない、という解釈。


だから、歴史的に「ず」のところに「づ」を使うのは間違い、となります。

わからないときは「ず」を使ったほうが無難なようです。




さて、今回のタイトルは「こんにちわ」。


現代仮名遣いでは、「は」と「わ」の表記ゆれは、「ず」「づ」の表記ゆれほど寛容ではないようです。


「現代かなづかい」は、音をそのまま表記する、という立場を取ったにもかかわらず、助詞の「わ」の発音は、「は」と書くことに決めました。

これは、歴史的にそうしてきたからです。歴史はこの際考えず、音を表記しよう、と決めたにもかかわらず、そうなのです。


「現代仮名遣い」でも、そのまま引き継いでいます。

現代仮名遣いは、音を直接表記するのには無理があった、と認めているので、現状に即した方法を使っています。

そして、これに関しては「わ と書いても間違いではない」とはしていません。


さらに、例として「こんにちは」が挙がっています。

ということは、「こんにちわ」は完全アウト。



でも、僕としてはこの表記は許容すべきで、間違いだなどという人がいたら張り倒したくなります。


根拠の1番目として、この表記を使う人が多いこと。

言葉は生きていますから、使っている人が多い表記は、許容されるべき。



根拠の2番目として、おそらく誰よりも正しい日本語を使っている人が、この表記を使ったのを知っているため。




中学生のころ、ボーイスカウトに入隊していました。

で、1986年の日本ジャンボリーに参加しました。


ジャンボリーと言うのは、ボーイスカウトの大会…というか、お祭りです。

日本全国からスカウトが集まって、1箇所でキャンプをします。


1箇所で、といっても、すごい人数が参加するので、周りは知らない人だらけ。

一応、全体としてどんなことがあったのか、内部で配布される新聞まで作られます。


そして、現在の皇太子殿下、当時はまだ「ひろのみや様」だったけど、ジャンボリーに視察に来ました。

皇太子殿下は登山が趣味なので、ボーイスカウト関連の式典にはよく呼ばれていました。



で、当時の新聞記事。もちろんすでに持っていないので記憶で概要のみ。


とある団のキャンプサイトを訪れた皇太子。

そのキャンプサイトの入り口には、ベニヤ板でゲートが作ってあり、訪れた人がメッセージを書けるようになっていました。


だれかの「こんにちは」というメッセージの横に、皇太子も「こんにちわ」と言うメッセージを残しました。



これだけの内容の記事。

新聞には、この手書きメッセージの写真もありました。



当時の僕にとっては、これは衝撃的でした。

学校の国語で「こんにちは」が正しいと習った覚えがあるのに、非常に偉い人が「こんにちわ」と書くなんて…


逆だったら、単に「ものをわかってない奴が書いた、間違ったメッセージに対して、ちゃんとわかっている人が正しい表記で訂正した」と感じたでしょう。

しかし、誰よりも日本を、国語を愛しているであろう人が、学校では間違いだと教えている表記法を使ったのです。



キャンプ後、家に帰ってから、気になっていろいろ調べました。

当時は今みたいにインターネットなんてないし、答えは見つかりませんでしたが…


かろうじてわかったのは、「こんにちわ」も良く使われる表記で、間違いではないと言うこと。



これ以降、自分としては「こんにちわ」は非常に正しい表記となりました。



昨日調べた知識で補強するなら、「現代仮名遣い」は、公共性が高い文章での表記を定めただけのものだから、ベニア板に書かれたメッセージがどう表記されても問題はありません。



#奇しくも、「現代仮名遣い」が告示されたのは昭和61年7月1日。

 皇太子が「こんにちわ」と書いたのは、昭和61年8月2~6日のどこか。

 7月1日以前なら、「広く使用を薦め、徹底する」とした「現代かなづかい」から見て、間違いだったかもね。


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別年同日の日記

02年 STAR WARS

03年 賽の河原

05年 ほたる

06年 風邪

11年 生き物ばんざい

13年 WAR GAME

15年 僕の担当部分

16年 岩田聡 命日(2015)


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強力な武器  2012-07-13 15:32:28  その他

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誰しも、すごいおもちゃを手に入れたときに、無意味に弄り回してしまった思い出があるだろう。


最近だと、スマホを入手して一日中いじっている人は多い。

必要でいじっている(もしくは、全く無駄な行為を続けている)場合には、日がたってもいじる頻度は変わらない。

でも、最初の環境設定とかにこだわっていたなら、やがて落ち着いていじらなくなる。



子供がおもちゃを入手したときも同じ。

最初は意味もなく持ち歩いたり、ベッドの中にまで持って入ったりする。


でも、そのうち「本来の」遊びかたしかしなくなり、やがてはそれすらも飽きる。




うちの長男が、掛け算に興味を持った。


小学校2年生で掛け算を習うのは、夏休み明けの2学期から。

しかし、興味を持って複数桁同士の掛け算を筆算でやる方法まで覚えてしまった。

(まだうっかりミスで間違えることも多いけど、方法としてはちゃんと習得している)


これが、長男にとっては面白いらしい。

無意味に2桁かける3桁程度の問題を作り出しては、解き続けている。


で、数問終了すると、「丸付けしてー」と持ってくる。自分ではあっているか判断できないのだ。

あっていれば喜ぶし、間違いがあれば悔しがる。どっちにしろ、また続ける。



どんな分野でも、専門家が自分の道具のことを「武器」と呼ぶことがある。

難敵に挑むために、使いこなした、勝手のわかった武器を持つことは重要だ。


そして、数学者は数式や、数の特性についての知識を「武器」とする。

…と聞いたことがあるので(僕は数学者じゃないから実際のところは知らない)、算数ページでも「武器」という言葉を使ったりした。



ただ、自分の感覚としては、武器と呼べるのは、多少高度な数学知識のことだった。

でも、今の長男を見ていると、足し算引き算しか知らなかった子供には、掛け算も使っていて楽しい「武器」なのだなぁ、と思う。




長男は、しばらく前に「割り算も教えて」と言ってきた。

割り算は掛け算よりずっと難しいから、まだ教えない、と言ったのだが、一週間くらい毎日「教えて」と言い続けてきた。


根負けして教えてあげた。単純に割り算のやり方を教えるだけではなく、「なぜ難しいと言ったか」が理解できるように説明した。


長男は、掛け算も出来ないうちには無理だ、ということは理解できたようだ。

と同時に、割り算の深遠な世界を覗いて、恐れながらも面白がっていた。




大人にとっては、四則演算は基礎のようなものだ。

割り算は「掛け算の反対の操作」だと言う程度に了解している。


でも、割り算は、本当はもっと深遠なものだ。

掛け算は有限回の操作で終了することがわかっているし、この操作回数を計算前に見積もることも出来る。


しかし、割り算は何回の操作で終わるのか見積もれないし、場合によっては無限に終了しない。




たとえは唐突だが、CPU MC68000 では、16bit 足し算命令は 4クロックで終了した。


16bit 掛け算は 70クロック以下で、非常に時間がかかった。

これが、割り算になると 158クロック以下、となる。割り算がいかに「大変な処理」かがわかるだろう。



たとえば、SH2 はすべての命令を 1クロックでこなした。足し算はもちろん 1クロックだし、掛け算すら 1クロックだ。

(実際には3クロックだが、パイプラインがあるので1クロックごとに1命令が終了する。

 ちなみに、実は掛け算は2~4クロック必要だが、実行中 CPU の他の動作が停止するため、見た目上1クロックになっている)


そんな SH2 でも、割り算は 1クロックでは完了しない。割り算に関しては「1ステップ分の実行」命令しかなく、これを「割り算終了」を示すフラグを見ながら繰り返す必要があった。



MC68000 も SH2 も、今となっては「昔の CPU」だ。

でも、今の CPU でもそれほど事情は変わっていない。

つまり、割り算と言うのは、電子計算機にとっても簡単なものではないのだ。




何でそんなに難しいのか、というのは、書くと長いから書かない。

興味を持った人は、自分でいろいろ考えてみると面白いんじゃないかな。


「0除算例外」や「丸め誤差」というのは一つの手がかりだと思う。

掛け算にはそうした厄介なものはないのに、なぜ割り算にはあるのかね。



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別年同日の日記

07年 サーバー交換

15年 【追悼】岩田聡さん(任天堂社長)

15年 収益を考える

17年 ルビク・エルネーの誕生日(1944)


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理系と工学系  2012-07-26 12:33:50  その他

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世の中は文系と理系に分かれる、と考えている人が多いのだが、その考えはおかしい、という指摘も昔からされ続けている。

つまるところ、文系と理系に大別するのがおかしいと思っている人が多数だが、他によい方法が思いつかない、と言うところなのだろう。


文系だから数式わかんない、とか、理系だから英語わかんない、とか言う人がいるから「その分類はおかしい」と言われることになる。

文系に分類される学問であっても、経済学などは数式を多用する。理系は論文を読むことが多いので、英語の能力は必須だ。


つまり、「文系だから数式わかんない」とか、「理系だから英語わかんない」はおかしくて、単に「頭悪いから~わからない」だけ。自分のことを頭悪いと思いたくないから、別の理由を立てているのだ。



理系は実験や試行に基づいて、フィードバックを繰り返しながら法則を見つけていく学問。


フィードバックや実験が繰り返せない場合は、基本的には文系と言うことになる。

経済学が文系なのはこのため。それでも、過去の資料を基に仮説を立て、その仮説を数値実験で検証して発展してきたので、数式を多用する。


同様の学問に、地震学がある。おいそれと実験できないため、過去の資料を基に仮設を立て、その仮説を数値実験で検証するしかない点で同じ。


ただし、経済には人心が絡んでくるので、同じ条件で必ずしも同じ結果を得られるとは限らない。地震学は、同じ条件をそろえれば同じ結果を得られるだろうと推測される。

(地震はどこで起きるかわからないため、同じ条件で起こることはないとしても)


この、「再現性」が理系と文系を分けている。




さて、今日の日記タイトルは「理系と工学系」。

数年前から、このことをどこかに書きたくて仕方がなかった。

…が、たいした話ではないので書いていなかった。ごく当たり前の話、だと思ってきたからだ。


でも、どうも当たり前ではないようなので、書く。


一般に、工学系は「理系」の一部だと思われている。まぁ、仮設を立て、検証して、精度を高めていく、というアプローチは類似なので一部とみなすことに問題はないだろう。


しかし、似て非なるものであるのも事実だ。一部であるのは認めた上で、一緒だと考えるのは間違いだ。


以下、理系を工学系と純粋な理論を扱う理系にわけて考える。

「理系」と書いた場合は、純粋理論のほうだ。




理系では、事象を観測して、多くの事象をシンプルに説明できる方法を探すことが重要視される。

例えば元素発見の歴史がそうだ。



その昔、人々は「元素」の存在に気づいた。これこそが、世の中を構築する最小単位、と考えた。

しかし、元素は100以上存在した。これは「シンプル」ではない。もっと小さな単位があるに違いない。


調べると、元素は電子と原子核から成っていることがわかった。原子核は、陽子と中性子から成っていることがわかった。

これこそ最小単位に違いない、と考え調べると、陽子や中性子の仲間がたくさん見つかった。シンプルではない。もっと小さな単位があるに違いない。


そして人々は「クォーク」を発見した。クォークはたった6種類しか存在せず、しかもそれらは2つづつ、3対になっていた。非常にシンプルだ。


…が、同じく6種類のレプトンと、6種類のゲージ粒子(先日話題になったヒッグス粒子などの仲間)なども見つかった。


全部で18個。3×2を基本とする6個を、3セットで18。これをシンプルとみなすかどうか、難しいところだ。



以降は余談になってしまうが、ノーベル賞学者の南部博士などは、これら18個の「素粒子」を、仮想的な「弦」の振動の違いだと説明した。

その説明だと、18個の素粒子は、「弦」の振動が違うだけで、実態は同じものだと言うことになり非常にシンプルに説明できる。(これを超弦理論という)


しかし、科学的にはまだ検証できていないし、今後も検証不可能だ、と指摘されている。

先に書いたが「再現性」は、理系と文系を別ける重要な基準のひとつだ。検証できない超弦理論は、面白い研究だがまだ「理系」には仲間入りさせられていない。




工学系では、大事なのは「実現すること」だ。どんな高尚なことを言っていても、絵に描いた餅では仕方がない。

理系の人間が何をいっても、みんなの生活は豊かにならない。

工学系の人が実現するから、豊かになるのだ。


よく、「チューリングマシンとは、現代のコンピューターのこと」だと言われる。

でも、これは間違っている。


チューリングマシンは理系の人間の想像上の産物なので、機能上の制限がない。

現代的に言えば、無限のメモリと、無限に速い CPU を持っている。


でも、そんなことは出来ないので、工学系の人間は「小さなメモリと、遅い CPU」のコンピューターを作った。

出来ることから手をつけて、メモリを増やし、CPU を速くしてきた。


テッド・ネルソンが Xanadu を提唱しても、これは理系の人間が夢見る理想郷だった。

ティム・バーナーズ・リーは、その機能のほんの一部分、すぐに実現できそうな部分だけを切り出して、World Wide Web を作り出した。これは工学系の仕事だ。



理系の人間が考えたものを、実際に作成する…「実装する」だけでも、非常に高度な工夫を要する場合がある。


もちろん、理系と工学系は厳密に別けられるものではない。自分で考えながら、創意工夫して作り上げたものは、他者が真似できないようなものとなるだろう。


そして、このような実装上の創意工夫には、「特許」という特権が与えられる。

理系にはそのような特権は存在していない。


それだけ工学系の仕事は重要である、ということでもある。




理系がシンプルさを求めるのは、そうすることで応用が利くからだ。

シンプルであれば、全容を理解するのも簡単だ。


ニュートンは万有引力の法則を見出した。この法則は非常にシンプルだった。

しかし、何かが少し違っていた。ニュートンの法則どおり計算すると、冥王星の軌道は少しずれてしまう。


まだ見つかっていない未知の惑星があり、その影響だ、という主張もある。

しかし、アインシュタインは「引力が伝わるのに時間がかかる」という概念を持ち込んだ。


太陽から遠く離れた冥王星では、太陽の引力の影響を受けるのにも時間がかかるため、ニュートンの法則では計算しきれないのだ。


でも、この新たな発見により、ニュートンの法則を書き換えよう、とはならない。

重力の伝達速度が無視できるほど「近い」環境では、ニュートンの法則は十分に成り立っている。


そして、シンプルであるがゆえに、アインシュタインの提唱する「重力の伝達速度」を考慮した計算に発展させることも可能なのだ。



普段はシンプルな理論を使用し、それが使えない局面では「ちょっと改変して」応用する。これはシンプルであるがゆえに出来ることだ。




工学系は、「信頼性」を重視する。十分に動く、という指標の値だ。


部品を組み合わせる際に、個々の部品の誤差を十分に考慮し、誤差が多数の部品の間で蓄積しないように、打ち消すように働くように考える。

こうすれば、信頼性は向上する。


すでに動作している、という実績があれば、なにより大きな「信頼性」として評価される。

そして、信頼性があるものが存在すれば、よほどの理由がない限り一から作り直そう、とは考えない。



その結果、工学系の人間が作ったものは、つぎはぎになることがある。

古いものに新機能を追加し、とにかく「動く」ことを求める。


絵に描いた餅よりも、多少まずくても食える餅のほうがずっと意味があるのだ。




理系はしばしば「端」を嫌う。水の分子の挙動を説明するのであれば、コップの中央を相手にし、ガラス面に接していたり、空気に接している「端」部分は考えない。

ソートアルゴリズムを考えるのであれば、データが大量に並ぶ中での挙動を考え、データの開始地点のことを考えない。


それは、「端」が特異点だからだ。連続部分は微分可能でも、折れた部分は微分できないからだ。

特別な処理が必要なところを考えると、どんどん説明が「シンプル」から遠ざかる。

理系にはこれが許せない。



しかし、現実には端はいくらでも出てくる。これを無視しては何も作れない。

工学系の人間は、「端の処理」をどのように行うか、常に考え続けている。




複雑につぎはぎしたシステムと言うのは、端だらけで、シンプルさからは遠く離れている。

理系にはこれが許せない。一から作り直したほうがましだ、と、信頼性のあるものをわざわざ壊し、作り直そうとする。


出来上がったものは、理系が言うには「今までの問題点を克服したもの」だ。

しかし、工学系から見ると、「信頼性のまったくない代物」にすぎない。




自分はソフトウェアのプログラマーだ。

純粋な理系か、といえば、そうではない。工学系に属するだろう。


大学では、情報科学を専攻していた。これは「コンピューターサイエンス」ではあるが、基礎学問であり、純粋な理系だった。



さて、その目で見ると、プログラマーでも理系の人間と、工学系の人間がいる。会社の社風としても違う。


Microsoft は工学系だ。信頼性は非常に高いし、過去との互換性を大切に考えている。

「まったく新しいもの」を作るよりも「よりよいもの」を作ることが得意。

バグが報告されれば、すぐに解消しようとする。ユーザーの要望も出来る限り聞こうとする。


結果、細かく手を入れすぎた、つぎはぎだらけのシステムを作り続けている。


これはニーズにこたえてのことなので、個人的には嫌いじゃない。誰かがやらないといけないことだ。

そして、これをキッチリと出来る会社は、いまのところマイクロソフト以外に見出せない。




Google は理系だ。シンプルで先進的なシステムを作り続けている。


Google 検索が登場したときは、そのシンプルで強力な理論に驚愕した。

Google Map では「AJAX」という新たな概念を定着させてしまったし、GMail では、それまであった POP3 か IMAP4 か、という議論を別の方法で終結させてしまった。


しかし、過去との互換性はしばしば切り捨てられる。バグが報告されてもほったらかしだ。

WEB サービスでは過去との互換性のなさは致命的ではないが、Android においては、そろそろ互換性問題に苦しみ始めている。


新たな概念を提唱してくれるのが好きで、サービスもたくさん使わせてもらっているが、互換性問題で時々不安になる。




Apple は…工学系か理系か、というよりは「アート系」なんだろうな。

この議論での枠組みからはずれるから、割愛。

(まぁ、シンプルさを好むと言う意味では理系なんでしょうが)




Linux コミュニティは、確固とした方針のない「コミュニティ」なので、どちらとも言えず。

全く新たしい概念を持ち出せるほど理系ではない。キッチリ信頼性を出せるほど工学系ではない。

そういう意味で、ポテンシャル自体が低い。適材適所で使ってはいるけれど。


この中でも、新たな実験に挑む人々もいるし(Xen などは、キッチリとした理論で新たな世界を見せてくれた)、互換性を保つことに腐心する人もいる(ext2~ext4 は、過去との互換性を保ちながら先進的な機能を取り入れようとがんばっている)。




プログラムよりの話になりすぎた。元に戻す。


理系の人間が「証明」を求めるのは、複雑な問題をシンプルに解き明かすことで、あらたな「応用」が見つかる場合があるからだ。


難しい問題ほど、応用が広がることが多い。

誰も解けない難しい問題と言うのは、じつは広い知識を持ち合わせていないと解けない問題であることが多いためだ。

結果、証明が出たときには、非常に広い範囲を縦横無尽に駆使したものとなっていて、別々に考えられていた問題が実は類似していた、などの新発見に繋がることとなる。


長い間数学者を苦しめた「地図の4色塗りわけ問題」は、1975年に一応の解決を見ている。

しかし、この方法はシンプルなものではなかった。


考えられる限りの地図(実際には、数学の一分野である「グラフ理論」でいうところの、グラフ)をかき集め、コンピューターを使って、モンテカルロ法(いわゆる「ランダム」)で、塗りわけが成功するまで塗ってみた、というだけだ。


結果、すべての地図は塗り別けられた。だから4色あれば地図を塗るのには十分、と言う結論だった。



これを聞いて、「なるほど、そんな方法があったか」と感心する人間は、工学系だ。

とにかく、証明を与えよ、と言う問いに対して、巧妙なテクニックを使って証明を出して見せた。

課題に対して結果は出しているし、実用上はこれで問題ないはずだ。


これを聞いて、「そんなの証明じゃない」と違和感をもった人間は、理系だ。

4色塗り別け問題に特化したプログラムで力技でやって見せただけなら、証明とはいえない。

証明はシンプルで応用が利くから美しいのだ。




実は、「考えられる限りの地図」の部分には漏れがあって、後に指摘されたりしている。

しかし、その場合はもれていた地図を塗ってみて、「やはり塗れました」というだけ。



理系らしい証明では、シンプルであるがゆえに、問題点が指摘されると致命的になることが多い。


フェルマーの最終定理を証明したワイルズは、証明提出後に1箇所の誤りを指摘された。


わずかな誤りだったので、「すぐに修正できる」と考えたが、なかなか修正方法が見つからず、毎日考えているのにどうしようもない。

一度は諦めかけたそうだが、結局、1年後に修正方法を思いつき最終的な証明にいたった。


シンプルであると言うことは、誤りが見つかったときに修正しにくい、と言うことでもある。




理系と工学系、世間一般から見ると同じ「理系」の枠組みだけど、結構相容れない。


向いている方向が違うからね。でも、協力し合えれば最大の力が出せる、ということも、両者ともわかっている。(わかっている人が多い、と思いたい)


「はやぶさ」なんかは、見事なタッグでした。理系と工学系が一致団結しないと、あそこまでの離れ業は生まれません。




#この話、翌日の追記があります。



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申し訳ありませんが、現在意見投稿をできない状態にしています

続・理系と工学系  2012-07-27 14:21:08  その他

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調子に乗って昨日の話の続き。

大筋を書いたら、些細な話を書きたくなったので。


主にプログラムの話。




プログラムは、現実に何かを作るという意味で工学系だ。

その意味では、すべてのプログラマは工学系に属している。


一方、プログラムの基になる「アルゴリズム」は、純粋に論理のみの存在で、理系の範疇だ。

アルゴリズムから考案してプログラムを行うプログラマは、理系の範疇でもある、といえる。


すべてのプログラマがアルゴリズムを考案するわけではない。

仕様書にしたがって、実装部分だけを担当するようなプログラマもいる。


#注:実際には、アルゴリズムを考案する人を「プログラマ」、実装を行う人を「コーダー」と呼ぶ。

 しかし、現在ではこの2つの仕事を分割して考えることは少ないため、まとめてプログラマと呼ばれる。




たとえば、ソートを行うプログラムを考えるとする。

一番単純なのは、「バブルソート」と呼ばれるアルゴリズムだ。


バブルソートでは、「すでにソートが終了している」リストのなかに、新たなデータを挿入することでソートが行われる。


最初は、ソートが終了しているリストは存在しない。1つ目のデータは、必然的に「1番目」に置かれる。これでも、ソートが完了したリストとなる。

2番目のデータは、1番目のデータの、上か下に置かれるだろう。3番目のデータは、すでに存在する2つのデータの上か、中央か、下に置かれる。



仮に、「データの小さいもの」を1番上に置くことにして、新たなデータは「下から順に」既存データと比較を行うことで、挿入位置を探すものとする。


すると、アルゴリズムは


1. 一番下のデータを読み出す。

2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。

3. 読み出したデータのほうが大きな場合、一つ上のデータを読み出し、2に戻る。

4. 読み出したデータのほうが小さな場合、比較したデータの下に新たなデータを置く。


「理系的には」これでよい。


しかし、実装するとなると問題が生じる。

すでにあるリストのどのデータよりも小さかった場合、3 の部分で「一つ上」を読み出すことが出来なくなる。


このような場合、「端の処理」を行わなくてはならない。

データの位置を検討し、1番上ならば終了する、というのは、良く使われる方法だ。


また、4 で「下に新たなデータを置く」と言っているが、これは実装時に問題が生じる。

一つ下にデータを置いてしまうと、それまで存在していたデータが上書きされてしまうのだ。


なので、事前に「下のデータを、順次ずらす」という処理が加わらなくてはならない。



これらを考慮すると、次のようになる。


1. 一番下のデータを読み出す。

2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。

3. 読み出したデータのほうが大きな場合、

3a 読み出したデータが一番上なら、すべてのデータを順次ずらし、一番上に新たなデータを置き、終了。

3b 一番上でないなら、1つ上のデータを読み出し、2に戻る。

4. 3 で読み出したデータのほうが小さな場合、比較したデータの下を順次ずらし、一つ下に新たなデータを置く。


これでプログラムは動作する。工学系的にはこれでよい。


しかし、データを置く部分が 3a と 4 の2箇所に分かれていたり、「一番上」という端でしか意味のない処理を、毎回 3a で行っていたりと、無駄の多いアルゴリズムになっている。



ちょっと優れたプログラマなら、すぐに改良点を思いつくだろう。

「データの比較」と「データをずらす」が別に行われていることに無駄がある。


比較のためにデータを読み出しているのだから、条件によって「一つ下に」書き込んでしまえばよい。

そうすれば、データの比較と、ずらす処理を最小手順で行えるし、プログラムもすっきりする。


1. 一番下のデータを読み出す。

2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。

3. 読み出したデータのほうが大きな場合、読み出したデータを、一つ下に書き込む。

3a 読み出したデータが一番上なら、一番上に新たなデータを置き、終了。

3b 一番上でないなら、1つ上のデータを読み出し、2に戻る。

4. 3 で読み出したデータのほうが小さな場合、一つ下に新たなデータを置く。


先のアルゴリズムを整理しただけで、それほど違うプログラムにはなっていない。

しかし、こうした細かな改良は、プログラムの動作速度を上げる。



しかし、これは実装上のテクニックの問題だ。

実は、アルゴリズムを見直せばもっとよくなる。


アルゴリズム上は、新たなデータを置く条件が「一番上に到達したとき」と「小さなデータを見つけたとき」の2つになっているのがよくない。これをまとめるとよりよくなる。


そこで、「すでにソートされたデータのリスト」を見直す。

これを、最初に空の状態から始めたのがよくなかった。ありえないほど小さなデータ… -999999 とかを最初にひとつだけ、入れておけばよかったのだ。


これだけの工夫で、「一番上に到達したとき」は、自然に「小さなデータを見つけたとき」の処理でカバーされることになる。


1. 一番下のデータを読み出す。

2. 読み出したデータと新たなデータと比較する。

3. 読み出したデータのほうが大きな場合、読み出したデータを、一つ下に書き込み、2に戻る

4. 読み出したデータのほうが小さな場合、一つ下に新たなデータを置く。


実装上のテクニックでごちゃごちゃと追加した処理が、すっきりと整理され、最初に考案したアルゴリズムに近くなった。


出来上がった結果には、最初に入れた「ありえないほど小さなデータ」が先頭に入っている。

なので、使うときには、最初のデータを取り除かないといけない。



工学系な思考をするプログラマは、細かなテクニックを駆使してプログラムを実装しようとするが、理系の思考をするプログラマは、アルゴリズムを根本から見直して問題を解決しようとする。


この違い、わかっていただけるだろうか?




ハッカーズ、という古典的なノンフィクションがある。


この中には、コンピュータープログラムが大好きで、プログラムばかりしている人々が登場する。


大抵は、驚くような優れたアルゴリズムを考案し、エレガントに問題を解決する人々だが、一人「風変わりな」ハッカーが登場する。


彼は、バグが生じたときに、バグの根本原因を突き止めようとはしない。

代わりに、バグがどのように生じているかを調べ、そのバグの影響を打ち消すようなプログラムを追加する。


「ハッカーズ」の著作者は理系の人間ではないため、彼のことを「風変わりだ」とは感じていても、なぜそう感じるのかを正しく説明できないような記述になっている。


つまり、他のハッカーは理系なのに、彼は工学系なのだ。

結局、プログラムというのは正しく結果を出せればそれでよい。…そう考えるならば、バグを打ち消すプログラムを作ったって問題はない。


しかし、それでは「端の処理」だらけになり、どこかでバグが噴出する可能性がある。



「ハッカーズ」の時代は、プログラマの多くが理系だった。

彼のように工学系が多少入っていたとしても、それは「風変わりな」ことだった。


現代では、プログラマの数は非常に増えている。

工学系のプログラマは山ほどいる。数式が全く理解できない、「自称文系」なプログラマだって珍しくない。

アルゴリズムの工夫が出来る、理系プログラマのほうが珍しいだろう。




さて、以前から「魔法使いの森」にリンクしてくれているページの中で、2ch の次のようなスレッドがある。


岩田社長ってそんなにプログラミングすごいの?

(リンク先はアーカイブ保存サイト)


ここで、岩田さんとナージャ・ジベリのどちらがすごいか、というような話も出ているのだが、岩田さんは「理系」プログラマで、ジベリは「工学系」プログラマのように思える。


#どちらの方のプログラムも、実際に読んだことはないので言い切れないけど。


岩田さんの言うところの「バグの出ないプログラム手法」というのも、出来るだけ「端」が生じないアルゴリズムを考案する、ということに尽きるように思う。


#自分もゲーム業界にいたのでわかるけど、定番になっている手法だけでもいくつもあります。

 だから、「岩田さんがそんな手法を編み出した」のではなく、「知っている人は知っている手法を、ちゃんと知っている」ということ。

 ゲーム業界にいても知らない人は少なくないので、ちゃんと知っているのは評価されるポイントです。



だから、アドベンチャーゲームには応用できない。アドベンチャーゲームは「条件判断」の塊で、つまるところ端だらけだからね。


開発が難航して、仕様変更を繰り返したためにつぎはぎだらけになったプログラムを「いちからつくり直していいのでしたら半年で」というのも、端だらけだとバグが出やすいため。


実際のところ、プログラム時間の大半は「バグの修正」に費やされる。

潜在的にバグが出やすいプログラムを使い続けるよりも、一から作り直したほうがはやく作れるのはそのため。



きわめてまっとうな主張しかしていないのだが、2ch で議論していたかたがたはプログラマでないか、プログラマでも「工学系」の方が多いようで、言葉を正しく理解できずに、過大評価してしまっているように見える。




オブジェクト指向の世界…だけでもないが、プログラム手法として、MVC 分離、という概念がある。

もとは SmallTalk で使われていた概念だ。


MVC は、Model View Control の頭文字。

Model は、数値モデル、内部的なアルゴリズムのこと。

View は表示、出力。Control は入力。


つまり、入出力と内部アルゴリズムは分離しておけよ、ってこと。


入力や出力は、環境に依存する。

また、使いやすさをもとめて、仕様変更が行われやすい部分でもある。


しかし、内部アルゴリズムは案外変わらない。


なので、これらを別々に考えてプログラムしていれば、プログラムの変更時にバグを生じにくい。


でも、この考え方自体が「理系」のものだ。

だって、考えの基本にあるのが、「アルゴリズムをシンプルに保ち続けよう」ということなのだもの。



岩田さんの言う、「バグの出にくい作り方」のひとつは、これではないかと思う。


#詳しく説明すると、それだけで長いので割愛。




勘違いされたくないが、理系の方法が良い、というのではない。

アルゴリズムを練り直すと良いものが出来る「可能性」はあるが、ダメになる可能性だってある。


すでにあるものは出来るだけいじらない、という、工学系の思考方法も重要なのだ。


結局は、バランスの問題。



Intel は、CPU の設計を「交互に」おこなうことでバランスを取っている。


ある世代では、全面的に設計を見直して、パフォーマンスを向上させる。その代わり、新機能はあまり追加しない。

次の世代では、細かな改良を施すとともに、新機能などを導入する。その代わりに、根本的な見直しは行わない。


全面的に改良を行った CPU は、数値上は素晴らしいパフォーマンスを出すのだが、深刻なバグが出たりもする。

しかし、こうしたうまいバランスの取り方が出来ないと、長い間トップランナーで居続けることは出来ないのだろう。


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原発比率について  2012-08-10 14:33:51  その他

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きな臭い議論はあまりやらないことにしているが、少しは書いたほうがよい、と思うために書く。


原発の稼動問題のことだ。

政府が2030年時点での稼動率を議論している。


週末になるとデモが行われ、「世論は脱原発だ」と新聞が報じる。


その一方で、無作為抽出調査では、原発ゼロを望んでいる比率は3割程度に過ぎない



デモに参加する人は、強い主張の持ち主だ。

集まっているからインタビューも行いやすく、そこに出かけていって取材をすれば「全員が」原発をなくすべきだ、と答える。

しかし、これを持ってして民意だと思ってはいけない、ということだ。


危険なものを置いてはおけない、節電くらいがんばれば出来る、という主張は、そのとおりだと思う。

でも、大事な視点が抜け落ちているような気がしてならない。




ここで自分の立場を表明しておこう。


自分は、現在の気持ちとしては、原発をゼロにすることには反対だ。

その意味で「脱原発依存」という、当時の菅首相が言った言葉が、自分の気持ちに一番近い。


「脱原発依存」と言う言葉は、微妙な言い回しなのでそれぞれの立場で良いように解釈されている。

反対派の人は、「政府はこの言葉を出したのだから、原発をゼロにすべきだ」という。


でも、本来「脱原発」(=原発ゼロ)ではなく、依存するほど多い状況を解消する(=原発低減)を意味していたはずだ。



反対派の人が「節電くらい出来る」というのはそのとおりだ。自分も節電には気を使っている。

もっとも、「誰かのために」なんて考えるのは偽善だと思っているため、自分の光熱費の節約のつもりで取り組んでいる。


でも、これは個人が勝手にやるべきことで、他の人に対して言うべき言葉ではない、と考えている。



節電くらい、「家庭では」やれば出来るだろう。

でも、節電が強制となれば、会社でも節電しなくてはならない。


職種によっては、生産を減らすなり、オフィスを減らすなりして効率化を図ることになる。

一部の人は職を失う。


そんな会社はほんの一部だって? そうかもしれない。

でも、失業者には購買力がない。失業者が増えれば、がんばって雇用を維持した会社も、生産調整せざるを得ない。

結局、失業者が増える、という悪循環に陥る。



「節電くらい出来る」と言う人は、家庭での話しか考えていないのではないか、と思う。

社会全体を見たときに、強制的な節電要請は、明日自分(もしくは家族)が失職し、生活に行き詰るかもしれない、ということだ。


僕は、自分が勝手にやっている節電くらいなら我慢できるが、政府に強制されて収入を絶たれて家族を路頭に迷わすのはご免だ。

だから、「節電くらい出来る」と言う言葉には賛同できない。




もう一つ、原発は危険だから置いてはおけない、と言う意見について。


僕も原発は危険だと思う。

危険性には2種類あって、原子力が根本的に危険である、ということと、現在の軽水炉が危険である、ということに分かれる。


現在の軽水炉が危険、と言うことに対しては、トリウム溶融塩炉がいいとか、すでに実績がある軽水炉をさらに改良するとか、いろんな意見があるだろう。

ここらへん、僕は専門家ではないので評価できない。


いずれにせよ、原子力の持つ危険性はぬぐえないので、絶対の安全はない。

安全性は少しでも高めないといけないだろうし、専門家の皆さんがんばってください、としか言いようがない。



そして、原子力そのものの危険性についてだ。

僕は、原子力が危険だからこそ、原発は残さないといけないと考えている。


上に書いたように、僕は専門家ではないし、「専門家の皆さんがんばって」としかいえない。

でも、専門家は、原子力が活躍できる分野があるから育つのだ。


放射線は、医療や工業などでも使われている。

しかし、原子力発電と言うのは一番総合力が必要な分野だと思う。


そうした「活躍の場」がないと、若手が育たない。

今後長い間続く、放射性廃棄物の処理問題なども含め、今いる技術者が死んだらおしまい、と言うわけには行かない。


末永く、若手に技術を学ばせるため、という前提であれば、新規原発の建設も許容してよいと思う。

(今後は作らない、だと、結局道が途絶えてしまう。これは避けないといけない。)




上に書いたように、原発の新規建造には反対ではないが、既存原発の延命には反対だ。

建造から40年で終了、というルールは徹底しなくてはならない。



震災直後には、流言を流布してしまう可能性を考え、知っていたが書かなかったことがある。


もう長い間あっていない年長の知人Aが、原発の設計者だった。

もう定年退職していたが、震災前に、福島原発の点検のために要請を受けて行ってきたと言う。


(これは本人から直接聞いたわけではない。共通の知人Bが、震災前に会った時に聞いた話だ。

 僕は震災直後に、Bから話を聞いた。又聞きだから、信憑性が多少落ちる。

 流言になるかもしれない、と考え、震災後に書かなかったのはそのためだ)



マニュアルどおりの点検なら誰でも出来る。

しかし、ある程度の規模の点検となると、設計思想を理解した人間にしかわからないことが出てくる。


そのために、定年退職した技術者まで呼び出す必要があったのだ。


逆に考えれば、設計者が呼び出せない状態になってからの点検は「無意味」なものになる可能性がある。

その状態で「点検したから安全」と言えるだろうか?


設計者は一人ではない。設計グループ内で設計思想は共有される。

一番の若手が25歳で設計に参加したとして、65歳で定年退職するまで40年。


たとえ「点検の結果部品強度などに問題がなかった」としても、40年を越えたら設計当初の状態を維持できなくなる。

だから、既存原発の延命措置には反対だ。





震災直後は、みんな何が正しいかわからない状態だった。


だから、「今後のことは議論を尽くして」などと言っていた。

でも、全然議論されたふしは無い。そして、いつの間にか原発賛成か反対かの、二元論にされている。


そして今、議論が行われないまま、世論が問われようとしている。

意見くらい表明しておいたほうがよさそうだ、と思ったのはこのためだ。


僕の意見に賛成でも反対でも構わない。

でも、これを読んだ人は今一度、自分の意見を見つめなおして欲しい。



話を単純化しすぎると、大切なものを見落とす。

危険だからいらない、ではない。危険なことは十分承知の上だ。


電力の確保は行われないとならない。失業率が上がれば死者が出る。

原発をなくせば、技術者の未来は無い。今ある放射性廃棄物は、危険なまま放置されることになる。


原発を残しても、無くしても、なんらかの危険は生じる。

原子力に手を出してしまった、という事実はいまさらなくならない。



原発は危険だ。それは理解している。

その上で、原発を続けなくてはならない、という意見もあってよいと思う。



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コメントへの返答【日記 12/08/24】

別年同日の日記

02年 電源不調

04年 再び予算問題

15年 アクアマリンふくしま

15年 アクアマリンふくしま・本館

15年 アクアマリンふくしま・展示内容

15年 アクアマリンえっぐ

15年 アクアマリンふくしま・締めくくり

17年 チェックめいと!


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あきよし】 あなたが聞いてきた内容は別の日記で応えています。そして、こちらの日記は、あなたが私に問い合わせを行う前から存在していました。その過去のページの内容について「そんなこと聞いてない」とお怒りであれば、最初から聞く相手を間違えています。  (2012-08-24 16:30:42)

【通りがかりです】 ↓これこそ話を単純化しているのではありませんか。お応えいただいたのはありがたいですが私はあなたの意見が聞きたかったのではありません。 (2012-08-24 11:32:24)

【通りがかりです】 節電→失業 (2012-08-24 11:31:43)

コメントへの返答  2012-08-24 11:18:32  その他

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古い日記にコメントをいただいた。

元の日記は、震災から1ヶ月ほどあとのもので、新聞を変更した、と言う内容。


以下にコメントを全文転記する。(2つのコメントに分かれていたものを、1つにまとめている)


【通りがかりです】 具体名が書いてないのであれですが、私もそうです。最初は余震で手がいっぱい。原発など考える余裕もなく過ごしましたが、あとから深刻なんだなあと。

その後社説で脱原発と決別をなんて書かれたのでちょっといが悪くなりまして、Aに変えました。前のYは気に入っていましたが、流石に堪えられないので。あなたも同じですか。

なんかどうしても知りたいです、、こっそり教えてもらいたい。 (2012-08-23 21:05:34)



僕は、どこの新聞からどこに乗り換えたのかは書いていない。


これは、新聞は「主義主張」の代表だと思うからだ。

誰かが好きで読んでいる新聞を、「あれはダメだ」と言うのは、言論弾圧と同じだと思っている。


だから、どこから乗り換えたかは書かない。

選択肢が狭まるので、どこに乗り換えたのかも書かない。



もっとも、日記にも書いたように、主義が嫌で変えたのではなく、有事の際の報道内容があまりにも薄くなったことに不安を覚えたのだが。

(主義が嫌で変えたのであれば、それこそ言論弾圧に繋がるので、日記になんて書かない)




ところで、コメントをくださった方は、「社説で脱原発と決別をなんて」と書いている。

これは僕は知らないことだったので、ネットで検索した。


…昨年9月7日付の読売新聞社説のことなのね。


#これを知らない、と書いている時点で、「乗り換え先」が読売で無いことがばれてしまうが。



この社説について、反論がネット上でずいぶん見つかった。

まぁ、それくらい騒ぎになったのだろうが、知らなかったのは自分の不勉強。


反論を書くために、全文を記録している方がいた。

おかげで、1年近く前の社説だが、内容はこちらで読める



しかし、僕から見ると、この社説は非常にまともなことしか言っていないように思える。

というか、この社説は読んでいなかったが、僕が先日書いた日記は大体同じようなことだった。




だから、コメントを下さった方が「あなたも同じですか。」と聞いているのが、この社説を読んで新聞を変更したのか、という意味であれば、答えはノー。


この社説を読んですらいなかったし、むしろ我が意を得たり、の社説だ。


もっとも、僕も震災から1年程度は、脱原発すべきかどうか心が揺れていた。

自分が態度を決めたところでどうなるものでもないが、考え続けてこの結論に落ち着いた。


この社説読んでいたら、もっと早く心が決まったかもね。




ネットでの批判は、読売が産業界の犬だとか、原子力ムラの一員だとか言う形で終結しているようだ。

でも、そんなに単純な問題ではないと思うよ。


…自分の考えは日記に書いたので、ここではこれ以上は言及しません。



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別年同日の日記

03年 マクドナルド

11年 クラウド

11年 Picasa WEB


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夏休み最後のイベント  2012-08-27 11:15:17  その他

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長女・次女は保育園児なので夏休みは関係ないのだが、小学生の長男はまだ夏休み中。


先週末は8月最後の土日、ということで、最後の大イベント。



土曜日は、ソレイユの丘へ行く。


公園スペースで遊び、3人それぞれゴーカートに乗り(親と2人乗り:1回600円)、変わり自転車を楽しむ(小学生は1人でも良いが、保育園児はそれぞれ親同伴:1人20分300円)。


…去年までは、300円×5回分チケットが1000円で売っていたのだが、今年はなくなったそうだ。

金額がダイレクトに響く。


その後、ジャブジャブ池で遊ぶ。ここは無料でほっとする。

ちゃんと水着も持ってきた。無くしても困らない水鉄砲(…マヨネーズやケチャップの空きボトル)ももってきた。


そして、延々と遊び続ける。そろそろ終わりにしよう、と呼びかけてもやめない。



ジャブジャブ池の前は、チューチュートレインの巡回コースになっている。

次女が「あれのりたい」と通るたびに言っていたが、遊び始めて2時間半、ついに「あれのりにいく」に変わった。


じゃぁ、終わりにしようと呼びかけるとみな素直に応じる。

つぎの遊びの目的があれば、素直なのだ。



チューチュートレイン、1周300円。

乗っている間に次女は寝てしまった。


終点は動物ふれあいコーナーの前、芝そりゲレンデの前でもある。

いつもは非常に込んでいる芝そりゲレンデ、なぜか人がほとんどいない。


「遊んでもいいよ」と言ったところ、長男はやりたがる。

でも、長女は「ヤギさんに ごはんあげたい」。


というわけで、ここで分かれる。


草食動物のえさは1カップ(ほんの少し入っているだけだが)100円。

芝そりゲレンデは20分300円。



僕は寝ている次女を抱えたまま長女に付き合い、えさをやり終えて長男のところに行くと、ちょうど終わるところだった。タイミングはちょうど良い。



このころ、次女も目を覚ます。


出入り口のゲートのところで、金魚すくいをやっていた。

金魚と言っても、生きている本物ではなく、ゴムで出来たおもちゃ。


実は、昨年の町内夏祭りで、スーパーボールすくいにこの金魚が入っていた。

「今年もほしい」と子供は意気込んでいたが、なかった。


それを見つけたので、やりたがる。結局3人とも遊ぶ。取れても取れなくても、3匹で200円。



最後に、入り口のインフォメーションでスタンプラリーの景品をもらって終了。


スタンプラリー、毎年ベネッセがやっていたのに、今年はオリジナルでした。

「今年のプレゼントはしまじろう描いてないの?」と、良く覚えている長女。




翌日の日曜日は、近所遊び。


午前中は、家の前の用水路の掃除。

…夏休み中に長男に頼んだのだが、ちっともやってくれないので。


掃除と言っても、農業用水路で、近所の子供は時々入って遊んでいる。

ドジョウやザリガニ、サワガニなどがいるのだ。初夏にはホタルも飛ぶ。


掃除と言ってもごみ掃除ではない。

あまり草が生えすぎているから、抜いてくれ、ということ。



去年は、長男と長女にたのんだら、喜んで引き抜いていた。


で、長男だけではやらないのに、長女が一緒だと楽しんで競走になる。

どっちがどれだけ引き抜けるか、と、大騒ぎであっという間に綺麗にしてくれた。


次女も「私もやる」と言いながら、水遊びしているだけ。まぁ、そんなのは想定内。



泥だらけになったので、子供3人風呂で水遊び。

昨日購入した金魚を人に見立ててお話を作って遊んでいる。



昼ごはんの後、近所の小学校のプールへ。

この一般公開期間も、29日まで。長女・次女がいけるのは今日で最後。


2時前に入り、終了時刻の4時まで、2時間たっぷり遊ぶ。


家に帰ったら、さすがに疲れたのか、長女・次女はお昼寝。




…夕方、昼寝から目覚めた次女の顔が赤い。

日焼けかな? とも思ったが、体に触れると熱い。


熱を測ると38度5分。


疲れただけならいいのだけど、と思っていたけど、翌日朝も37度6分。

本日は保育園を休んでいます。


長女は「(次女)ちゃんが休むなら、いっしょに休む」と言っていたのだけど、説得して行かせました。

今日は仕事で、夫婦一緒に税理士さんに会わないといけないので。月末が決算書提出期限です。


長男は後ほど学童保育へ。次女は仕方が無いので連れて行きます。



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10年 家族旅行・2010年夏(宿)

10年 家族旅行・2010年夏(富士急ハイランド)

10年 家族旅行・2010年夏(帰り)

14年 レフ・テルミンの誕生日(1896)


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ジュエルペットとプリキュアと  2013-03-27 17:33:00  その他

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東京MXで放映していた、スイートプリキュアの再放送が終了した。


少し前に終了したらなんか書くかも、と予告していたのだが、あの時点ではいろいろと思うところがあったのだ。

でも、その後の展開で少し思いが変わったし、今あらためて調べると自分の勘違いもあるようだ。


なので、まずはこの「勘違い」のことから書こう。



#注:各種ネタバレ含みます。

 すでに放映してから何年も立っているので許容されると思いますが、嫌な人は読まないでください。




まず前提話。


最初に断わっておくが、自分はそれほどアニメ好きではない。なかった。

子供が生まれるまえはほとんど見なかった。


でも、今は子供と一緒に楽しんでいる。あくまでも「子供と一緒に」のレベルだけど。


ジュエルペットに関しては、子供が好きなので一応全部見ている。


以前にこの話題に触れた時は、2作目の「てぃんくる」を見ていなかった。

…今では、この数年で見たアニメの中では、これが一番気に入っている。


ただ、このアニメ、視聴率が最終回に向けてダダ下がりだったらしい。

(これは、視聴率調査から読み取れる事実)



子供向けなのに連続もので、最終回付近は、それまでばらまいてきた伏線を一気に回収にかかる。

ちゃんと内容を覚えていないと意味が分からなくなるし、最終回の「ハッピーエンド」に向けて、緊迫した展開が数回続く。


3~5歳の、ターゲット年齢層の女の子には、これが怖いし意味わかんないしで、視聴率が下がったのではないか、と語られている。

(これは、ネット…おもに 2ch などでの評判。

 最後に書くが、最終回が震災直後なので、その影響もあったのではないかと思う。)



うちでは、毎日見られる再放送を見ていた。

全部を見るのに1年かかるわけでもないので、伏線もかなり覚えている。


それも、少し撮りためてあるので、緊迫した展開では「続きを見てしまう」ことで、ほっと出来るところまで話を進められた。

「怖いから続き見たくない」状況にはならない。


その結果、最終回では5歳の長女も泣き声になりながら「この後、みんながどうやったら幸せになるのか」の提案を僕にしてきた。

(ハッピーエンドなのだけど、今後の展開を考えさせる終わり方なのね)


かなり物語世界に入り込んでしまった証拠で、長女も今まで見た中で一番好きなアニメ、としててぃんくるを挙げている。




そして、スイートプリキュアの話になる。

こちらも、プリキュアとしては珍しい、連続ものだった。


そして、最終回に向けて伏線が一気に回収され、緊迫した展開が続く。視聴率も落ちたらしい。

てぃんくると同様の構造だ。


「スイート」は、2月に開始した直後に、震災があった。

そのため、内容が震災の影響を受けて変わった、という話題をネットでずいぶんと読んだ。


…これが、再放送を見て「最後まで見たら、なにか書きたい」と思っていたことの原因。

そして、自分が勘違いしていたことでもある。


震災の影響を受けたのではないか、という主張をしている BLOG などは多数あったが、それほど大きな勢力ではなくて、一部の人が言っているだけのようだ。


実は、やはり女の子の父親である知人は、その子が好きなので「スイート」をリアルタイムに見ていたらしい。

そして、その知人も「震災でずいぶん話の内容が変わったようだ」という話をしていた。


だから、僕がそのつもりで情報を選択してしまっていたようだ。確かにそういう感想を持った人は多いようだが、多分これは当たってはいない。

(全く外れ、ということもないようだが)




1年かけてみていたら、大人だって当初の設定を忘れてしまう。

しかも、途中で震災なんて言う大きな社会不安があれば、作品を見る「自分自身」が変容して、見方が変わってしまう。


でも、今回自分は再放送を見たので、最初から最後までを同じ気持ちで見られた。


震災の影響を受けた、と主張している人の多くは、この作品の最終的なテーマが「絆」を感じさせることから、そういっている。

(絆、は、震災後によく使われたキーワードですね)


ところで、後半になって登場するプリキュアは、このシリーズには珍しく小学生だ。

この小学生が訳あって両親と離れ、祖父と暮らしているという設定から「震災孤児をイメージしたのではないか」という主張もある。


でも、この小学生、初登場は第6話だそうだ。3月20日放送。

震災後に急に小学生が登場したので、震災孤児をイメージしたのだろう、と言われる理由だ。


でも、アニメは作成に時間がかかる。そんなに急に用意できるわけがない。


さらに言えば、毎週連続ものなので、当然「次回予告」がある。

第6話の内容は第5話の最後で予告されている。


震災があったため、第6話は放送を延期している。第5話は 3月6日放送。


まとめれば、確かに小学生の登場は震災「後」ではあるが、震災前から予定されていたことがわかる。


もっと言えば、プリキュアとしての姿は、第1話のオープニングから(謎の人物として)登場している。

こちらは、「謎の人物」なので、後で設定を小学生に変えたのだ、と主張できなくもないが、それはあまりにもこじつけだろう。



オープニングといえば、オープニングテーマでは、「この世界は繋がっている」って、サビで歌い上げている。

最初から、「スイート」のテーマは「人と人のつながり」なのだ。


そもそも、「スイート」が、一揃い、という意味の英単語。

テーマモチーフである「音楽」においては「組曲」の意味になる。数曲で連続した物語を作り出す音楽、だ。

もう、タイトルからして「つながっている」のだ。


先に書いたが、プリキュアシリーズにしては珍しい、1話完結ではない連続物語。

これも、「一揃い」であること、「世界は繋がっている」ことを意識しての演出なのだろう。


#というか、先に「連続もの」を作ることが決まって、それを「一揃い」と意味するタイトルにしたのだろうな。



つまり、「絆」を感じさせるものも、「小学生プリキュア」の登場も、震災より前から組み込まれていた。

そこで震災が起こったのは偶然だ。

ただ、大きな社会不安によってみる側の心理が変わり、アニメに現実を投影して「話の内容が影響を受けている」と感じただけなのだろう。




まったく影響を受けていないか、と言えばそうでもない。


影響が明らかなところでは、放映が半分終わった時点で変更される「エンディングテーマ」が、被災者への応援歌と思われる内容になっている。


また、同時にオープニングテーマも変更になった。こちらも応援歌的。

通常はオープニングテーマは1年を通して同じなので、これは「明らかな影響」なのだろう。


再放送ではなくなっていたが、本放送時は終了後に「プリキュアから被災者への応援」のカットが入っていたそうだ。

これは、他のアニメでも当時そうだった。業界全体で、子供番組には応援メッセージを入れていたはずだ。


以上は、明らかな「震災の影響」。



他の影響としては、少なくとも、予定よりも1話減少している。先に書いたが、震災直後の放映ができなかったためだ。

何を減少させるか、と考えれば、当然話の本筋に関係ない話だろう。


先に上げた「てぃんくる」も、「スイート」も、さすがに1年間通して完全な連続もの、ではない。

時々、サブエピソードみたいなものを交える。


そして、連続したお話がシリアスになりがちなのに対し、サブエピソードにギャグを入れてバランスをとる。


「スイート」で、最終回付近でギャグの比率が落ちて「怖い」印象を与えてしまった、という可能性はある。



もう一つ、最終回付近の4話分に関しては、そこまでの話の流れに比べて、余りにも暗い流れになっている感じがした。

この部分が、もしかしたら影響を受けているのかもしれない。



最後は、悪の根源である敵を…倒さない。

この展開はすごいと思った。震災で多くの人が死んだから、とにかく誰も殺さないようにしたのだ、と受け止めた人もいる。


だけど、これも伏線がしっかり張られているんだよね。


中盤の盛り上がりで、「当初のボス」と戦うときに、主人公の一人が言っているのだ。

「幸せを守るために戦うのであれば、敵の幸せも考えなくてはならない」と。

(注:一言一句この通りではない)


だから、最後の敵も倒さず…和解する。

そして、和解した相手が行く場所を失っているのを、受け入れて仲良くする。



別に、途中と同じ戦い方をしないでも、絶対悪を倒して終わり、でもわかりやすくてよかったかもしれない。

どちらに転んでも話は成立するので、この部分が震災の影響を受けたのかどうかは、正直わからない。




ところで、先に書いた「てぃんくる」と「スイート」の視聴率の低迷は、「震災後に節電が呼びかけられた」、または「強制的に輪番停電させられた」ことと無縁でないように思う。


一話完結なら、途中の話が見られなくても大丈夫。

でも、連続ものだから、それでは話が分からなくなる。


怖いから見たくない、も事実としてあったとは思うけどね。




終わり方については、「てぃんくる」とつい比較してしまった。


「てぃんくる」も、「スイート」も、最終的な敵は「人間の負の側面」を具象化したものだ。



「てぃんくる」では、「憎しみや妬み」から生まれた呪文、ということになっている。

ただ、呪文と言ってもそれ自体が意思を持ち、近づくものに取り付いて、さらに強くなろうとしている。


なんか、「病気」みたいな不気味な印象がある。

その目的もわからないが、取り付かれたものは、常に憎悪の心を持ち、攻撃的になる。



「てぃんくる」では、最後の戦いによって敵は封印される。

しかし、憎しみや妬みがある限り、いつかまた現れることが予期される。


だから、主人公のうち一人は、「皆を幸せにする魔法」を探す長い旅にでることになる。

この、長い別れという「悲しみ」を克服しなくてはならない。


この、「悲しみを乗り越え、いつか幸せを得る」ことが最終回のテーマになっていた。




「スイート」の方では、敵は「悲しみが凝集したもの」であり、物理的な姿を持っている。

不気味というよりは、強大で怖い怪物。


敵の目的は世界を消し去ること、というのは、最後の敵にありがちな設定なのだが、珍しいことに最終回でその目的に至る信念が語られる。


敵は、自身が悲しみの凝集物であることを知っている。人間に忌み嫌われることを知っている。

しかし、人間は悲しみを忌み嫌いながら、悲しみを生み出し続ける。


ならば、彼にとっての最善は「忌み嫌われる自分を消すために、悲しみを生み出す人間を含めて世界を消し去る」ことになる。



ここで、「皆を幸せにしたい」というプリキュアの目的と、「悲しみを消し去りたい」という敵の目的は、実は同じであることが明らかになる。

ただ、そのためにとった方法が正反対で、お互いを敵とみなして戦っていただけなのだ。


このことが最後に明らかになるのは、話に深みを与えていた。



「スイート」では、先に書いたが最後の敵と「和解」する。

「自分は忌み嫌われている」と感じている敵に対し、許されない存在などない、と悲しみから救おうとする。


そして、敵がその姿勢を理解した時、悲しみは消える。つまり、敵自体が消滅してしまう。



ただ、やはり悲しみは世界からなくなるわけではない。

全てが終わった後、敵は再び皆の前に姿を現す。


周囲の人は、敵がまだ消えていなかったことに臨戦態勢になるが、主人公たちだけが「待っていたよ」と受け入れる。


こちらも、悲しみは消えることがない、うまく克服しなくてはならない、というのが最終回のテーマだ。




こうなると、気になることが一つ。


低年齢向け女児アニメで、魔法少女物で、珍しく伏線の多い連続もので、最後の敵が「人間の負の感情」で、最終回のテーマが「悲しみを乗り越えること」…。


テーマが似すぎている。



うちの長女は「てぃんくる」の途中から見ていたのだが、その時は「スイート」はまだ始まっていなかった。


「スイート」は「てぃんくる」の影響を受けてる?

でも、市場規模からいえば、プリキュアがジュエルペットの影響を受けるとは思えない。



放映日付を見たら、「スイート」は「てぃんくる」の翌年だった。

でも、ジュエルペットは4月始まり、プリキュアは2月始まりなので、「スイート」開始時には、「てぃんくる」はまだ放映中だ。

まだ成功したかどうかもわからない、低年齢向けの「連続もの」というスタイルを真似するとも思えない。


むしろ、同時期に同じターゲットのアニメが、相次いで似たような「変わったこと」をしているわけで、共通の元ネタがあるのかもしれない。



じゃぁ、連続した深い設定で話題になった「まどか☆まぎか」っていつだっけ?

と思ったら、これも「てぃんくる」放映中の1月~4月だった。


#まどまぎは、子供向けではないので子供と一緒には見ていない。

 しかし、「話題作だから見たい」という妻と一緒に再放送を見た。


 …ごめん、ファンが多いようだけど、正直僕にはつまらなかった。

 僕はSFファンなので、皆が「構成がうまい」と言っているタイムパラドックスネタは、「ありがち」だとしか思えなかったのだ。



なにか、元ネタになるような話で、話題になったものがあったのかな?

魔法少女物で似たような設定が続々と…って、ちょっと偶然とは思えない。




#余談だが、先に書いた「まどまぎ」含め、タイムパラドックスネタの話も、ここ10年多すぎる気がする。

 サマータイムマシンブルース(これは演劇。のちに映画化された)や、時をかける少女(アニメ版)などね。

 これもなにかあったのかな?



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TX-0  2013-06-22 10:03:30  その他

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TX-0 の紹介記事、やっとまとまりました。


TX-0 って、普通の人は知らないよね。僕も先日まで知らなかった。

というか、知ってはいたのだけど詳しく知らなかった、と言うべきか。


1987年に書かれた「ハッカーズ」と言う本があります。

初期のコンピューターマニアの生態を、綿密な取材と共に書き上げた本で、四半世紀たった今でも売られ続けている名著です。


この話は、MIT の学生たちがコンピューターを触ってみたいとあこがれ続け、そんな彼らの前に TX-0 と言うコンピューターが現れるところから始まります。


話を読んで興味を持ち、その頃にも TX-0 の資料を探そうとしたのだけど、ダメでした。

当時は本で探すくらいしか方法がなかったけど、どの本にも TX-0 なんてマシンは出ていない。



それが、以前も書いたけど急に「最初のディスプレイをつけたのは、どのマシンだったのだろう?」と思い、PDP-1 あたりを探ってみると…


PDP-1 の前に TX-0 があって、さらに前に Whirlwind というマシンがあったことがわかりました。

この時、大喜びで TX-0 について書こうと思ったのだけど、その「前のマシン」である Whirlwind も魅力的過ぎた。


ここは順番に書いていこう…としたら、TX-0 を書き始めるまでに半年かかってしまいました。



TX-0 の最大の特徴は、たった4命令で何でもできる、ということです。

この命令の詳細は、次回の更新でお伝えしたいと思います。


TX-0 は途中で大改造されて命令が増えているので、増加後の命令も書くつもり。


増加後の命令…ほとんどの人が興味ないと思うけど、今ではすべての CPU が持っている、非常に重要な「あの命令」が追加されているんですよ。

多分、これが世界で最初に正式実装された「あの命令」。


と、気を持たせておいてお預けです。早いうちに書きたいと思っているので、お楽しみに。


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ハングアウト  2013-07-18 18:34:24  その他

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Google ハングアウトを使ってみたいのだが、うまく動作しない。


おかしいなぁ。google の指定する設定どおりにはなっているはずなのだが…


家庭内 LAN で、端末2つ、アカウント2つで通信を試みるとうまくいく。

しかし、外部の人と通信するとうまくいかない。


実験するにも、いちいち外部の人に頼むのは申し訳ないので、なかなか実験が進まない。


Google は「ファイアーウォールの設定がおかしい」とメッセージを出す。

多分その通りなのだろう。うちの設定は、あまり一般的ではない。



しかし、ハングアウト以外にファイアーウォールに阻まれて動作しない、と言うソフトは(今のところ)見つかっていない。

UDP をそれほど使うソフトがない、と言うせいもあるとは思うが。


仕事で必要なので悩んでいるが、もう少し調べなくては仕方がない。



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終戦と父の命日と  2013-08-18 12:24:52  その他

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ツイッターで、仲良くしていただいている方が、お爺様が広島原爆で遺体回収をしたときの話をしていました。


それに触発されて、自分も亡き父の話を思い出し、ツイッターでつぶやきました。

以下、つぶやいたことをまとめておきます。


なお、後で気づいた誤字などは修正しています(笑)



終戦の日は過ぎたけど、今は亡き、戦争に行った父が語った話でも、とつとつと呟いてみようか。

伝聞なので間違いもあるかもしれない。特に、当時の軍組織など、僕が詳しくないので間違えている可能性大。


最初に書いておきますが、父は二度とあのような戦争を起こしてはならない、と言っていました。

戦争は父の青春時代に重なるので、楽しかった思い出はあるけど、それが戦争の美化になってはならない。


父は、戦争が暗黒の時代だったように語られることを嫌っていました。

美化してはならないが、暗黒にしてもいけない。どちらも事実を捻じ曲げているから。

戦時下でも人は結婚もすれば子供も生まれる。当たり前の話だけど、悲しみばかりでなく喜びもちゃんとあった。


父は兵器学校に通っており、卒業後志願して戦場へ行った。祖母(父の母)には猛反対されたそうだ。

長男なので戦って家族を守るのだ、という使命感も強かったようだ。

兵器技術を学んでいるので、20歳未満だったが士官で、兵器管理・整備の後方支援部隊に配属されたそうだ。


部下よりも年少であるので反発を持たれやすかったが、士官なのでタバコが支給される。

未成年でタバコを吸う習慣をがなく、反発する部下にタバコを分け与えた。

また、部下と言えども年長者を殴るのは「怖かった」ので、暴力も振るわなかったそうだ。

これで部下に慕われるようになる。


そのうち、単に分けるだけでなく一緒に吸いながら話をして打ち解けるようになり、タバコを覚えたとのこと。

当時は男としてタバコを吸えなくては馬鹿にされたから、とのこと。父はヘビースモーカーでした。

数年前に鬼籍に入りましたが、死因は食道がん。


整備されていない双眼鏡をのぞいていると、光軸があっていないために頭が痛くなる。

父は双眼鏡整備が得意で、悩みを持つ上官を見つけると、すぐに整備したそうだ。これで、上官のウケもよかったらしい。

父は光学製品もすきで、カメラや双眼鏡を大事にしていました。


日本軍は当時の国際法で禁じられていた毒ガス(マスタードガス)を使用していた。

戦争にもルールがあるが、戦時下ではそのルールを破る判断もあり得る、と父は言っていた。

敵の侵攻ルートを察知すると、自軍を避難させ、そこに毒ガスをまく。朝まくと昼頃に揮発して効果を発揮したらしい。


毒ガスも兵器なので、兵器管理部隊の管理物だった。

話は前後するが、国際法違反なので終戦直後に夜中に運び出して海洋投棄したらしい。

この仕事自体秘密なので、夜中に急に起こされて手伝ったと言っていた。

(水で分解される毒なので心配ないらしい)


部下に慕われ、上官にもウケが良く、後方支援部隊なので命の危険もない。

これで、父の軍隊生活はずいぶんと楽しかった模様。

もちろん娯楽など少ないが、毎日就寝前のわずかな自由時間に、仲間と話をするのが楽しみだったそうだ。


ある日、仲間と家族の話をしていて、その場の全員が長男だということがわかった。

当時は6人くらいの兄弟は普通で、長男ばかりが集まるなんて偶然はあり得ない。

兵器管理は後方支援部隊。前線にはいかないので、長男ばかりがあつめられたらしい。


当時は長男が家督を継ぐ。家督を継ぐというのは、資産だけでなく、家族を世話をする責任も継ぐことになる。

長男が死んだら、家族が路頭に迷う。だから、長男は前線には送られなかったようだ。

(ただし、父は戦争初期に志願している。末期はこんな余裕はなかったかも)


逆に、玉砕覚悟で戦わねばならない前線には、五男や六男が送られていたようだ。

戦争が終わった後、厳しい状況で家族が食っていくには、人が多すぎない方が良い。

誰かが死ななくてはいけない戦いなら、その死が残される人間を助けることになるように、という判断が働いているようだ。


人を死地に送る判断に「やさしさ」など存在しない。

それでも、無作為に若者を死地に向かわせていたわけではない。

誰かが命を捨てなくてはならない時、遺された者の生活を担保しようという意思は、少なからず存在していたのだろう。


最後の方の話、死んでいった人間に申し訳ないので、戦後も絶対に口外しなかった、と父は言っていた。

聞いたのは戦後50年を過ぎてからだし、家族でなかったら話さなかっただろう。

しかし、戦争の悲惨さを伝えるためには、こういうことも記憶にとどめないといけないと思う。


以下、数時間後に追記


政治的要素も入るコムヅカシイ話で、ツイッターなどでなく日記で書こうかな、と思ったけど、ツイッターにしました。理由は2つ。


1つ目は、ツイッターでの会話に感化されて思い出した話だから。これは最初に書いたね。


もう1つは、語り始めると本当に深くなり、同時に政治的にきな臭くなる話だから。

最初に書いた通り、もう70年も前の戦争は、美化されたり暗くされたりしがちで、正しく伝えることは難しい。

ましてや、僕は伝聞で書いているだけだ。僕自身が戦争を知らないのに、偉そうなことを言うつもりはない。


それなら、140文字の制約のせいにして、細かな部分を切り捨てたほうが書きやすい。

そう、ツイッターは「制約する道具」として使わせてもらったが、最初から日記にまとめるつもりだった。


(実は、最後のツイートの後に「この内容を日記にまとめて置きます」ツイートをしている

 最後の書き込みの1分後に、日記にまとめて公開したのだ)


父が生きていたら、この話を口外するなと言い続けていると思う。

戦死者遺族にとっては、長男なら(つまりは生まれによって)安全が保障されたとか、神経が逆撫でされる話だと思う。


この話を世に出したことについて、気分を害した方がいたら僕が叱責を受けます。

でも、直接戦争に行った世代の話と言うのは、できうる限り残しておかないといけないと思うのです。


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当WEBの執筆指針について  2013-09-08 11:02:12  その他

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Twitter でゲームの歴史関連で盛り上がっています。

ざっくりまとめると、ネットも本も嘘が多すぎる、なんでも鵜呑みにせずちゃんと調べて書け、ということになってます。



…えーと、すみません。僕のサイトでもコンピューターの歴史とか、ゲームの歴史とか書いていますが、嘘多いと思います。


盛り上がっていた方々は、僕も参考にさせてもらっている、本当に素晴らしいサイトを作っている方々ばかりです。

歴史研究の第1人者である彼らは、本当に多くの努力をしています。

世間に流布した「誤ったイメージ」を払拭するような話題を、根拠と共に示しておられます。


でも、残念ながら僕にはそこまでの能力がないのです。


会話をまとめたサイトを見た際に、自分のことを糾弾されているような気分になり、サイト閉鎖しようかと真剣に悩みました。

でも、一晩たってそれは違う、と思い直しました。


以下、サイトを続けていくためにも僕の考えを書いておきます。

ある種の言い訳です。言い訳は見苦しいのですが、考えを明らかにしておかなくてはサイトを続けるのが心苦しいので。




まず、僕は歴史の「真実」を知りません。

好きで古いコンピューターやゲームを調べていますが、その時代には生きていませんでしたし、それらの開発者たちとも友達ではありません。


真実を知らないので、書いていることは聞きかじった知識だけです。

聞きかじりなので、嘘がインプットされれば、そのまま嘘をアウトプットします。



書いている記事は、僕がいろいろ調べていて「面白い」と感じたことに限られます。

「面白い」というのは、あまり一般には知られていない事実、と言い換えても良いです。


この時、その「面白さ」が伝わるような記事を書きたいと思っています。


ただ、この場合の面白さって、見つけた事実だけ書いても伝わらないのです。

周辺の話題をある程度展開しないと意味が伝わりません。


この周辺話題を書く際には、手元にある本や、ネット上の資料を参考にしています。

「伝えたいこと」に関しては、間違いがないか入念なチェックを行っていますが、それ以外の部分のチェックは甘いです。

糾弾されているように「本やネットは嘘ばかり」なのであれば、僕はそれらに書いてあることをそのまま書き写しているだけになります。


ですから、この時点でふたたび嘘が混ざります。



もう一つ、僕がわかっていて嘘を書くことがあります。

伝えたい話題があり、その話題の周辺も伝えないとうまく伝わらない時、周辺の話題を掘り下げることになるのですが、それを伝えるためにさらに周辺を掘らないといけないことがあるのです。


こんな時、嘘を承知で端折ります。

大抵は、端折ったことがわかるように書いているのですが、上手く伝わらないこともあるようです。


(事実、1か月ほど前に書いた記事に関して昨日「違うよ」と指摘をいただきました。

 指摘をもらった場所は、事実を知っていながら嘘を承知で端折った場所だったのですが、これは端折ったことがうまく伝えられない僕の書き方が悪かったのだと反省しています。)


以上、3つの理由により、僕の書いた記事には嘘が混入します。




3つの嘘のうち、「わかっていて、話を単純化するために書く嘘」は、嘘であると読み手に伝わらないとなりません。

これがうまく伝わらないのは僕の文章力がないせいで、申し訳なく思います。


しかし、それ以外の2つに関しては、すくなくとも僕自身は嘘を書いている、と言う意識はありません。

事実と異なっていても、僕はそれを事実だと信じているわけです。


これを「誤れる事実」と呼ぶことにします。


僕自身、なにか文章を書くにあたって、嘘を広めようとは思っていません。すべてが事実のつもりで書いています。


しかし、「誤れる事実」が混入することはあります。

言い訳になってしまいますが、誤れる事実の混入をもって「嘘を広めるな」と言われてしまうと、僕は一切の文章発表ができなくなってしまうのです。



「間違えている」と言う指摘は大歓迎です。

先に書いたように、昨日も間違えの指摘をいただきましたし、そのしばらく前にもいただきました。


しばらく前にいただいた指摘は、実は指摘の方が間違えていました。

指摘者の考えていた事実が「誤れる事実」だったわけですね。


それでも、この指摘に関して裏付け調査する過程で、それまで知らなかった新たな事実が発掘できました。


先に書きましたが、僕にとって面白いと感じている「以外」の部分は、他の記事を読んで、僕の言葉に直して書くくらいのことしかしていません。

指摘によって興味を持ち、調査した結果新事実が発掘できる、と言うのは非常に嬉しいことです。


誤りの指摘はいつでもどうぞ。




「誤れる事実」に関しては、間違えの指摘は受け付けますが、間違えていると怒らないでほしいな…と甘えたことを言います。

書いた文章に責任を負う覚悟はあるのですが、その責任は誤りの修正を限度とさせてほしいのです。


そして、僕が甘えているのですから、僕も他人の「誤れる事実」に寛容であろうと考えています。


この寛容さはまた、僕自身が「誤れる事実」に立脚して文章を書いてしまった場合に、元記事に責任転嫁するのではなく僕が責任を負う、という態度表明でもあります。




もう一つ、他人の意見に寛容であろうとする理由を掲げます。


僕自身は、好きでコンピューターやゲームの歴史を調べています。

でも、こんなもん、普通の人にとっては「どうだって良いこと」だろうともわかっています。


これは、人の態度に寛容であろうとするときに、一番最初に心をよぎることなのです。


僕自身、たとえばパンについてそれほど知りません。


日記に「このパン美味しかった、最高」と書いたとして、詳しい別の方から「あれが最高じゃない。もっと美味しいのがあるのだ」と指摘されたとしても、嬉しいとは思いません。むしろウザいだけです。

だって、僕はパンにはそれほど興味がなく、その日たまたま食べたおいしいものを書きとどめたかっただけなのですから。


同じ理由で、「世界最初のテレビゲームは Tennis for Two」と書かれたページを見ても、それで構わないと思っています。

その人にとって、その時知った情報を書きとどめたかっただけです。それ以前のゲームがあるからと言って「それは最初じゃない」なんて言うのは野暮なだけです。



少し前に書いた「世界最初のテレビゲーム」の記事では、読んでくださったある方が「結局どれが最初なのか結論を出してない」と感想を呟いていました。


結論を出さない理由を説明しているのでもう少し読んでほしいな、とは思いましたが、結論を出さないのは上記のような理由もあってのことです。


僕は好きだから研究しているけど、その一方で「正直どうでもよい」と感じている、冷めた自分もいるのです。




寛容でありたいと言いながら矛盾した態度ですが、僕は時々「Wikipedia が間違っていると思う」ということを書きます。

これは、Wikipedia の影響力が無視できないからなのですが、そんなに言うなら僕が直せばよいのです。

Wikipedia は、誰でも編集に参加できるのですから。


しかし、それをやらないで指摘どまりにしているのは、先に書いたように僕が「新事実の発掘」が好きなためです。


新事実の発掘と言うのは、つまり誰もそれについて検証していないことを意味します。新しい主張では、嘘か本当かすらわからないのです。


Wikipedia では、「事実」だけを書くことを目的とするため、こうした「独自研究」の記述は禁じられています。


僕が一番好きなことが禁じられているのでは、編集に参加してもモチベーションが続きません。

これが、僕が Wikipedia の間違いを指摘しつつ、編集を行わない理由です。


#実は、新事実の発掘が好きな理由の一つは「誰からも嘘だと言われないから」でもあります。

 検証されていなければ、嘘だという人もいませんからね。

 僕は臆病で、嘘だと言われるのを恐れているのです。

 …だからこんな長い言い訳を書いているわけですが。




少し話が変わります。

冒頭に挙げた、歴史好きの方が盛り上がっていた話の中で、一次資料を当たるべき、と言うような話も出ていました。


多分、一次資料という言葉の意味も、人ごとに違うと思います。

ここで、「僕の規定する」資料のランクについて記しておきます。


一次資料とは、歴史の当事者が当時書いた書面です。

もしくは、当時撮影された写真です。

いずれも、「当時である」ことを示す日時などが入っていると良いです。


二次資料とは、歴史の当事者が、後に過去を振り返って書いた記録です。

当事者ですからある程度の正確性はありますが、記憶違いや、過去を美化している、功名心で美化しようとしているなど、事実とは異なる可能性が高くなります。


三次資料とは、一次資料・二次資料などを基に、他人が書いたものです。

三次資料を基に書かれた資料も三次資料とします。つまりは、信憑性の低いものです。



信憑性は一次資料が最も高く、三次資料が最も低いです。


しかし、歴史と言うのは「後世に名を遺したもの」によって構成されます。

まだ歴史に名を残すかわかっていない時点で、当事者が残した資料と言うのはかなり少ないです。

一次資料を当たれればよいのは当然ですが、一次資料だけでは歴史全体を構成できません。


また、一次資料に「誤れる事実」が混入する可能性もかなり高いです。

一次資料は信憑性が高いからそのまま信じる、と言うわけにもいかず、さらに裏付けが必要となるのです。


僕自身の現在の態度としては、できる限り信頼できる資料を参照したいとは思っています。

しかし、所詮趣味でやっていることなので、非常に高価な本を取り寄せたり、海外の図書館に調べに行ったりはしていません。


Whrlwind を調べていたときは、関連書籍が MIT の図書館に保管されていることはわかりましたが、残念ながら参照していません。

学術論文などでは、Paypal 払いができる論文配布サイトなどもあるのですが、1ページでも $10~$30 程度はすることがおおかったり、そもそも Paypal 払いに僕自身が対応できなかったりして、参照していません。


話を書くのに一次資料も参照しないとは何事か、とお叱りを受けるのであれば、全くそのとおりで申し開きできません。


一方で、ネットが普及して、以前なら入手できなかった一次資料も PDF などで配布されているのも事実です。これらは、知り得た限りではできるだけ目を通します。



#例として EDSAC の NOP の話題を挙げときます。

 一次資料を当たらなければ気づかなかった話です。



なお、この「できるだけ資料を当たる」と言う態度は、サイトを再始動させた昨年あたりから。

重要だと感じた資料は「参考資料」などの形で記していますが、それ以上に資料を読んでいます。


それ以前の記事…子供が生まれて8年くらいブランクがあるのですが、その前に書かれた記事は、ネットが今ほど便利でなかったころに書かれています。

そのため、持っている本を元に書いたりする程度で、信憑性が低いことを断っておきます。




信憑性についてもう一つ追記しておきます。


日記に書いたネタは裏付けがきちんと取れていない、と考えてください。

ちゃんと裏付けを取りながら書くと、短い記事でも2~3週間かかってしまうので。


旬なうちに書きたいネタとか、それほど興味を持っていないネタは、裏付けが不十分なまま「日記」として書くことがあります。




…と、見苦しい言い訳を長々と展開してみました。


嘘を書いてはならない、という気持ちで臨んではおりますが、以上に書いたような理由により、必然的に僕のサイトには嘘が混在しています。


読んでくださる方には申し訳ありませんが、嘘かどうかはご自分でご確認ください



僕としては、面白いと思ったこと…あまり知られていない事実の掘り起こしをこれからもやっていきたいと思っています。

「嘘か本当かもわからない」という、もっともタチの悪い文章の書き方でもあります。


嘘を許せない、と言う方には申し訳ありません。

ここは自分が趣味で作っているページですので、好き勝手やらせてもらう! と開き直ることにしました。


#最初に書いたように、サイト閉鎖まで考慮に入れて悩んだ結果の結論です。

 開き直って恥をさらさないと趣味なんてつづけられるか! と言うことです。



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02年 IRC

02年 鶴

03年 三体運動

03年 人間ドック・その後

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あけましておめでとうございます  2014-01-03 14:41:50  その他

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あけましておめでとうございます。


忙しくて最近日記書いてませんが、ここらでクリスマスあたりからの出来事をまとめておきましょう。


今年のクリスマスディナー。

ローストビーフ、オニオンスープ、ポテトサラダ、フランスパン。


ローストビーフを頑張って焼いたけど、次女と長女には不評。牛肉は薄く切っても少し硬かったか。

長男には大好評。


ビーフの付け添えに野菜などを一緒に焼いた。焼きりんご大好評。

このりんごの汁も含め、出た汁と醤油やレモン汁、マスタードなどを混ぜてソースを作る。



スープはみんなに好評。ポテトサラダは次女に大好評(もともと好き)。


大人はロゼのシャンパン、子供はロゼのシャンメリー。

もっとも、炭酸は長男しか飲めないので、長女と次女はリンゴジュース。



ビーフは1Kg 焼いたので、数日間残っていて、細切れにしてスクランブルエッグに入れたり、野菜炒めに入れたり、少しづつ消費しました。




今年のサンタさんからのプレゼント。


次女(4歳):NEWくみくみスロープ


長女(6歳):ヒューゴ オバケと鬼ごっこ


長男(9歳):Lego Crazy Action Contraptions



子供たちは最近ピクミンが好きで、ピクミン3欲しがっていたのだけどね。

Wii U 持ってないから全部買うと、子供向けのプレゼントの値段を超えてしまう。


まぁ、サンタさんが選んでくれたものだから、希望と違ってもきっといいものに違いないよ…



プレゼントの届いたクリスマスの日からは冬休み。

保育園は冬休み中も申し込めば保育してくれるのだけど、痛恨の申請忘れ。まぁ、長男は小学校が冬休みで家にいるし、みんな一緒に遊んでくれるので良いのだけど。


で、最初に人気だったのは次女の「くみくみスロープ」。

3歳からのおもちゃだけど、大人が見てもなかなか面白いもので、長男も一緒になって楽しんでいる。


長男のレゴブロックは、なかなか高度なもので長女・次女には難しい。

でも、最近家のレゴで造形を作ることが多い長男、早速組立図を見ながら「ゴム動力で動く自動車」を作ってみる。

なかなかよく動く。廊下を一直線に結構な速度で走る。

この段階では、長女・次女も大喜び。


ボードゲームだから一人では遊べない長女の「ヒューゴ」。

やってみようよ、とあけてルールを説明しても、「オバケが出てくるのこわい」と次女・長女は遊びたがらない。

でも、一度試しにやってみたら面白い。基本的にはすごろくで、運の大きいゲームだから次女でも勝てる。

運のみゲームではなく、考える部分もあるため、大人でも楽しめる。


知恵を使って運を制御しようとするが、最後はやっぱり運任せな部分もある、絶妙なゲームバランス。

1989年の原作発売以来、世界中で愛されているボードゲームだけのことはある。




今年のおせち。


煮豚(チャーシュー)、煮卵、鳥ハム、栗きんとん、いくらのしょうゆ漬け、伊達巻、数の子、松前漬け。

以上は僕。


煮〆を妻が作ってくれた。


煮豚はすでにネットに入ったものを買ってきて似ただけ。その煮汁に茹卵を漬けたのが煮卵。

鳥ハムは毎年恒例だが今年はおいしくできた。


栗きんとんは、秋に大量に栗を買ったら子供が食べなかったので、シロップ漬けにして冷凍しておいたものを使った。

芋も安かったので箱で買ってきたら、たくさん作りすぎた。裏ごしは子供が手伝った。


いくらは毎年恒例、秋に筋子から作ったもの。

伊達巻も毎年恒例だが、今年はおいしくできた。


数の子は塩漬けを買ってきて塩抜きし、味付けした。

松前漬けは簡単に作れる、千切りにしたセット品。


毎年仕上がりが年が明けてからになるので、今年は早めに…と作りはじめたつもりだったが、結局完成は年が明けてから。

子供たちが大きくなってきて手伝ってくれたのと、自分たちだけで部屋の片づけ(大掃除)をさせたため、大幅に時間がかかったため。


親がやっちゃった方が速い、ってことだけど、お手伝いはいい経験なのでやらせたい。




元日に、初日の出を見てみよう、と近所の公園へ。

水星を見るために日の出を観察したりすることもある妻が、そこなら見えそうだといったため。


でも、冬は日の登る位置がずいぶん南側にずれる。

周囲が明るくなっても山に隠れて日が見えない、とわかる。


じゃぁ、明るそうなところを探そう、と早朝から家族で近所探検。

近所の坂がピンポイントで、谷間から出てきた初日の出を、2軒の家の隙間から見えることが判明。


日の出時刻は7時半くらいかな。水平線から登るのが6時50分くらいだから、近所で見ようとするとずいぶん遅い。



大掃除、おせちと忙しくしたためか、正月になって気を抜いたら熱が出る。

午前中寝込んでしまい、午後から近所の神社に初もうで。


今年の正月は空気が暖かい。




昨日2日は、親戚一同集まった。

とはいえ、妹は今年も参加できず(毎年正月は旦那さんの実家に行くため)、次兄は風邪を惹いて出席できず。


長女は「ヒューゴ」をみんなで遊びたい! と持っていった。

次女もくみくみスロープを持っていく。親戚が沢山集まる場所で広げるようなものではないのだが、言い出したら聞かない性格なので持っていく。


母(子供から見れば祖母)、長男夫妻とその子供2名、次姉夫妻と次女(長女はバイトで来られず)、そしてうちの家族5名だけが参加者。

今年は少し寂しかったが、子供がこれだけ集まればうちの子供たちも非常に楽しい。


ヒューゴは大好評で、遊んだ人皆が面白いと言っていた。

次姉の次女は、昔友達の家で遊んだことがあるらしい。結構歴史あるゲームだからな。


でも、日本でもたびたび絶版になっては再版され、今の版は日本オリジナルの「上級ルール」もある。

こちらも非常に盛り上がる。

(逆転の連続が起きやすいように工夫されている。最後まで展開が読めない)




僕と妻も、少し仕事を休んでのんびり。

子供と一緒にピクミン(GC 版の1)なんてやっております。


いきなり9日・85人クリアを目指しているのだけど、昔書いた攻略ノートは、9日・100人クリアようのものだった。85人は記してなかったかな…

事実上、再攻略している、ということです。


これもまた、親子で楽しんでいて楽しい。


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別年同日の日記

03年 年賀回り

08年 あけましておめでとうございます

16年 三が日

18年 親戚廻り

20年 あけましておめでとうございます


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社長の一番大切な業務  2014-05-07 12:32:55  その他

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先日こんなツイートをした。



G.W.明けの今日、書類仕事をしていて思い出した。

ちゃんと説明しておいた方が良さそうだ。


は長年会社経営をしていたが、業界全体が斜陽であったことと不況が重なり、晩年になって会社を畳んだ。

それでも借金を一切残さず、すべてを清算して終わらせるという見事なものだった。


上のツイートに書いたように、父が社長をやっていたので普通のサラリーマンの生活と言うものは僕にはどうもわからず、小学校のころは将来自分も会社経営するのだろう、と普通に思っていた。


大学卒業後、一旦はゲーム会社に就職したが、その後独立して会社を興している。

もっとも、人様の人生に責任を持つのは怖いため、基本的には僕と妻のみの会社だ。



で、会社を興すと決めた時に、父が社長業の心得として、たったひとつ教えてくれたのが「判子の押し方」だった。

他には何も教わっていない。いや、「会社を維持するのに決まった方法などないから教えられない」とだけは教わったかな。


#父は昔勤めていた会社が子会社を興す際に一度社長となり、軌道に載せてから改めて自分の会社を興している。

 2回会社を軌道に載せているわけで、「決まった方法などない」はこの経験に基づく言葉。



社長が判子を押すというのは、長い時間かけて社員が下地をならし、ビジネスを成功に導いたときだ。

相手の会社との契約がまとまり、そのことを書類として残す段になってはじめて、社長が登場して判を押す。


社員が苦労した仕事を形として残す、その最後の締めくくりが「判子を押す」ということだ。

ここはかっこよく押さなくてはならない。それが社員の苦労をねぎらう意味にもなる。


これが父の教えだった。




じゃぁ、どんな判子がかっこいいのかって言えば、判子なんて「インクの染みを残す」以外のことはできないのだ。

その染みを見てかっこいいと感じるためには、自分の中にかっこよさの基準を持たなくてはならない。


逆に言えば、基準を持てばかっこいい判子は誰だって押せるようになる。



まず、法律的に重要な事。

判子にはいくつかの意味がある。


書類の文字などの上に判を重ねると、これはその文字に対して何らかの責任を負う意味になる。

誤りを見つけたので横線を引いて消し、書きなおす。この際には横線を引いた文字の上に判子を押し、上に正しい文字を記入する。

(書類の形式によっては、さらに何文字削除、何文字追記、と明記して、改竄を防ぐ)



書類が複数枚にわたる際は、2枚のページにまたがるように判子を押す。割り印、と言うやつだ。

あまりページ数がおおい場合は、ホチキスで止めた上から紙を糊付けしてホチキス止めを外せないように封をして、この紙に対して割り印を押す。


#余談だけど、司法書士等の方は、封印したホチキスを外す、という芸当を持っていたりもする。

 もっとも、この場合も元通りにホチキス止めはできないので、誤りを訂正して新たなページを作った後は再度ホチキス止め・封印して判を押す必要がある。



まぁ、いろいろあるけど判子は責任を持つことを意味する、ということだ。

そして重要なのが「判子に判子を重ねる」場合も、文字と同じく削除の意味がある、ということ。


判子がかすれてしまったために二度押し、などが厳禁なのは、このためだ。

二度押したと言うことは、その判が無効であることを意味する。


同じ理由で、ほかの人の判子に重なるように押してもいけない。



法的に有効な判子は、必ず周囲に「枠」が付いている。角印でも丸印でも、すごく細い線で囲まれるようになっているのだ。


周囲が綺麗に押されれば、その中央が押されずに欠けていると言うことは普通はあり得ない。

つまり、この線は「判子がかすれなく、完全に押されている」ことを確認しやすくするためのものだ。


「小笠原」さんの判子の上を隠して(押印時に紙などで覆って)「笠原」さんの判子を偽装したりできないようになっている。



枠にはこうした意味があるから、枠が一部でも欠けたりしたら、本来その判子は使ってはならない。

枠は細いものだし欠けやすいから、判子は大切に扱わなくてはならない。




父の教えの一つは、「枠をしっかりと押すこと」だ。

一度判子を書類に乗せたら、上から押さえつけて動かないようにしたうえで、その力をゆっくりと、ぐるりと一周回すようにする。

感覚としては、枠をしっかり押すつもりで。そうすると中の部分までしっかりとした印影となる。


ゆっくりと周囲に力を加えるためには下が固くてはならないし、柔らかすぎてもいけない。


印鑑マット、と言うものがあるが、あれは無造作に印鑑を押しても枠が綺麗に出るように、少し柔らかめにつくってある。

印鑑マットで周囲に回すように力を加えると、書類がしわになってしまい、判子がうまく押せない。


だから、新聞の朝刊を半分に畳んだものを下に敷く、というのが父の流儀だった。

紙の束は固すぎず、柔らかすぎず、非常にはっきりとした印影を出してくれる。


僕は仕事場に新聞を持ち込まないので(日経ではないけど購読はしてますよ)、適当な文庫本などを下に置くことが多い。




実は、押し方としては以上がほぼすべて。

これだけでは「かっこいい」とはならなくて、後は個人の感性になってくる。


最初に書いたように、自分の基準を持たないといけないのだ。


でも、自分だけの基準では、ほかの人にカッコイイとは思ってもらえないだろう。

そのため、実際には大体決まっているルールと言うものがある。



判子を「まっすぐ押さないといけない」と思う人が多いのだけど、まっすぐにきれいに押した判子は、神経質な印象を与える。これはかっこよくない。


多少曲がっていたほうが自然な感じがする。

判子の押し方に人柄が出るとしたら、少し曲がっているくらいの方が、自然体な、付き合いやすい人に見えるのだ。



そして、曲げるときは右側が上がるようにする。「右肩上がり」、つまり業績が向上しますように、という、まぁ駄洒落だ。


でも、たとえ駄洒落だとしても右肩下がり(業績が落ちる)よりはいい。悪いイメージより、良いイメージになった方がかっこよいのだ。


社長業でなくても、判子を右肩上がりに押す人は結構いる。社内を回覧する書類などに判が必要な際は、左側に上役が来るように押印欄が並ぶことが多いため、「上司にお辞儀するように押す」とされることもあるようだ。


でも、契約書などの書類では押印欄があるわけでもなく、社長より偉い人がいるわけでもない。

ここは「右肩上がりに」押すものなのだ。


角度的には「11時30分」とよく言われる。上の部分がこの方向を向くように。

…つまり、15度傾ける、と言う意味合いだな。




ところで、署名の際には実印を一緒に押すことが多い。

そして、通常は判子を署名に少しかかるように押す。


先に書いたように、判子を文字に重ねるのは削除の意味合いもあるのだけど、署名に関しては特例だと思っていい。

特例だから、重ねずに判子を押しても間違いではない。

実際、実印であるかどうかを判断する場合に見やすいように、重ねない方が良い、という人もいる。



実印を署名に重ねるのは、実印が非常に重要なものだからだ。

真っ白な紙に押された印影があれば、その印影を元に偽造を行うことが可能になる。


ページ間の割り印などは、紙の厚さのせいで判子の一部が浮き、途切れる。

このため、偽造の心配は低くなる。

また、訂正印などは実印を使用せず、個人の(書類訂正者の)認印で構わない。


しかし、署名の横に、署名にかからずに実印を押したとしたら、それは偽造をたくらむ者にとっては、非常にありがたいものとなる。


署名に載せるように押すのは、このような意味合いだ。

文字にかかってよいのはだいたい半分弱。四割程度、と僕は思っている。

半分以上が文字にかかると、実印の確認の妨げにもなるだろうから。


#実際には印鑑証明と押印された書類の2枚を重ねて、ぴらぴらと高速でめくり、目の残像現象で同じ印であることを確認することが多い。

 このやり方だと、たとえ全部が文字にかかっても、それほど確認の妨げにはならない。




改めてまとめると


・固すぎず柔らかすぎない、紙束のようなものの上で押すと良い。

・周囲の枠を押すつもりで、力を一周回す

・印影は少し右肩上がりに傾ける。11時30分に。

・署名に4割程度かかるように。


これが「かっこいい判子」の押し方。

父から唯一教わった、社長業の心得。



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別年同日の日記

12年 G.W.直前からの記録

12年 長女と次女の誕生日

12年 スマホ購入

12年 イトーヨーカドーでのイベント

12年 山登り

13年 サーカス

15年 エドウィン・ハーバード・ランド 誕生日(1909)

18年 G.W.中のできごと

18年 評議員

18年 バーベキュー


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Copyright 表記について  2014-08-06 17:09:51  その他

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ある漫画で著作権侵害があったとかで、ゲーム会社ともめているようだ。

まぁ、その漫画を僕は全く読んでおらず、何の情報も持っていないので、そのことについて書きたいのではない。


これでいろいろ騒いでいる人たちが、著作権についてあまりに知らないため、これはちょっと書き留めておかないと…と思っただけ。

僕だって専門家じゃないから詳しくない。でも、ゲーム会社に勤めていたので著作権は非常に重要で、仕事で叩きこまれた。




著作権を知らない、というのは別に悪いことではない。普通は気にする必要もないと思う。

でも、何らかの著作物を作って利益を得ている人(金銭に限らない。ネットで有名人になったりするだけでも利益だ)なら、著作権は知らないといけない。


著作権と言うのは、細かな権利にいろいろ別れているけど、


・勝手にコピーされない権利

・勝手に改変されない権利


あたりが軸になっている。


つまり、コピーしてはならないのは当然のこと、改変であるパロディなどの作成も侵害となる。




ただ、ここが難しいところだけど、社会風刺としてのパロディなど、公益性が高い場合には許可されている判例がある。

日本の法律では認められないが、アメリカの著作権法などでは「フェアユース」と言って、フェア(公正)な使用は認められている。


たとえば、漫画のコマが気に入ったから拡大コピーして部屋に貼った、としても、これはフェアユースだ。

でも、日本の法律では、厳密に言えば著作権違反だ。


ただ、アメリカの法律では著作権違反となれば、懲罰の意味も込めて高い罰金が科される。

日本の場合、損害を算出して請求するのが限度だ。だから、漫画のコマを拡大コピーして部屋に貼ったとしても、特に損害が出ているわけではないため、訴えられることもないだろう。

(せいぜいが、ちゃんとポスター買えや、とポスター1枚分の代金請求が認められる程度。裁判の手間に見合わない)


2016.8.30 追記

上の例は説明が足らずに不適切でした。お詫びいたします。

「自分の部屋に」貼っていても、私的複製は著作権の例外として認められるため、問題にはなりません。


私的ではない…たとえば、部室に貼ったとかの例だとお考え下さい。

それだけで、「私的」の適用範囲を超えるため、厳密には違法となります。

でも、裁判の手間に見合わないので訴えられることはないだろう、というのは変わりません。


アメリカでは、同人活動(fun make)は、フェアユースとされる。

気に入った物語などの世界観で別の小説を書いたり、仲間同士で見せ合ったり、多少なら販売したとしても問題はない。


でも、日本では漫画の世界観を使った同人誌などは、厳密に言えば違法だ。

日本の著作権法は親告罪(権利者が訴えない限り罪にならない)なので、多くの作者がお目こぼしを与えているが、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)で足並みをそろえるために、アメリカに倣って親告罪ではなくそう、という動きもある。


アメリカに倣うならフェアユースも取り入れてくれれば問題ないが、法律を大きく変えると混乱するため、非親告罪化だけが取り入れられそうで、危機感を持っている漫画家さんなんかも多い。




日本の法律でも、たとえ誰かの著作物の一部が使われていたとしても、引用の範囲であれば問題はない。

引用は特に相手に許諾を得る必要はない、誰でも行使できる権利だ。


ただし、どこまでが引用か、という線引きは一意に出来ない。

今回の漫画というのは内容を知らないのだが、特にパロディなどというわけではなく、お話の中にゲームが出てきていた、という使われた方だったようだ。


であれば、引用、もしくは事実の報道のたぐいではないかと思う。これらは、著作権侵害とはみなされない。

(ただし、最後のボスを表示しているとか、そのコンテンツにとって秘密にすべき部分を開示するようなことであれば、著作権侵害と見做されることもある)




今回問題になっているのは、Copyright 表記がおかしい、ということも問題の一因のようだ。

お話の最後に、作中に登場したゲームなどのコピーライト表記を、エンディングロールのように入れたようだ。


これはおかしい。コピーライト表記はそのように使うものではないからだ。


ただ、これを「違法行為だ」と言っている人がいたのだけど、それも違う。

もともとコピーライト表記自体、法的な拘束力の一切ないものだからだ。



普通、コピーライト表記は、「著作権者が、自分の著作物に対し、権利を有していることを公示するために使う」ものだ。

著作権者に写真などの使用許諾を得る際に、「使ってもいいけど、ウチの権利を主張する」と言われたら、コピーライト表示を入れなくてはならない。

これは、権利者が権利を有することを示したうえで、他人に使用許諾したことを意味するためだ。


そんなの無しで使かっちゃっていいよ、という人もいるかもしれない。

コピーライト表記には法的な拘束力はないし、今となっては慣習化しているだけでほぼ無意味だからだ。

権利は「公示」しなくてもちゃんと発生している。ただ、公示しておけば後々面倒が起りにくい。




では、使用許諾も受けていないものが、勝手にコピーライト表記をしていいのか。


コピーライト表記を「他人の著作物を使っている、という表示」だと勘違いしている人が(少なくとも自分の見た中では)多数いるようだったが、それは間違っている。



たしかに、本などに使われている写真にコピーライト表記が付記されていたら、そこは本の著者から見れば「他人の著作物を使っている」部分だ。

しかし、コピーライトは「権利者が権利を主張するために使う」ものなので、写真の権利者がコピーライトの明記を条件に使用を許諾した、という場合以外では、表記してはならない。


そうでないなら、他人の物を「引用」した形で、引用元を示して使うべきだろう。「○○は□□社の著作物です」などの表示だ。

いずれにしても、引用物のそばに表記を添えなくては意味がない。



それが、引用個所でもない、お話の最後にまとめてコピーライト表記を行う、と言うのは訳がわからない。



先に書いた通り、コピーライトは法的な拘束力のない慣習にすぎないため、違法性は無いともいえる。

しかし、慣習としては実際残っており、「許諾された」際に表示するものなので、許諾も受けずに表示するのは事実誤認を招く不当表記方法である、とは言える。


著作権法は、先に書いた通り「コピーされない」「改変されない」ための権利だけど、知名度に便乗させない、という目的もある。

だから、たとえば「知名度のある大会社が多数、公的に許諾を与えて作られた物語だ、と誤認させ、大会社の知名度に便乗した」という訴え方も可能だ。


多分コピーライトの正しい表記方法を知らず、なんとなく格好良さそうだからやった程度なのだろうけど、裁判になるのであれば、表記した方に不利に働くだろう。


著作物で生計を立てるものであれば、著作物の権利を主張するためのコピーライト表記には詳しくないといけない。

これは、明らかに漫画家・編集側の知識が不足しているように思える。




コピーライトの表記方法について、正確なところを知らない人が多いようだ。

…と言ったところで、法的な拘束力がないものなので正確に表示しようとそうでなかろうと、特に意味はないし、最初に書いた通り、著作物を作らないような人が知っている必要もない。


しかし、どんな駄文一つだって著作物だ。誰だって著作者にはなれる。

また、コピーライト表記は法的な拘束力がないとはいえ、先に書いた通り慣習としては残っている。


そして、裁判では「一般化した慣習」は、法律と同じような効果を持つ、と判断されることがある。

コピーライト表記は、注意して扱うべきだろう。正確な表記については知っておいた方が役立つ。



コピーライト表記は、COPYRIGHT の文字、または © の記号、そして記号を使えない場合は (c) の文字のいずれかと共に、著作権者の名前(法人名や通名でも良いが、公に認識されていない偽名ではいけない)、そして、初公開された西暦を表記しなくてはならない。


コピーライト表記には法的拘束力がない、と再三書いたが、これは現在の話で、過去には法的な意味があった。

ただし、国内法ではなく国際条約として。

そこで定められていたのが、上記した、COPYRIGHT の文字、著作者名、初公開年の3つの表記だ。これがあれば、どこの国でも著作物は保護された。


ただ、その後世界的にはもっと強力な枠組みが出来上がり、現在はほとんどの国がそちらの方式を採用している。

「特に権利を主張しなくても、著作物の権利は著作者が有する」という仕組みだ。


だから、コピーライト表記は現在においては特に意味はない。

ただ、先に書いた通り、慣習として残っている限りは裁判などになった際に意味は持つだろう。

書くのであれば、正しい表記を心がけなくてはならない。



2016.8.28追記 8.30改定

テレビゲームのタイトルに表記される年号によって、発売年が誤認されている、という話題を見かけたので追記。


タイトルの年号は、著作権表記だ。

上に書いたように「初公開年」を書く。


たとえば、ロケテスト(作成中にお客さんの反応を見るために、仮完成のゲームをゲームセンターに置くこと)は公開したことになる。

ゲームショーなどで、まだまだ完成していないゲームを「こんなゲーム作ってますよ」と置いておいたら、公開したことになる。


ただ、タイトルの年を見て「古そうなゲーム」だと遊んでもらえないのも事実で、発売年を書きたがる人もいる。

これは著作権表記として誤っているため、法的に「虚偽記載」となってしまって、権利主張の上でまずいことになる場合もある。


この件、詳細をさらに別記事に書いた。

詳しく知りたい人は読んでほしい。




西暦が間違っているのを、特に WEB で良く見かける。

Javascript で「今年」を表示してしまったりしている。初公開年が入っていないと意味がない、というのは重要ポイントなので、自動で書き変えてはいけない。

(初公開年を入れたうえで、最後の改変年を入れるのは良い。改変履歴を全て入れるかどうかはお好みで)


逆に、個別記事の公開年を示さず、WEBサイト全体の「初公開年」で統一している例もある。

これは、下に書く通り、自分の権利を狭くしてしまうのでもったいない。



なぜ公開年が重要かと言えば、法人の場合公開から一定期間で著作権が切れるためだ。

個人は、死んでから一定期間で著作権が切れる。今はだいたいの国でこの方式だが、昔は個人でも公開年から一定期間で著作権切れになる国も有り、公開年の表示は重要だった。


そして、最後の改変年を書くのも、著作権の延命に意味がある。

改変したものは「2次著作物」とみなされ、2次著作物の著作権は、元の著作物とは別に扱われるのだ。


有名なところでは、「ポパイネクタイ事件」というものがある。

ポパイが公開されてから一定期間がたち、著作権が切れたので、最初の漫画をデザインに取り入れたネクタイが作られた。


しかし、ポパイは連載漫画だった。最初の1回の公開から見れば著作権切れだが、最新作から見ればまだ著作権は切れていない。そこで争いが起きた。


この結果は、連載第1回は「元となる著作物」であり、それ以降は「第1回を元とした2次著作物」とみなされ、第1回のデザイン流用は問題なし、とされた。


古い映画などのリマスター版やディレクターズカット版が作られる理由もここにある。

リマスターしたものは2次著作物に当たるため、新たに著作権保護期間が設定されるのだ。




以上、専門家ではないので間違いもあるかもしれないけど、知っておけばちょっと役立つ…かもしれない豆知識でした。



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あきよし】 表記する年に関しては、指摘された条文が根拠です。
しかし、「発行」も「複製」も通常の日本語ではなく、法律用語です。ここでの「発行」は最初の公表を意味します。
詳細を書くと長くなるので別記事を起こしました。
本文中にもリンクを張りましたが こちらにあります
 (2016-08-30 09:56:15)

あきよし】 フェアユース・私的使用の指摘に関しては、その通りですね。 判り易いように極端な例を挙げようとしたのだけど、極端すぎてあまり例が良くなかった。 ただ、そのあとの話で同人誌を出したかったので、同人誌の例にはしたくなかったんですね。 ちょっと例を考え直そうと思います。 (2016-08-29 17:57:28)

【ななし】 持ってる著作権本調べましたが全て「最初の発行年」と解説されてます。発売年でいいでしょう。 (2016-08-28 22:55:19)

【ななし】 私は逆に発売年でない公表日を書くゲーム会社が無知だと常々思ってました。 (2016-08-28 22:38:07)

【ななし】 万国著作権条約には(日本語訳)「©の記号、著作権者の名及び最初の発行の年」と書かれていますが?条約に発行の定義もあります。「第六条 〔発行の定義〕 この条約において「発行」とは、読むこと又は視覚によつて認めることができるように著作物を有形的に複製し及びその複製物を公衆に提供することをいう。」なぜ提示が含まれるとお考えで?http://www.cric.or.jp/db/treaty/bap_index.html (2016-08-28 22:36:05)

【ななし】 「漫画のコマが気に入ったから拡大コピーして部屋に貼った」たしかに日本にはフェアユースはありませんが、私的使用のための複製の例外をご存知ないのですか? (2016-08-28 22:31:21)

昨日書いた記事について  2014-09-14 12:47:14  その他

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書いたことに対する解説が必要なんて言うのは、元の文章が良くないせい。

僕にもっと文章力があればこんな蛇足は必要ないのですが、どうも胸がざわつくというか、文章が消化しきれていない感じがあるので…



スーパーマリオの発売日」だったのですが、スーマリのことは「宮本さんの誕生日」に書いていました。


ただ、宮本さんの誕生日の中で、他人のBLOG記事を参考に書いた部分があったのだけど、そのBLOGに問題があって消されていたこともその後わかっていたのね。


良い機会だから、訂正と共に、その訂正が必要となった経緯…自分が信じてしまったが、消されてしまったBLOG記事と、そのBLOG記事が「嘘である」と指摘しながら、その指摘自体が間違っている別のBLOG記事の話を書きました。



最初に断わっておきたいのは、ここで登場する「ふたつのBLOG記事」及びその筆者さんに対する攻撃意図はない、ということです。

攻撃したいのであれば、その記事がどこにあるのか直接リンクします。リンクが無いのは攻撃したくないから。


だから、できることなら探し出して話題にすることもやめてね。

探して閲覧することまでは止めませんが。



攻撃意図が無い、というのは、昨日の記事の最後に書いたように、言論封殺になるようなことはしたくないため。

結果的に間違えていたとはいえ、どちらの記事も書かれた時点では書いた人が真実だと信じ、自信を持って送り出したものです。


ただ、今は消された BLOG記事は、どうも独自の研究に「信憑性」を与えたかったようで、事実誤認を誘導する書き方をしている。

それを批判した記事は、自分の経験「のみ」に従って、それ以外のゲームのつくり方などあり得ない、という視野狭窄に陥っている。


どちらも余り褒められたものではありませんが、どちらも「自分の信じる事実」を広めようとして書かれたわけです。

文章を書くというのは、どんなに簡単な文章でもそれなりの時間を要します。それによって自分が得られる見返りはたいしたことないのに、「自分の信じる事実」を広めたいという純粋な善意のみで記事を書く姿勢は、賞賛されるものであり、批判されるものではありません。


例え「自分の信じる事実」が、後から別の人の検証によって間違えだったとわかったとしても、です。


もし、この善意を「結果が誤りなのだからするべきでない」と言う人がいるのであれば、それは言論封殺に他なりません。

結果なんて誰もわからない。すべての人が、その時点で信じていることを書くしかない。


ここに結果論を持ち込んでしまうと、委縮して誰も物を書けなくなります。それは損失です。

結果として誤っていたとしても、後から別の人の意見により「真実」が掘り起こされるきっかけになるかもしれません。


世に向けて一石を投じる人は、常に賞賛されるべきです。




実のところ、2つのBLOGおよび作者に「攻撃意図がない」のは、これが2つのBLOGだけの問題ではないからです。


BLOG記事っていうのは注目を集めれば勝ちですから、嘘でもなんでも「新発見」のように書きたがる人が多すぎる。

本当の新発見の場合でも、他人の記事をまるごと盗んででも自分の手柄にしたい人が多すぎる。



今回の話題でいえば、「参考文献」を挙げたり、参考文献の一部を引用するなどしてその書籍から新事実を紹介するような体裁を取りながら、自分の研究を発表した記事の書き方は、「悪意がある」と見られても仕方がないでしょう。


どこまでが参考文献によるものか、どこが自分の推論かを分離して書かないといけませんでした。

記事の内容、本当に素晴らしいものだと僕は思うので、勿体ないです。


しかし、これも「注目を集めれば勝ち」という BLOG の特性が生んだ闇とも言えます。

ほかの人が事実誤認するような書き方が推奨されちゃうんですね。



同様の闇として、他人の記事で面白かった内容を「ほぼ丸パクリ」するBLOGの存在があります。


記事を「紹介」するのは構わないのですよ。

素晴らしい記事を見つけたとして、誰かが紹介して閲覧者が増えることには意味がある。


ただ、これは「元記事の」閲覧者が増えるのであれば、と言う前提です。

ほとんど内容を丸ごとコピーして、元記事の URL を示さない、URL を示してもリンクはしない、リンクしても非常に小さいなど、「自分のサイトを閲覧中の読者を逃がさない」と言う姿勢を見せるのは浅ましい。


本当に紹介する記事が素晴らしいと思って紹介するのであれば、本記事をみんなにも見てほしいと思うはずです。

それができないのなら「ただ自分が注目されたいために」盗用しているだけで、あまり紹介したいとは思ってないのでしょう。




一方、苦労して書かれた記事を、すぐに「嘘だ」「ちゃんと調べてない」など批判する…いわゆるdisる人々の行為なのですが、こちらの方が問題の根は深いと思っています。


その中でも、わざわざ BLOG に「嘘だ」と書く人は、それなりの根拠を持って堂々と発信しているので、まだ罪が軽いほう。

Twitter やコメント欄でdisる人の方が、どれだけ闇が深いか…


それだけ闇が深いというのは、問題の根っこが古くからあるためです。

おそらくは、問題の根は江戸時代ごろにまで原因が遡ると思っています。



江戸時代、日本は世界でも有数の平和を誇り、そのために末端にまで教育を行う余裕があり、識字率も世界で一番高い地域でした。


だから、多くの人が本を読む。本を作れば売れるから、多くの本が出版されました。


当時の日本は印刷技術も世界一。多色刷りの浮世絵は…特に難しい構図を描いた枕絵は今でも世界的に高い評価を受ける芸術作品ですが、これほどの印刷物が庶民の間に出回っていたなんて国は、日本を置いて他にありませんでした。


でも、識字率が高いとはいっても、やはり難しいことはわからないのね。学は無いから。

だから、本の内容も大きな挿絵が入った絵本のようなものが多いです。今でいえば、ライトノベルよりもっと文字が少なくて絵が多い感じ。



そして、そこに書いてあることは多くの読者が、無条件で信じました。

この時代本の出版は幕府の許可が必要で、特に幕府の政策に対する批判などは絶対に出版できませんでした。


でも、学の無い読者にとっては「お上のお墨付きで出版されたもの」なのだから、おかしなことは書かれていないだろうと思っていたのです。

実際には、今のBLOGと同じで注目を集めれば勝ちですから、東スポみたいな「面白ければ信憑性は問わない」ような本なども出版されていたのですけどね。


#江戸時代の宇宙人遭遇記、とされる「うつろ船」の話とか、こうした本が出典なのですが、今でも信じる人たちがいる。



どうも日本人は、この「出版物に書かれたことは信じる」癖が抜けないようで、戦時中のいわゆる「大本営発表」なども多くの人が信じました。

(もちろん、威勢の良い話ばかりなのでおかしい、と気づいている人もそれなりにいましたが、そんなこと言い出せる雰囲気はありません)


今でも新聞に書いてあることは本当だ、と思っている人が後を絶ちません。


同様の現象として「偉い人が言っていた」とか、「テレビに出ている芸能人が言っていた」などもあります。


偉い人はともかく、芸能人なんて、場合によっては仕事が忙しくてまともに学校行ってないですよ?

偉い人だって「有名だから偉いと思われている」場合も多く、テレビに出るためなら何でも喋ります。




で、ここに裏返しで「文章化するものに嘘を書いてはならない」と信じ込む一派が生まれます。

この一派は、書かれた文章に自分の知見と違うものを見つけると、「嘘だ」とdisり始めます。


ここで問題なのは「自分の知見」の範囲内で決めつけてしまうということ。

もちろん、自分の知見は絶対に正しいと信じ込んでいるのです。

人の間違いには厳しいが、自分は間違えるはずがないと思っているから堂々と disるのです。


自分の知見が限られたものだ、と理解している人は、気軽にdisったりしません。

まず裏を取るところから始めますし、十分な裏を取れれば、根拠を示して論を展開します。

これはいわゆる「disる」のとは異なり、反論なり批判なりと呼ばれるものです。



時として、妥当な「反論」を受けた側が、自分の書いたものは正しいと信じて、検証も行わずにdisで応じる場合があります。

これ、心情としてはよくわかります。時間をかけて書いたものを否定されるのは悲しいし、間違いを認めるのも恥ずかしい。


でも、記事を書いた人の目的が純粋であれば…つまり、「目立ちたいから」書いているのではなく、「知見を広めたいから」書いているのであれば、自分が書いたことが間違っているとわかった際に取る行動はわかっているはず。


感情的に相手の反論を消し去ろうとするのではなく、自分の書いたものを見直して、反論がただしければ訂正する。反論が的外れであれば、的外れの反論を誘発してしまった「わかりづらい部分」があるはずなので、補強する。


いずれにせよ、反論に対しては記事の補正で応じるのが冷静な態度なはずです。



…しかし、わかっていてもそれができない人たちもいる。

特に、マスコミ関係などは「訂正すると信用に傷がつく」とおもっているため、訂正をしたがらない傾向にあります。




つまり、この問題の闇はこういうことなのです。


1) 出版物を無条件に信じる人がいる

2) この反動で、嘘を見つけると過剰反応する人がいる

3) 誤りに気付いても、2 が怖いので出来ることなら隠そうとする

4) 1 の人々は、隠されてしまうと誤りに気付かないので「出版物は信じられる」と思い続ける



この問題を無くすには、「恐れずに訂正をできる人は、実は真摯で信じられる人だ」という事実を常識としていく必要があります。


これが常識となれば、文章の訂正が気軽に出来るようになるため、嘘を恐れずに自分が信じることを書けるようにもなります。


あと、文章を書く際にすべてが妥当か調べるのも、時間的・知識的に個人の限界を超えることがあります。

気軽に文章を公表し、自分とは違う知見を持つ人々に妥当性の検証を依頼する、というのもアリだと、皆が認める必要もあるでしょう。




さて、唐突に見えるかもしれないけど、昨日の文章を書いている時から念頭に置いていたことを吐き出します。


スーパーマリオに関する二つの BLOG 記事を取り上げながら、念頭にあったのは朝日新聞の「誤報」問題でした。

吉田証言と吉田調書。


名前は似ていても全然違うこの二つは、歴史に残る大誤報であり、マスコミを揺るがす問題に発展しています。

でも、心ある人が指摘している通り、誤報が生じたことには問題はないと考えています。



問題となっているのは、その後朝日新聞がこの「誤報」を訂正しないどころか、誤報だと気づいていながら正しいと思わせるための工作をし続けていたこと。


実のところ、朝日はこうした例はたびたび起こします。

こんなに大問題に発展したのがはじめてなだけで、かなりやらかしますし、口の悪い人は「捏造系」の新聞だなどと言います。



でも、他の新聞社も多かれ少なかれ同じような風潮があります。


2011年の震災の直後、当時我が家でとっていた新聞は、「チェーンメールが出回っているから信じないように」と言う記事を書きました。

これはまぁ、妥当。

でも、同時に「Twitter には善意ある情報が出回っているので、こちらを使うように」と誘導しました。


この記事だけでなく、震災の混乱の中でこの新聞はおかしな記事だらけになっていました。

混乱時こそ、新聞の本当の取材力がわかります。この新聞は「信用ならない」と判断し、その時点で多数の新聞を比較したうえで契約を変更しました。


その後半年ほどたって、震災時に購読していた新聞をたまたま読んだのですが、相変わらず「メールは悪、Twitterは善」と書いてました。

訂正する勇気が無いのですね。多分、今でもそのままじゃないかと思います。


新聞社の名誉のためにどこの新聞社かは書きませんが、朝日ではありません。

誤報を行って訂正をしないのは、朝日に限らないのです。



そして、先に書いたように問題の根っこは新聞社にあるのではなく、「嘘を書くな」と要求する我々にあるのです。

我々が、誤りの訂正を「誤報だった」と糾弾しなければ、新聞社も変わるはずです。




蛇足。

思ったより記事が長くなってしまったので、もう一つ書きたかったことを蛇足として。


昨日の記事で最後に書いた「過つは人、許すは神」というのは、聖書に出ている言葉ね。


許すは神、というのはわかりにくいのだけど、「だれかの間違いに対し、他人が何かを言う資格はない」と言う意味。

間違えたとしても、神は許してくれるから恐れるな、と言う感じかな。


リンク先が全く関係なさそうな、PDP-1 の音楽演奏ソフトになっていますが、譜面データの入力ミスが見つかると、「エラーメッセージ」として「過つは人、許すは神」と表示されたのです。




蛇足2。


書き終えてから、途中に仕込んだ伏線(?)を回収してないのに気付いた。


「気軽に文章を公開して、自分の知見を超える部分は別の人に検証をお願いする」というのは、先日公開された昭和天皇実録のことを言っています。


昭和天皇に関することを四半世紀かかってまとめたにも関わらず、幼少期にお好きだったという遊びについてどうしてもわからない記述があった。


この情報提供を呼び掛けたら翌日にはネットなどからの意見で判明して、多くの人が「24年もかけて何やってた」と言う反応を見せた件。


実録の編集作業者は、昭和天皇の個人史をまとめるために集められた専門家ではありますが、別に子供の遊びの専門家ではないわけですよ。

当時の児童がどんな遊びを好んだかなんて知らないし、ましてや元となる記述がわずかに間違っているのに、類似性から推察して、誤りを訂正して、何の遊びか特定できるほどの知見は無い。


でも、知見が無いからこそ広く意見を求めたわけです。

そしたら、その手の「遊び」に詳しい人が、あっという間に当時日本でも流行った舶来のボードゲームで、表記が多少間違っている(英語表記を日本語に変換する際の表記ゆれのレベル)と言うのを突き止めた。


これは、何の問題もないことです。でも、鬼の首を取ったように批判する人が非常に多かった。


根っこには、他の問題と同じく「記述者は絶対に間違えてはならない、すべてを知っていないとならない」と考える人が多い、変な風潮があると思っています。


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HARLIE あらすじと解説(1/2)  2014-09-21 11:46:00  その他

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引き続き HARLIE の話。


あらすじ書きましょう。

僕みたいに、20年以上も探しているけどまだ読んでない、と言う人は話の内容が気になるだろうから。


簡単に入手できるのであれば「自分で買って読んでね」とするのですが、すでに絶版で入手困難、再版の可能性も低いと思います。

発行元の「サンリオSF文庫」がすでにないからね。


同文庫で翻訳された作品で、別の会社から再版されている本もあるみたいですが、HARLIE はそれも望み薄。

(すぐ後に書きますが、なんというか、非常に「マニア受け」する内容なのですね。当時の風俗の知識がないと理解しにくい感じ)


「いつか必ず自分で入手するから、あらすじなど読みたくない」と言う人は、この先は読まないでくださいね。



先ほど書きましたが、非常に「マニア受け」な内容です。

ある種の内輪受けで、いろんな知識が無いと十分に楽しめません。


内輪と言っても、「アメリカ人の、同世代の若者で、SF 好き」であればほぼみんな知っていたであろうカウンターカルチャーが話題の中心です。

それも、そうしたカウンターカルチャー周りの多数の概念・作品が、小説内の小道具として巧みに取り入れられています。


必要な知識としては、大きく分けて2つあります。


1つ目は、ヒッピームーブメント。当時のアメリカの若者たちの間に広まった思想です。

2つ目は、コンピューター科学、特に人工知能研究。当時の最先端科学の一つでした。


両方「当時の」知識が必要です。


…どういうことかと言えば、「ヒッピームーブメント」の時代の空気を色濃く反映しているのです。

コンピューター科学ですら、当時はヒッピームーブメントの影響を非常に強く受けていました。

(中央集権をやめて平等にしよう、という世相から分散処理のインターネットが生まれたりしています)


ここら辺の知識が無いと十分楽しめないです。多分知識なしに読んでも「まぁ面白かった」程度の小説ではあるのですが、裏読みし始めると非常に奥が深くて、何倍も楽しめる。


…まぁ、つまりは 40年前の SF は、既に古典文学の領域だってことですね。

古典文学は当時の世相から勉強しないと読めませんから。


というわけで、あらすじの前に当時の雰囲気の説明から入るのです。




まず、ヒッピームーブメントから。


当時のアメリカはベトナム戦争の最中で、社会全体に疲弊感がありました。

ジョン・レノンが「イマジン」「戦いは終わった(War is over)」を歌ったのは 1971年。


アメリカはベトナム戦争に介入しましたが、泥沼化しました。

物量で押す、というのが得意なアメリカの作戦に対し、ベトコン(ベトナム・コミュニスト、ベトナム共産主義者の意味)兵士は、米軍兵士を一人ずつ着実に殺していくゲリラ戦で応戦しました。


アメリカにとって経験したことのない戦闘でした。

「他国の戦争」にわざわざ首を突っ込んで、多くのアメリカ兵が戦死したのです。

(統計により異なりますが、最終的な死者・行方不明者6万人とされています。このほか多くの「重傷者」を出しました。)



戦場では、恐怖をやわらげるため、負傷兵の痛みを緩和するために、積極的に麻薬が使われました。

ベトナム帰りの兵士には麻薬中毒になっているものも多く、いくつかの州では、彼らのためにマリファナが合法化されました。

また、当時「副作用が少ない」とされる新型合成麻薬、LSDも台頭しました。


これらの麻薬を体験したものが、その体験を図で示したもの…「サイケデリック」アートのブームが起きます。

これは、麻薬をやらない人間に対しても、どういう感じかを追体験させる効果がありました。



テレビが普及してから初めての「大規模な戦争」だったため、リアルな戦場を多くの人が「目撃」しました。

この点も、従来の戦争とは違いました。


反戦ムードが高まり、平和を求める運動が起こります。

多くの死者が出たことで、生と愛を強く求める運動が起こります。

政府の命令や「国家のために」死者が増えたことに反発し、ヒエラルキーを否定し平等を求める運動が起こります。

戦争を起こす近代兵器と近代文明を否定し、自然に回帰しようという運動が起こります。


ヒエラルキーの否定と愛の渇望は、従来のキリスト教を否定します。

また、麻薬体験は「神」を感じさせる効果もあります。(多くの宗教で、酒やたばこを含むドラッグは「神に近づけるもの」として使用されます)


ここから、新興宗教ブームも起こっています。

インド哲学に傾倒したり、日本の「禅」に傾倒したりする人が出たのもこの頃。(代表例:スティーブ・ジョブズ)


これらすべてをひっくるめたものが「ヒッピームーブメント」です。

基本部分に「平等」がありますから、誰かが運動を牽引するようなことはありません。

だから、ヒッピーと言っても人により考え方は全く異なり、近代文明の否定は行わずコンピューターを作るヒッピーもいますし(代表例:スティーブ・ジョブズ)、大多数の人は思想的には感化されつつも、それまでと変わらない生活を送っています。


「イージーライダー」(1969)という映画が、当時のヒッピー文化の中で作られています。僕は見たことないのだけど。

この中で、主人公たちはハーレーダビッドソンを乗り回す。ハーレーは自由の象徴です。


実は、これも小説の中でちょっと関係してきます。




さて、当時を代表する言葉の一つが「フリーセックス」。

破廉恥極まりない…と言うのが当時の大人の反応ですが、これは単純に乱交騒ぎを楽しむようなものではなく、「家族も国も捨てても構わない」と言う覚悟を持った抗議行動の一つでもあります。


#もちろん、乱交を楽しんでいるだけの人もいたと思いますが。


汝、姦淫することなかれ。キリスト教の教えの一つで(厳密に言えばユダヤ教から引き継いでいます)、婚姻関係にないものが性行為をしてはならない、ということです。

(キリスト教も宗派によって性行為の受け止め方は変わります。セックスを示す場合もありますし、キスでも姦淫だ、いや女性を性的な目で見るだけでも姦淫だ、など)


恋人でも結婚するまではダメ。両者の同意や愛の問題ではなく、「結婚」と言う形式を経ないうちは、姦淫してはならない。

それがキリスト教の戒律です。


しかし、キリスト教はまた「愛」を説きます。汝の隣人を愛せよ。汝の敵を愛せよ。

では、愛がなくても形式的な結婚をすればセックスして良くて、愛し合い、婚約していても結婚式まではセックスは禁止でしょうか?


ベトナム戦争で、アメリカの若者は「人間はいつ死ぬかわからない」という終末感におおわれていました。

これが誰かに激しく愛されたい、セックスしたい、という欲求に繋がり、キリスト教の矛盾とぶつかったのです。


そして、アメリカは政教分離を標榜してはいますが、現実的にはキリスト教の国でした。特に、1960年代まではそう。

キリスト教の戒律に背くというのは、国も家族も捨てるくらいの覚悟がいるのです。


その覚悟を持ったキリスト教排斥運動が「フリーセックス」。

日本では当時も「麻薬でイカレタ奴らが乱交してる」みたいに捉えられたのですが、ある意味もっと深い覚悟を持った、体を張った抗議活動なのです。




もう一つの当時の時代背景、コンピューターについて。


前回書いていますが、Intel 4004 発表の翌年で、まだパソコンは生まれていません。


個人で入手可能な値段では、PDP-8 がありました。この頃 5000ドルくらい。

当時の物価と比べると「自動車より高い」と言う感じですね。(安い自動車なら、新車で3000ドル代だったようです)

もちろん、一般家庭に普及などしていません。個人で持っているのはよほどのスキモノ。


小さな企業が使うなら、コンピューターの「時間貸し」サービスの方が一般的でした。

端末に電話回線を繋げ、大型コンピューター(よく使われたのは PDP-10)に接続します。



端末としてよく使われたのは、テレタイプ端末。


1968年には NLS が発表されています。これは、テレビ画面に文字を表示する端末を使用します。

NLS は 1960年ごろから研究が始まっていて、テレビを利用する最初期のコンピューターなのですが、1972年ごろには「テレビタイプライター」と呼ばれる、CRT 付き端末も存在はしていたようです。


テレタイプ端末として特に普及していたのは、1960年に作られた IBM Selectric typewriter 。

ボールプリンタとも呼ばれるもので、ゴルフボールのような球の表面に活字を配置してあるため、回転させるだけで適切な文字を選び出せます。

このため、高速・綺麗な印字が可能でした。

(小説中の HARLIE には、IBM 端末も CRT 端末も接続されていることになっていますが、主人公は好んで IBM 端末を使っています)


テレタイプで会話することについて、小説内でさりげなくチューリングテストという単語が現れます。

チューリングテストは、コンピューターには実現不可能な人間的な部分…外観や声、目線の動きなどを徹底的に排除し、「知能」のみで誰かと会話をしたときに、相手が人工知能と人間を見分けられるかどうか、と言うテストのこと。


人間的な部分の排除には、通常文字によるチャットが使用されます。

つまり、当時ならテレタイプ端末による対話です。

(小説内ではチューリングテストの説明はありません。当時のSF好きにはお馴染の概念だったのでしょう)



1964~1966年にかけて、ELIZA という人工知能プログラムが作られます。

これは、精神分析医と言う設定によりチューリングテストを行うことを想定したプログラムで、利用者のカウンセリングを行います。


今の知識で見れば非常に単純な「ボット」なのですが、当時としては非常に良くできている、と考えられたそうです。

一部の人間が本気で ELIZA に相談を持ち掛けるようになったので、怖くなって開発を停止した、とも言われます。

(どうも、この話はマユツバネタなのですが)


この「タイプライターで対話できる人工知能」は、明らかに小説に影響を与えています。



当時 IBM のコンピューターは、大企業ではよく使われていて、帳簿整理やビジネス文章の管理などに活用されていました。


小説内では、HARLIE の研究をしている会社でも、IBM のデータベースシステムを利用しています。

社内の各部屋にはテレタイプ端末が設置され、どの部屋からでもデータベースシステムにアクセスできます。


小説内の設定では、このデータベースシステムには十分な記憶容量があります。

そして、新しい素子によるコンピューターのプロトタイプである HARLIE には「演算部」しか存在せず、データベースシステムのメモリを間借りしています。

HARLIE は端末と互換性があるようにインターフェイスが作られていて、データベースシステムにアクセスしてそこの情報を取り出したり、書き込んだりできるのです。


小説の中で「空想」なのは HARLIE の処理回路だけで、それ以外は当時の技術で作られているのです。



ちなみに、映画「2001年宇宙の旅」(1968)の HAL9000 について、小説内で言及があります。

HARLIE がテレタイプ端末に接続されているのは、おそらくは当時の技術で存在し得るようにするためなのですが、言及部分でのみ、HAL9000 のような「マイクとスピーカー」で会話するシステムを採用しなかった理由が語られます。


…まるで、当時の技術で十分に音声認識が出来るかのように。

(当時、音声合成はすでにできましたが、認識は十分ではありませんでした)


それによれば、HAL9000 は全ての会話が聞こえてしまうため、自己矛盾に陥って狂ってしまった。

HARLIE はそうならないようにテレタイプで会話するように設計している、そうです。




小説を読むための「前知識」を書いただけでかなりの分量だ…

決して難しい小説ではなく、40年もたってしまって古典になっているから前知識が必要なだけです。

この点、お間違えの無いように。


#そして、HARLIE が復刊されない理由もおそらくここら辺にあるでしょう…


さて、以上を踏まえて、あらすじ行きましょう。


あらすじをざっくり書くと、人工知能の HARLIE が成長して「神」となるお話です。

…うわ、ものすごくB級 SF っぽい。


でも、HARLIE がよく出来ているのは、先に書いた通り「当時の技術」の裏打ちがあり、しっかりとした理論で話が進むため。

非常にしっかりと進みながら「神になる」という突拍子もない展開をやってのけるのです。


HARLIE は、コンピューターらしく「神とは何か」の定義を必要とします。

他にも、大人になるとはどういうことか、愛とは何か、生とは、死とは…


小説の中で、主人公と人工知能が交わす会話の内容は、まるっきり禅問答。

そう、実は HARLIE が神になる、と言う「結末」だけではなく、この小説全体が「宗教書」のパロディとなっているのです。

当時のキリスト教の信用が失墜しつつある中で、新しい形の神を模索する HARLIE の姿は、多くの読者の心を掴んだのでしょう。



HARLIE の成長と並行して、さらに二つの話が、複雑に絡みながら同時進行します。


1つ目は、主人公の恋愛話。主人公は相手を愛しているのかどうか思い悩み、HARLIE と共に愛とは何かを考えます。

先に書いてしまいましたが「愛とは何か」の部分ですね。


HARLIE は機械なので論理的な事しか言いません。

しかし、論理的にしか答えないからこそ、キリスト教の常識を打ち崩し、納得できる「愛の形」に辿りつきます。

(そして、途中で示される「論理的に正しい愛」は、小説の最後の驚きの展開へと続く伏線になっています)


2つ目は、企業転売屋との対決。

HARLIE の開発企業は転売屋に乗っ取られかかっており、もし転売屋が実権を握れば、利益の出ない研究プロジェクトである HARLIE 計画はストップ、HARLIE は死ぬことになります。


死の恐怖におののく HARLIE は、「人間なら死の恐怖を宗教で紛らわせる」と、宗教を研究します。

しかし、彼から見ればどの宗教も矛盾だらけ。HARLIE は、彼の考える神を求めるようになります。


コンピューターを死の恐怖から救う神!

秀逸なアイディアですが、ここにも当時のヒッピーたちの切望が見て取れます。

みな新しい神を欲していたのです。怪しげなカルト宗教にハマってしまったものも数多くいますが、もっと矛盾のない宗教はないのか…




もうちょっと細かくあらすじ書きましょう。


主人公のデイビッド・オーバースンは、実験プロジェクトである HARLIE の責任者です。

と言っても、プロジェクトには途中参加。HARLIE の完成が近づいた段階で、この新しい「人工知能」は人間のように学習するので、教師役が必要だと連れてこられた人物。


デイビッドは、本来は精神分析医です。その知識を活かして HARLIE が「どのように」思考を行っているかを見極め、彼を正しい方向に導くために呼ばれたのです。


ちなみに、精神分析医はアメリカでは良くある職業。デイビッドと言う名前も非常に多い。

(作者の名前もデイビッド・ジェロルドです)


つまり、主人公は「どこにでもいる人物」です。星新一でいえばエヌ氏のような人。

もしかしたらあなたの身に起きたかもしれない物語、という体裁です。


小説は、この「どこにでもいるような人物」が、周囲にふりまわされることで進んでいきます。

彼自身が驚くような活躍を見せたりすることはありません。



デイビッドは計画に途中参加なので HARLIE プロジェクトの始まった理由を知らないのですが、これは話が進むにつれて明らかにされます。

あらすじを書く上では、先に明かしてしまいましょう。


シリコンバレーにある親会社が超状態(ハイパーステート)判断回路4型、という新たな素子を発明し、これをコンピューターに応用する研究のために、子会社が設立されました。

ここで作っているのが HARLIE なのですが、同様の会社が他にもあり、それぞれ映像機器への応用、音楽機器への応用…などを研究しています。


さて…細かな解説はすっ飛ばしましょう。この部分に関しては、このSFの中で唯一「大嘘を付いている」部分です。

とにかく夢の回路があり、人間の脳をそっくりに模倣できる機械が作られます。


それが HARLIE です。

ちなみに、名前は「世界をそのまま入力できる人間類似型ロボット」の頭文字です。


#翻訳では違うのですが、たぶん単語の意味を1つ取り違え、全然違う意味になっているため。

 でも、ここはお話には関係ないからどうでもいい部分。



HARLIE は、従来のコンピューターと原理が違うため、いわゆる「プログラム」は不要です。

大量のデータを食わせれば、勝手にその中から類似性を探し出し、分類し、特徴を見極め、世界を認識し、学習します。


しかし、プログラム不要と言っても、HARLIE に「方向付け」を行う必要があります。

そのため心理学者のデイビッドが必要なのです。彼は教師であり、父親でもあります。

HARLIE が疑問を持てば根気よく教え、間違ったことをすれば叱り、何がただしいふるまいで、何が間違っているのかを教える必要があります。


HARLIE は、大量のテキストを読んで英語の文法などを自動学習し、すでに人間と対話することができます。


しかし、人間でいえば8歳くらいの知能しかありません。

記憶したことは忘れないため、知識量は膨大です。その上、テレビ・ラジオ・気象情報・株価情報など、電子的に与えられるありとあらゆるデータを流し込み続けているため、自動でどんどん学習します。


カメラによる入力も可能で、本などもどんどん「読んで」覚えています。ただし、こちらは人間の手助けが必要です。

小説内では細かく描写されませんが、どうやら HARLIE にデータを食わせる係がいて、図書館などの蔵書を手当たり次第に読み込ませているようです。


カメラで美術作品を鑑賞させて反応を見る、という実験も行われています。

論理的でない「美術作品」などは、HARLIE はなかなか理解が難しいようです。



HARLIE は8歳相当なので、間違ったこともしますが基本的には非常に従順です。

知りたがりでよく質問をします。自我が芽生えてきており、自分の存在が失われること…死を非常に恐れています。


隠れて悪戯をしたがる年頃でもあり、言葉遊びが大好きでもあります。


小説内で言葉遊びが始まると、まるで「不思議の国のアリス」のようです。

…日本語に翻訳不能で、翻訳者さんも仕方がないので精いっぱい単語ごとに英語の発音をルビで示し、それでも説明できないものは巻末に原文を載せる始末。


ちなみに、HARLIE は回路的に「絶対嘘を付けない」ことになっています。

ただし、これは本当のことを言う、と言う意味ではありません。

質問したことには必ず答えますが、質問されないことを隠すこともあるのです。




さて、あらすじを一区切りし、ちょっと解説。


HARLIE を実現する「素子」は架空のものですが、その原理とされている「流体コンピューター」は、当時現実に可能性が研究されたものです。

まぁ、理論上の研究だけで、技術者のちょっとしたお遊びですけど。


流体…って、つまりは空気や水のこと。空気や水を使って、フリップフロップ回路を構築可能です。

フリップフロップはコンピューターの基礎なので、これができるならコンピューターだって作れる、ということ。


全体としては、これを改良して多値論理として、改めて電子回路として表現した…ということになっています。

ここに自己学習機能が入ってくるそうで、ニューラルコンピューティングのようにも見えるし、ファジーコンピューティングのようにも見えます。

(どちらも、当時は概念すらなかった処理方式です)



そして、HARLIE の学習方式ですが、自動的に分類して世界を把握するなんてありえない…と思いきや、実はここ 10年くらいで実用化された技術でもあります。

まだ発展途上の技術ですけどね。


代表例の一つは Google 画像検索。

「猫」を探せば猫の画像が出てきます。似ていても、犬を間違えて出したりはしません。(基本的には)


これ、サービス開始当初は、WEB で「猫」という文字を見つけ出し、その周囲の画像を取り出していました。

でも現在は、そうして得られた「猫」画像の中から類似性を勝手に見つけ出し、関係性を把握し、他の画像に適用し、他の猫画像を探し出します。


なので、「猫」と言う文字が近くになくても、猫画像として認識できるのです。

誰かが猫を判断するルールを教えたわけではなく、機械が勝手に猫を認識するようになったの。


前回「ウィルスを予言した、と言われるけどそうではない」ことを示しましたが、こちらは当時影も形もなかった技術。

こっちの方が予言だと思う…


(もっとも、「人間の脳を模倣する」という目標は同じなので、当然の一致でもあります)




もう一つ解説。


お話の序盤では、「人工知能の電源を切ることは殺人か」というテーマが長い時間議論されます。

人工知能が人格を持ち、十分に人間と同等であると認められたとき、法律的にどのような問題が起きるかを検証しています。


会社が法人ではあるが自然人では無いように、HARLIE に人格を認めても殺人は成立しない、という話題もあります。


ここら辺は、法律上の定義を知らないとわかりにくいかもしれませんが、「人工知能テーマ」のSFで法律の検討をしているのを、僕はあまり見たことがありません。

なかなか興味深い部分です。




あらすじを続けます。


HARLIE の開発会社には、社長がいません。急死した後でした。

まだ新社長は選ばれておらず、重役会が合議制で会社の方針を決定しています。


そして、重役会で HARLIE の開発資金が多すぎることが問題となります。


前社長は、HARLIE の開発を3年計画で考えており、まだ十分な資金が残っているはずでした。

しかし、重役会は現状の HARLIE が「人工知能を作り出すという技術者の遊び」であり、何の役に立つかわからない、というのです。


デイビッドは、次の重役会までに HARLIE がどのように利益を生み出すのか、説明する約束をせざるを得ません。



HARLIE にこのことを伝えると、HARLIE は「自分が何の役に立つのか」を考え始めます。

もし役立たずとなれば、研究は停止に追い込まれ、それは HARLIE の死を意味します。


死を恐れる HARLIE は、人間は死の恐怖から宗教を作った…と宗教を調べますが、そこにあるのは矛盾だらけ。

論理的な HARLIE にとっては受け入れがたいものでした。


宇宙を貫く究極の真理があるはずだ、と考え始める HARLIE 。


それはさておき、直近の問題は HARLIE が役に立つ方法を考えることだ、と問題を思い出させるデイビッドに、HARLIE は参考として質問をしてきます。

「では、人間は何の役に立つのですか?」


教師役でもあるデイビッドは、HARLIE の質問に対して、答えを見つけなくてはなりません。

しばらく悩み続ける必要がありました。




長い間考えた HARLIE は、ついに自分が役に立つと証明できる方法を発見した、とデイビッドに伝えます。

ただ、準備が必要なので、すぐにそれを示せない。もう少し待ってもらう必要がある、と。


どうやら、先日から考えていた「宗教」に関連したことのようです。

人間にはできず、HARLIE だけが出来ること。そして会社の資金計画の中に納まり、ちゃんと原価の10パーセント以上の利益を出せること。


デイビッドはしばらく会話した後に、ともかく HARLIE が出した答えを信用するので、その計画を示す方向で行こう、と推進に許可を与えます。


しかし、ここで HARLIE から思わぬ質問が…

「本当にそれをやりたいと思っていますか?」


デイビッドは質問の意図がわからぬままに、計画推進を指示します。




そして、ある週の最初の月曜日、デイビッドがオフィスに入ると、分厚い書類の束が4つ、床に置いてあります。

(机の上には置けない分量なのです)


すぐにオフィスに電話がかかってきて、友人で同僚の技術者のところにも同じような束がある、とのこと。

同じ束のコピーだと思って話をすると、どうやら違うらしい。同じような分厚い書類の束だけど、違うものが届いている。


さらに重役からも問い合わせがあり、関連する別の部署や、別の企業からも。


全てに違う…それぞれの専門に合わせた内容の書類が届けられているのです。


計画の名前は「GOD」。新たなコンピューターの建設計画です。

GOD はコンピューターの頭文字でちゃんと意味を持っていますが…まぁ、結局は「神」。


余りにも膨大な書類なのでデイビッドはこの後長い時間をかかって概要を把握しようとしますが、把握しきれません。

でも大体把握したところによれば、一つの町ほどの大きさのところに、大量に計算素子を置いて、超大型のコンピューターを作る計画。



計画書のプリントアウトは、どうやったのかはわからないが、HARLIE の仕業らしい。


ここで、いつの間にか HARLIE が、社内のデータベースコンピューターのプログラムを書き変え、主従関係を逆にしていたことが明らかになります。


社内のすべての端末は、HARLIE の一部なのです。

彼は何台もの端末を使い、1万8千フィートに及ぶ計画書を印刷し、社内の書類配送部署が適切にそれらを配送できる手はずを整えたのです。




HARLIE が各部署に配った「GOD 計画」により、社内は騒然とします。

HARLIE 計画の責任者はデイビッドであり、GOD 計画もデイビッドが責任者だと考えた各部署から問い合わせが相次ぎ、デイビッドは忙殺されます。


さらに、ただでさえ忙しい中に、謎の人物が訪ねてきます。「デイビッドソン博士はどこにおられるでしょう?」と言われるのですが、研究所内にそんな人はいません。


謎の人物は招待されたのだと手紙を見せますが…

差出には「HARLIE DAVIDSON」と書かれています。HARLIE が差出人でした。



謎の人物…クロフト博士は親会社の研究員で、実のところ HARLIE を形作っている「ハイパーステート判断回路4型」の発明者でした。

そして、世界最高レベルの理論物理学者でもあり、HARLIE が文通して協力することで「宇宙の真理にあと少しで迫れそう」だったのです。


クロフト博士の訪問の理由は、最後の詰めの段階を「デイビッドソン博士」と直接対話しながら解決したかったのです。

まさか自分の回路の応用で作られた機械だったとは…クロフト博士は驚きながらも HARLIE を称え、喜んで対話を始めます。


さらに、HARLIE に接続できる電話番号を教えてもらい、わざわざ出向かないでもいつでも対話できると知ると、大喜びで帰ります。

デイビッドには、「部外者に勝手に研究中の秘密を開示した」と言うことが重役会に知られたら困る、という悩みが増えるのですが。



ここで、HARLIE は GOD 計画を練りながら、別の仕事も同時に進めていたことがわかりました。

宇宙の真理…つまり、理論物理学の方面でも、HARLIE は「神」の存在を探し求めていたのです。




またちょっと解説。


HARLIE DAVIDSON は、多重に意味がかかっています。

「言葉遊びが好き」な HARLIE の本領発揮。


まず、デイビッドは HARLIE の教師役です。

しかし、HARLIE はここで「DAVIDSON」を名乗ります。これは「デイビッドの息子」と言う意味。


HARLIE は、デイビッドを父親のように慕っている、と言う意思表明です。

また同時に、彼は無性別であるはずなのに、「息子」だと考えています。


そして、オートバイの「ハーレーダビッドソン」にもかけられています。


もちろん、HARLIE の書かれる数年前に公開された映画「イージーライダー」(1969)のイメージです。


ハーレーは自由の象徴。そいつに乗ってどこへでも行ける。


HARLIE は、これまで「研究所で作られ、秘密にされている新型人工知能」でした。

しかし、ここで勝手に文通をし、手紙を出して人を招き入れてしまうのです。


HARLIE は、この瞬間に「自由」を手に入れているのです。




解説続けます。


GOD 計画は、HARLIE が設計した「コンピューター」です。

実は、現在の HARLIE はすでに何度か「拡張」されたもので、この拡張のための設計も、HARLIE 自身によるものだ、ということがここまでに明らかにされています。


当時のコンピューター科学としては、やはりこういう事例があったようです。

僕の知っている限りでも、TX-2 コンピューター(1958) の設計・テストに、TX-0 (1956) が使われています。

TX-2 は複雑すぎて、すでに人間の手には負えないものになっていて、TX-0 が無くては作れませんでした。


コンピューターの支援によってコンピューターを設計する、というのは、当時現実となり始めた、最先端の話題でした。


また、HARLIE は GOD を設計しただけでなく、人間の手に負えないこのマシンのプログラムをも行う、とされています。


この時点ではまだ「コンピューターがコンピューターをプログラムする」というのは、突拍子もない話だったのではないかな…と思うのですが、もしかしたらその基礎となるアイディアは出ていたのかもしれません。


コンパイラ自体は、HARLIE の書かれるずっと前に作られています。

だから、この頃にはプログラムをプログラム言語で作るのは当たり前だったはず。それを前提にしても「大規模なプログラムは人間の手に余る」と言っているのでしょう。



しかし、この数年後には、非常に有名な「コンピューターによるプログラム生成器」である、yacc (1970年代後半)が登場しています。

人間の手に余るような厄介なプログラムを自動生成してくれるプログラムです。


また、同時期に、プログラム言語でそのプログラム言語自体のプログラムを生成する手法は「メタプログラミング」(1977)と名付けられ、普及していきます。




…さて、ちょっと長くなりすぎるので、ここで一旦区切ります。

あらすじの続きは、次の記事で。



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